日蓮正宗法華講開信寺支部より

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御書研鑚の集い


日蓮正宗の一念三千とは

先日、御尊師様より日蓮正宗五十六世日應上人の「一念三千法門」という本を読ませて頂きましたのでその内容について少々書かせて頂きます。御尊師様によりますと日應上人は、現日如猊下の御祖父であられるそうです。この本は、講員の方が創価学会員宅に折伏に行った折に「すべての衆生に十界があるかどうか」で議論になったと言う事で読ませて頂いたものです。
さてその本の冒頭には次のように序文が書かれています。

夫〔そ〕れ仏は法華経の一念三千を以〔もっ〕て本懐と為〔な〕すなり。然〔しか〕るに世人〔せじん〕は但〔ただ〕其〔そ〕の本懐たるを知って、未〔いま〕だ其の本懐たる所以〔ゆえん〕を知らず。故に或〔あるい〕は実相同の釈に迷ひて本迹一致の一念三千を宗とし、或は、「但八品に限る」(観心本尊抄・御書654頁)の聖訓に執〔しゅう〕して上行所伝の一念三千を旨〔むね〕とし、或は寿量品文上事の一念三千を極〔ごく〕として文底独一真事の一念三千を知らざるなり。故に口に妙法を唱ふるといへども、意〔こころ〕未だ聖祖の本懐に達せず。譬はゞ蛙〔かえる〕の鳴くに異ならず。何の益〔やく〕か之〔こ〕れあらん。
夫〔そ〕れ迹門を理の一念三千と名〔なず〕くる事は諸法実相に約する故なり。本門を事の一念三千と名くる事は因果国の三妙に約するが故なり。然るに此等〔これら〕の法門は、寿量文底真事の一念三千の妙法に望めば、悉〔ことごと〕く理の一念三千となるなり。譬はゞ太陽の東天に出〔い〕で、星月悉く光を失へるが如し。此の三種相対の法門は、聖祖独歩の至極にして他派の曽〔かつ〕て知らざる所なり。
「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまへり」(開目抄・同526頁)と。又曰く、「彼は脱、此は種」(観心本尊抄・御書656頁)と。又曰く、「一代応仏のいき〔域〕をひかえたるは(中略)一部共に理の一念三千」(本因妙抄・同1684頁)等と云云。
此等を諸文に徴〔ちょう〕して当〔まさ〕に知るべきなり、聖祖出世の本懐は正〔まさ〕に寿量文底独一真事の一念三千たる事を。
今、本書、世に出づるに及びて、幸ひ過去の迷夢より目醒〔めざ〕め、聖祖出世の本懐たる寿量文底独一真事の一念三千の所以を信解し得んか。著者の光栄、是〔こ〕れに過ぎず。一言述べて以て序と為す。

つまり世間の人々は、釈尊の本懐である法華経を解説した天台の一念三千の法門は、知っているが、その法華経の文の底に沈められている真実の一念三千がわからずにいると言われております。
そして、その文の底に秘して沈められている「寿量文底独一真事の一念三千」とは、大石寺奉安堂にまします大御本尊様であるのです。 すでに末法に至って、日蓮大聖人が建立された太陽の如き前代未聞の大御本尊が顕れた今となっては、月や星と同じ釈迦仏法は、なんの意味があろうか、その末法に入って、ただただ釈迦牟尼仏の法華経に執着し、それを解説しているだけの天台の理の一念三千を弄び、真の一念三千である大御本尊を信じずに題目を唱えているの者のことを、日應上人は、ここで蛙が鳴いているのと同じで何の利益もないと言われております。 また日應上人は、この書の結論としてこのように書かれております。

それ、文底独一の本門を一念三千と名づくる意は、いわゆる人法体一の故なり。
「御義口伝」に伝教を引いて云わく、「一念三千即自受用身 云云」(同1772頁)と。「経王抄(経王殿御返事)」に云わく、「日蓮がたましひ〔魂〕をすみ〔墨〕にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意〔みこころ〕は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし 云云」(同685頁)と。
これすなわち、人即法・法即人、人法体一なり。それ、脱益の釈尊と法華経とは人法体一なり。下種益の聖祖と名字の妙法蓮華経とは、これまた人法体一なり。故に人法一箇、独一本門、事の一念三千の大御本尊と唱え奉るものなり。

ようするに、なぜ文底独一本門を一念三千と言うかは、この御本尊様が人法体一であるからだと言われているのです。戒壇の大御本尊は、日蓮大聖人と拝し奉るのです。それで一念三千と呼び顕すのだと結論づけられているのです。天台の理の一念三千も、最終的には、その事を教えているのです。

日顕御隠尊猊下も「観心本尊抄講話」第一巻に置いて、

天台の顕した「摩訶止観」の「夫〔それ〕一心に十法界を具す」という「一心」とは何かと言えば、これは、宗祖日蓮大聖人様が末法に御出現あそばされて顕し給うところの久遠元初本因妙の、本地難思境智冥合の御当体たる南無妙法蓮華経の一念の心法、すなわち御本仏の心をもって「一心」と示されておるのであります。

と御指南されております。また、

大聖人様がここに「夫〔それ〕一心に十法界を具す」という「摩訶止観」の文を引かれたのは、もう一つ奥底に、深い大聖人様独特の御本仏の大慈大悲があるのであります。それは観心の本尊という意味における本尊を顕し給う上からの深い元意であります。

と、日蓮正宗の御法主上人猊下に日蓮大聖人の血脈が具わるということを言われているのです。
その御隠尊日顕上人猊下の血脈を否定し、戒壇の大御本尊様を受持の対象にしないなどという創価学会員が、いくら天台の理の一念三千を説いて自らの生命に十界があると説いたところでそんなものがあろうはずもないのです。日顕御隠尊猊下もこの書において

「一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界に即ち三千種の世間を具す」の文は、久遠元初自受用報身如来・末法出現の宗祖大聖人様の一念の妙法蓮華経に具わるところの十界、百界、三千世間なのであります。(略)我々が御本尊を拝し「ああ、有り難い」と深く信じて南無妙法蓮華経と唱える、その我々の信心の一念に宛然として、大聖人様の、自受用報身如来の御当体・南無妙蓮華経即、事の一念三千がまた我々の心に具わるのであるということを、ここに示されておると釈されております。「若し心無くんば已〔や〕みなん」というのは、この場合は信心に約して拝するのであります。すなわち信心がなければ、この大利益はないということです。(略)この「信心なくんば」ということのなかには、かつて正しい信心を持っていた者が我意我見をもって御本尊を疑い、否定するような者も含まれるのです。あるいは身延派その他、文上の誤った教えを信じておる日蓮宗、あるいは真言、あるいは禅、あるいは念仏等の宗派の者は末法出現の本仏に対して本当の正しい信心がないわけでありますから、いかなる修行をしても、そこに正しい事の一念三千を我が己心に湧現させることはできないのであります。

このように、かつて大御本尊を拝んでいた創価学会も末法出現の宗祖日蓮大聖人の一念の妙法蓮華経に具わるところの十界、百界、三千世間である正しい事の一念三千を否定し、天台の理の一念三千を説いて自らの汚い生命にあてはめようとしても、まったく意味はないのです。


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