日蓮正宗法華講開信寺支部より

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御書研鑚の集い 開目抄 研鑚資料


第6回 権経と実経について

【されば、四大声聞の領解〔りょうげ〕の文に云はく】
そうであればこそ法華経信解品に、四人の大声聞がこの事を納得したと、このように書かれているのです。

【「我等今、真に是声聞なり。仏道の声を以て一切をして聞かしむべし。我等今、真に阿羅漢〔あらかん〕なり。】
「私達は、今こそ真の声聞となりました。仏の言葉によってすべてを理解する事が出来たのです。私達は、今こそ真の仏法者となったのです。

【緒の世間、天人・魔・梵に於て普く其の中に於て、応に供養を受くべし。】
すべての世間の天界、魔界、梵天の中において、今まさに供養を受ける事が出来たのです。

【世尊は大恩まします。希有〔けう〕の事を以て、憐愍〔れんみん〕教化して、我等を利益し給ふ。】
世尊は、大変な恩人であるのです。有り得ない力によって、慈悲の心で指導してくださり、私達に利益を与えてくださったのです。

【無量億劫にも、誰か能く報ずる者あらん。】
無量億劫という大変長い時間においても、その恩に報いる事が出来た人が、いままでにいたでしょうか。

【手足をもって供給し、頭頂〔ずちょう〕をもって礼敬(らいぎょう〕し、一切をもって供養すとも、皆報ずること能はじ。】
手足を折って拝み、頭を地につけて礼を言い、すべてを供養したとしても、とても、この仏の恩に報いる事は出来ないのです。

【若しは以て頂戴し、両肩に荷負〔かふ〕して恒沙劫〔ごうじゃこう〕に於て心を尽くして恭敬〔くぎょう〕し、】
仏の身体を両肩に背負って、とても長い時間、心を尽くしてもてなし、

【又美膳〔みぜん〕、無量の宝衣、及び諸の臥具〔がぐ〕、種々の湯薬を以てし、】
また、美味しい食事や数多くの宝飾された衣、豪華な寝具や種々の体に良い飲み物を用意し、

【牛頭栴檀〔ごずせんだん〕及び諸の珍宝、以て塔廟を起て、宝衣を地に布〔し〕き、】
牛頭山でしか取れない貴重な香木や数々の珍しい宝によって贅を尽くした宮殿を建てて、美しい布を地面に敷いて、そこに招くのです。

【斯〔か〕くの如き等の事、以用〔もっ〕て供養すること、恒沙劫に於てすとも、亦報ずること能〔あた〕はじ」等云云。】
このようにして、長い間、供養したとしても、まだ仏にこの恩を報いる事は出来ないです。」と四人の大声聞は、この経文の中で言っているのです。

【諸の声聞等は前四味の経々にいく〔幾〕そばく〔許〕ぞの呵責〔かしゃく〕を蒙〔こうむ〕り、】
それでも、これらの声聞たちは、爾前経においては、数々の叱責を受け続け、

【人天大会の中にして恥辱〔ちじょく〕がましき事、其の数をしらず。】
人界や天界の集会の中で、恥辱に満ちた思いを数知れず受けたのです。

【しかれば迦葉〔かしょう〕尊者の渧泣〔ていきゅう〕の音〔こえ〕は、三千をひゞかし、】
その為に迦葉尊者の泣く声は三千世界に響いて、

【須菩提〔しゅぼだい〕尊者は亡然〔ぼうじん〕として手の一鉢をすつ、】
須菩提尊者は、あまりの怒りの為に手に持っている鉢を捨てて、

【舎利弗は飯食をは〔吐〕き、富楼那〔るふな〕は画瓶〔がびょう〕に糞を入ると嫌わる。】
舎利弗は、食べ物を嘔吐し、富楼那は、初心者に仏法を教えている時に、宝器に糞を入れるようなものだと嫌われました。

【世尊、鹿野苑〔ろくやおん〕にしては阿含〔あごん〕経を讃歎し、二百五十戒を師とせよ、なんど慇懃〔おんごん〕にほめさせ給ひて、】
釈迦牟尼世尊は初めて成道した時、鹿野苑において阿含経を讃嘆し、二百五十戒を師として修業せよと、慇懃に小乗経をほめていながら、

【今又いつのまに我が所説をばか〔斯〕うはそしらせ給ふと、二言相違の失〔とが〕とも申しぬべし。】
今、また、いつの間にか、二百五十戒を師として修行した声聞をここまで謗るとは、まさに一仏二言の罪と言うべきではないでしょうか。

【例せば世尊、提婆達多〔だいばだった〕を汝愚人、人の唾を食らふと罵詈〔めり〕せさせ給ひしかば、】
たとえば世尊は提婆達多を「あなたは、愚かで人の唾を食べる。」と罵倒されたので、提婆達多は、

【毒箭〔どくぜん〕の胸に入るがごとくおもひて、うらみて云はく「瞿曇〔くどん〕は仏陀〔ぶっだ〕にはあらず。】
自分の胸に毒矢が食い込むような思いで恨み「釈迦は、仏ではない。

【我は斛飯王〔こくぼんのう〕の嫡子、阿難〔あなん〕尊者が兄、瞿曇が一類なり。いかにあしき事ありとも、内々教訓すべし。】
自分は斛飯王の王子であり、阿難尊者の兄で、釈迦とは従兄弟ではないか。どんなに悪い事をしたとしても、内々に諭すべきではないか。

【此等程の人天大会に、此程の大禍を現に向かって申すもの大人仏陀の中にあるべしや。】
これほどの大衆の面前で、一族の者を罵倒するような非常識な者は、立派な仏であるとは、言えないだろう。

【されば先々は妻のかたき、今は一座のかたき、】
そうであれば、釈迦は、出家する前は恋人を奪った敵であり、今は大衆の面前においての敵である。

【今日よりは生々世々に大怨敵〔おんてき〕となるべし」と誓ひしぞかし。】
今日よりは、どのような人生においても、必ず釈迦の大怨敵となるだろう。」と誓ったのです。

【此れをもって思ふに、今諸の大声聞は本〔もと〕外道婆羅門の家より出でたり。】
これをもって思うに、すべての大声聞は、過去の外道の指導者の家から出ているのです。

【又諸の外道の長者なりしかば、諸王に帰依せられ諸檀那〔だんな〕にたっ〔尊〕とまる。】
また、外道の長老であったから、諸国の王に帰依され、多くの信者に尊ばれていました。

【或は種姓高貴の人もあり、或は富福充満のやからもあり。】
あるいは、その中には高貴な家の人もあり、あるいは、財産を持ち裕福な者もあったのです。

【而るに彼々の栄官等をうちすて、慢心の幢〔はたほこ〕を倒して、俗服を脱ぎ、壊色〔えじき〕の糞衣〔ふんね〕を身にまとひ、】
しかし、この大声聞たちは、これらの栄誉や財産を打ち捨て、慢心を打ち破り、身を飾る服を脱いで薄墨色の粗末な衣を身にまとい、

【白払〔びゃくほつ〕、弓箭〔きゅうせん〕等をうちすてゝ、一鉢を手ににぎり、】
扇子や弓矢など打ち捨てて仏道修行の托鉢の為に鉢を手に持ち、

【貧人・乞丐〔こつがい〕なんどのごとくして、世尊につき奉り、風雨を防ぐ宅もなく、身命をつぐ衣食乏少なりし】
貧乏人や乞食のようになって、釈尊に付き従い、雨風を避ける家もなく、身命をつなぐ食料のあてさえなかったのです。

【ありさまなるに、五天四海皆外道の弟子檀那なれば、仏すら九横〔くおう〕の大難にあひ給ふ。】
そのような有様なので、どちらを向いてもすべて外道の弟子や檀那であったから、釈迦牟尼仏ですら九横の大難に遭われたのです。

【所謂〔いわゆる〕、提婆が大石をとばせし、】
たとえば、提婆達多が崖から大石を転がして釈迦牟尼仏を殺そうと企てたり、

【阿闍世〔あじゃせ〕王の酔象〔すいぞう〕を放ちし、阿耆多〔あぎた〕王の馬麦〔めみゃく〕、】
阿闍世王が酒に酔った象を使って釈迦牟尼仏を殺そうとしたり、阿耆多王が九十日の間、馬の餌を釈迦牟尼仏とその弟子に与えたりしました。

【婆羅門〔ばらもん〕城のこんづ〔■〕、せんしや〔栴遮〕婆羅門女が鉢を腹にふせし、】
また婆羅門城下では、腐った食物を与えられ、旃遮という婆羅門の女が鉢を腹にふせて釈迦牟尼仏の子供を身ごもったと嘘を言ったのです。

【何に況んや所化の弟子の数難申す計りなし。】
仏ですらこのように難に遭い、ましてや、その弟子たちの受けた迫害は言うまでもないのです。

【無量の釈子は波瑠璃〔はりる〕王に殺され、千万の眷属は酔象にふまれ、華色比丘尼〔けしきびくに〕は提婆にがいせられ、】
無量の弟子たちが瑠璃王に殺され、千万の関係者が酔った象に踏みにじられ、華色比丘尼は提婆達多に殺され、

【迦廬提〔かるだい〕尊者は馬糞にうづまれ、目■〔もっけん〕尊者は竹杖〔ちくじょう〕にがいせらる。】
迦廬提尊者は、馬糞に埋められ、目連尊者は、竹の杖で外道に殺害されました。

【其の上、六師同心して阿闍世・婆斯匿〔はしのく〕王等に讒奏〔ざんそう〕して云はく】
その上、六師外道は共謀して阿闍世王や婆斯匿王などに嘘の報告をなし、

【「瞿曇は閻浮〔えんぶ〕第一の大悪人なり。彼がいたる処は、三災七難を前〔さき〕とす。】
「釈迦は、世界で最大の大悪人である。彼が行く先々では、三災七難が競い起こっている。

【大海の衆流〔しゅる〕をあつめ、大山の衆木をあつめたるがごとし。】
それは、あたかも大海にあらゆる河川の流れを集め、大山に多くの木々が集まっているように、釈迦のいる場所には、あらゆる邪悪が集まっている。

【瞿曇がところには、衆悪をあつめたり。所謂〔いわゆる〕、迦葉〔かしょう〕・舎利弗〔しゃりほつ〕・目連・須菩提〔しゅぼだい〕等なり。】
つまり、迦葉、舎利弗、目連、須菩提などがこの悪人の手本である。

【人身を受けたる者、忠孝を先とすべし。彼等は瞿曇にすかされて、父母の教訓をも用ひず、家をいで、】
人間に生まれてきた以上は、忠孝をまず第一としなければならないのに、彼らは、釈迦に騙されて父母が引き留めるのも聞かずに家を出て

【王法の宣をもそむいて山林にいたる。一国に跡をとゞむべき者にはあらず。】
王の命令や法律に背いて、山林に隠れているのです。このような不忠不幸の者たちを、この国に置いておくべきではないでしょう。

【されば天には日月衆星変をなす、地には衆夭さかんなり」なんどうったう。】
そのゆえに天上では、日や月や星が異変をなし、地上では、多くの不祥事が盛んに起きているのです。」と訴えていたのです。

【堪〔た〕ふべしともおぼへざりしに、又うちそ〔添〕うわざわいと、仏陀にもうちそ〔副〕ひがたくてありしなり。】
このように、まったく考えられないほどの難を受けているのに、さらに釈迦牟尼仏からも不成仏の者と嫌われていたのです。

【人天大会の衆会の砌にて、時時〔よりより〕呵責〔かしゃく〕の音〔こえ〕をきゝしかば、】
これらの二乗は、人界や天界の集会の場において、度々、釈迦牟尼仏の呵責の声を聞かされていたので、

【いかにあるべしともおぼへず、只あわつる〔狼狽〕心のみなり。其の上、大の大難の第一なりしは、】
どうすれば良いかわからず、あわてるのみであったのです。その上、このような状態の中で第一の大難は、

【浄名経の「其れ汝に施す者は福田〔ふくでん〕と名づけず。汝を供養する者は三悪道に堕す」等云云。】
浄名経に「声聞の弟子たちに布施する者は、良い信者とは言えない。かえって三悪道に堕ちるのみである。」と説かれていることです。

【文の心は、仏、菴羅苑〔あんらおん〕と申すところにをはせしに、】
この文章の意味は、釈迦牟尼仏が菴羅苑という所にいた時に

【梵天・帝釈・日月・四天・三界諸天・地神・竜神等、無数恒沙〔むしゅごうじゃ〕の大会の中にして云はく】
梵天、帝釈、日月、四天、三界の諸天、地神、竜神、無数の大衆の中でこのように説法されました。

【「須菩提〔しゅぼだい〕等の比丘等を供養せん天人は三悪道に堕つべし」と。】
「須菩提などの僧侶に供養する天界や人界の者は、三悪道に堕ちるであろう。」と言ったのです。

【此等をうちきく天人、此等の声聞を供養すべしや。】
これを聞いた天界や人界の人々は、これらの声聞に供養するはずがありません。

【詮ずるところは、仏の御言を用〔もっ〕て、諸の二乗を殺害せさせ給ふかと見ゆ。】
つまりは、仏は、言葉の暴力によって、これら二乗の弟子たちを殺ろしてしまうのかとすら思われたのです。

【心あらん人々は、仏をもうとみぬべし。】
心ある人々は、かえって釈迦牟尼仏を怪しみ、仏とは、思えぬと疎んだ事でしょう。

【されば此等の人々は、仏を供養したてまつりしついでにこそ、わづかの身命をも扶〔たす〕けさせ給ひいしか。】
そうであればこそ、これらの人々は、釈迦牟尼仏に供養するついでに、二乗に対してわずかの供養をして、その身命をつないでいたのでしょう。

第31章二乗の守護無きを疑う

【されば事の心を案ずるに、四十余年の経々のみとかれて、法華八箇年の所説なくて、御入滅ならせ給ひたらましかば、】
そうであれば、四十余年の爾前経のみを説かれて法華経八箇年の説法がないまま、釈迦牟尼仏が入滅してしまえば、

【誰の人か此等の尊者をば供養し奉るべき。現身に餓鬼道にこそをはすべけれ。】
誰がこの声聞たちに供養をするでしょうか。おそらく、供養する者もなく、二乗は、餓鬼道に堕ちる事でしょう。

【而るに四十余年の経々をば、東春の大日輪、寒氷を消滅するがごとく、無量の草露を大風の零落するがごとく、】
しかし、四十余年の経々を、東から出た太陽が霜を消し去ってしまうように、草の上の露を大風が吹き飛ばすように、

【一言一時に未顕真実と打ちけし、】
一言によって瞬時に「未だ真実を顕さず。」と打ち消してしまったのです。

【大風の黒雲をまき、大虚〔おおぞら〕に満月の処するがごとく、青天に日輪の懸かり給ふがごとく、】
まさに大風が黒雲を吹き散らし、大空に満月が輝いているように、青空に太陽が輝いているように、

【世尊法久後要当説真実と照らさせ給ひて、華光〔けこう〕如来・光明如来等と舎利弗〔しゃりほつ〕・迦葉〔かしょう〕等を】
「世尊の法は久しくして後、要ず当に真実を説くべし。」と照らさせて、舎利弗は華光如来に、また迦葉は光明如来になどと、

【赫々〔かくかく〕たる日輪、明々たる月輪のごとく鳳文〔ほうもん〕にしるし、亀鏡〔ききょう〕に浮かべられて候へばこそ、】
輝く太陽や明るい満月のように敬うべき文章にも記し、模範となる法華経にその事を解き明かされたので、

【如来滅後の人天の諸檀那等には、仏陀のごとくは仰がれ給しか。】
釈迦牟尼仏が滅した後の人界や天界の信者から、仏のように仰がれたのです。

【水すまば、月、影ををしむべからず。風ふかば、草木なびかざるべしや。】
水が澄むならば月は必ず影を浮べ、風が吹けば草木はなびくのである。

【法華経の行者あるならば、此等の聖者は大火の中をすぎても、大石の中をとをりても、とぶ〔訪〕らわせ給ふべし。】
日蓮が法華経の行者であるならば、これらの聖者は、例え、大火をかいくぐってでも、大石を通リ抜けてでも、助けに来るべきではないでしょうか。

【迦葉の入定〔にゅうじょう〕もことにこそよれ。】
迦葉の葬儀において弥勒の到着を長い間、待っていたと言う事も、時によりけりで法華経の行者が難に遭っているのに何をしているのでしょうか。

【いかにとなりぬるぞ。いぶかし〔不審〕とも申すばかりなし。】
まったくどういうことでしょうか。ほんとに考えられないような不手際としか思えません。

【後五百歳のあたらざるか。広宣流布の妄語となるべきか。】
現在が後五百歳と言う事自体が間違いなのでしょうか。それとも広宣流布と言うのは嘘なのでしょうか。

【日蓮が法華経の行者ならざるか。】
または日蓮が法華経の行者ではないのでしょうか。

【法華経を教内と下して、別伝と称する大妄語の者をまぼ〔守〕り給ふべきか。】
それとも、法華経も教の内であるから、教外別伝の方が優れていると言う大嘘つきの禅宗の方を守っているのでしょうか。

【捨閉閣抛〔しゃへいかくほう〕と定めて、法華経の門をとぢよ、巻をなげすてよとゑりつけ〔彫付〕て、法華堂を失へる者を守護し給ふべきか。】
法華経を捨てよ閉じよ閣け抛てなどと書いて、法華経を信じない念仏の信徒の方を守護しているのでしょうか。

【仏前の誓ひはありしかども、濁世〔じょくせ〕の大難のはげしさをみて諸天下り給はざるか。】
仏の前では、法華経の行者を守護すると誓ったけれども、末法濁世の大難の激しさを見て、諸天が怖れをなして日蓮を守護しないのでしょうか。

【日月、天にまします。須弥山〔しゅみせん〕いまもくづれず。海潮も増減す。四季もかたのごとくたがはず。】
日月は、現在も天にあります。須弥山も未だに崩れてもいない。海の潮も変わりなく、春夏秋冬の四季もいままで通りですが、

【いかになりぬるやらんと、大疑いよいよつもり候。】
それなのに法華経の行者にさっぱり守護がないというのは、一体、どういう事なのかと大いなる疑問が、いよいよ強まって来るのです。

【又諸大菩薩、天人等のごときは、爾前の経々にして記■〔きべつ〕をうるやうなれども、】
また、大菩薩や天界人界の人々は、爾前の経々で記別を受けて成仏するように説かれているようではありますが、

【水中の月を取らんとするがごとく、影を体とおもうがごとく、いろかたちのみあつて実義もなし。】
それは水中の月を取ろうとするように月の影を本物と思うようなものであって、形式的に成仏を許されているのみで実際ではないのです。

【又仏の御恩も深くて深からず。】
それゆえに爾前経を説いている釈迦牟尼仏の恩と言うものも深いようでいて実は浅いのです。

【世尊初成道の時はいまだ説教もなかりしに、法慧〔ほうえ〕菩薩・功徳林菩薩・金剛幢〔こんごうどう〕菩薩・金剛蔵菩薩等なんど申せし】
釈迦牟尼仏が最初に成道をして未だ初めての説法すらしていない時に、法慧菩薩、功徳林菩薩、金剛幢菩薩、金剛蔵菩薩などと言う

【六十余の大菩薩、十方の諸仏の国土より、教主釈尊の御前に来たり給ひて、】
六十余の大菩薩が十方の諸仏の国土より、教主釈尊の前に集まって、

【賢首〔けんじゅ〕菩薩・解脱月〔げだつがつ〕等の菩薩の請〔こ〕ひにをもむいて十住・十行・十回向〔えこう〕・十地等の法門を説き給ひき。】
賢首菩薩、解脱月などの菩薩の要請に応じて、十住、十行、十回向、十地などの法門を説いたのです。

【此等の大菩薩の所説の法門は、釈尊に習ひたてまつるにあらず。】
これらの大菩薩の説いた法門は、釈尊に教わったのではありません。

【十方世界の諸の梵天等も来たって法をとく。又釈尊にならいたてまつらず。】
十方世界のもろもろの梵天なども来て、また法を説きましたが、これもまた釈迦牟尼仏に習ったものではありません。

【総じて華厳会座の大菩薩・天竜等は、釈尊已前に不思議解脱に住せる大菩薩なり。】
総じて、華厳の会合に集まった大菩薩、天竜等は、釈尊以前に不思議解脱に達した大菩薩なのです。

【釈尊の過去因位の御弟子にや有らん。】
これらの人々は、釈迦牟尼仏が過去に仏に成る為の修業をしていた時代の弟子なのでしょうか。

【十方世界の先仏の御弟子にや有らん。一代教主、始成正覚の仏の弟子にはあらず。】
いずれにしてもインドに生まれて、三十歳で成道した釈迦の弟子でないことは明らかです。

【阿含・方等・般若の時、四教を仏の説き給ひし時こそ、やうや〔漸〕く御弟子は出来して候へ。】
阿含、方等、般若の時、四教を釈尊が説いた時に始めて弟子が出来たのです。

【此も又仏の自説なれども正説にはあらず。】
しかし、これもまた釈迦牟尼仏が自らの説いた説ではありますが、本当に釈迦牟尼仏の教えとは言えないのです。

【ゆへ〔故〕いかんとなれば、方等・般若の別・円二教は、華厳経の別・円二教の義趣をいでず。】
なぜならば、方等、般若の別円二教は、華厳経の別円二教の範囲を出ていないからなのです。

【彼の別・円二教は、教主釈尊の別・円二教にはあらず。法慧等の大菩薩の別・円二教なり。】
ようするに、これらの別円二教は、教主釈尊の教えではなく、法慧菩薩などの教えであるのです。

【此等の大菩薩は、人目には仏の御弟子かとは見ゆれども、仏の御師ともいゐぬべし。】
これらの大菩薩は、人目には釈迦牟尼仏の弟子であるかのように見えますが、かえって釈迦牟尼仏の師とも言うべき人なのです。

【世尊、彼の菩薩の所説を聴聞して智発して後、重ねて方等・般若の別・円をと〔説〕けり。】
釈迦牟尼仏は、華厳の時に、これらの菩薩が説いた説法を聴聞して、智慧を得たのちに重ねて同じ方等、般若の別円を説いたのです。

【色もかわらぬ華厳経の別・円二教なり。されば此等の大菩薩は釈尊の師なり。】
方等、般若の別円は、華厳の別円とまったく同じなのです。ですから、これらの大菩薩は釈尊の師匠であると言えるのです。

【華厳経に此等の菩薩をかず〔数〕へて、善知識とと〔説〕かれしはこれなり。】
華厳経には、これらの菩薩を数え上げて善知識であると説かれているのはこの故なのです。

【善知識と申すは、一向師にもあらず、一向弟子にもあらずある事なり。】
善知識というのは、一概に師匠と言えず、また弟子と言う立ち場でもない事を言うのです。

【蔵・通二教は又、別・円の枝流なり。別・円二教をしる人、必ず蔵・通二教をしるべし。】
蔵通の二教は、別円二教と同じであり、また、別円二教を知る人は、必ず蔵通の二経を知る人なのです。

【人の師と申すは、弟子のしらぬ事を教へたるが師にては候なり。】
人が師匠と呼ぶのは、その弟子の知らない事を教えるから師匠と言うのです。

【例せば、仏より前の一切の人天・外道は、二天・三仙の弟子なり。】
たとえば、釈迦牟尼仏より以前のすべての人界、天界、外道の者は、二天、三仙の弟子ではないですか。

【九十五種まで流派したりしかども、三仙の見〔けん〕を出でず。】
九十五の流派が存在したけれども、結局は、三仙の教えの範囲から出てはいないのです。

【教主釈尊もかれに習ひ伝へて、外道の弟子にてましませしが、苦行・楽行十二年の時、苦・空・無常・無我の理をさとり出だしてこそ、】
教主釈尊も、外道の師から教えを受け、その弟子となって、苦行、楽行を十二年間続けて、やっと、苦、空、無常、無我の理論を悟ったからこそ、

【外道の弟子の名をば離れさせ給ひて、無師智とはなのらせ給ひしか。】
はじめて外道の弟子の名前を離れて「無師智」と名乗られたのです。

【又、人天も大師とは仰ぎまいらせしか。】
それでまた人界、天界の者も釈迦牟尼仏を大師匠と仰いだのです。

【されば前四味の間は教主釈尊、法慧菩薩等の御弟子なり。】
そうであれば、前四味、四十余年の間は、釈尊は法慧菩薩などの弟子となってしまうでしょう。

【例せば、文殊は釈尊九代の御師と申すがごとし。】
たとえば、文殊は、釈尊の九代前の師匠と言われている通りです。

【つねは諸経に不説一字ととかせ給ふもこれなり。】
常々、多くの経文に「一字をも説かず」と書かれているのは、この事なのです。

第33章法華の深恩を明かす

【仏御年七十二の年、摩竭提国〔まかだこく〕霊鷲山〔りょうじゅせん〕と申す山にして、無量義経をとかせ給ひしに、】
釈迦牟尼仏が御年七十二歳の時、摩竭提国の霊鷲山と言う山において無量義経を説かれた時に、

【四十余年の経々をあげて、枝葉をば其の中におさめて、四十余年未顕真実と打ち消し給ふは此なり。】
四十余年の経々を、すべて枝葉の教えであると言って「四十余年の間には、未だ真実を現していない。」と打消した理由はここにあるのです。

【此の時こそ諸大菩薩・諸天人等は、あはてゝ実義を請せんとは申せしか。】
その時に多くの大菩薩、諸天や人界などの人々は、慌てて「それでは真実の教えは、どこにあるのですか。」と質問したのです。

【無量義経にて実義とをぼしき事一言ありしかども、いまだまことなし。】
無量義経には、真実と思える事が、無量義は一法より生ずと、ただ一言だけ説かれていますが、まだその実義は現れていないのです。

【譬へば月の出でんとして、其の体〔かたち〕東山にかくれて光西山に及べども、諸人月体〔つきしろ〕を見ざるがごとし。】
たとえば月が出る時に、まだ月そのものが東の山に隠れており、光は西山を照らしているのに月自体が見えていないのと同じなのです。

【法華経方便品の略開三顕一の時、仏略して一念三千心中の本懐を宣べ給ふ。】
法華経方便品第二の略開三顕一の時、仏は略して一念三千を説き、心の中の本懐を述べられました。

【始めの事なれば、ほとゝぎすの音〔ね〕を、ね〔寝〕をびれ〔惚〕たる者の一音きゝたるがやうに、】
しかし、始めての事なので、ほととぎすが遠くで鳴いた音を寝ぼけた者が一瞬だけ聞いたように、

【月の山の半〔は〕をば出でたれども薄雲のをほへるがごとく、かそ〔幽〕かなりしを、】
月が山から出て来たものの薄雲がこれを覆っているように、極、微かなものであったのです。

【舎利弗〔しゃりほつ〕等驚きて諸天・竜神・大菩薩等をもよをして】
舎利弗などは、驚いて諸天、竜神、大菩薩などを加えて、

【「諸天竜神等、其の数恒沙の如し。仏を求むる諸の菩薩、大数八万有り。又諸の万億国の転輪聖王〔てんりんじょうおう〕の至れる、】
経文に「諸天、竜神などが川の砂のように多く集まり、仏を求める多くの菩薩が八万も有って、また万億の国から転輪聖王が来られて、

【合掌して敬心〔きょうしん〕を以て、具足の道を聞かんと欲す」等とは請ぜしなり。】
合掌し心から敬って、具足の法門を聞こうと思われたのです。」とあるように釈迦牟尼仏に対して真実の教えを求めたのです。

【文の心は、四味三教四十余年の間いまだきかざる法門うけ給はらんと請ぜしなり。】
この文章の意味は、爾前経を説かれた四十余年の間、未だ聞かざる法門である法華経を教えて下さいと言う事なのです。

【此の文に「欲聞具足道」と申すは、大経に云はく「薩とは具足の義に名づく」等云云。】
この文章の「具足の道を聞かんと欲す」と言う問いに対して涅槃経に「薩とは、具足の意味である。」と書かれており、

【無依無得大乗四論玄義記に云はく「沙〔さ〕とは訳して六と云ふ。胡法〔こほう〕には六を以て具足の義と為すなり」等云云。】
また、大乗四論玄義には、「沙とは訳して六という。インドでは六をもって具足の意味となすのである。」と書かれており、

【吉蔵の疏に云はく「沙とは翻〔ほん〕じて具足と為す」等云云。】
さらに吉祥大師の注釈書には「沙とは、訳すと具足となる。」と書かれているのです。

【天台の玄義の八に云はく「薩とは梵語〔ごんご〕此〔ここ〕に妙と翻ずるなり」等云云。】
天台の玄義の八には、「薩とは梵語であり、中国の言葉では妙と訳すのです。」と書かれています。

【付法蔵の第十三、真言・華厳・諸宗の元祖・本地は法雲自在王如来、】
法の蔵を付属された十三番目の人であり、真言、華厳、その他の宗派の元祖であり、その本地が法雲自在王如来であり、

【迹に竜猛〔りゅうみょう〕菩薩、初地の大聖の大智度論千巻の肝心に云はく「薩とは六なり」等云云。】
現実には竜樹菩薩と名乗った人が、仏法の入門書である大書、大智度論千巻の主題として「薩とは六である。」と書かれています。

第34章妙法蓮華経を釈す

【妙法蓮華経と申すは漢語なり。月支には薩達磨分陀利伽蘇多攬〔さだるまふんだりきゃそたらん〕と申す。】
妙法蓮華経と言うのは、漢語であるのです。インドにおいては、薩達磨分陀利伽蘇多攬と言います。

【善無畏〔ぜんむい〕三蔵の法華経の肝心真言に云はく】
善無畏三蔵が法華経の主題であるとして説いた真言には、このように書いてあります。

【「曩謨三曼陀没駄南〔のうまくさんまんだぼだなん〕帰命普仏陀 ■〔おん〕三身如来 阿々暗悪〔ああーあんなく〕開示悟入】
「帰命普仏陀、三身如来、開示悟入

【薩縛勃陀〔さるばぼだ〕一切仏 枳攘■〔きのう〕知 娑乞蒭毘耶〔そきしゅびや〕見 ■々曩娑縛〔ぎゃぎゃのうさば〕如虚空性 】
一切仏、知、見、如虚空性

【羅乞叉■〔あらきしゃに〕離塵相 薩哩達磨〔さりだるま〕正法也 浮陀哩迦〔ふんだりきゃ〕白蓮華 蘇駄覧〔そたらん〕経 】
離塵相、正法、白蓮華、経

【惹〔じゃ〕入 吽〔うん〕遍 鑁〔ばん〕作 発〔こく〕歓喜 縛曰羅〔ばさら〕堅固 羅乞叉■〔あらきしゃまん〕擁護】
入、遍、作、歓喜、堅固、擁護

【吽〔うん〕空無相無願 娑婆訶〔そわか〕決定成就」と】
空無相無願、決定成就」と。

【此の真言は南天竺の鉄塔の中の法華経の肝心の真言なり。】
この真言は、南インドの鉄塔の中から発見された法華経の主題として説いた真言なのです。

【此の真言の中に薩哩達磨〔さりだるま〕と申すは正法なり。】
この真言の中に薩哩達磨というのは、正法のことです。

【薩と申すは正なり。正は妙なり。妙は正なり。正法華、妙法華是なり。】
薩と言うのは、正であり、正は妙であり、妙は正です。正法華経と妙法華経とでは、このように二つ違って訳されたのも、この故なのです。

【又妙法蓮華経の上に、南無の二字ををけり。南無妙法蓮華経これなり。】
また妙法蓮華経の上に南無の二字を置き、南無妙法蓮華経と言うのがこれなのです。

【妙とは具足。六とは六度万行。諸の菩薩の六度万行を具足するやうをきかんとをもう。】
妙とは具足と言う意味であり、六とは、菩薩の修行が完成した六度万行の事です。すべての菩薩が六度万行を具足する有様を聞こうと思うのです。

【具とは十界互具。足と申すは一界に十界あれば当位に余界あり。】
具とは十界互具であり、足とは十界のおのおのに十界を具足するので、そのままの位で他の九界をそなえているという意味です。

【満足の義なり。】
つまりは、すべてを満たしているという意味なのです。

【此の経一部・八巻・二十八品・六万九千三百八十四字、一々に皆妙の一字を備へて、三十二相八十種好の仏陀なり。】
この法華経は、一部、八巻、二十八品、六万九千三百八十四字、すべてに妙の一字を具えているので、三十二相、八十種好の仏陀となるのです。

【十界に皆己界〔こかい〕の仏界を顕はす。】
十界は、すべて、それぞれの界に仏界を現しているのです。

【妙楽云はく「尚仏果を具す、余果も亦然り」等云云。】
妙楽大師は「仏界には、仏果が具わっている。ましてや十界それぞれの果にも、また仏果が具わっているのは当然の事である。」と言っています。

【仏此を答へて云はく「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云。】
釈迦牟尼仏は、その意味について「衆生であっても仏が見ている世界を見せる事が出来る。」と答えられているのです。

【衆生と申すは舎利弗〔しゃりほつ〕、衆生と申すは一闡提〔いっせんだい〕、衆生と申すは九法界。】
この衆生というのは、舎利弗の事であり、また衆生というのは、一闡提であり、また衆生というのは九法界であって

【衆生無辺誓願度此〔ここ〕に満足す。】
仏のすべての衆生を救済すると言う誓いがここで成就したのです。

【「我本誓願を立つ。一切の衆をして、我が如く等しくして異なること無からしめんと欲す。】
それで「私は過去に全ての衆生を仏と等しくして異なる事がないようにしようと誓いました。

【我が昔の願ぜし所の如き、今は已に満足しぬ」等云云。】
この過去の誓願は、すでに成就したのです。」と説かれているのです。

【諸大菩薩・諸天等此の法門をきひて領解して云はく】
すべての大菩薩や諸天などは、この法門を聞いて、それを理解してこのように言ったのです。

【「我等昔より来〔このかた〕、数〔しばしば〕世尊の説を聞きたてまつるに、未だ曾て是くの如き深妙の上法を聞かず」等云云。】
「私達は、過去より、しばしば釈迦牟尼仏の説法を聞いていましたが、未だかつて、このような深くて妙なる素晴らしい法を聞かなかった。」と。

【伝教大師云はく】
伝教大師は、このように言っています。

【「我等昔より来、数世尊の説を聞くとは、昔法華経の前華厳等の大法を説くを聞けるを謂ふなり。】
「私達は、過去より、しばしば釈迦牟尼仏の説法を聞いたと言うのは、昔、法華経の前に華厳経を聞いたけれども、との意味である。

【未だ曾て是くの如き深妙の上法を聞かずと謂ふは、未だ法華経の唯一仏乗の教を聞かざるなり」等云云。、】
未だかつて、このような素晴らしい法を聞かなかったと言うのは、未だ法華経のただ一仏乗の教えを聞かなかったとの意味である。」とあり、

【華厳・方等・般若・深密・大日等の恒河沙〔ごうがしゃ〕の諸大乗経は、】
これは、要するに、華厳、方等、般若、深密、大日などの川の砂ほどの大乗経でも、

【いまだ一代の肝心たる一念三千の大綱・骨髄たる二乗作仏・久遠実成等をいまだきかずと領解せり。】
未だ仏教の一番大事な一念三千の主題、骨格である二乗作仏と久遠実成とを未だに示されていないという意味なのです。


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