日蓮正宗法華講開信寺支部より

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御書研鑚の集い 開目抄 研鑚資料


第14回 開目抄(下)まとめ


第8回 開近顕遠を示す

開目抄下(御書549頁)
(35)法華深恩を明かす
ここですべての大菩薩も梵天、帝釈、日天、月天、四天なども教主釈尊の弟子であることが定まり、そうであればこそ宝塔品で、これ らの大菩薩に「私の滅後に誰が法華経を護持するのか。今ここで自ら進み出て誓いを述べよ」と仰せられ、それに対して、すべての大 菩薩達が誓いを立てたのです。しかし、迹門ではそれが真実であるとは思えず、だからこそ宝塔の中で多宝如来が迹門を証明し、つい で本門を証明する為、宝塔に四方から集まった諸仏を全てこれらは、私の分身であると明かされたのです。その宝塔は、虚空に浮かび 、釈迦牟尼仏と多宝如来が座席を並べて座り、集まった大衆は、虚空に並び、分身の諸仏は師子の座に着いていたのです。華厳経で現 された蓮華蔵世界は娑婆世界とは別であるとされ、大日経や金剛頂経の胎蔵界曼荼羅や金剛界曼荼羅の仏菩薩も三身円満の古仏ではあ りません。大品般若経の千仏や阿弥陀経の六方の諸仏も大集経に来集した仏も金光明経の四方の四仏も、どの経においても分身である と説かれた例はありません。これは、ようするに宝塔品が寿量品の序文であって、まだ成仏して四十余年の釈迦牟尼仏が一劫、十劫の 昔からの仏を自分の分身であると説く事は、まったくもっておかしな話なのです。またインドで成仏した仏であるならば、その弟子が 十方の国土に充満するわけもなく、天台は「分身がすでに多いことを見て成仏の久しいことを知るべきである。」と、この宝塔に集ま った大衆の驚きの心を述べられているのです。
(36)地湧出現を明かす
その上、地涌千界の大菩薩が大地より出来し、その姿は、華厳、方等、般若、法華経の宝塔品に来集した大菩薩や大日経などの大菩薩 に比べると、猿の群がっている中に帝釈天が来たようなものだったのです。釈迦牟尼仏の後を継ぐと言われた弥勒ですら、なお地涌の 菩薩の出現に驚き、それ以下の者の驚きと当惑は大変なものでした。この地涌の菩薩の中に上行、無辺行、浄行、安立行の四人の指導 者がいました。この四人には、虚空会および霊山会に来集している多くの菩薩さえ、眼をあわせる事も親しく話しをする事も出来なか ったのです。華厳経の四菩薩、大日経の四菩薩、金剛頂経の十六大菩薩なども、この菩薩に対すれば、卑しい者が皇帝に会うような状 態でした。それらが実に堂々として尊貴であったので、すべての衆生が善知識として敬ったのでした。そこで弥勒菩薩は「この地涌の 菩薩は、未だ見た事がない方々であり、突然、大地より涌き出て来られたのですが、その理由を教えてください。」と尋ねたのです。
(37)略開近顕遠を示す
仏は、弥勒菩薩の質問に答え「弥勒よ。あなたが未だ見た事がないというこれらの大菩薩達は、私がこの娑婆世界において久遠の過去 より教化して来たのです。」と涌出品に説き、略開近顕遠を明かされているのです。ここで弥勒は、大いに疑問を持ち、以前にも釈迦 牟尼仏は、集まった大菩薩をさして善知識であるように言われた事がありますが、この地涌の菩薩達は、それらに比べても素晴らしい 姿で、釈迦牟尼仏にそう言われても、まったく信じる事が出来ないのでした。日本の聖徳太子は、六歳の時に、渡来した老人達をさし て、私の弟子であると言われ、老人達は、六歳の聖徳太子に合掌して、私の師であるといったと言われますが実に不思議な事です。弥 勒菩薩は疑って「釈迦牟尼仏は、王子であった時に宮殿を出で、その伽耶城の近くで悟りを開かれたのです。それより、これまで四十 余年を過ぎたのですが、いったい、どうやって、この期間にこの偉大な菩薩大衆を指導したのでしょうか」と尋ねたのでした。この疑 問こそ最大のものでした。無量義経で初めて説かれた速疾成仏とそれまでの歴劫修行との違いにもまさる大問題だったのです。阿闍世 王が提婆達多に騙されて、父の頻婆沙羅王を幽閉し、母の韋提希夫人を殺そうとしましたが、この時にこの夫人が釈迦牟尼仏に「私は 、過去にどんな罪業があって、このような悪子を生み、世尊は、また、どんな因縁によって提婆達多のような悪人と親戚となったので すか」と尋ねたのです。しかし、その時に釈迦牟尼仏は答えず、法華経の提婆品に来て初めてその因縁を知る事になるのです。しかし 、それでも涌出品におけるこの弥勒の疑問には及ばないのです。そうであれば、仏がこの疑いを晴らさない限り、一代の聖教は、すべ て泡沫となり、すべての衆生は、疑心暗鬼の網にかかって成仏出来ないのです。ですから、この疑いに正しく答えられた寿量品が最も 大切である理由がここにあるのです。
(38)広開近顕遠を示す
その後、仏は、寿量品に「すべての世間の天人および阿修羅は、釈迦牟尼仏が宮殿を出て、その伽耶城の近くの道場に座って悟りを得 たと思っている。」と説かれました。この文章は、最初の寂滅道場より、終わりの法華経の安楽行品、第十四までの、すべての大菩薩 たちの考えを述べているのです。その後の「しかし、諸君、私は、実に成仏してより以来、無量無辺百千万億那由佗劫なのです。」と 説き明かされたのです。この文章は、華厳経、阿含経、浄名経、大集経、大日経、仁王経、無量義経、法華経方便品の説法をわずか一 言で大嘘であるとする文章なのです。
(39)脱益の三徳を明かす
このように釈尊の過去が示される時は、諸仏は、釈尊の分身であり、爾前経や法華経の迹門の時には、諸仏は、釈尊と一緒に修業をし た仏なのでした。ようするに華厳の台上の仏も方等、般若、大日経の諸仏もすべて釈尊と同等なのでした。釈尊が三十歳で成道した時 に、初めて、それまで大梵天王や第六天など魔王が治めていた娑婆世界を、釈迦牟尼仏が取り戻したのでした。今、爾前迹門では十方 の国土を浄土と言い、この国土を穢土であると教えていましたが、寿量品では、ここが仏が常住の国土であると明かしたのです。十方 の浄土は、すべて娑婆世界の事であり、寿量品の仏は久遠の本仏であるので迹化の大菩薩も、他方国土の大菩薩も、教主釈尊の弟子と なるのです。もし仏教の経典の中に寿量品がなかったならば、天に日月がないのと同じであるのです。いま末法濁世の学者供は、讒言 ばかりを聞き入れて、寿量品の宝珠である賢人をまったく敬っていないのです。そればかりか、法華経を依経とする天台宗の人々でさ えも、たぼらかされて爾前と法華とを同じように思っているのです。釈迦牟尼仏が久遠の昔に成道していなければ、弟子も無量ではな いと理解すべきで、月に影があっても水がなければ映らないのと同じなのです。それと同様に仏も衆生に仏教を教えようと思っても、 その衆生が仏教との縁が薄ければ、実際に世に生まれ出て作仏を現す事は出来ないのです。たとえば、声聞が無明惑を断じる寸前まで 修行しても、爾前経の自己完結の修行では、未来での作仏を期して現世の成道が出来ないのと同じなのです。しかれば教主釈尊がイン ドで成仏した仏であるならば、この娑婆世界の梵天、帝釈、日天、月天、四天などは、ただ四十余年間だけの仏弟子なのです。あたか も霊山で法華経に縁した衆生が、インドで生まれた釈尊ではなく、この娑婆世界にずっといた諸天に仕えるようなものなのです。今、 久遠実成が現れて見れば、東方薬師如来の弟子、西方阿弥陀如来の弟子、その他、十方世界の諸仏の弟子や、大日経、金剛頂経の大日 如来の弟子たる諸大菩薩などは、すべて教主釈尊の弟子とわかったのです。また、娑婆世界に初めからいる日月や星などは、教主釈尊 の弟子である事は、言うまでもない事です。
(40)本尊に迷うを訶嘖し正しく下種の父を明かす
このように天台宗以外の諸宗はみな本尊に迷っており、倶舎、成実、律の三宗は、小乗経で説くインドで成仏した釈尊を本尊としてい るのです。これは、まるで王子が自分を民の子と思うように、華厳、真言、三論、法相などの四宗派は、大乗経であるのに小乗経の釈 迦を本尊としているのです。法相、三論は、勝応身に似た仏を本尊としており、これは、あたかも王子が自分の父は王を守る兵である と思っているようなものなのです。また、華厳宗、真言宗は、釈迦牟尼仏を卑下して法身の大日如来を本尊と定めています。これは、 王子である自分の父を卑下して、素性の定かでない者が王の真似をしているだけなのに、それに付き従うようなものなのです。浄土宗 は、釈尊の分身である阿弥陀仏を現世の仏であると思って、ほんとうの教主たる釈尊を捨てているのです。禅宗は、下賤の者がその下 の者を見下すように父母を卑しみ、仏を蔑み、経を侮っており、これらは、すべて本尊に迷っている姿なのです。例えば、かつての中 国では、父母への恩を報いず獣と同様であったように、寿量品の仏を知らない諸宗は、まさに畜生と同じで不知恩の者なのです。伝教 大師は、日本における顕密二教の元祖ですが、その著された秀句には「他宗の拠りどころとしている経は、仏の母の意義は、あるけれ ども、ただ愛のみがあって父の厳愛の意義が欠けている。これに対し天台法華宗は、厳愛の意義をそなえている故に、すべての賢人、 聖人、学無学の者に仏道修行をさせる父である。」と書いてあるのです。

第9回 諸宗を破折し正義を示す

(41)種子徳用・種子依経を弁ず
真言や華厳などの経には下種、熟益、脱益の名前すら説かれていないのです。ましてやその意味が説かれているはずはないのです。華 厳や真言などの文章に一生初地という即身成仏の意義が説かれてあるのは、どこまでも現在だけに執着する権経であって過去を隠して いるのです。華厳経や大日経、すべての大乗経の諸仏が成仏した種は、すべて法華経の一念三千なのです。天台大師のみが、ただ一人 この奥義を得られたのであって、諸宗の学者がこれを知るわけもありません。華厳宗は「心は、たくみな絵師のごとし」との文を一念 三千であるとし、真言宗は「心の実相」「われは一切の本初なり」の文が一念三千にあたると言って、これを肝心とし金剛界、胎蔵界 の漫荼羅に現して二乗作仏、十界互具の原理が大日経にあると言ったのです。それで伝教大師は「最近中国から渡来した真言家の相承 を嘘と見破り、また華厳家は、天台から影響を受けた事を隠している。」と言っています。その後、善無畏や不空などの真言宗の創始 者は、金剛界、胎蔵界の曼荼羅の中心に法華経を安置して、法華経を大王のごとく、胎蔵の大日経と金剛の金剛頂経をば、左右の臣下 のようにしたのもこの為なのです。日本の弘法も、理論上は、華厳宗を上に置き、法華経を第八番目としたけれども、実際には、その 弟子に両界の中央に法華経を安置せよと説いており、これもまた内心では法華に帰伏している証拠なのです。三論宗は、自説の誤りに 気付き、天台に帰伏し七年の間、仕えたとあります。また法相宗は「一仏乗の経は方便であり、三乗の経が真実である。」と妄言を繰 り返しているのですが、その弟子は、「故にまた両存す」と一仏乗も真実だと言い出し、心は天台に帰伏していたのです。華厳宗は、 法華経は方便であると書いていますが「天台宗は実義であり、我が宗の立義とその理論が通じないところはなく同一である。」などと 言い訳しているのは、後悔している証拠なのです。弘法もまた同じであるのです。間違いを指摘する者がいなければ自分の謗法を知る 事が出来ないのです。真言宗などの諸宗の学者は、伝教大師に会ってから、自分の宗派の間違いに気付いたのです。
(42)菩薩等守護なき疑いを結す
そうであれば、諸経の中のすべての諸仏、菩薩、人天などは、それぞれの爾前経で成仏したようではあっても、真実は、法華経で成仏 したのです。釈尊など諸仏が菩薩行の時に立てた「すべての衆生を助ける」との誓願は「すべてこの法華経によって満足した」と言わ れているのです。日蓮がこの道理によって考えると、華厳、観経、大日経など爾前経を修行する人を、その経の仏も菩薩も天人も守護 するのは間違いない事でしょうが、それらの者が法華経の行者に敵対するならば、彼らを捨てて法華経の行者を守護すべきでしょう。 たとえ孝行の者でも父が王の敵であるならば、父を捨てて王の元に集まるのが孝行の至極の姿であり、仏法もまたこの通りなのです。 法華経の諸仏、菩薩、十羅刹が、日蓮を守護するのは、当然の事であり、なおその上に浄土宗の諸仏、二十五の菩薩、真言宗の千二百 など、七宗の諸尊、守護の善神がすべて日蓮を守護しなければならないのです。それは、かつて七宗の守護神が伝教大師を守護したの と同じで、法華経の二処三会の大会につらなっていた大日天、大月天などの諸天は、法華経の行者が出現したならば、ただちに現れて 法華経の行者の代わりに難を受け、仏前の誓いを守るべきであると思うのですが、いままで日蓮を守らないのは、日蓮が法華経の行者 ではないからなのでしょうか。そうであれば、もう一度、経文を読んで、我が身にあてはめてみるしかありません。
(43)宝塔品三箇の諌勅を引く
それでは、現在の念仏宗や禅宗などを、どのような理由によって法華経の敵とし、すべての衆生を不幸にする根源と断定できるのでし ょうか。法華経の第四宝塔品には「その時に多宝仏は、宝塔の中において席を譲って釈迦牟尼仏に与えました。集会の大衆は、釈迦と 多宝の二人の仏が七宝の塔の中で並んで座っているのを見たのです。その時に釈迦は、この中で娑婆国土で広く法華経を説く事が出来 る者がいますか。私は、もうすぐこの世を去ります。私は、この妙法蓮華経を誰かに付属して、仏滅後にこの正法の長く流布する事を 求めているのです。」と説かれているのです。これが、第一の仏の意志、勅命なのです。また同じく宝塔品には「多宝如来は、遠い昔 に滅度されているのに、今、釈迦如来が法華経を説かれているので、わざわざ来られて宝塔の中に座っておられるのです。皆さんは、 どうして自らすすんで名乗り出ようとしないですか。また、ここに多くの諸仏が来ているのも未来の弘通をすすめる為なのです。これ らの諸仏は、その素晴らしい国土や多くの供養を捨てて、この法華経を弘める為にこの娑婆世界に来ているのです。この方便によって 法華経を未来永遠に流布しようとしているのです。」と言われたのです。これが、第二の仏の意志、勅命なのです。またこのように言 われています。「これは大変に難しい事なのです。こうなったら覚悟を決めなさい。川の砂ほどある経典を理解し説く事はさほど難し くはないのです。須弥山を持ち上げて、無数の国土の向こう側に投げる事もそれほど難しい事ではないのです。たとえ、この世界が焼 き尽くされるような炎の中でまったく焼けない事があったとしても、それもまだ難しい事ではないのです。仏滅後に、もし法華経を理 解し、一人にだけでも法華経を説く事は、難事中の難事なのです。」と言われたのです。これが、第三の仏の意志、勅命なのです。第 四、第五の二箇の仏の意志、勅命は、提婆品にあり、次第に追って述べていきます。
(44)諸経の浅深勝劣を判ず
この宝塔品の心は、明々白々であるのです。しかし、そうであっても、まったく常識がない者、ただの自己満足の者、偏った思想に執 着する者には、この明らかな事実すら見えないのです。ただ、どんなに困難な状態においても真実の仏法を求める者だけにそれを教え ようと思うのです。日本国において、この法華経が正しくその意義を現されたのは、わずか二度だけであり、それが出来たのは、伝教 大師と日蓮の二人だけなのです。智慧がない者は、この事を疑うでしょうが、それらの者の智慧の及ぶところではないのです。 華厳経、等経、般若経、深密経、楞伽経、大日経、涅槃経などは、九易、あるいは六難に入るのでしょうか。華厳宗の杜順、智儼、法 蔵、澄観などの三蔵大師たちは、法華経を読んで「華厳経と法華経は名は別々であるが、所説と結論は、同じなのである。修行うち何 を極めたとしても悟りの真実は一つである。」とこのように言いました。法相宗の玄奘三蔵や慈恩大師などは、法華経を読んで「深密 経と法華経とは同じ万法唯識の法門であり、第三番目の時の教であって、六難の中に入る。」とこのように言いました。三論宗の吉蔵 等が法華経を読んで「般若経と法華経とは、名は異なれども中身はひとつで、二経が一箇の法門である。」とこのように言いました。 善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵などは、法華経を読んで、「大日経と法華経とは、理論が同じで、同じく六難のうちの経文である 。」とこのように言いました。日本の弘法は、法華経を読んで「大日経は六難九易ではなく、大日経は、釈迦の説法以外の法身仏であ る大日如来の説法である。」と言いました。また、ある人が言うのには「華厳経は報身如来の所説であり、六難九易のうちに入らない 。」とこのように言いました。この四つの宗派の元祖がこのように法華経を読んでいるから、その流れをくむ数千の学徒もまた、すべ てこの見解の範囲を出ていないのです。
(45)諸宗の謬解を破折し正義を示す
釈迦如来の遺言には、仏が説かれた経文の理論によって正邪を決め、人師や論師を基準にすべきでないと説かれています。遺言である 涅槃経の四依「人より法、語より義、識より智、不了義経より了義経」の内、「人」とは、等覚の菩薩のことで、経の内容で説明が出 来ないのであれば、これを用いてはならないとの意味なのです。また「了義経に依って不了義経に依ってはならない」と言うのは、経 文には、それぞれに相対性や対称性がある事を知って理解すべきという事です。竜樹菩薩の十住毘婆沙論には「真実の経法に依らない 邪論に依ってはならない。真実の経法を本とした正論に依るべきである。」とあり、天台大師は「真実の経法と合致する内容のみ用い て、経文もなく意義もないものは信用してはならない。」と言い、伝教大師は「仏説に準拠して修行し、口伝を信じてはならない。」 と言い、円珍智証大師は「文に依って伝えるべきである。」と説いています。上にあげた華厳宗、法相宗、三論宗、真言宗の諸師は、 みんな一分は経論に依って正邪をわきまえているようですが、みんな、自らの宗派を盲目的に信用して、先師の誤りをまったく認めよ うとしないから、仏法を曲解し私情で決めただけの優劣であり、かってな理屈で自らを飾りたてるだけの法門なのです。仏滅後の犢子 や方広は、附仏法の外道として仏法を破り、後漢以後、仏法が中国へ渡ってからの外典は、仏法外の外道の見解よりも、三皇五帝の時 の儒書よりも、邪見が強盛であり、邪法が巧みになったのです。これと同様に、華厳、法相、真言など人師は天台宗の正義をねたみ、 法華経の文を自らの信じる経の奥義を現しているとする邪見が強盛なのです。しかし、真実の仏法を求める人は、そのような偏頗な考 えを捨てて、自宗だ他宗だと争うことなく、人を軽蔑するような事はしてはならないのです。

第10回 経文の勝劣について

(46)一家の正義を明かし相似の文を会す
法華経には「過去(すでに)、現在(今)、未来(まさに)」と説かれており、たとえば、ある経文に諸経の王であると書かれていて も、過去、現在、未来において第一とは、書いてありません。また過去、現在、未来の中で第一は、法華経であるのに、この事を頑迷 に否定し、その謗法の罪によって、長く苦しむのです。この経文の解釈を肝に銘じ、経文や人師の解釈を読むと、初めて、そのすべて の疑問が解けるのです。愚か者が真言は、優れていると経文に書いてあるから、間違いないだろうと思うのは、実に自分勝手な思い込 みで根拠のない事なのです。密厳経には「すべてこの密厳経より出ている」「すべての経文の中で一番優れている」、大雲経には「諸 経の王である」とあり、六波羅蜜経には「総持門(密教)こそ大乗経の中で第一である。」と説かれています。また解深密経には「こ れ以上のものがなく真実の最終的な教義なのです。」と説かれているのです。大般若経には「菩薩の甚深の智慧による見識を修得し、 すべての行為や世間で行われる事業は、智慧によって法性の一部分であると修得し、一つとして法性の外に出るものはない。」と説か れています。大日経第一には「すべての法は、自我が無いと説いており、なぜ自我が無いとするのかと言うと、それは、過去に修行し た者が、凡夫の生命の阿頼耶識〔あらやしき〕の中を観察して、その自我の原因が幻のようなものと知ったからです。」「このように 無我を捨てて、心の主体を自由にして、自我の心は、本来、生滅しないと悟ったのです。」と説かれています。華厳経には、「仏道に 入り、声聞になろうする者は少ない。まして縁覚になろうという者はさらに少ない。大乗仏教を求める者は、はなはだ稀であり、極少 数の人々である。しかしながら、大乗を求める事は、優しい事であって、この経を信ずる事は、すごく難しい事である。さらに、この 経を受持し、正しく信仰し、説のように修行し、真実の意義を理解する事は、さらに困難な事である。また大千世界を微塵にしたほど の数多くの衆生に対して、一劫の間、多くの娯楽を供養するとしてもその功徳は、それほど優れたものではない。この法を信ずるのは 、それ以上に莫大な功徳となるのである。」と説かれているのです。涅槃経には「この多くの大乗方等経典は、無量の功徳を成就する けれども、涅槃経の功徳と比較するならば、まったく話にならないのです。百倍千倍百千万倍としても、まだ及ぶ事が出来ないほどに 涅槃経の功徳は優れているのです。」と説かれています。
(47)諸宗の教理の浅深勝劣を知らざるを示す
四十余年の経それそれに書かれた讃嘆文と法華経の「已今当説最為第一」「六難九易」の文を比較すると月と星、丘と須弥山のような ものなのです。しかし、華厳宗、三論宗、真言宗の弘法などは、世間から智者と仰がれていますが、まだ、この文の意味がわからない のです。まして、まったく仏法がわからない当世の学者どもがその優劣を知る事など出来るでしょうか。明らかな違いさえ比較出来ず に、諸経と法華経の優劣になお迷っているのです。ましてや、それぞれ経に説かれている文章の意味さえ理解出来ず、その浅深がわか らないので、その経の真実の論理もわからないのです。法華経と爾前経とは巻物も違い、文章も前後しているので、比較して浅深を判 定するのが難しく、それで相似の文章を出して愚者に違いを教えるのです。すべてに全体と部分の区別があり、釈迦一代の経文すべて とそれぞれの経文とを区別すべきです。六波羅蜜経は有情の成仏は説いているが、無仏性の成仏は説かず、まして久遠実成など説いて いません。どうして法華経の迹門や本門に相対して論じられるでしょうか。しかし、日本の弘法大師は、この経文に迷っています。事 実は、その経で説く第五の総持門(密教)でさえ、なお涅槃経より、はるかに劣っているのです。まして法華経に及ぶわけがないのに 、何を狂ったのか天台大師を盗人であるとしているのです。そして自分を最高の仏教学者であるかのように言っているのです。これら の愚論はさておき、私の門弟の為に仏法の極理を説き明かしましょう。他宗の者が信じなくても諸経の優劣については、真言の弘法よ りも日蓮がはるかに優れているのです。それは、釈迦出世の本懐たる法華経を正しく解釈した天台大師や伝教大師の後をそのまま継承 しているからなのです。現在、日本国で一番、富める者は、日蓮であるのです。なぜならば、命を法華経に奉り、名前を後世に留める からなのです。法華経の六難九易をきちっと理解するならば、すべての経文を読まなくても、すべての仏、菩薩は、すべてこの法華経 の行者に従うのです。
(48)二箇の諌暁嘖を引き一代成仏不成仏を判ず
宝塔品にある滅後の弘通を勧めた三箇所の勅宣についで、提婆品にある二箇所の諌暁を引いて、一代諸経の成仏、不定仏を明らかにし ましょう。提婆達多は、一貫して釈迦如来に反対した一闡提でしたが、法華経においては、天王如来になるとの予言がなされました。 涅槃経四十巻には、衆生には、すべてに仏性が有ると説かれ、一闡堤の成仏を説いていますが、その現証は、法華経の提婆品に示され ているのです。善星比丘や阿闍世王などのような、釈迦在世の五逆罪の謗法の者の中から、極悪の提婆をあげてその成仏を明かした事 は、同類の者すべての事なのです。すべての五逆罪、七逆の罪を犯した謗法、一闡提は、すべて天王如来になると言う予言によって成 仏を決定されたのです。毒薬が変じて甘い良薬となる法華経こそ、優れたものなのです。竜女の成仏もただ一人の女性の成仏を現した ものではなく、すべての女性の成仏を現したものなのです。法華以前の小乗経では、女性の成仏は、許されませんでした。多くの大乗 経で女性の成仏往生を認めているようですが、それは、男に変じての成仏であり、一念三千の即身成仏ではないので有名無実の成仏な のです。一例をあげると言って、竜女の即身成仏は、その後の女性の成仏往生の道を認めたものなのです。儒教で説く孝養は、現世の みなので父母が死んだ後には、何の役にも立たないのです。外道の者を聖人、賢人と言った事も有名無実でありました。婆羅門外道は 、過去や未来に渡る三世の生命を知ってはいましたが、父母の来世まで助ける事が出来なかったのです。仏法こそ父母の後世を助け得 るものでありますから、真実の聖賢と呼ばれるべきなのです。しかし、法華経以前の大乗経や小乗経を立てる諸宗は、自分自身の成仏 ですら叶えられないのです。それで、どうして父母を成仏させる事が出来るでしょうか。ただ、文章だけであっても、その意義はない のです。今、法華経の時に至って、始めて女人成仏が現実に現れて悲母も成仏し、また提婆達多の悪人が成仏する時に慈父の成仏も現 実となるのです。この経は、父母の成仏を現実できるように説き明かされているから、内典の中の孝行の経文と言うべきもので、以上 で二箇所の諌暁が終わったのです。

第11回 三類の強敵について

(49)三類の強敵を顕わす
以上のとおり、宝塔品の三ヶ所の勅宣と提婆品の二ヶ所の諌暁に驚き、勧持品において末法での弘法を誓ったのです。日蓮と言う者は 、去年の九月十二日に首を刎ねられたのです。そして魂のみが佐渡の国に来て、その次の年の二月にこの「開目抄」を雪の中で書き、 鎌倉の弟子へと送れば、この開目抄を読んで怖ろしい思いが、どんなにか怖ろしくなくなる事でしょうか。また、この開目抄をまだ読 んでいない人々は、今、どれほどに怖れている事でしょうか。これらの事は、釈迦、多宝、十方の諸仏の予言通りで、現在の日本国の 姿は、それを映す明鏡なのです。これこそ日蓮の遺言であると思いなさい。勧持品には「私達は、仏滅度の恐怖の悪世において法華経 を弘めて参ります。多くの無智の人が悪口罵詈し、刀や杖で迫害をするでしょう。しかし、私達は、これを耐え忍びます。」と説かれ ています。妙楽大師は「この勧持品には、三つの増上慢の事が書いてあり、初めの一行は、邪智謗法の人の事を説明しています。つま り俗衆増上慢の事です。次の一行は、悪世の中の僧侶、つまりは道門増上慢であり、三つ目の七行は、僣聖増上慢の事です。これが、 もっとも耐え難いのです。なぜかと言うと無智な大衆や偽僧侶から聖人と仰がれている者の方が、退転者である事を知り難いからなの です。」と言われています。涅槃経の九には「一闡提の者が仏法者のように装って大乗経典を誹謗するのです。多くの婦人がこれを見 て、この人は、真実の仏法者であり、大菩薩であると言うでしょう。」また「その時にこそ、この法華経が全世界に広くひろまるでし ょう。その時に多くの悪い僧が居て、この法華経を改ざんして、多くの文章に分割し、正法の正しい意味や意義を変えてしまうのです 。またこの悪人は、大乗経を読んではいても如来の深遠な意味がわからず、世間のありふれた美辞麗句や意味のない言葉に変えてしま います。経文の前を取って後に付け、後を取って前に付け、前後を中に付け、中を前後に付けたりするのです。このような、悪い僧は 、すべて魔の仲間であるのです。」と説かれています。涅槃経には「像法時代に出家した僧がおり、戒律を守っているような振りをし て、わずかばかりの経文を読み、食べ物をむさぼり、その身を養っているのです。袈裟を着ているとはいえ、布施を狙う様子は、猟師 が細目で静かに獲物の近づいて行くのと同様で、まるで猫の鼠を伺う姿と一緒なのです。外には、賢い善人のような姿を現わし常に自 分は仏法をわかっていると公言し、それなのに法門の事については、唖法の修行を積んだ婆羅門の尊者のように黙り込んでしまいます 。真実は、出家した仏弟子とは、とても言えないのに僧侶の姿をして邪見が強盛で正法を誹謗するのです。」と説かれています。
(50)三類について釈す
現在の国中の禅宗、律宗、念仏宗を、この法華経や妙楽大師や智度法師の解釈文の明鏡で照らすと、その謗法の醜くい姿が一分の曇り なく現れるのです。法華経の勧持品には「仏滅度の後、恐怖悪世の中において広くこの経を説く」と書かれています。また安楽行品に は「後の世において」また「末世の中において」また「後の末世、法の滅せんと欲する時」と書かれています。分別功徳品には「悪世 末法の時」、薬王品には「後の五百歳広宣流布」と書かれています。さらに別の訳の正法華経の勧発品には「然るに後の末世に」また 「然るに後の未来世に」と説かれており、さらに別の訳の添品法華経にも同じ文章が書かれています。天台は「像法時代の南三北七は 法華経の怨敵である。」と言っています。また伝教は「像法の末に奈良にあった六宗の学者は法華経の怨敵である。」と言っています 。しかし天台、伝教の時代は、未だ法華経本門の流布すべき時代ではなかったので怨敵の姿もそれほど明らかとは言えなかったのです 。現在は、すでに末法であり、教主釈尊と多宝仏が宝塔に日月のように並び、十方、分身の諸仏が樹の下に星のように集まって末法に 法華経の弘通を誓った菩薩達の「法華経の怨敵が末法に三種類出て来る」との予言がどうして虚妄となるでしょうか。現在は、釈迦如 来の滅後、二千二百余年の末法なのです。大地を的にして外れる事があっても、春になって花が咲かない事があっても、三類の敵人は 、必ず日本国に現れるはずなのです。それならば、誰が三類の敵なのでしょうか、また誰が法華経の行者であるのでしょうか。私達は 、三類の怨敵の中に入っているのでしょうか。それとも法華経の行者の中に入っているのでしょうか。それなのに現在の日本に三類の 法華経の敵人がいないという事があるでしょうか。そうであれば付法蔵経に「仏滅後正法一千年の間に、正法を弘めるべき人が次々に 二十四人出現するであろう。」と予言しているのです。迦葉や阿難は、釈迦在世の弟子であるから、さておいても、五百年後に脇比丘 、六百年後に馬鳴菩薩、七百年後の竜樹菩薩と二十四人が予言と少しも違わずに出現して仏法を伝えているのです。そうであれば末法 の三類の怨敵の予言がどうして虚妄となるでしょうか。もしこの予言が間違っているならば、経文は、すべて間違いとなります。いっ たいどうすれば良いのでしょうか。
(51)別して俗衆道門を明かす
経文の第一の「多くの無智の人」とは、経文の第二の「悪世の中の僧」と第三の「貧しい身なりの僧」の教えを信じている者の事です 。これを妙楽大師は「俗衆増上慢」と呼んでいます。妙楽は記の十に「おそらく法華経の真義を誤って理解する者は、題目を唱える功 徳が大きい事を知らないで、その功徳は、修行を積まないと顕われないと言って、題目の功徳をないがしろにするであろう。そうであ るからこそ、初信者の修行がいくら浅くても、その功徳が莫大である事を示して法華経の実力を顕わすのです。」と書いてあります。 伝教大師は「正像二千年は、後、少しで終わり、末法がすぐ近くなりました。法華経の一仏乗の時代が迫り、すべての衆生を即身成仏 させうる大白法が流布する時代が来たのです。なぜ、この事がわかるかと言うと、安楽行品に、末世の法が滅せんとする時に流布する と、説かれているからなのです。」と述べられています。伝教、慧心の主張する事は、諸経中第一の法華経に明白に示されているので す。そのうえ、日本国の人々にとって伝教大師は、法華経の戒壇、比叡山において戒を授ける師匠でもあるのです。弘決には「邪見は 、悪である。この故に、蔵教、通教、別教ではなく、ただ円教だけを善とするのです。これには、また二つの意義があります。一には 、より上の経文に従う事を善とし、より上の経文に違背する事を悪とするのです。これは、経文を比較して優劣を決める相待妙の意味 です。二には、その経文に執着する事を悪と言い、最終目標である仏界に達する事を善とするのです。これは本尊により優劣を決める 絶待妙の意味です。このように経文に執著する事すら、なお悪なのですから、他の悪は、言うまでもありません。」と書かれているの です。外道の善悪は、小乗経と比較するとすべて悪道であり、またその小乗経や爾前教でさえ法華経に対すれば、すべて邪悪でなので あり、ただ法華経のみが正しく善なのです。爾前経の中の円教は、相待妙であり、この円教さえも絶待妙に対すれば、なお悪なのです 。また、円教も蔵通別の三教の中に入れば、なお悪道となるのです。爾前経のように円教の極理を行っても悪道となるのです。まして 念仏の依経とする観経は、華厳、般若の諸経にすら、及ばないほどの小法なのです。この小法に法華経の意義をいくら取り入れたとし ても、法華経を「閣抛閉捨」と主張する法然やその弟子、信者などは「誹謗正法」の者ではありませんか。釈迦、多宝、十方の諸仏は 、令法久住の為にこそ、宝塔の儀式に集まって来たのですが、法然や日本の念仏者が、法華経は末法で念仏より先に滅ぶべきとしてい るのは、釈迦、多宝、十方の諸仏の怨敵である証拠ではないでしょうか。
(52)第三僭聖増上慢を明かす
第三の強敵について、法華経には「閑静なところに袈裟をまとった僧侶がおり、在家の為に法を説いて、世間の人々からは、立派な仏 教者であると尊敬されている。」とあり、六巻の般泥恒経には「形ばかり仏法者である一闡提がいて、悪業を行じ、逆に一闡提に似て いる仏法者がいて、慈悲心をもって衆生を救う。」とあります。また、仏法者に似た一闡提とは、人々が仏法を学んでも仕方がないと 誹謗し、仏教の事は、私達のまかせるべきだと主張するのです。一闡提に似た仏法者とは、その意見を批判し、広く仏法を説き、衆生 に対して、私は、あなた達と共に同じく菩薩である。なぜならば、すべての衆生に如来の法性があるからであると主張するのです。し かし、それを聞いた多くの人々が、その仏法者を一闡提と言うであろう。」と説かれています。妙楽大師は「第三の僣聖増上慢が最も ひどく害悪を流す。それは、後々の者がその害毒の怖さがわからないからである。」と言われています。東春には「僣聖増上慢のいる 場所にすべての悪人が集まる。」と彼等の破法ぶりは世間にもよく知られているところです。現在の日本においては、京都の聖一や鎌 倉の極楽寺良観などが、まさしくこの経文に指摘される第三類の強敵にあたるのです。摩訶止観の第五には「また謗法の禅宗の者がお り、修行ばかりで理論が伴わない盲信の者も、理論ばかりで修行が出来ない狂信の者も双方ともに地獄へ落ちたのです。」と書かれて います。止観弘決の七には、「文字法師というのは、心の中を鑑みて理解する事が出来ずに、ただ、外見だけの姿で物事を判断する者 を指し、事相の禅師とは、境と智の二法を忘れて、心を静めるという修行の姿にばかり捕われている者を言うのです。世間の禅人は、 ひとえに座禅ばかりをして、まったく仏法を学ぼうとしない。観心によって経文を必要なしと言って、このように自己流で経文を解釈 する事は、間違いの中の間違いであり、このように浅薄な理論は、論ずる価値さえない。」と書かれています。また妙楽は「第三の僭 聖増上慢は、最もたちが悪いのです。世の人々に尊ばれて、謗法の重罪を作っている事がわからないからなのです。盲信の者や、我見 の者、狂信の者は、末法の始めに現れる第三類僣聖増上慢が見えないのです。一部の仏眼を得た者だけが、これを知る事が出来るので す。また「国王や大臣や婆羅門、その信者が正法の行者を訴える。」と法華経に説かれています。事実、過去の像法の末には、護命、 修円などが天皇に向かって伝教大師をそしったのです。いま末法の始めには、良観や念阿等などが、偽書を作って将軍家に日蓮をそし っているのです。この連中こそ、まさしく三類の強敵ではないでしょうか。

第12回 法華経の行者を顕わす

(53)諸宗の非を簡ぶ
当世の念仏者が、天台法華宗の比叡山の信徒である国王、大臣、外道、信者などに向って誹謗して言うのには「法華経の理論は、極め て深いから、我等には、あまりに難し過ぎる。法門は至って深く、これを信ずる衆生の機根は、至って浅いからです。これは、摩訶止 観の「我見の者が、法華経を高い所へと押しやって自ら智慧の及ぶ所ではないと言う。」との文章と一致するではありませんか。禅宗 は「法華経は月をさす指で、禅宗は月そのものなのです。月が見えたなら、指は何の役にもたたない。禅は仏の心であり、法華経は仏 の言葉なのです。仏は、法華経などのすべての経を説かれてのち、最後に一ふさの花を弟子である迦葉一人に授けられました。その印 として釈迦如来の袈裟を迦葉に付嘱し、それが二十八祖の達磨、そして現在の日本まで伝えられて来ました。」などと言っています。 これらの大嘘が国中の人々を酔わせ狂わせて来たのです。また天台、真言の高僧などは、名前だけは、天台宗や真言宗を名乗っており ながら、自宗の主張や因縁をまったく理解していないのです。欲が深く、公家や武家を怖れ、法華経を誹謗する邪宗邪義に同調し、か えってそれを讃嘆しているのです。むかし釈尊が法華経を説法した時は、多宝仏や分身仏が法華経の末法での流布を証明しました。い ま天台宗の学者達は「法華経は、理論が深くわずかの者しか理解出来ない」などの邪義に惑わされ承服してしまっているのです。この 為に日本には、ただ法華経の名前だけあって実践する者は、誰もいないのです。その中で誰が法華経の行者であるのでしょうか。寺や 塔を焼いて流罪される僧侶は数知れないほどいます。公家や武家にへつらって庶民から憎まれる高僧ばかりなのです。これらを法華経 の行者と言えるでしょうか。
(54)正しく法華経の行者なるを顕わす
仏の予言は、嘘ではないので三類の怨敵はすでに国中に充満していますが、その一方で、仏の言葉なのに法華経の行者が見当たらない のです。これは、どうした事でしょうか。そもそも誰人が法華経の勧持品の予言の通りに衆俗に悪口を言われ、軽蔑されているでしょ うか。どの僧が刀や杖で叩かれているのでしょうか。どの僧が法華経の故に公家や武家に訴えられたのでしょうか。どの僧が、しばし ば住む場所を追われ、たびたび流罪されているのでしょうか。日本の中で日蓮以外にいないではないですか。しかし日蓮は法華経の行 者ではありません。なぜなら天がこれを捨てて助けようとしないからです。そうであれば、誰が現在の法華経の行者として、仏の言葉 が真実である事を証明するのでしょうか。釈迦如来と提婆達多とは、たとえ生まれ変わったとしても身と影のように離れる事はないの です。聖徳太子と敵対する守屋とは、蓮華の花と菓が同時になるようなものなのです。これと同じように法華経の行者がいるならば、 必ず三類の怨敵があるべきなのです。すでに三類の怨敵は、日本中にいるので、そうであれば法華経の行者は誰なのでしょうか。求め て師としたいものです。それは、あたかも千年に一度、海底から浮かび上がる一眼の亀が、浮木に逢うような有り得ない事なのです。
(55)行者遭難の故を明かす
確かに現在の三類の怨敵はいるように思うが、ただし法華経の行者はいないのではないか。あなたが法華経の行者であるとすれば、数 々の経典に「天界の童子が来て給使をする、刀杖も加える事も出来ず、毒も与える事も出来ず、悪口悪罵すれば、その口がきけなくな ってしまう、現世は安穏であり、後生には善処に生まれる、悩乱する者がいれば、その頭は七分に破れて阿梨樹の枝のように裂ける、 現世において、その良い報いを得る、その人の間違いや悪いところを言い出せば、それが、事実であろうと不実であろうと、この人は 、現世において不治の病になる」と書かれてある事と相違します。しかし、同じ文証として「悪口罵詈せられる、あるいは杖木瓦石を もってこれを打擲す、もしは、殺され、もしは、害せられる、この経は、如来の在世であっても怨嫉が多い。ましたや滅後においては 、さらに大きな怨嫉をこうむる」と説かれています。釈迦ですら、九横の大難に遭われています。これは、釈迦が法華経の行者と言う 事ではないのでしょうか。不軽菩薩は、一仏乗の行者と言われない事があるでしょうか。目連尊者、師子尊者、竺の道生、法道三蔵、 これらは、みんな一仏乗の法門を持っていた人ではないでしょうか。これらの人を世間で定められた罪に事寄せて、あるいは、そのよ うな罪さえない者を恨めば、すぐに現罰が現れるのではないでしょうか。されば天台は「現在の自分の苦悩は、すべて過去にその原因 により、現世における修行の功徳は、将来にあるのです。」と言っており、心地観経には「過去の原因を知ろうとすれば現在の結果を 見よ。未来の結果を知ろうとするなら現在の原因を見よ。」と説かれています。第二の理由として、次の世で地獄に堕ちる事が決まっ ている者は、現世には現罰がないのです。一闡提の人がこれです。大悪人でない者が正法を誹謗すれば、すぐに夢を見て自身の謗法を 恐れ正気に戻る事が出来るのです。また、極悪の一闡堤人がこのように簡単に心をひるがえす事が出来ない事を「枯木や石の山に花が 咲かない」のと同じであると言われています。次に第三の理由として、守護の善神がこの国を捨て去った為に現罰がないのでしょう。 謗法の世を国土守護の諸天善神が捨て去った為に、正法の行者には一向に加護がなく、ますます大怨嫉を受けて大難に遭うのです。こ れは現在の日本の事を指しているのです。まさに日本は、謗法の国であり、現在は、濁悪の末法なのです。この事は、立正安国論に詳 細に書いておいた通りなのです。
(56)法華経の行者を顕わす文を結す
結局は、仏に成る為ならば、天も捨てよ、難にも遭え、身命を惜しんではならないという事なのです。舎利弗が六十劫にもわたる菩薩 行を積みながら地獄に堕ちたのは、自分の目を求めた婆羅門に怒りを抑えられずに法華経を捨てたからなのです。このように多くの人 々が、久遠の昔、三千塵点劫、五百塵点劫の過去に法華経に会いながら、それを捨てたのは、悪知識にあったからなのです。それが、 たとえ善い事であったとしても悪い事であったとしても法華経を捨てる事は地獄の原因となるのです。いまこそ大願を立てて、念仏を 唱えて極楽往生を願えば日本の王位を譲ろうと言われても、逆に念仏を唱えなければ父母の首をはねると脅されても、また、その他の いかなる大難が起きようとも、智者に自分の論理が破られない限りは、絶対に従ってはなりません。智者に自分の論理が破られる事以 外の大難は、風の前の塵のように問題にならない些細な事なのです。「日本の柱と成ろう、日本の眼目と成ろう、日本の大船と成ろう 」との主師親の仏としての誓いは、絶対に破る事はないのです。
(57)転重軽受を明かす
仏法の鏡は、過去世の業因を現在の自分の身体に映し現わすのです。すなわち般泥洹経には過去世に無量の罪や種々の悪業を作った為 にその罪障によって、人に軽蔑されたり、外見が醜かったり、衣服が足りなかったり、食事が粗末であったり、貧乏であったり、下賤 の家や邪見の家に生まれたり、王難にあったりするのです。このような罪の報いを、現世に軽く受けてなくす事が正法を護持する者へ の功徳なのです。」と説かれています。この経文は、日蓮にぴったりと符合しているのです。そうであれば、疑問は、たちまちに消え て現在の千万の難も当然であると理解出来るのです。それでは、一々の文章に我が身を合わせてみましょう。人に軽蔑されるとは法華 経譬喩品に「軽賎憎嫉せらる」と説かれています。日蓮は、二十余年の間、人から軽蔑されています。また外見が醜いと言われていま す。また衣服が不足しているのは、私の事ではないですか。食べ物が粗末なものばかりというのも、貧乏であったりというのも私の事 ではないですか。貧賎の家へ生まれるというのも私の事です。また、王難に遭うとの経文どおり、佐渡に流罪されてもいます。このよ うにまったく経文通りであるのを誰が疑う事が出来ましょうか。法華経には「度々、所を追われるであろう」とあり日蓮一身に該当し ているのです。また「必ずや三障四魔が紛然として競い起こる。」と説かれています。私は、無始の過去よりこれまで、悪王と生まれ て、法華経の行者の衣食や田畠などを奪い取った事は、数知れず、それは、ちょうど現在の日本の指導者が比叡山を破壊した事と同じ なのです。また、過去に法華経の行者の首をはねた事も数知れないのです。これらの重罪は、すでに消滅したものもあり未だ消滅して いないものもあります。しかし、その罪は、一応、減ってはいても未だ尽きてはいないのです。生死を離れ即身成仏する時には、必ず この重罪を消して六道輪廻の苦悩から離れなければなりません。いままで積んで来た功徳は、まだまだ浅さく軽いのであり、これらの 罪は、また深く重いのです。法華経でなければ、権経を修行していたのでは、この重罪を現世に消す事が出来ないから、その為に大難 を受ける事がないのです。今、日蓮が強盛に日本の謗法を責めた為に、この大難が来たのであり、それは、法華経誹謗の過去の重罪を 今生において法華経を護る功徳力によって招き寄せたのです。

第13回 折伏こそ時に適うを明かす

(58)不求自得の大利益
現世に引き継がれる過去の業は、六道であっても仏界にあっても変わる事はないのです。たとえ日本や中国やその他の国々の人々をす べて殺したとしても、五逆罪と謗法の罪がなければ、無間地獄へ堕ちる事はないのです。ただ、悪道へ長い間、堕ちるだけなのです。 色界へ生れる事は、すべての戒律をたもち、すべての修行をしたとしても、人を救わない自分だけの修行では出来ないのです。また、 同じ色界でも梵天へ生れる事は、現世に生まれる引業に慈悲を加えて、始めて出来るのです。成仏の原因を考えると、仏になる道は、 華厳宗の唯心法界や、三論宗の八不中道観、法相宗の唯識、真言宗の五輪観などでは、とても成仏する事は出来ないでしょう。なぜな らば、ただ天台の一念三千こそ成仏の唯一の道なのです。しかし、この一念三千についても、私達には、少し理解する智慧さえないの です。それでも釈迦牟尼仏の一代の経の中では、この法華経しか一念三千の玉を抱いている経がないのです。このように他の経の理論 は、玉に似た石であり、いくら砂をしぼっても油は出ず、たとえ女であっても男なしに子供は出来ない事と同じなのです。諸経では、 たとえ智者であっても成仏する事が出来ないのですが、この法華経では、たとえ愚人であっても仏になる原因を作る事が出来るのです 。「解脱を求めなくとも、解脱に自ら至る。」とは、この意味なのです。このように、日蓮や日蓮の弟子は、いかなる大難があろうと も、疑う心が生じなければ自然に仏界に至るのです。諸天善神の加護がないからと言って法華経の大利益を疑ってはならないのです。 現世が安穏ではないからと言って嘆いてはなりません。しかし、このように弟子に朝晩のように教えて来たのに、みんな疑いを起こし て退転してしまったのです。不甲斐ない者の習いとして、何もない時に約束した事を、何か事が起これば忘れてしまうです。妻子を可 哀そうだと思ってそうなってしまうのでしょう。しかし、いつも死んで別れなければならないのです。まず自分自身が法華経の信心を 捨てずに即身成仏し、霊山浄土に行ってから、妻子を導き、助ける事が共に成仏する唯一の道ではないでしょうか。
(59)適時の弘経を明かす
しかし、念仏者や禅宗などを無間地獄だと決めつけるのは修羅道へ堕ちる行為であり、法華経の安楽行品には「他人や他の経典の過失 を説いてはならない。また他の僧侶を軽蔑してはならない。」と説かれており、この経文に相違して他宗を攻撃するから、安楽行品に 説かれている諸天善神の加護を受けられないのではないでしょうか。しかし摩訶止観には「仏は、法を弘めるに方法について摂受と折 伏の二つを説かれています。安楽行品の他宗の長所短所をあげるつらうなとは、摂受の事であり、大涅槃経の刀を携帯して謗法の者の 首を斬れと言うのは折伏の事なのです。摂受は、相手に立場を与え、折伏は、立場を奪って弘法するのですが、その方法は違っていて も共に相手に利益するのです。」と説かれています。弘決には「正法を護る者は、不殺生戒などの戒律を持たずに礼儀を正さなくても 良い。仙予国王が正法誹謗の者を殺し、正しい医者が麻薬を禁じてそれを弘める者がいれば即座に首を斬れと言ったのは、仏法を破壊 する人を必ず折伏せよという意味なのです。すべての経論は、この摂受と折伏を出る事はないのです。」法華文句には「大涅槃経には 、弓矢を以って悪人を退治して正法を護持せよと明かしており、この法華経、安楽行品には、国王、大臣などの権力から遠く離れて、 衆生と共にあって慈善の心を持てと説いています。このように涅槃経の剛と安楽行品の柔とは、まったく相反しています。それは、大 涅槃経では、折伏を論じているのであって、この法華経には、安楽行品などに摂受を明かしていますが、陀羅尼品では、法華経の行者 を悩ます者に対して頭破七分を誓っているように、折伏がないわけではありません。それぞれ時に依るのです。」と説かれています。 章安大師の涅槃経の疏には「出家も在家も法を護るには、その根本となる心が大事であり、形式的なやり方を捨てて、その内容である 論理を大事にして法華経を弘めるのです。正しい法が弘まった平穏な時代では、戒律を持たなくてはならないし、刀や杖を持って法を 弘めてはいけないのです。しかし、現在は、濁悪の世で正法が隠没しているから、杖を持って強く正法を弘め、戒律を持つべきではな いのです。」と説いているのです。無智、悪人が国土に充満する時は、摂受を第一に立てて法を弘むべきです。これが安楽行品の意義 なのです。邪智、謗法の者が多い時は、折伏を第一として、常不軽品のように弘法すべきなのです。末法でも摂受と折伏の二門がある のですが、無智悪人の悪国と邪智謗法の破法の国で別れるのです。であるならば、日本の現在は、悪国か破法の国かを考えれば、邪智 謗法の国であることは、間違いないので折伏でなければならないのです。
(60)折伏を行ずる利益
摂受でなければならない時に折伏を行じ、折伏でなければならない時に摂受を行じた時は、なんの利益もありません。涅槃経には、「 正法を護持する者は、戒律を受けず、礼儀を正す事なく、刀や剣や弓や矢で正法を守るべきなのです。濁悪の世に僧侶が摂受を行じて 法を説いても、みんなが感動するような話をする事は出来ないのです。邪宗邪義を信じている悪人を改心させる事は出来ないのです。 このような僧侶は、衆生にとって何の利益ももたらす事は出来ないのです。まさに、このような輩は、学ぶ事をしない愚かな怠け者で あるのです。よく戒律をたもち修行を行っていると言っても、この人は、世の為、人の為には、何の役にもたたないし、仏法を守護す る事さえしないのです。ある時に破戒の僧侶がいて折伏していると、それを聞いた聴衆が怒って、その僧侶を殺害してしまったのです 。この説法者は、たとえ殺されてしまっても、なお持戒の者であり、自らもまた他人をも利益を与える者と言うべきである。」と説か れています。章安は「摂受と折伏とは、取捨よろしきを得て、一向にすべきではない。」と言われています。天台大師は、「摂受か折 伏かは、時に依るべきである。」と言われています。天台、真言の学者などが新興宗教たる念仏や禅の信者に、へつらい、怖れる様子 は、まさに犬が尾をふり、鼠が猫を怖れる姿そのものなのです。これらの者は、仏法を誤る原因や国家を壊す原因を作っているのです 。仏法を弘め、国を救うべき天台や真言の学者が、このようであっては、今生では餓鬼道に堕ち、後生には阿鼻地獄へ堕ちる事でしょ う。たとえ一念三千の観念観法をこらしても現在がいかなる時代か、どのような機根の衆生かを知らず、摂受と折伏の立て分ける事が 出来なければ、どうして生死を離れられるでしょうか。謗法を破折する事を次のように涅槃経に説かれているのです。「もし僧侶が法 を破る者を見て、そのままにして置いて、呵責し、駆逐し、処罰なければ、この人は仏法の中の仇であるのです。もし、よく駆逐し呵 責して処罰するならば、これこそ仏の弟子であり、真実の声聞なのである。」と説かれているのです。また章安は、涅槃経の疏に「仏 法を破壊し乱す者は、仏法中の仇ある。謗法を知りながら、それを諌める慈悲もなく、偽り親しむ事は、相手にとって仇となる行為な のです。相手の誤りを教えてやるのが真実の仏法守護の声聞であり、真実の仏の弟子なのです。その人の為に悪い考えを除き、改めさ せる事が、その人にとって親と同じ行為となるのです。よく相手の悪を呵責する者が真実の仏の弟子であり、駆逐せず、そのまま放っ て置く者は、まさに仏法の中の仇である。」と諌められているのです。
(61)結勧
法華経の宝塔品を見ると釈迦、多宝、十方分身の諸仏が法華経の会座に集まって来たのは何の為だっだのかと言うと、それは「法をし て久しく住しめんが為に来集した。」とはっきりと説かれているのです。このように、釈迦、多宝、分身の三仏が、法華経を弘め、す べての衆生に大きな利益を与えようとした心中を推しはかると、大きな苦しみに悩んでいる子供を見ている父母よりも、もっと強く未 来の衆生の事を心配されているのです。子供が重病の時に嫌がると言って必要な手術をしないでおかれましょうか。日本の禅や念仏を 見て破折しない者は、このような者なのです。「慈悲の心がなく偽り親しむとは、すなわち、その人の仇である。」との仏の言葉をよ くよく考えるべきです。日蓮は、日本国の人々にとっては、主であり、師であり、親であるのです。たとえ法華経を読んでいても、偽 り親しむ天台宗の者は、すべて一切衆生の大怨敵であるのです。「相手の為に悪を除く者は、相手にとって親と同じである。」との経 文に照らすとき、誰が日本国の現在の親として振る舞っているのでしょうか。求道心の無い者は、生死を離れて仏になる事が出来ない のです。教主釈尊は、すべての外道に大悪人と罵〔ののし〕られたのです。天台大師も南三北七の十派から罵られ、得一からも「三寸 に足らない舌で、五尺の仏身を断つ。」と言われ、伝教大師は、奈良六宗の者に「最澄は、未だ唐の都を見ていない。」と悪口を言わ れましたが、これらはすべて法華経の為であり恥とはならず、そのような愚人に褒められる事こそが第一の恥となるのです。日蓮が幕 府によって流罪され天台、真言の僧侶などは、さぞかし悦んでいる事でしょう。しかし、仏の心を知らない彼らの心こそ、仏法者とし て実に無慚〔むざん)であり、奇怪であるのです。釈尊は、娑婆世界に生まれて法華経を説き、羅什三蔵は、秦に渡来し、伝教は、中 国へ留学し、提婆菩薩や師子尊者は、仏法の為に身を捨て、薬王菩薩は臂を焼いて供養したのです。日本の聖徳太子は、手の皮をはい で経を写し、釈迦菩薩は肉を売って仏に供養し、楽法は骨を筆として仏法を書き留めたのです。これらの事を天台は「時に適〔かな) わなければならない。」と言っていますが、仏法は、まさに時に依るべきなのです。日蓮は、時に適って折伏を行じており、それが原 因で流罪されているのであり、その苦しみなどまったく些細な事で嘆く事など何もないのです。後生には、大きな安楽を受けるのです から、大いに悦ばしい事なのです。




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