日蓮正宗法華講開信寺支部より

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御書研鑚の集い 観心本尊抄 研鑚資料


観心本尊抄 第1回

第一章 一念三千の出処を示す

【如来滅後五五百歳始観心本尊抄】
如来〔にょらい〕滅後〔めつご〕五五百歳〔ごのごひゃくさいに〕始〔はじむ〕観心〔かんじんの〕本尊〔ほんぞん〕抄〔しょう〕

【文永一〇年四月二五日 五二歳】
文永10年4月25日 52歳著作

【本朝沙門 日蓮撰】
日本国僧侶 日蓮 著作

【摩訶止観〔まかしかん〕第五に云はく】
天台大師があらわした摩訶止観第五には

【「夫〔それ〕一心に十法界〔じっぽうかい〕を具〔ぐ〕す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。】
「一心に十法界を具える。一法界には、また十法界を具えれば、つまりは、百法界となります。

【一界に三十種の世間を具すれば百法界に即ち三千種の世間を具す。】
この百法界の一界に三十種類の世間を具えたならば一心に三千種類の世間を具える事になります。

【(世間と如是と一なり。開合の異なり。)】
(世間と如是とは、ひとつであり、開合の異いがあります。)

【此の三千、一念の心に在〔あ〕り。若〔も〕し心無〔な〕くんば已〔や〕みなん。】
この三千世間は、一念の心にあり、もし、心がなければ三千を具える事はありません。

【介爾〔けに〕も心有れば即ち三千を具す。】
少しでも仏を信じる心があれば、ようするに三千を具えるのです。

【乃至所以〔ゆえ〕に称して不可思議境〔ふかしぎきょう〕と為〔な〕す意〔こころ〕此〔ここ〕に在り」等云云。】
これをもって不可思議境と言い、その心は、これにあるのです。」と説かれています。

【(或本に云はく「一界に三種の世間を具す」と。)】
(或本には、一界に三種類の世間を具えるとあります。)

第二章 止観の前四等に一念三千を明かさざるを示す

【問うて曰〔いわ〕く、玄義〔げんぎ〕に一念三千の名目〔みょうもく〕を明かすや。】
質問しますが、法華玄義には、一念三千が書かれているのでしょうか。

【答へて曰く、妙楽〔みょうらく〕云はく「明かさず」と。】
それに答えると、妙楽大師は、書いてないと言っています。

【問うて曰く、文句〔もんぐ〕に一念三千の名目を明かすや。】
それでは、法華文句に一念三千は書かれているのでしょうか。

【答へて曰く、妙楽云はく「明かさず」と。】
それに答えると、妙楽大師は、書いてないと言っています。

【問うて曰く、其の妙楽の釈〔しゃく〕如何〔いかん〕。】
それでは、その妙楽の解釈ではどう書かれているのでしょうか。

【答へて曰く、「並びに未〔いま〕だ一念三千と云はず」等云云。】
それについては、「いまだに一念三千と言わず。」と書かれています。

【問うて曰く、止観の一二三四等に一念三千の名目を明かすや。】
それでは、摩訶止観の一巻から四巻までに一念三千を書いてありますか。

【答へて曰く、之〔これ〕無し、】
いいえ、書いてはありません。

【問うて曰く、其の証如何。】
それでは、その証拠はあるのでしょうか。

【答へて曰く、妙楽云はく「故に止観の正しく観法〔かんぽう〕を明かすに至って並びに三千を以〔もっ〕て指南と為〔な〕す」等云云。】
証拠は、妙楽大師が「摩訶止観の正しく観法を明かしたところで、一念三千を指南した。」と言われており、それ以前には明かしてはいません。

【疑って云はく、玄義の第二に云はく「又一法界に九法界を具すれば百法界に千如是」等云云。】
再度、尋ねますが、法華玄義の第二には、「また一法界に九法界を具えれば百法界に千如是となる。」と解説してあるではないですか。

【文句第一に云はく「一入〔いちにゅう〕に十法界を具すれば一界又十界なり、】
法華文句第一には「一入法界に十法界を具われば 一界がまた十界である。

【十界各〔おのおの〕十如是あれば即ち是〔これ〕一千」等云云。】
十界に各々十如是を具えていれば千如是となります。」と解説されています。

【観音玄〔かんのんげん〕に云はく「十法界交互なれば即ち百法界有り、千種の性相、冥伏〔みょうぶく〕して心に在り、】
観音玄には「十法界が交互に具わって百法界となり、千種の性相は、心に現れないまま具わっているのです。

【現前せずと雖〔いえど〕も宛然として具足す」等云云。】
実際に性相が現わてはいないのですが、具わっているのです。」などとあり、千如是のみで、いずれも一念三千を明かしていません。

【問うて曰はく、止観の前の四に一念三千の名目を明かすや。】
もう一度、質問しますが、摩訶止観の四巻の以前に一念三千は、明かしていないのですね。

【答へて曰く、妙楽云はく「明かさず」と。】
それに答えると、妙楽大師は、書いてないと言っています。

【問うて曰はく、其の釈如何。】
それでは、その妙楽大師の解釈ではどうですか。

【答ふ、弘決第五に云はく「若し正観〔しょうかん〕に望めば全く未だ行を論ぜず。】
それは、弘決の第五に「もし、摩訶止観の第五の正観に相対すれば、それまでの一巻から四巻までは、未だ実際の修行方法を論じていないのです。

【亦〔また〕二十五法に歴〔へ〕て事〔じ〕に約して解〔げ〕を生ず、】
また、二十五法の修行などを明かし、具体的な問題の解決法として書いてあります。

【方〔まさ〕に能〔よ〕く正修の方便と為すに堪〔た〕へたり、】
しかし、これらは、正しく修行をする為の仮の修行だったのです。

【是〔こ〕の故に前の六をば皆解に属す」等云云。】
これ故に前六章までは、すべて理解をする為に説かれたものであって正しい修行ではなかったのです。」とあります。

【又云はく「故に止観の正〔まさ〕しく観法を明かすに至って、並びに三千を以て指南と為す、】
また「それ故に摩訶止観によって正しく観法を明かす際に一念三千によってそれを指南した。

【乃〔すなわ〕ち是〔これ〕終窮〔しゅうぐ〕究竟〔くきょう〕の極説〔ごくせつ〕なり。】
ようするに、これが最終結論である。

【故に序の中に、説己心中所行法門と云ふ、良〔まこと〕に以〔ゆえ〕有るなり。】
それ故に止観会本、章安の序の中で、己心の中で修行するところの自行の法門、一念三千を説く、とあるが、

【請〔こ〕ふ、尋〔たず〕ね読まん者心に異縁〔いえん〕無〔な〕かれ」等云云。】
願わくは、これを読む者は、この点を心において、間違って読む事がないようにしなければならない。」と書かれているのです。

第三章 一念三千を結歎

【夫〔それ〕智者の弘法〔ぐほう〕三十年。二十九年の間は玄文〔げんもん〕等の諸義を説いて、五時・八教・百界千如を明かし、】
その天台智者大師の弘教期間は、三十年に及びますが、二十九年の間は、玄義や文句などを説き、五時・八教・百界千如を明かしました。

【前〔さき〕五百余年の間の諸非を責め、並びに天竺〔てんじく〕の論師の未だ述べざるを顕はす。】
それで五百余年にわたり中国の仏教界の間違いを責め、さらにインドの大論師さえ、未だ理解出来なかった甚深の仏教の奥義を顕わしたのです。

【章安大師云はく「天竺の大論〔だいろん〕尚〔なお〕其の類に非〔あら〕ず、震旦〔しんだん〕の人師何ぞ労〔わざら〕はしく語るに及ばん。】
章安大師は、天台大師を賛嘆して「インドの大論師さえ、なお天台と比較する事が出来ない。ましてや中国の仏教学者など語るに及ばないのです。

【此誇耀〔こよう〕に非ず法相〔ほっそう〕の然〔しか〕らしむるのみ」等云云。】
これは、驕り高ぶって言っているではなく、まったく天台大師の説かれた法の相が優れているからなのです。」と言われています。

【墓無いかな天台の末学等、華厳・真言の元祖の盗人〔ぬすびと〕に】
しかし、情けない事に天台宗の愚かな者達が、法盗人である華厳宗や真言宗の元祖に

【一念三千の重宝を盗み取られて還〔かえ〕って彼等が門家と成りぬ。】
一念三千の重宝を盗み取られ、かえってこのような盗人達の門家となってしまいました。

【章安〔しょうあん〕大師兼〔か〕ねて此の事を知って歎〔なげ〕いて言はく】
章安大師は、この事を知って嘆いて

【「斯〔こ〕の言〔ことば〕若〔も〕し墜〔お〕ちなば将来悲しむべし」云云。】
「この一念三千の法義が、もし、将来失墜するようなことがあれば、実に悲しむべき事である。」と述べています。

第四章 一念三千情非情にわたるを明かす

【問うて曰く、百界千如と一念三千と差別如何。】
それでは、質問しますが、百界千如と一念三千とは、どう違うのでしょうか。

【答へて曰く、百界千如は有情〔うじょう〕界に限り、一念三千は情非情に亘〔わた〕る。
それに答えると、百界千如は、有情界に限り、一念三千は、情非情にわたるのです。

【不審して云はく、非情に十如是亘らば草木に心有って有情の如く成仏を為すべきや如何。】
それは、違うでしょう。非情にまで十如是がわたり因果が具わるのであれば、草木にも心が有って有情と同じように成仏すると言うのですか。

【答へて曰く、此の事難信難解〔なんしんなんげ〕なり。】
それに答えるとすると、これは、大変、信じ難く、なかなか理解出来ない事なのです。

【天台の難信難解に二有り、一には教門〔きょうもん〕の難信難解、二には観門〔かんもん〕の難信難解なり。】
天台の難信難解には、二つあり、一つは教門の難信難解、二には観門の難信難解なのです。

【其〔そ〕の教門の難信難解とは、一仏の所説〔しょせつ〕に於て爾前〔にぜん〕の諸経には、】
その教門の難信難解とは、爾前経で

【二乗〔にじょう〕・闡提〔せんだい〕は未来に永く成仏せず、教主釈尊は始めて正覚〔しょうがく〕を成ず、】
二乗と一闡提は未来永久に成仏しないと説き、また教主釈尊はこの世で始めて成仏したと説きました。

【法華経迹本二門に来至して彼の二説を壊〔やぶ〕る、】
しかし、法華経迹門では、二乗と一闡提の成仏を説き、また本門では、始成正覚を破って久遠実成を説き顕わしているのです。

【一仏二言水火なり、誰人か之〔これ〕を信ぜん。】
このように爾前と法華経では、説がまったく違うので一仏が二言となり、水と火のような矛盾した関係になって誰も信ずる事が出来ないのです。

【此は教門の難信難解なり。】
これが教門の難信難解です。

【観門の難信難解とは百界千如一念三千にして、非情の上の色心〔しきしん〕の二法の十如是是〔これ〕なり。】
また観門の難信難解とは、百界千如一念三千であり、非情界に色心の二法、十如是を具していると説く点です。

【爾〔しか〕りと雖も木画〔もくえ〕の二像に於ては、外典内典共に之を許して本尊と為す、】
しかし、この点が難信難解であるからと言っても、木像や画像を外道でも仏教の各宗派でも、これを本尊として崇めているでしょう。

【其の義に於ては天台一家より出でたれども、】
その意義については、それは天台宗の一念三千より出たのであり、

【草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃〔たの〕み奉〔たてまつ〕ること無益〔むやく〕なり。】
非情の草木の上に色心の因果を置かなければ、木画の像を本尊として崇める事は、まったく無意味となるからなのです。

【疑って云はく、草木国土の上の十如是の因果の二法は何〔いず〕れの文に出でたるや。】
いやいや、それは間違いでしょう。それでは、草木や国土の上の十如是の因果の二法は、いったい何に書かれているのですか。

【答へて曰く、止観第五に云はく「国土世間亦〔また〕十種の法を具す。】
それでは、それに答えましょう。摩訶止観の第五に「非情の国土にも十如是がある故に、

【所以〔いわゆる〕悪国土、相・性・体・力」等云云。】
悪国土には、悪国土の相、悪国土の性、悪国土の体、悪国土の力など、それぞれの十如是を具しているのである。」と書かれているのです。

【釈籤〔しゃくせん〕第六に云はく「相は唯〔ただ〕色〔しき〕に在り、性は唯〔ただ〕心〔しん〕に在り、】
釈籤の第六には「相とは、ただ外面に顕われた物質であり、性とは、内在する性質であり、心である。

【体・力・作・縁は】
また体とは、物の本体で色心を兼ね、力とは外に応ずる内在性で、作とは外部への活動で、縁とは善悪の事態を生ずる助縁であり、

【義色心〔ぎしきしん〕を兼ね、因果は唯心、報は唯色に在り」等云云。】
これらは、すべて色心の二法を兼ねており、因と果とは、ただ心にあり、報とは、ただ身体と言う色法となる。」と説かれています。

【金□論〔こんべいろん〕に云はく】
また金□論には

【「乃〔すなわ〕ち是〔これ〕一草・一木・一礫〔りゃく〕・一塵〔じん〕・各〔おのおの〕一仏性・各一因果あり。】
「一本の草、一本の木、一つの礫、一つの塵など、すべて、ことごとく一つの仏性、一つの因果が具わっているのです。

【縁了〔えんりょう〕を具足す」等云云。】
ようするに、すべては、本有常住の三因仏性を具足しており、有情非情を問わず成仏するのである。」と説かれているのです。

第五章 観心の意義を示す

【問うて曰く、出処〔しゅっしょ〕既〔すで〕に之を聞く、観心の心如何。】
それでは、質問しますが、一念三千の法門が摩訶止観の第五に説かれていると言う事は納得しましたが、観心の意味についてはどうでしょうか。

【答へて曰く、観心とは我が己心を観じて十法界を見る、是を観心と云ふなり。】
それに答えるとすると、観心とは、自分の心を具〔つぶさ〕に観て、自分の心に十法界がある〔具足する〕ことを知る事なのです。

【譬〔たと〕へば他人の六根〔ろっこん〕を見ると雖も、未だ自面〔じめん〕の六根を見ざれば自具〔じぐ〕の六根を知らず、】
たとえば、他人の眼、耳、鼻などの容姿を見る事は出来ますが、自分自身の容姿を見る事が出来ないように、その容姿がわからないのです。

【明鏡〔みょうきょう〕に向かふの時始めて自具の六根を見るが如し。】
明るい鏡があってこそ、はじめて自分の容姿を見る事が出来るのです。

【設〔たと〕ひ諸経の中に所々に六道〔ろくどう〕並びに四聖を載〔の〕すと雖も、】
たとえ爾前経の中でいろいろな六道、四聖を説いていると言っても

【法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。】
法華経や天台大師の述べられた摩訶止観などの明鏡がなければ、自分の生命に具わっている十界、百界千如、一念三千を知る事など出来ないです。

第六章 十界互具の文を引く

【問うて曰く、法華経は何〔いず〕れの文ぞ、天台の釈は如何〔いかん〕。】
それでは質問しますが、十界互具、一念三千を説く法華経にはどのような文章があり、天台の文章にはどのような解釈がされているのでしょうか。

【答へて曰く、法華経第一方便品に云はく「衆生をして仏知見を開かしめんと欲〔ほっ〕す」等云云。】
それに答えるとすると、法華経の第一方便品には「衆生に仏知見を開かせようと思うが故に諸仏は世に出現する。」と説かれています。

【是は九界所具の仏界なり。】
これは、総じて九界の衆生に仏界を具えていることを顕わすのです。

【寿量品に云はく「是くの如く我成仏してより已来〔このかた〕甚〔はなは〕だ大〔おお〕いに久遠なり、】
同じく寿量品に「このように自分が成仏してより、このかたはなはだ大いに久遠であり、

【寿命、無量阿僧祇劫、常住にして滅せず、】
その寿命は永遠とも言え常住不滅なのです。

【諸の善男子、我本〔もと〕菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶〔なお〕未だ尽〔つ〕きず、復〔また〕上〔かみ〕の数に倍せり」等云云。】
諸君、私がもとより菩薩の修行を行って成就した所の寿命は、今なお未だ尽きず、その数に倍するのである。」と説かれているのは、

【此の経文は仏界所具の九界なり。】
仏界に九界が具〔そな〕わっているという文章なのです。

【経に云はく「提婆逹多〔だいばだった〕、乃至天王如来〔てんのうにょらい〕」等云云。地獄界所具の仏界なり。】
同じく提婆達多品に「提婆達多は天王如来となる」とある。これは、地獄界に仏界が具わっているという意味なのです。

【経に云はく「一を藍婆〔らんば〕と名づけ、】
同じく陀羅尼品に「十羅刹女の第一は藍婆であり、

【乃至汝等〔なんだち〕但〔ただ〕能〔よ〕く法華の名〔みな〕を護持する者は福量〔はか〕るべからず」等云云。】
十羅刹が法華経の行者を護ると誓ったその福徳は無量である。」と説かれていますが、

【是〔これ〕餓鬼界所具の十界なり。】
餓鬼界に十界が具わっているという意味なのです。

【経に云はく「竜女、乃至成等正覚」等云云。此〔これ〕畜生界所具の十界なり。】
同じく提婆達多品には「竜女が等正覚を成ず」とあり、畜生である竜女が成仏するというのは、畜生界に十界が具わっているという文章なのです。

【経に云はく「婆稚阿修羅王〔ばじあしゅらおう〕、乃至一偈一句を聞いて、】
同じく法師品には「婆稚阿修羅王が此の経の一偈一句を聞いて随喜の心を起こすならば

【阿耨多羅三藐三菩提〔あのくたらさんみゃくさんぼだい〕を得べし」等云云。】
阿耨多羅三藐三菩提〔あのくたらさんみゃくさんぼだい〕を得る。」とあり、

【修羅界所具の十界なり。】
これは修羅界に十界が具わるという文章です。

【経に云はく「若し人仏〔ほとけ〕の為の故に、乃至皆已〔すで〕に仏道を成ず」等云云。】
同じく方便品に「もし、人々が仏を供養する為に仏像を建立するならば、この人は必ず仏道を成就するであろう。」と説かれています。

【此〔これ〕人界所具の十界なり。】
これは人界に十界が具わるという文章なのです。

【経に云はく「大梵天王、乃至我等も亦是くの如く、必ず当〔まさ〕に作仏〔さぶつ〕することを得〔う〕べし」等云云。】
同じく譬喩品に「大梵天王などは、必ず作仏するであろう。」とあり、

【此天界所具の十界なり。】
これは天界に十界が具わるという文章なのです。

【経に云はく「舎利弗、乃至華光〔けこう〕如来」等云云。此声聞界所具の十界なり】
同じく譬喩品に「舎利弗は華光如来となる。」とあり、これは声聞界に十界が具わるという文章なのです。

【経に云はく「其の縁覚〔えんがく〕を求むる者・比丘・比丘尼、乃至合掌し敬心〔きょうしん〕を以て具足の道を聞かんと欲す」等云云。】
同じく方便品に「縁覚を求める僧や尼僧が合掌し敬う心で具足の道を聞こうと思った。」とあり、

【此即ち縁覚界所具の十界なり。】
具足の道とは、一念三千の法門であって、これは縁覚界に十界が具わるという文章なのです。

【経に云はく「地涌千界、乃至真浄大法〔しんじょうだいほう〕」等云云。】
同じく神力品に「地涌の菩薩は、この真浄の大法を得ようと思った。」とあり、真浄大法とは事の一念三千の南無妙法蓮華経の事であって、

【此即ち菩薩界所具の十界なり。】
ようするに、これは、菩薩界に十界が具わるという文章なのです。

【経に云はく「或説己身〔わくせっこしん〕或説他身〔わくせったしん〕」等云云。】
同じく寿量品には「或は己身を説き或は他身を説き、或いは己心を示し或は他身を示し、或いは己事を示し或いは他事を示す」等と説いているのは

【即ち仏界所具の十界なり。】
ようするに仏界に十界が具わるという文章なのです。

第七章 難信難解を示す

【問うて曰く、自他面の六根は共に之〔これ〕を見る、彼此〔ひし〕の十界に於ては未だ之を見ず、如何〔いかん〕が之を信ぜん。】
それでは質問しますが、自分の顔や他人の顔は見る事が出来るけれども、他人の十界は、少しも見えないと言うのはどういう意味なのでしょうか。

【答へて曰く、法華経法師品に云はく「難信難解」と。】
それに答えると法華経の法師品には「信じ難く、また理解し難い」と説かれいます。

【宝塔品に云はく「六難九易〔ろくなんくい〕」等云云。】
宝塔品には「六難九易の比喩をもって法華経の難信難解を説かれています。

【天台大師云はく】
また天台大師は法華文句において

【天台大師云はく「二門悉〔ことごと〕く昔と反すれば難信難解なり」と。】
「迹門では、二乗作仏、本門では久遠実成を説いており、権教とは、まったく相い反するので難信難解である。」と書かれているのです。

【章安大師云はく「仏此を将〔もっ〕て大事と為〔な〕す、何ぞ解し易〔やす〕きことを得〔う〕べけんや」等云云。】
章安大師は「仏がこれが最も大事であると言われているのですから、どうして理解しやすいなどと言う事があるでしょうか。」と言われています。

【伝教大師云はく「此の法華経は最も為〔こ〕れ難信難解なり、随自意の故に」等云云。】
伝教大師は「この法華経は最も難信難解である。なぜなら仏が悟りのままを説いた随自意の教えであるからである。」と言われています。

【夫〔それ〕在世の正機〔しょうき〕は過去の宿習厚き上、
それゆえに釈尊在世の正しい機根を持った衆生は、過去世において下種を受けており、その上、福運が厚かったので、

【教主釈尊・多宝仏・十方分身の諸仏、地涌千界・文殊〔もんじゅ〕・弥勒〔みろく〕等】
釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏を始めとして地涌千界の大菩薩、文殊、弥勒など

【之〔これ〕を扶けて諫暁〔かんぎょう〕せしむるに猶〔なお〕信ぜざる者之有り、】
諸菩薩が釈迦牟尼仏の説法を助けて、きちんと法華経を教えたのにも関わらず、それでもなお信じない者がいたのです。

【五千席を去り人天移さる、】
方便品の広開三顕一の時に五千人の増上慢が席を蹴って去り、宝塔品の時には多くの人界、天界の衆生が他の国土へ移って行ったのです。

【況〔いわ〕んや正像をや、何〔いか〕に況んや末法の初めをや。】
正法時代や像法時代でさえ、このとおりであったのですから、釈迦滅後の闘諍堅固、白法隠没の末法ともなれば信じ難いのが当然であるのです。

【汝之を信ぜば正法に非〔あら〕じ。】
あなたが容易に信じられるとすれば、かえってそれは正法では有り得ないのです。

第八章 心具の六道を示す

【問うて曰く、経文並びに天台・章安等の解釈〔げしゃく〕は疑網〔ぎもう〕無〔な〕し、】
それでは、質問しますが、法華経の文章と、また天台や章安など解釈に疑う余地がない事はわかりました。

【但し火を以〔もっ〕て水と云ひ墨を以て白しと云ふ、設ひ仏説たりと雖〔いえど〕も信を取り難し。】
しかし、いかに火を水と言い、黒い墨をもって白と言う事は、いかに仏説であってもやはり信じられない事ではないでしょうか。

【今数〔しばしば〕他面を見るに但〔ただ〕人界に限って余界を見ず、】
現に他人の姿をじっくりと観察したとしても、ただ人界ばかりであって他の九界は見られないではないですか。

【自面も亦復〔またまた〕是くの如し。如何〔いかん〕が信心を立てんや。】
さらに自分の姿を見ても、また人界ばかりのようですが、どうして十界が互具すると信じられるでしょうか。

【答ふ、数他面を見るに、或時は喜び、或時は瞋〔いか〕り、】
それに答えましょう。現に他人の姿を見ると、ある時は喜び、ある時はいかり、ある時は穏やかであり、

【或時は平〔たい〕らかに、或時は貪〔むさぼ〕り現じ、或時は癡〔おろ〕か現じ、或時は諂曲〔てんごく〕なり。】
ある時はむさぼり、ある時はおろかであり、ある時はうぬぼれるのです。

【瞋るは地獄、貧るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。】
これは、すべて六道の姿であって、いかるは地獄、むさぼるは餓鬼、おろかは畜生、うぬぼれは修羅、喜ぶは天界、穏やかなるは人界なのです。

【他面の色法に於ては六道共に之有り、四聖は冥伏〔みょうぶく〕して現はれざれども委細〔いさい〕に之を尋〔たず〕ぬれば之有るべし。】
このように他人の相には六道がすべて具わり、四聖は隠れていて日常には現われないけれども、詳しく調べて見れば必ず具わっているのです。

第九章 心具の三聖を示す

【問うて曰く、六道に於て分明ならずと雖も、粗〔ほぼ〕之を聞くに之を備〔そな〕ふるに似〔に〕たり。】
それでは、質問しますが、六道については、まだよくわからないけれども、今の説明で少しは理解できました。

【四聖は全〔まった〕く見えざるは如何。】
しかし、四聖があると言う事は、まっったく理解できません。

【答へて曰く、前〔さき〕には人界の六道之を疑ふ、然りと雖も強〔し〕ひて之を言って相似〔そうじ〕の言〔ことば〕を出〔い〕だせしなり、】
それに答えると、以前は六道を疑っていたので強いて一々に相似した事例を引いて、それでその概略が少しはわかったのでしょう。

【四聖も又爾〔しか〕るべきか。】
四聖もまたこれと同じなのです。

【試〔こころ〕みに道理を添加〔てんか〕して万が一之を宣べん。】
それで試みに道理によって多くの説明を加えましよう。

【所以〔いわゆる〕世間の無常は眼前に有り、】
ようするに世間の姿を見てみると、常に移り変わって行く有為転変している状態が眼の前にありますね。

【豈〔あに〕人界に二乗界無からんや。】
この無常を、日夜見ている事は、人界にすべての無常を悟ったという二乗界がある証拠ではないでしょうか。

【無顧〔むこ〕の悪人も猶〔なお〕妻子を慈愛〔じあい〕す、菩薩界の一分なり。】
まったく他を顧りみることのない悪人も、自分の妻子には慈愛の念を持っているのは、人界に具えている菩薩界の一分ではないでしょうか。

【但〔ただ〕仏界計り現じ難〔がた〕し、】
ただし、仏界ばかりは、現実には、現れ難いのです。

【九界を具するを以て強ひて之を信じ、疑惑〔ぎわく〕せしむること勿〔なか〕れ。】
しかし、すでに九界を具している事がわかった以上、強いて仏界がある事は信じて疑ってはならないのです。

【法華経の文に人界を説いて云はく「衆生をして仏知見〔ぶっちけん〕を開かしめんと欲す」と。】
法華経の方便品に人界を説いて「衆生をして仏の知見を開かしめんと欲する故に諸仏世尊はこの世に出現し給うのである。」と説かれています。

【涅槃経に云はく「大乗を学する者は肉眼〔にくげん〕有りと雖も名づけて仏眼〔ぶつげん〕と為〔な〕す」等云云。】
涅槃経には「大乗を学する者は、物を見る時に肉眼で見ているが、それを仏眼であると言うのである。」と説かれています。

【末代の凡夫出生〔しゅっしょう〕して法華経を信ずるは人界に仏界を具足〔ぐそく〕する故なり。】
このように末法の凡夫が人間と生まれてきて法華経を信ずるのは人界にもともと仏界が具わっている証拠なのです。

第十章 仏界を明かす

【問うて曰く、十界互具の仏語分明なり。】
それでは質問しますが、たしかに十界互具が仏の説である事はわかりました。

【然〔しか〕りと雖も我等が劣心〔れっしん〕に仏法界を具すること信を取り難き者なり。】
しかし、私達のような者に仏法界が具わっている事などとても信じられません。

【今の時之を信ぜずば必ず一闡提〔いっせんだい〕と成らん。】
もし、そんな事を信じるようでは、自らを仏と同じであると言う一闡提とまったく変わりないではないでしょうか。

【願はくは大慈悲を起〔お〕こして之を信ぜしめ阿鼻〔あび〕の苦を救護〔くご〕したまへ。】
もし、そうでないならば、大慈悲によってこの事を信じさせて無間地獄の苦悩から救って頂きたいものです。

【答へて曰く、】
それでは、その事について答えましょう。

【汝〔なんじ〕既〔すで〕に唯一大事因縁〔ゆいいちだいじいんねん〕の経文を見聞〔けんもん〕して之を信ぜざれば、】
あなたは、すでに方便品の一大事因縁を説かれた経文に衆生に仏知見があると説かれている事を知りながら、これを信じないと言うのであれば、

【釈尊より已下の四依〔しえ〕の菩薩並びに末代理即〔りそく〕の我等、如何が汝が不信を救護〔くご〕せんや。】
釈尊の言葉を信じないのですから、末法の菩薩やただの凡夫である私達が、あなたが信じないのを助ける事など出来ないのは当然の事なのです。

【然りと雖〔いえど】も試みに之を言はん、】
しかしながら、試みに、もう少し人界所具の仏界を説明してみましょう。

【仏に値〔あ〕ひたてまつりて覚〔さと〕らざる者、阿難〔あなん〕等の辺にして得道する者之有ればなり。】
なぜなら、釈尊に会っても悟らなかった者が阿難によって悟りを得たので、あなたに説明してわからせる事が一概に無理とは言えないからです。

【其れ機に二有り。】
衆生には、二種類の機根があって

【一には仏を見たてまつりて法華にして得道す、】
一には、仏に会って直接の教えを受け法華経によって得道する者、

【二には仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり。】
二には、仏には会わないけれども法華経によって得道する者です。

【其の上仏教已前〔いぜん〕は漢土の道士・月支〔がっし〕の外道は、儒教・四韋陀〔しいだ〕等を以〔もっ〕て】
しかも仏教以前の時代では、中国の道士が説く儒教やインドの外道の四韋陀という教えであっても、

【縁と為〔な〕して正見〔しょうけん〕に入る者之有り。】
それが縁となって法華経の正しい仏知見へと入ることが出来たのです。

【又利根〔りこん〕の菩薩凡夫等の、華厳・方等・般若等の諸大乗経を聞きし縁を以て】
また、賢い菩薩や凡夫などは、華厳、方等、般若などの諸大乗経を聞いた事によって、

【大通久遠の下種を顕示〔けんじ〕する者多々〔たた〕なり。】
すでに過去に於いて大通智勝仏の時代に法華経を聞き、下種を受けた事を思い出した者が大勢いたのです。

【例せば独覚〔どっかく〕の飛花落葉〔ひけらくよう〕の如し、】
たとえば、独覚の人は、仏のいない世に生まれて、飛花落葉などを見て無上観の極地を悟る事が出来るようなものなのです。

【教外〔きょうげ〕の得道是なり。】
この事を教外の得道というのです。

【過去の下種結縁無き者の権小に執着〔しゅうしゃく〕する者は、】
逆に、もし、過去世において法華経の下種がなく結縁がない者は、

【設〔たと〕ひ法華経に値ひ奉れども小権の見を出でず。】
たとえ現在においても、法華経を信じているようであっても、権教や小乗経に執着してその知見から離れられないでいるのです。

【自見を以て正義と為〔す〕るが故に、】
自分の見解をもって正義とするゆえに、

【還〔かえ〕って法華経を以て或は小乗経に同じ、或は華厳・大日経等に同じ、或は之を下す。】
かえって法華経を小乗教や華厳や大日経と同じ教えに変えてしまい、あるいは法華経の教えをこれらの経よりも下に置くのです。

【此等の諸師は儒家・外道の賢聖〔けんせい〕より劣〔おと〕れる者なり。】
このような法華経の師は、儒家や外道の賢聖よりも劣る者であり、とても法華経の師とは呼べないのです。

【此等は且〔しばら〕く之を置く。】
これらの論議はしばらくこれをおいて、本題の十界互具を説明をしましょう。

【十界互具之〔これ〕を立つるは石中〔せきちゅう〕の火、木中〔もくちゅう〕の花、信じ難〔がた〕けれども】
十界互具を信じる事は、石の中で火が燃え、木の中に花が咲くように信じ難い事ではあっても、

【縁に値ひて出生すれば之を信ず。】
何かの縁によってこれが事実となって現われれば、人々はこれを信ずるのです。

【人界所具の仏界は水中の火、火中の水、最も甚〔はなは〕だ信じ難し。】
人界に仏界が具わっている事は、水の中の火であり、火の中の水のようなもので、もっとも信じ難い事ではあるけれども、

【然りと雖も竜火〔りゅうか〕は水より出で竜水は火より生ず、】
それでも、水素が燃えて水が出き、その水素が燃える時に大きな炎が生じるようなものなのです。

【心得られざれども現証有れば之を用ゆ。】
信じる事が出来なくても現実にそうなれば、信じるしかないのです。

【既に人界の八界之を信ず、】
すでに、あなたは、人界に地獄から菩薩までの八界がある事を信じたのであるから、

【仏界何ぞ之を用ひざらん。】
どうして経文に説かれているように仏界がある事を信じないのでしょうか。

【尭舜〔ぎょうしゅん〕等の聖人の如きは万民に於て偏頗〔へんぱ〕無し、人界の仏界の一分なり。】
中国古代の尭王や舜王は、万民に対して偏ることなく平等に善政を行った事実は、人界に仏界が具わっている現れであるのです。

【不軽菩薩は所見〔しょけん〕の人に於て仏身を見る、】
不軽菩薩は、見る人すべてに対して、仏身であると礼拝しているのです。

【悉逹太子〔しったたいし〕は人界より仏身を成ず、】
またインドの悉達太子は、人界に生まれながら、仏身を成就して釈迦牟尼仏となりました。

【此等の現証を以て之を信ずべきなり。】
これらの現証をもって人界に仏界を具えていることを信ずべきなのです。


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