日蓮正宗法華講開信寺支部より

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御書研鑚の集い 観心本尊抄 研鑚資料


観心本尊抄 第2回

第11章 教主に約して問う

【問うて曰く、教主釈尊は(此より堅固に之を秘す)三惑〔さんなく〕已断〔いだん〕の仏なり、】
それでは質問します。教主釈尊は(これより本尊受持即観心にして堅固にこれを秘せよ)見思、塵沙、無明の三惑をすでに断じ尽くした仏であります。

【又十方世界の国主・一切の菩薩・二乗・人天等の主君なり。】
また、教主釈尊は、十方世界の国主であり、菩薩、二乗、人界、天界、すべての衆生の主君なのです。

【行〔みゆき〕の時は梵天左に在り帝釈右に侍〔はべ〕り、四衆八部後〔しりえ〕に聳〔したが〕ひ金剛前〔さき〕に導き、】
歩まれる時は、大梵天王が左に帝釈天王が右に付き従い、四部衆、八部衆がその後に従い、金剛神は、前で導び、

【八万法蔵を演説して一切衆生を得脱〔とくだつ〕せしむ。】
八万法蔵といわれる一切経を説いて、すべての衆生を得脱させたのです。

【是くの如き仏陀〔ぶっだ〕何を以て我等凡夫の己心〔こしん〕に住せしめんや。】
このような仏が、どうして私達のような凡夫の心に居られるという事があるでしょうか。

【又迹門爾前の意〔こころ〕を以て之を論ずれば、教主釈尊は始成〔しじょう〕正覚の仏なり。】
また、法華経の迹門や爾前経などの意義をもってこれを論ずるならば、教主釈尊は、十九歳で出家し、三十歳で成道した仏なのです。

【過去の因行〔いんぎょう〕を尋ね求むれば、】
過去世にどのような修行をされたかと言えば、

【或は能施〔のうせ〕太子、或は儒童〔じゅどう〕菩薩、或は尸毘〔しび〕王、或は薩□〔さった〕王子、】
ある時は能施太子、ある時は儒童菩薩、ある時は尸毘王、ある時は薩□王子と生まれ、

【或は三祇〔さんぎ〕、百劫〔ひゃっこう〕、或は動踰塵劫〔どうゆじんこう〕、或は無量阿僧祇劫、】
このような菩薩行を蔵教において三大阿僧祇百大劫の間、行じられたと説き、通教では動喩塵劫、別教では無量阿僧祇劫の間、行じられたと説き、

【或は初発心時〔しょほっしんじ〕、或は三千塵点等の間、】
円教では、初発心の時より、四十二位の菩薩行を行じて来たと説いています。また、ある時は、三千塵点劫にわたる修行を説いているのです。

【七万五千・六千・七千等の仏を供養し、劫を積み行満じて今の教主釈尊と成りたまふ。】
このような長時にわたり、七万五千、六千、七千の諸仏に供養し、劫を積み、修行を満足して今の教主釈尊と成ったのです。

【是くの如き因位の諸行は皆我等が己心所具の菩薩界の功徳か。】
このような仏になる為の原因となる多くの修行は、すべて私達の己身に具えている菩薩界の功徳であると言うのでしょうか。

【果位を以て之を論ずれば教主釈尊は始成正覚の仏、】
また爾前迹門における仏として、これを論ずれば、教主釈尊は、過去世における原因によってインドに出現した仏である。

【四十余年の間四教の色身を示現〔じげん〕し、爾前・迹門・涅槃経等を演説して一切衆生を利益したまふ。】
そして四十余年の間、蔵通別円の四教を説くごとにそれぞれに仏身を現して、爾前経、法華迹門、涅槃経を説いて一切衆生を導いて来たのです。

【所謂〔いわゆる〕華蔵の時、十方台上の盧舎那〔るしゃな〕、阿含経の三十四心、断結成道〔だんけつじょうどう〕の仏、】
華蔵経の時は、盧舎那仏、阿含経の時は、三十四の智慧の心を持ち見思惑を断じた仏、

【方等・般若の千仏等、大日・金剛頂等の千二百余尊、】
方等、般若の時には、千仏し、大日経、金剛頂経の時には、胎蔵界の七百余尊、金剛界の五百余尊の仏を現し、

【並びに迹門宝塔品の四土色身〔しどしきしん〕、涅槃経の或は丈六〔じょうろく〕と見る、】
法華経迹門において宝塔品第十一の時は、同居、方便、実報、寂光の四土の仏身を現し、涅槃経の時には、丈六の仏と現れました。

【或は小身大身と現じ、或は盧舎那と見る、或は身虚空〔こくう〕に同じと見る。】
また、ある時は、小身、大身と現れ、ある時は、盧舎那報身と現れ、ある時は、その身が虚空と等しい法身仏と現れました。

【四種の身、乃至、八十御入滅には舎利〔しゃり〕を留〔とど〕めて正像末を利益したまふ。】
このように四種類の身を現じたのです。そうして御年八十歳で入滅されても正法、像法、末法にわたって、その骨をこの世に留められたのです。

【本門を以て之を疑はヾ、教主釈尊は五百塵点已前〔いぜん〕の仏なり、】
さらに法華経本門を以って考えれば、この事はまったく疑わしいのです。なぜなら教主釈尊は五百塵点劫以前に成仏しているからです。

【因位も又是くの如し。】
そうであれば、その原因でさえも、また五百塵点劫以前となるのではありませんか。

【其〔そ〕れより已来〔このかた〕十方世界に分身し、一代聖教を演説して塵数〔じんじゅ〕の衆生を教化〔きょうけ〕したまふ。】
それ以来、娑婆世界と十方世界に分身の仏をつかわして一代聖教を説いて、大地微塵のような多くの衆生に仏教を教えて来たのです。

【本門の所化を以て迹門の所化に比校〔ひきょう〕すれば、一渧〔いってき〕と大海と一塵〔いちじん〕と大山となり。】
本門の弟子である衆生と迹門の弟子である衆生を比較すれば一渧の水と大海の水を比べ、一塵と大山のような大きな相違があるでしょう。

【本門の一菩薩を迹門の十方世界の文殊・観音等に対向〔たいこう〕すれば、猴猿〔こうえん〕を以て帝釈に比するに尚〔なお〕及ばず。】
本門の地湧の菩薩と迹門の十方世界から来集した文殊、観音などの菩薩を比較するならば、猿と帝釈天よりもさらに大きな相違があるのです。

【其の外十方世界の断惑証果〔だんなくしょうか〕の二乗並びに梵天・帝釈・日月・四天・四輪王、】
その他にも、十方世界にあって見思惑を断じ尽くした二乗や、梵天、帝釈、日月、四天王、四輪王などの天界や、

【乃至無間大城の大火炎等、此等は皆我が一念の十界か、己心の三千か、】
また無間地獄の大火炎などが、すべて自分の一念の十界にあるのでしょうか。我が己身の三千世間であると言うのでしょうか。

【仏説たりと雖〔いえど〕も之〔これ〕を信ずべからず。】
たとえ仏説であると言っても、これを信ずる事が出来るでしょうか。

第12章 教論に約して問う

【此を以て之を思ふに、爾前の諸経は実事なり実語なり。】
以上のように十界互具、一念三千を信じられない事から考えてみると、法華経は、間違いであって爾前経が真実であり仏の正しい教えと言えます。

【華厳経に云はく「究竟〔くきょう〕して虚妄〔こもう〕を離れ染〔ぜん〕無〔な〕きこと虚空〔こくう〕の如し」と。】
それ故に華厳経に「初住の悟りの姿は、究極であり、煩悩の虚妄を離れて清らかであることは大空のようだ。」と説かれているのです。

【仁王経に云はく「源を窮〔きわ〕め性〔しょう〕を尽くして妙智存せり」と。】
また仁王経には「大いなる悟りを得て涅槃に至れば、無明の本源を究めて無明の本性をすべて除き妙智のみがある。」と説かれています。

【金剛般若経に云はく「清浄〔しょうじょう〕の善のみ有り」と。】
また金剛般若経には「悟りに至れば清浄〔しょうじょう〕の善のみがある。」と説かれています。

【馬鳴〔めみょう〕菩薩の起信〔きしん〕論に云はく「如来蔵の中に清浄の功徳のみ有り」と。】
また仏滅後においても馬鳴菩薩の起信論には「如来蔵の中には、清浄の功徳のみがある。」と説かれています。

【天親菩薩の唯識〔ゆいしき〕論に云はく「謂はく、余の有漏〔うろ〕と劣の無漏〔むろ〕と種は、】
天親菩薩の唯識論には「煩悩障と所知障を捨て去った衆生の生命と劣応身の生命の阿頼耶識には、

【金剛喩定〔こんごうゆじょう〕が現在前〔げんざいぜん〕する時、極円明〔ごくえんみょう〕の純浄〔じゅんじょう〕の本識を引く。】
菩薩の最高位である金剛のように固く心を静める修行によって、まったく何も欠ける事がない明浄なる本識が具わっているのである。

【彼の依〔え〕に非〔あら〕ざるが故に皆永く棄捨〔きしゃ〕す」等云云。】
衆生や劣応身の生命の阿頼耶識を拠り所とはせず、この修行を拠り所とするから、煩悩生死を永く捨て去る事が出来る。」と説かれています。

【爾前の経々と法華経と之を校量〔きょうりょう〕するに彼の経々は無数なり時説既〔すで〕に長し、】
爾前の経々と法華経と比較してみると爾前経は無数であり、説く期間も四十余年にわたり、法華経はただ一経であり、八年である。

【一仏の二言ならば彼に付くべし。】
そうであるならば爾前と法華の説に相違があるならば、爾前経につくべきである。

【馬鳴菩薩は付法蔵の第十一、仏記に之有り。】
また、馬鳴菩薩は、付法蔵の第十一において、仏から未来に出現すると書かれた方であり、

【天親は千部の論師、四依〔しえ〕の大士なり。】
天親菩薩は、千部を現した論師で仏法者が模範とするべき大菩薩なのです。どうしてその馬鳴や天親の説くところに間違いがあるでしょうか。

【天台大師は辺鄙〔へんぴ〕の小僧にして一論をも宣べず、】
それに比較して天台大師は、仏教発祥のインドからはるかに離れた辺境の中国に生まれた小僧であっていまだ一論さえ述べていないのです。

【誰か之を信ぜん。】
どうして天台を信ずる事が出来ましょうか。

【其の上多を捨て小に付くとも法華経の文分明ならば少し恃怙〔じこ〕有らんも、】
その上にまたあるいは、多くの爾前経を捨てて法華経の文章の中に少しでも一念三千を説いた明らかな文章があれば理解も出来るのですが、

【法華経の文に何〔いず〕れの所にか十界互具・百界千如・一念三千の分明なる証文之〔これ〕有りや。】
法華経の文章のどこに十界互具、百界千如、一念三千の明らかな証文があるのでしょうか。そんなものはないのです。

【随って経文を開拓するに「諸法の中の悪を断じたまへり」等云云。】
さらに法華経を開いて見ると方便品では「諸法の中の悪を断じ給えり」と説かれていて、仏界には九界の悪が具わっていない事が説かれています。

【天親〔てんじん〕菩薩の法華論にも、堅慧〔けんね〕菩薩の宝性〔ほうしょう〕論にも十界互具之無く、】
ゆえに天親菩薩の法華論にも、堅慧菩薩の宝性論にも十界互具は説かれていないのです。

【漢土南北の諸大人師・日本七寺の末師の中にも此の義無し。】
さらに中国においても、天台以前の南三北七の十派におよぶ諸人師も、日本における七宗の末師の中にも、十界互具を述べたものはありません。

【但天台一人の僻見〔びゃっけん〕なり、伝教一人の謬伝〔みょうでん〕なり。】
ただ天台一人の間違った見解であり、伝教一人の誤り伝えたものなのです。

【故に清涼〔しょうりょう〕国師の云はく「天台の謬〔あやま〕りなり」と。】
ゆえに清涼国師は「華厳経を下して法華経を尊重するのは、天台の誤りである。」と言われて、

【慧苑〔えおん〕法師の云はく「然るに天台は小乗を呼んで三蔵教と為〔な〕し】
慧苑法師は「天台が小乗経を三蔵教と名づけているが、

【其の名謬濫〔みょうらん〕するを以て」等云云。】
三蔵は小乗教に限らず、大乗経にも経、律、論があるから、天台は大小相対を理解していない。」と指摘し

【了洪〔りょうこう〕が云はく「天台独〔ひと〕り未〔いま〕だ華厳の意を尽くさず」等云云。】
了洪は「天台の判教は優れているが未だに華厳の深意を理解してはいない。」と言い、

【得一〔とくいち〕が云はく「咄〔つたな〕いかな智公、汝は是〔これ〕誰が弟子ぞ。】
得一は「愚かな天台よ、あなたは、いったい誰の弟子なのか、

【三寸に足らざる舌根〔ぜっこん〕を以て覆面舌〔ふめんぜつ〕の所説の教時を謗ず」等云云。】
三寸にも足らない舌をもって仏が説法した時をもてあそび、自己流の五時八教などを立てている。」と言い、

【弘法大師の云はく】
日本の弘法大師は

【「震旦〔しんだん〕の人師等諍〔あらそ〕って醍醐〔だいご〕を盗んで各〔おのおの〕自宗に名づく」等云云。】
「中国の人師は、六波羅蜜経の陀羅尼蔵を醍醐味として盗んで自宗に取り入れており、天台もまたこれと同じである。」と言っています。

【夫〔それ〕一念三千の法門は一代の権実に名目〔みょうもく〕を削〔けず〕り、四依の諸論師其の義を載〔の〕せず、】
このように一念三千の法門は、釈尊一代の権教にも実教にも説かれておらず、釈迦滅後の四依の論師も、その意義をのせていない。

【漢土日域〔にちいき〕の人師も之を用ひず。如何〔いかん〕が之を信ぜん。】
また、中国、日本の人師も誰一人、これを正しいとは思っていない。どうしてこれを信ずる事が出来るでしょうか。

第13章 教論の難を会す

【答へて曰く、此の難最も甚〔はなは〕だし最も甚だし、】
それでは、それに答えましょう。今、質問された事は、難問中の難問であり、最も説明する事が難しいものです。

【但し諸経と法華との相違は経文より事起〔お〕こりて分明なり。】
しかし、爾前の諸経と法華経との相違は、経文に説き示された事実によって明らかでしょう。

【未顕〔みけん〕と已顕〔いけん〕と、】
爾前経は未顕真実、正直捨方便と説かれ、法華経は但説無上道とあります。

【証明〔しょうみょう〕と舌相〔ぜっそう〕と、】
法華経は多宝如来、十方分身諸仏の証明がされていますが爾前経にはこのような証明はありません。

【二乗の成不と、始成〔しじょう〕と久成〔くじょう〕等之を顕はす。】
爾前経では二乗が不成仏、始成正覚を説き、法華経では一切衆生皆成仏道、久遠実成を説き顕わしています。

【諸論師の事、天台大師云はく「天親・竜樹、内鑑冷然〔ないがんれいぜん〕たり、】
次に論師の非難については、天台大師は「天親や竜樹は一念三千の法門を心の中では知っていたが、

【外には時の宜〔よろ〕しきに適〔かな〕ひ各〔おのおの〕権に拠〔よ〕る所あり。】
外に対しては、正法時代に合った権大乗経を弘めたのです。

【而るに人師偏〔ひとえ〕に解し、学者苟〔いや〕しくも執し、】
しかし、その後の人師達は、自らの意見に執着して、

【遂〔つい〕に矢石〔しせき〕を興〔おこ〕し各一辺を保ちて大いに聖道に乖〔そむ〕けり」等云云。】
仏教学者がその我見によっていがみあい釈尊の真意に背反してしまった。」と言われています。

【章安大師云はく「天竺の大論すら尚〔なお〕其の類〔たぐい〕に非ず、真旦〔しんだん〕の人師何ぞ労〔わずら〕はしく語るに及ばん、】
章安大師は「仏教の発祥地たるインドの大論師さえ、なお天台には及ばない。ましてや中国の論師など、どうして論ずる必要があるでしょうか。

【此誇耀〔こよう〕に非ず法相〔ほっそう〕の然〔しら〕らしむるのみ」等云云。】
これはうぬぼれではなく天台の解釈が優れているから言うのである。」と言われています。

【天親・竜樹・馬鳴・堅慧等は内鑑冷然なり。】
天親、竜樹、馬鳴、堅慧などの菩薩達は、内心では一念三千を知っていましたが、

【然りと雖も時未〔いま〕だ至らざるが故に之を宣べざるか。】
未だ正法時代で法華経流布の時ではなかったので、これを弘通しなかったのです。

【人師に於ては天台已前〔いぜん〕は或は珠〔たま〕を含み或は一向に之を知らず。】
それ以外の正法時代や像法時代の人師は、あるいは一念三千の珠を内心に含み、あるいは、まったくこれを知らなかったのです。

【已後〔いご〕の人師は或は初めに之を破して後に帰伏〔きぶく〕する人有り、或は一向に用ひざる者も之有り。】
また天台以後の人師達は、初めは一念三千の法門を認めなかったものの後には信じる者もあり、また、まったく信じなかった者もありました。

【但し「諸法の中の悪を断じたまへり」の経文を会〔え〕すべきなり。】
しかし、方便品の「諸法の中の悪を断じ給えり」の文章を理由に論難している点をはっきりさせなければなりません。

【彼は法華経に爾前を載せたる経文なり。】
この法華経の方便品の文章は、爾前経の意義を説いている文であるから、爾前経に十界互具が書いてある事を否定しているようにみえます。

【往〔ゆ〕いて之を見るに、経文分明に十界互具之〔これ〕を説く。】
しかし、この法華経の文章をよくよく開いて、これを見たならば、明確に爾前経の中に十界互具を説いていることがわかるのです。

【所謂〔いわゆる〕「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云。】
ようするに「衆生をして仏の知見を開かしめんと欲す。」とは、衆生に仏の知見が本来具わっている事を説いている事は明らかなのです。

【天台此の経文を承〔う〕けて云はく「若し衆生に仏の知見無〔な〕くんば何ぞ開を論ずる所あらん。】
それ故に天台は、この経文を解釈して「もし衆生に仏の知見が無いなら、どうやって開く事が出来るでしょうか。

【当〔まさ〕に知るべし、仏の知見衆生に蘊在〔うんざい〕することを」云云。】
まさに仏の知見が衆生の本性に具わっていると知るべきである。」と言われています。

【章安大師の云はく「衆生に若し仏の知見無くんば何ぞ開悟する所あらん。】
章安大師は、さらにこれについて「衆生にもし仏の知見が無いならば、どうして仏知見を開いたり悟ったりする事が出来るでしょうか。

【若し貧女に蔵〔くら〕無くんば何ぞ示す所あらんや」等云云。】
もし、貧乏な女性に蔵がないのであれば、なぜ、その蔵の中身を示す必要があるのでしょうか。」と言っているのです。

第14章 教主の難を会すにまず難信難解を示す

【但し会〔え〕し難き所は上の教主釈尊等の大難なり。】
しかし、この矛盾を理解しがたい事は、教主釈尊にとって大きな難題なのです。

【此の事を仏遮会〔しゃえ〕して云はく「已今当説、最為難信難解」と。】
法師品には「いままで説いた爾前経、いま説く法華経、いまから説く涅槃経において、この法華経は最も難信難解である」と言われ、

【次〔つぎ〕下〔しも〕の六難九易是なり。】
次の法華経、宝塔品において諸経は易信易解、法華経は難信難解と六難九易の比喩を以って示しているのがこれなのです。

【天台大師云はく「二門悉〔ことごと〕く昔と反すれば信じ難く解し難し。】
天台大師も法華文句において「法華経の迹門に二乗作仏十界互具を説き、本門に久遠実成を説くが、その二門ともに信じ難く、理解しがたい。

【鋒〔ほこさき〕に当たるの難事なり」と。】
戦場で剣の刃に弓矢が当たるほどに難しい事である。」と書かれています。

【章安大師の云はく「仏此を将〔もっ〕て大事と為〔な〕す、何ぞ解し易きことを得〔う〕べけんや」と。】
章安大師は「仏は、この法華経を出世の本懐として説かれているのですから、どうして理解しやすいと言う事があるのか。」と言われています。

【伝教大師云はく「此の法華経は最も是〔こ〕れ難信難解なり、随自意の故に」等云云。】
日本の伝教大師は「この法華経は最も難信難解である。なぜなら仏の悟りをそのまま説く随自意の教えであるからである。」と言われています。

【夫〔それ〕仏より滅後一千八百余年に至るまで、三国に経歴〔きょうりゃく〕して但〔ただ〕三人のみ有りて始めて此の正法を覚知せり。】
釈尊滅後一千八百余年の間にインド、中国、日本の三国において、わずかに三人だけがこの正法を理解したに過ぎないのです。

【所謂月支〔がっし〕の釈尊、真旦〔しんだん〕の智者大師、日域の伝教此の三人は内典の聖人なり。】
それはインドの釈尊と中国の天台智者大師と日本の伝教大師の三人であり、この三人は、実に仏教において聖人と呼ぶべきなのです。

【問うて曰く、竜樹・天親等は如何。】
それでは質問しますが、竜樹や天親などはどうなのでしょうか。

【答へて曰く、此等の聖人は知って之〔これ〕を言はざる仁なり。】
それに答えるとすると、これらの聖人は、心の中では知っていましたが、外には現わさなかった人達なのです。

【或は迹門の一分之〔これ〕を宣べて本門と観心とを云はず、】
法華経迹門の一部分の教義は、述べましたが、法華経本門と観心については、まったく説き顕す事はありませんでした。

【或は機有って時無きか、或は機と時と共に之無きか。】
この時代では、一念三千を理解出来る衆生はあっても未だ説くべき時代ではなかったのか、また、そういう機会でも時期でもなかったのでしょう。

【天台・伝教已後は之を知る者多々なり、二聖の智を用ゆるが故なり。】
しかしながら、天台、伝教以後は、一念三千を知る者が多くいて、すべて天台大師、伝教大師の優れた智慧によってそれを理解出来たのです。

【所謂三論の嘉祥〔かじょう〕、南三北七〔なんさんほくしち〕の百余人、華厳宗の法蔵〔ほうぞう〕・清涼〔しょうりょう〕等、】
いわゆる三論の嘉祥、南三北七の百余人の僧、華厳宗の法蔵、清涼。

【法相宗の玄奘三蔵〔げんじょうさんぞう〕・慈恩〔じおん〕大師等、真言宗の善無畏〔ぜんむい〕三蔵・金剛智〔こんごうち〕三蔵・】
法相宗の玄奘三蔵、慈恩大師。真言宗の善無畏三蔵、金剛智三蔵、

【不空〔ふくう〕三蔵等、律宗の道宣〔どうせん〕等初めには反逆を存し、後には一向に帰伏〔きぶく〕せしなり。】
不空三蔵。律宗の道宣など、はじめは、これに反逆したものの、最終的には、ことごとく天台に従わざるを得なかったのです。

第15章 所受の本尊の徳用を明かす

【但し初めの大難を遮〔しゃ〕せば、無量義経に云はく】
さて話を先ほどの大きな難題に戻せば、無量義経には、このように説かれています。

【「譬〔たと〕へば国王と夫人〔ぶにん〕と新〔あら〕たに王子を生ぜん。】
「あるところで国王とその夫人の間にひとりの王子が生まれました。

【若〔も〕しは一日若しは二日若しは七日に至り、若しは一月若しは二月若しは七月に至り、若しは一歳若しは二歳若しは七歳に至り、】
そして一日、二日そして七日と日が経ち、また、ひと月ふた月そして七ケ月と経って、さらに王子は、一歳、二歳そして七歳となりました。

【復〔また〕国事を領理〔りょうり〕すること能〔あた〕はずと雖も、】
まだ、幼いので一国の政治を行う事は、出来ませんでしたが、

【已〔すで〕に臣民に宗敬〔そうきょう〕せられ諸の大王の子を以〔もっ〕て伴侶と為〔せ〕ん。】
それでも、すでに多くの人々から王子として敬われて、他国の王子からも認められるようになりました。

【王及び夫人の愛心偏〔ひとえ〕に重くして常に与〔く〕みし共〔とも〕に語らん。】
父である国王やその婦人も、この王子の成長を最重要なことと考えて、常にこの王子の事を語り合ったのです。

【所以〔ゆえん〕は何〔いかん〕、稚小〔ちしょう〕なるを以ての故にといはんが如く、】
それは、なぜかと言うと、未だ、この王子は幼く、国王自らが守らなければならなかったからなのです。

【善男子是〔こ〕の持経者も亦復〔またまた〕是くの如し。】
紳士諸君、この法華経を信じ持〔たも〕つ者も、またこれと同じなのです。

【諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子〔みこ〕を生ず、】
国王である仏とその婦人である法華経が一緒になって、この王子である菩薩が生れたのです。

【若〔も〕し菩薩是の経を聞くことを得て、若しは一句若しは一偈、若しは一転若しは二転、若しは十若しは百、】
もし、この菩薩が法華経を聞いて、この法華経の一句でも一偈でも、一人にでも、二人にでも、あるいは、十人にでも、百人にでも、

【若しは千若しは万、若しは億万恒河沙〔ごうがしゃ〕無量無数転せば、】
千人にであっても、万人にであっても、または、数えられないほどの多くの人々にでも、教えていけば、

【復真理の極〔ごく〕を体すること能〔あた〕はずと雖も、】
末だ真理の極地を身に体する事は、出来なくても、

【乃至已〔すで〕に一切の四衆八部に宗〔たっと〕み仰〔あお〕がれ、諸の大菩薩を以て眷属と為〔せ〕ん、】
すでに、すべての仏教者から、尊ばれ、仰ぎ見られる大菩薩であって、

【乃至常に諸仏に護念せられ慈愛偏〔ひとえ〕に覆〔おお〕はれん。】
常に仏に心をかけられる存在であり、慈愛をもってその成長を見守られる事でしょう。

【新学〔しんがく〕なるを以ての故に」等云云。】
それは、この人がまだ仏法を学んで新しいからなのです。」とこのように譬えられています。

【普賢経に云はく「此の大乗経典は諸仏の宝蔵十方三世の諸仏の眼目〔がんもく〕なり、】
普賢経には「この大乗経典は、諸仏の宝の蔵であり、三世十方の諸仏の眼目であるのです。

【乃至三世の諸〔もろもろ〕の如来を出生する種〔たね〕なり、】
現在、過去、未来の三世の諸仏は、この大乗経典によって生まれたのです。

【乃至汝大乗を行じて仏種〔ぶっしゅ〕を断ぜざれ」等云云。】
あなたは、この大乗経典を修行して、仏になる原因を失くしてしまわないようにしなければなりません。」と説かれています。

【又云はく「此の方等経は是諸仏の眼〔まなこ〕なり、諸仏是〔これ〕に因〔よ〕って五眼〔ごげん〕を具することを得〔う〕、】
また「この法華経は諸仏の眼目である。諸仏はこの法華経を原因として肉眼の上に天眼、慧眼、法眼、仏眼の五眼を具える事が出来たのです。

【仏の三種の身は方等より生ず、是大法印にして涅槃海〔ねはんかい〕に印〔いん〕す。】
仏の報身、応身、法身の三身は、法華経により生れるのであり、この法華経こそ、すべての根本の原因であり、生死の海を渡る道しるべなのです。

【此くの如き海中能〔よ〕く三種の仏の清浄の身を生ず。】
このように法華経によって生死の海の中でこそ、三身如来の清浄な身体が生じるのです。

【此の三種の身は人天〔にんでん〕の福田〔ふくでん〕なり」等云云。】
この報身、応身、法身の三種類の身体こそ、人界や天界の良質の田であるのです。」と説かれています。

【夫〔それ〕以〔おもんみ〕れば、釈迦如来の一代、顕密・大小の二教、】
考えてみると、釈迦如来の一代の説法の中には、顕教もあり、密教もあり、さらに大乗教もあり、小乗教もあります。

【華厳・真言等の諸宗の依経、往〔ゆ〕いて之を勘〔かんが〕ふるに、】
その中には、華厳宗、真言宗などの諸宗派の拠りどころとなる教えもあり、これらを考えて見ると、

【或は十方台葉〔だいよう〕の毘盧遮那〔びるしゃな〕仏、大集雲集〔だいしゅううんじゅう〕の諸仏如来、】
有る時は、十方蓮華台の上の毘盧遮那仏を華厳経で説き、大集教には、諸仏如来が雲のように集まったと説き、

【般若染浄〔ぜんじょう〕の千仏示現〔じげん〕、大日、金剛頂等の千二百尊、】
般若経には、染浄の千仏が示し現れたと説き、大日経や金剛頂などの経には千二百余尊などを説いて、

【但其の近因近果〔ごんいんごんが〕を演説して其の遠〔おん〕の因果を顕はさず、】
ただ、その身近な原因と結果を説いているだけで、末だに久遠の本当の原因と結果を説き顕わしてはいません。

【速疾頓成〔そくしつとんじょう〕之〔これ〕を説けども三・五の遠化〔おんけ〕を亡失〔もうしつ〕し、】
その中で即身成仏である速疾頓上を説いているとは言っても、三千塵点劫、五百塵点劫の久遠の過去を忘れて

【化導の始終〔しじゅう〕跡を削りて見えず。】
真実の成仏の原因となる修行は、まったくわからないのです。

【華厳経・大日経等は一往之を見るに別円四蔵〔しぞう〕等に似たれども、】
華厳経、大日経などを見ると一見すると天台の化法の四教の中の円教、別教に似て成仏が出来る教えのようであっても、

【再往之を勘ふれば蔵通二教に同じて未だ別円にも及ばず。】
結局は、蔵教、通教と同じてあって、三界、六道を対象として説いた劣った法門であり、いまだ別教、円教には遠く及ばないのです。

【本有〔ほんぬ〕の三因之無し、何を以てか仏の種子を定めん。】
もともと存在している三因仏性が説かれていないのに、どうして成仏の原因をこれだと決定する事が出来るのでしょうか。

【而〔しか〕るに新訳の訳者等漢土に来入するの日、】
それにもかかわらず、玄奘以後の新訳の翻訳者達は、中国へ仏教の経典を持ってきて翻訳する時に、

【天台の一念三千の法門を見聞して、或は自らの所持の経々に添加し、或は天竺〔てんじく〕より受持するの由之を称す。】
天台の一念三千の法門を見聞して、自分の持ってきた経文に盗み入れてインドの経文の原本に一念三千の法門があると主張したのです。

【天台の学者等或は自宗に同ずるを悦び、或は遠きを貴びて近きを蔑〔あなず〕り、】
天台の学者は、他宗でも天台と同じように一念三千を説くのを喜び、他宗派を尊び、自らの天台宗を蔑んで、

【或は旧〔く〕を捨てヽ新を取り、魔心〔ましん〕・愚心〔ぐしん〕出来す。】
それなのに天台の説いた法門を捨てて、これらの新訳の教義を信じて、魔の通力によって愚かな虚栄心が出来し、仏教を破壊したのです。

【然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ざれば、】
しかし、結局のところ、それらは仏になる為のほんとうの原因である一念三千ではないので、

【有情〔うじょう〕の成仏・木画〔もくえ〕二像の本尊は有名無実〔うみょうむじつ〕なり。】
有情の成仏も木像、画像の本尊もまったくの有名無実であって、それになんの意味も利益もなかったのです。

第16章 受持即観心を明かす

【問うて曰く、上〔かみ〕の大難未〔いま〕だ其の会通を聞かず如何。】
それでは、質問しますが、先ほどの大きな難題について、未だにその答えがさっぱり理解出来なのですが、これは、どういう事なのでしょう。

【答へて曰く、無量義経に云はく「未だ六波羅蜜〔ろくはらみつ〕を修行することを得ずと雖も】
それに答えると、無量義経には「未だ、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の修行を完成しなくても、

【六波羅蜜自然〔じねん〕に在前〔ざいげん〕す」等云云。】
この法華経を受持する功徳によって、これらの六つの波羅蜜は自然に具わるのである。」と説かれています。

【法華経に云はく「具足の道を聞かんと欲〔ほっ〕す」等云云。】
法華経方便品には「仏界が凡夫に具わるという仏法の修行を教えてもらおうと思う。」と説かれています。

【涅槃経に云はく「薩〔さ〕とは具足に名づく」等云云。】
また、涅槃経には「薩とは、妙であり、それは十界がお互いに具足するという意味なのです。」と説かれています。

【竜樹菩薩の云はく「薩とは六なり」等云云。】
竜樹菩薩は「薩とは、妙であり、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の修行を完成するという六度万行の事である。」と言われています。

【無依無得〔むえむとく〕大乗四論玄義記に云はく「沙〔さ〕とは訳〔やく〕して六と云ふ、】
無依無得大乗四論玄義記には「沙とは、妙であり、六と訳す、

【胡〔こ〕の法には六を以て具足の義と為すなり」と。】
インドでは六を持って六度万行を具足するという意義である。」と書かれています。

【吉蔵〔きちぞう〕の疏〔しょ〕に云はく「沙とは翻〔ほん〕じて具足と為す」と。】
吉蔵の法華経疏には「沙とは、翻訳すると具足と言う意味である。」と書かれています。

【天台大師の云はく「薩とは梵語〔ぼんご〕なり此には妙と翻ず」等云云。】
天台大師は「沙とは梵語であり中国語に訳すれば妙という意味である。」と言われています

【私に会通〔えつう〕を加へば本文を黷〔けが〕すが如し、】
これらの文章の意味を勝手に解説する事は、かえって引用した文章の意義を穢〔けが〕す事になるのを恐れるのですが、

【爾〔しか〕りと雖も文の心は、】
それでも、この文章の心を解説すると、

【釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。】
釈迦の成仏した原因である修行と結果である功徳の二つの法は、すべて妙法蓮華経の五字に具わっていると言う事なのです。

【我等此の五字を受持すれば自然〔じねん〕に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。】
私達がこの五字を受持さえすれば、自然に、この因果の功徳が譲り与えられるのです。

【四大声聞の領解〔りょうげ】に云はく「無上宝聚〔むじょうほうじゅ〕、不求自得〔ふぐじとく〕」云云。】
法華経信解品で四大声聞が「無上の宝聚を求めずして自ら得たり」と言っていますが、

【我等が己心の声聞界なり。】
これは、私達、己心の声聞界がこの事を理解して喜んでいる姿なのです。

【「我が如く等しくして異〔こと〕なること無し、】
方便品には「法華経を説いて、すべての衆生に即身成仏の大法を与え、仏と衆生が等しく異なる事がなくなった。

【我が昔の所願〔しょがん〕の如き今は已〔すで〕に満足しぬ。一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」と。】
これによって全ての衆生を救うという仏の誓願が今ここで完了し、全ての衆生を皆仏道に入らしめる事が出来たのである。」と説かれています。

【妙覚の釈尊は我等が血肉〔けつにく〕なり、因果の功徳は骨髄〔こつずい〕に非ずや。】
妙覚の釈尊は、私達の血肉であり、因果の功徳は骨髄であるのです。

【宝塔品に云はく「其れ能く此の経法を譲ること有らん者は、則ち為〔こ〕れ我及び多宝を供養するなり。】
宝塔品には「よくこの法華経を護る事が出来る者は、釈迦如来と多宝如来に供養する者であり、

【乃至亦復諸〔もろもろ〕の来たりたまへる化仏の諸の世界を荘厳〔しょうごん〕し光飾〔こうじき〕したまふ者を供養するなり」等云云。】
また、三世諸仏の住んでいる世界を荘厳し光飾している者を供養しているのです。

【釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界なり、】
このように釈迦、多宝、すべての分身仏は、すべて久遠元初無作三身如来である日蓮の仏界であり、

【其の跡を継紹して其の功徳を受得す。】
その後を継いで、このような末法の法華経の行者としての姿を現しているのです。

【「須臾〔しゅゆ〕も之を聞かば、】
同じく宝塔品に「少しの間でもこれを聞く者は、

【即ち阿耨多羅三藐三菩提〔あのくたらさんみゃくさんぼだい〕を究竟〔くきょう〕するを得〔う〕」とは是なり。】
すでに最高の悟りを得て、その身のままで仏であるのです。」と説かれているのは、この事なのです。

【寿量品に云はく「然るに我〔われ〕実に成仏してより已来〔このかた〕、無量無辺百千万億那由佗劫〔なゆたこう〕なり」等云云。】
寿量品には「しかるに私が成仏して以来、無量無辺百千万億那由佗劫である。」と説かれています。

【我等が己心の釈尊は五百塵点〔じんでん〕乃至所顕〔しょけん〕の三身にして無始〔むし〕の古仏〔こぶつ〕なり。】
日蓮とその弟子檀那の己心の仏界は、五百塵点劫に現れた三身即一身の仏であって無始無終の古仏なのです。

【経に云はく「我本〔もと〕菩薩の道を行じて成〔じょう〕ぜし所の寿命、今猶〔なお〕未だ尽きず。】
同じく寿量品に「私がもとより菩薩の修行をして生じた寿命は、今なお尽きる事がなく、

【復〔また〕上〔かみ〕の数〔すう〕に倍〔ばい〕せり」等云云。我等が己心の菩薩等なり。】
その五百塵点劫に倍する時間なのである。」と説かれています。これは、日蓮と弟子旦那の己心の菩薩界であり、九界であるのです。

【地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり。】
さらに地涌千界の菩薩は、己心の釈尊の部下であり、

【例せば太公〔たいこう〕・周公旦〔しゅうこうたん〕等は周武〔しゅうぶ〕の臣下、成王〔せいおう〕幼稚の眷属。】
たとえば呂尚〔りょしょう〕太公望は、周の武王の家来であり、周公旦は幼い成王の宰相でした。

【武内〔たけのうち〕の大臣〔おおおみ〕は神功〔じんぐう〕皇后の棟梁〔とうりょう〕、仁徳〔にんとく〕王子の臣下なるが如し。】
武内の大臣は、神功皇后の第一の家来であり、また仁徳王子にも忠義の家来がいたようなものなのです。

【上行・無辺行・浄行・安立〔あんりゅう〕行等は我等が己心の菩薩なり。】
上行、無辺行、浄行、安立行などの地涌の大菩薩は、すべて日蓮と弟子檀那の己心の菩薩なのです。

【妙楽大師云はく「当〔まさ〕に知るべし身土は一念の三千なり。】
妙楽大師は「この事をきちんと理解しなさい。身土は、一念の三千である。

【故に成道の時、此の本理に称〔かな〕ひて一身一念法界に遍〔あまね〕し」等云云。】
それ故に仏に成る時は、この真実の理論にもとづいて、一身一念が法界と一体になるのである。」と言われているのです。


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