日蓮正宗法華講開信寺支部より

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御書研鑚の集い 三世諸仏総勘文教相廃立に学ぶ 御書研鑚資料


三世諸仏総勘文教相廃立 第3回


第17章 衆生に約して自行化他を明かす

【所詮〔しょせん〕己心〔こしん〕と仏身と一なりと観ずれば速〔すみ〕やかに仏に成るなり。】
結局、自分の心と仏身とは、一つであると知れば、速やかに仏に成るのです。

【故に弘決に又云はく「一切の諸仏、己心は仏心に異ならずと観たまふに由るが故に仏に成ることを得〔う〕」(已上)。】
このことを止観輔行伝弘には「すべての諸仏は、自分の心と仏の心は異ならないと知った故に仏に成ることが出来たのです。」と書かれているのです。

【此を観心と云ふ。実に己心と仏心と一心なりと悟れば、臨終〔りんじゅう〕を礙〔さわ〕るべき悪業〔あくごう〕も有るまじ、】
これを観心と言うのです。実に自分の心と仏の心とが一つの心であると悟れば、死に臨んで後悔すべき今生の悪業もあるはずもなく、

【生死に留まるべき妄念〔もうねん〕も有るまじ。】
生死にとどまるべき妄想の念も有るはずがないのです。

【一切の法は皆是仏法なりと知りぬれば、教訓〔きょうくん〕すべき善知識〔ぜんちしき〕も入るべからず。】
すべての法が仏法であると知れば、教訓すべき善知識も必要ないのです。

【思ひと思ひ言ひと言ひ、為すと為し儀〔ふるま〕ひと儀ふ、行住坐臥〔ぎょうじゅうざが〕の】
思うままに思い、言うままに言い、為すままに為し、振舞うままに振舞い、歩行姿勢、立ち姿、座った姿勢、横たわった姿勢の

【四威儀〔しいぎ〕の所作〔しょさ〕は皆仏の御心と和合して一体なれば、過〔とが〕も無く障〔さわ〕りも無き自在の身と成る。】
四つの威厳をもった所作は、仏の心と一緒になって一体となれば、間違いもなく障害もなく自由自在の身と成るのです。

【此を自行と云ふ。】
これを自行と言うのです。

【此くの如く自在なる自行の行を捨て、跡形〔あとかた〕も有らざる無明〔むみょう〕妄想〔もうぞう〕なる僻〔ひが〕思ひの心に住して、】
このように自由自在である自行の行いを捨てて、まったく根拠のない無明の妄想である誤った思いの心で、

【三世の諸仏の教訓に背〔そむ〕き奉れば、冥〔くらき〕より冥に入り永く仏法に背くこと悲しむべく悲しむべし。】
三世の諸仏の教訓に背くことは、暗きところより暗きところに入り、永く仏法に背いてしまうことは、まことに悲しむべきことなのです。

【只今こそ打ち返し思ひ直し悟り返さば、即身成仏は我が身の外には無しと知りぬ。】
ただ、今こそ、打ち返し、思い直し、悟り返えして、即身成仏は、我が身の外には無いと知るべきなのです。

【我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も、我等は裏に向かって我が性の理を見ず、】
私たちの心の鏡と仏の心の鏡は、ただ一つの鏡なのですが、私たちは、その鏡の裏面を見ているので自分の心性の理を見ることが出来ないのです。

【故に無明と云ふ。如来は面〔おもて〕に向かって我が性の理を見たまへり。故に明と無明とは其の体只一なり。】
故に無明と言うのです。如来は、表面に向かって自分の心性の理を見ているのです。故に明と無明とは、その体は、ただ一つなのです。

【鏡は一の鏡なりと雖も向かひ様に依りて明昧〔みょうまい〕の差別有り。】
鏡は、一つの鏡であっても、表面を見ているか裏面を見ているかで、明と無明の違いが出て来るのです。

【鏡に裏有りと雖も面の障りと成らず。只向かひ様に依りて得失の二つ有り。】
鏡に裏面が有ると言っても表面の映り方には何の問題もないのです。ただ、見ている表裏に依って違うだけなのです。

【相即〔そうそく〕融通〔ゆうずう〕して一法二義なり。】
この表裏は、お互いに融通しあって、一法が二義となるのです。

【化他の法門は鏡の裏に向かふが如く、自行の観心〔かんじん〕は鏡の面に向かふが如し。】
化他の法門は、鏡の裏面を見ているようなものであり、自行の観心は、鏡の表面を見ているようなものなのです。

【化他の時の鏡も自行の時の鏡も、我が心性〔しんしょう〕の鏡は只一にして替〔か〕はること無し。】
化他の時の鏡も自行の時の鏡も、自分の心性の鏡は、ただ一つであって変わることはないのです。

【鏡を即身に譬〔たと〕へ、面に向かふを成仏に譬へ、裏に向かふを衆生に譬へ、鏡に裏有るを性悪を断ぜざるに譬へ、】
鏡を即身にたとえ、表面を見ている場合を成仏にたとえ、裏面を見ている場合を衆生にたとえ、鏡に裏面が有る事を性悪を断じていない事にたとえ、

【裏に向かふ時面の徳無きを化他の功徳に譬ふるなり。衆生の仏性の顕はれざるに譬ふるなり。】
裏面を見ている時に、表面の徳が無い事を化他の功徳にたとえて、衆生に仏性が現れない事にたとえているのです。

第18章 自行化他の力用の優劣を示す

【自行と化他とは得失の力用〔りきゆう〕なり。】
自行と化他の違いは、結局は、得失の違いなのです。

【玄義〔げんぎ〕の一に云はく「薩婆悉達〔さるばしった〕、祖王の弓を彎〔ひ〕いて満〔みつ〕るを名づけて力〔りき〕と為〔な〕し、】
法華玄義の第一巻には「釈迦牟尼仏が、その祖父の王の強弓を満月の形に引きしぼった姿を名づけて力とし、

【七つの鉄鼓〔てっく〕を中〔やぶ〕り、一つの鉄囲山〔てっちせん〕を貫〔つらぬ〕き地を洞〔とお〕し、】
放った矢が七つの鉄製の鼓を突き破り、一つの鉄の山をつらぬき、大地を突き抜け、

【水輪に徹〔とお〕る如きを名づけて用〔ゆう〕と為す(自行の力用なり)。】
太洋を通るを名づけて用とするのです。(自行の力用である)

【諸の方便教は力用の微弱なること凡夫の弓箭〔きゅうせん〕の如し。】
方便の教えの力用が非常に弱いのは、凡夫が弓矢を引いているようなものなのです。

【何となれば昔の縁は化他の二智を稟〔う〕けて理を照すこと遍〔あまね〕からず、信を生ずること深からず、疑を除くこと尽くさず(已上化他)。】
なぜならば、昔の縁は、化他の権実の二智を受けたが、理を照す事は出来ず、信心を深める事も出来ず、疑いを晴らすことも出来なかったのです。

【今の縁は自行の二智を稟けて仏の境界を極め、法界の信を起こして円妙〔えんみょう〕の道を増し、】
今の縁は、自行の権実の二智を受けて、仏の境界を極め、法界の信心を起こして、円妙の道を増し、

【根本の惑〔わく〕を断じて変易〔へんにゃく〕の生を損〔そん〕ず。】
根本の惑いを断じて変易の生死を捨て去ることが出来るのです。

【但生身〔しょうじん〕及び生身〔しょうじん〕得忍〔とくにん〕の両種の菩薩のみ倶〔とも〕に益するのみに非ず、】
ただ生身の菩薩、そして生身得忍の菩薩の二つの種類の菩薩だけに利益するだけではなく、

【法身と法身の後心との両種の菩薩も亦以て倶に益す。】
法身の菩薩、そして法身の最上位の等覚位の菩薩との両種の菩薩を利益することが出来るのです。

【化〔け〕の功〔こう〕広大に利潤弘深〔りにんぐじん〕なる、蓋〔けだ〕し茲〔こ〕の経の力用なり(已上自行)」と。】
教化の功徳が広大であり、その利潤が広大で甚深であるのです。それがこの法華経の力用であるのです。(以上が自行の力用)」と述べられています。

【自行と化他との力用〔りきゆう〕、勝劣分明〔ふんみょう〕なること勿論なり。能く能く之を見よ。】
自行と化他との力用の優劣は、このように明らかなのです。よくよく、この法華玄義の文章を読むべきなのです。

【一代聖教を鏡に懸〔か〕けたる教相〔きょうそう〕なり。】
これこそが釈迦牟尼仏の一代聖教を鏡に映しだした教相なのです。

【極仏境界〔ごくぶつきょうがい〕とは十如是の法門なり。】
この極仏境界とは、十如是の法門のことなのです。

【十界互ひに具足〔ぐそく〕して十界十如の因果、権実の二智二境は我が身の中に有りて一人も漏るゝこと無しと】
十界が互いにそなわって十界十如の因果、権実の二智二境は、我が身の中に有って一人も漏れることが無しと

【通達〔つうだつ〕し解了〔げりょう〕して、仏語を悟〔さと〕り極〔きわ〕むるなり。】
通達し理解して、仏の言葉を悟り極める事が出来るのです。

【起法界信〔きほうかいしん〕とは十法界を体と為〔な〕し、十法界を心と為し、十法界を形と為したまへる】
法界の信を起すという意味は、十法界を身体とし、十法界を心と為し、十法界を形とする

【本覚の如来は我が身の中に有りけりと信ず。】
本覚の如来が我が身の中に有ると信じることを言うのです。

【増円妙道〔ぞうえんみょうどう〕とは自行と化他との二は相即円融〔そうそくえんゆう〕の法なれば、】
円妙の道を増しという意味は、自行と化他との二つは相即円融の法であれば、

【珠と光と宝との三徳は只一の珠の徳なるが如し。】
珠と光と宝との三つの違いは、ただ一つの珠の相違なのです。

【片時も相離れず、仏法に不足無し、一生の中に仏に成るべしと慶喜〔きょうき〕の念を増すなり。】
これらは、片時も相離れず、仏法にそなわっており、これを信じれば、一生の中に仏に成る事が出来るという喜びが増すという意味なのです。

【断根本惑〔だんこんぽんわく〕とは一念無明〔むみょう〕の眠りを覚まして本覚の寤〔うつつ〕に還〔かえ〕れば、】
根本の惑を断じという意味は、一念の無明の眠りから覚めて本覚の現実に帰れば

【生死〔しょうじ〕も涅槃〔ねはん〕も倶〔とも〕に昨日の夢の如く跡形〔あとかた〕も無きなり。】
生と死も涅槃も、ともに昨日の夢のように跡形も無くなるという意味なのです。

【損変易生〔そんへんにゃくしょう〕とは同居土〔どうごど〕の極楽と方便土の極楽と】
変易の生を損ずという意味の、その変易の生とは、仏法を志す六道が住む凡聖同居土の極楽と二乗が住む方便有余土の極楽と

【実報土〔じっぽうど〕の極楽との三土に往生〔おうじょう〕する人、彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間、】
菩薩が住む実報無障礙土の極楽の三つの国土に生まれたそれぞれの衆生がそれぞれの国土で菩薩の道を修行して仏に成ろうと思っている間のことであり、

【因は移り果は易〔か〕はりて次第に進み昇り、劫数を経〔へ〕て成仏の遠きを待つを変易〔へんにゃく〕の生死と云ふなり。】
因は、移り、果は、変わって、次第に修行の位が進み、劫数を経ながら、遠く成仏が出来る時を待っているのを変易の生死と言うのです。

【下位を捨つるを死と云ひ、上位に進むを生と云ふ。】
その変易の生死の中の生死とは、下位を捨てる事を死と言い、上位に進む事を生と言うのです。

【是くの如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり。】
このように変易する生死は、極楽である浄土における苦悩であるのです。

【爰〔ここ〕に凡夫の我等が此の穢土に於て法華を修行すれば、十界互具、法界一如〔いちにょ〕なれば浄土の菩薩の変易の生は損じ、】
ここに凡夫の私たちが、この穢土において法華経を修行すれば、十界互具、法界一如であるから、浄土の菩薩の変易の生の意味はなくなり、

【仏道の行は増して、変易の生死を一生の中に促〔つづ〕めて仏道を成ず。】
仏道の修行は、一挙に進んで変易の生死を一生の中の事に縮めてしまい、一生の中で仏道を成じてしまうのです。

【故に生身〔しょうじん〕及び生身得忍〔しょうじんとくにん〕の両種の菩薩、増道損生〔ぞうどうそんしょう〕するなり。】
それ故に未だ煩悩を断じていない生身の菩薩も煩悩を断じ尽くした生身得忍の菩薩も、ともに仏道修行の利益を増し変易の生死を損ずるのです。

【法身の菩薩とは生身を捨てゝ実報土に居するなり。後心〔ごしん〕の菩薩とは等覚〔とうがく〕の菩薩なり。】
法身の菩薩とは、煩悩を断じ尽くして実報無障礙土に住んでいるのです。後心の菩薩とは、仏の覚りと等しい位の菩薩のことです。

【但し迹門には生身及び生身得忍の菩薩を利益するなり。本門には法身と後身との菩薩を利益す。】
ただし、法華経迹門では、生身及び生身得忍の菩薩を利益するのです。法華経本門では、法身の菩薩と後身の菩薩に利益するのです。

【但し今は迹門を開して本門に摂〔おさ〕めて一の妙法と成す。】
しかし、末法である現在は、迹門を開いて本門の中に納めて一つの妙法とするのです。

【故に凡夫の我等穢土〔えど〕の修行の行の力を以て浄土の十地・等覚の菩薩を利益する行なるが故に、化の功広大なり(化他徳用)。】
それ故に凡夫である私たちが穢土での修行の力用で、浄土の十地、等覚の菩薩を利益するので、化他の功徳は広大なのです。(化他徳用)

【利潤弘深〔りにんぐじん〕とは(自行徳用)、円頓〔えんどん〕の行者は自行と化他と一法をも漏〔も〕らさず一念に具足して、】
利潤弘深という意味は、自行の徳用の事なのです。円頓の行者は、自行と化他との一法をも漏〔も〕らさず一念に具足して、

【横に十方法界に遍〔へん〕するが故に弘なり。竪〔たて〕には三世に亘〔わた〕って法性の淵底〔えんでい〕を極むるが故に深なり。】
横には、十方法界に遍満〔へんまん〕する故に弘というのです。縦には、三世に渡って法性の淵底を極める故に深と言うのです。

【此の経の自行の力用此くの如し。化他の諸経は自行を具せざれば鳥の片翼〔へんよく〕を以て空を飛ばざるが如し。】
この経の自行の力用は、このようなものなのです。化他の諸経は、自行が備えなければ、鳥が片翼では、空を飛べないのと同じなのです。

【故に成仏の人も無し。】
そうであるから、成仏する人もいないのです。

【今の法華経は自行・化他の二行を開会して不足無きが故に、鳥の二翼〔によく〕を以て飛ぶに障〔さわ〕り無きが如く成仏滯〔とどこお〕り無し。】
現在の法華経は、自行化他の二行を開会して両方を備えているので、鳥が左右の二翼で空を飛べるように成仏もまったく問題がないのです。

【薬王品には十喩〔ゆ〕を以て自行と化他との力用の勝劣を判ぜり。】
法華経の薬王品には、十の譬喩によって自行と化他の力用の優劣を説いています。

【第一の譬〔たと〕へに云はく「諸経は諸水の如し、法華は大海の如し」云云取意。】
その第一番目の譬喩では「諸経は、川のようなもので、法華経は、大海のようなものなのです。」と説かれています。

【実に自行の法華経の大海には化他の諸経の衆水〔しゅすい〕を入ること昼夜に絶えず。入ると雖も増せず減ぜず。】
自行の法華経の大海に化他の諸経の川の水が昼夜に渡って流れるこむのです。それでも、増えもせず減りもしないのです。

【不可思議の徳用を顕はす。諸経の衆水は片時〔かたとき〕の程も法華経の大海を納〔い〕ること無し。】
このように不思議な事が起こるのです。しかし、逆に諸経の川の水が、ひと時であっても法華経の大海を納めてしまう事はないのです。

【自行と化他との勝劣是くの如し。一を以て諸を例せよ。上来の譬喩〔ひゆ〕は皆仏の所説なり。】
自行と化他の優劣は、このようなものであるのです。この一例をもって信じなさい。この譬喩は、すべて仏の説いた教えなのです。

【人の語を入れず。此の旨を意得〔こころう〕れば一代聖教は鏡に懸〔か〕けて陰〔くも〕り無し。】
世間の人々の言葉を入れずに、この主旨を心得れば一代聖教の優劣は、まったく曇りがない鏡のように明らかなのです。

【此の文釈を見て誰の人か迷惑せんや。】
この経文や解釈を読んで誰がこの優劣に迷い惑うことがあるでしょうか。

【三世の諸仏の総勘文〔そうかんもん〕なり、敢〔あ〕へて人の会釈〔えしゃく〕を引き入るべからず。】
三世の諸仏の総勘文であり、あえて世間の人々の解釈を加えるべきではないのです。

【三世諸仏の出世の本懐〔ほんがい〕なり。一切衆生成仏の直道〔じきどう〕なり。】
三世諸仏の出世の本懐であり、一切衆生の成仏の直道なのです。

第19章 仏説に背く諸宗を破折

【四十二年の化他の経を以て立つる所の宗々は、華厳〔けごん〕・真言〔しんごん〕・達磨〔だるま〕・浄土〔じょうど〕・法相〔ほっそう〕・】
法華経以前の四十二年間に説かれた化他の経文によって、成立している諸宗派とは、華厳宗、真言宗、禅宗、浄土宗、法相宗、

【三論〔さんろん〕、律宗〔りつしゅう〕・倶舎〔くしゃ〕・成実〔じょうじつ〕等の諸宗なり。】
三論宗、律宗、倶舎宗、成実宗などです。

【此等は皆悉〔ことごと〕く法華より已前の八教の中の教なり。皆是方便なり。】
これらは、すべて天台大師が仏教を八つの教えに分類した中の法華経以前の教えであり、すべて方便の教えなのです。

【兼〔けん〕・但〔たん〕・対〔たい〕・帯〔たい〕の方便誘引なり。】
法華経に誘導する為の方便である、兼ねて説いた教え、ただ一分の真理を説いた教え、相対した論理を説いた教え、他の経に付帯した教えなのです。

【三世諸仏説教の次第なり。此の次第を糾〔ただ〕して法門を談ず。若し次第に違はゞ仏法に非ざるなり。】
これは、三世諸仏の説教の順番であるのです。この順序の通りに法門を話していき、もし、この順番と違っていれば、それは仏法ではないのです。

【一代教主の釈迦如来も三世諸仏の説教の次第を糾して一字も違へず、我も亦是くの如しとて、】
一代教主の釈迦牟尼仏も三世諸仏の説教の順番通りに一字も違えず、自らも三世諸仏と同じようにすと、

【経に云はく「三世諸仏の説法の儀式の如く、我も今亦是くの如く無分別〔むふんべつ〕の法を説く」(已上)。】
法華経方便品に「三世諸仏の説法の儀式と同じように、私も、今、このように無分別の法を説く」と説かれているのです。

【若し之に違へば永く三世の諸仏の本意に背く。】
もし、これ違えれば、三世諸仏の本意に背くことになるのです。

【他宗の祖師各我が宗を立て、法華宗と諍〔あらそ〕ふこと□〔あやま〕りの中の□〔あやま〕り、迷ひの中の迷ひなり。】
他宗の祖師たちが各々、自分の宗派立てて、法華宗と争う事は、誤りの中の誤りであり、迷いの中の迷いなのです。

【徴他学〔ちょうたがく〕の決〔けつ〕に之〔これ〕を破して云はく(山王院)】
比叡山の山王院に住んだ智証大師円珍が弟子に与えた授決集の第52条の他学を懲らしめる決定に、これを破折して、

【「凡そ八万法蔵の其の行相を統〔す〕ぶるに四教を出でず。】
「およそ八万法蔵のその修行の内容をまとめてみても天台大師の言われた四教を出ることはないのです。

【頭辺〔はじめ〕に示すが如く、蔵通別円は即ち声聞〔しょうもん〕・縁覚〔えんがく〕・菩薩〔ぼさつ〕・仏乗〔ぶつじょう〕なり。】
はじめに示すように蔵教、通教、別教、円教は、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗、仏乗なのです。

【真言・禅門〔ぜんもん〕・華厳・三論・唯識〔ゆいしき〕・律業〔りつごう〕・成倶〔じょうく〕の二論等の能と所と教と理と】
真言宗、禅宗、華厳宗、三論宗、唯識をとく法相宗、律宗、能教と所理の二論を説く成実宗、倶舎宗と言っても

【争〔いか〕でか此の四を過ぎん。若し過ぎると言はゞ豈〔あに〕外邪〔げじゃ〕に非ずや。】
どうして、この蔵教、通教、別教、円教の四つの教えを超える事が出来るでしょうか。もし、出来るとすれば、それは外道の邪宗ではないでしょうか。

【若し出でずと言はゞ便〔すなわ〕ち他の所期〔しょご〕を問ひ得よ(即四乗の果なり)。】
もし、超えていないと言うのであれば、その目的である声聞乗、縁覚乗、菩薩乗、仏乗を問い尋ねるべきなのです。

【然して後に答へに随って推徴〔すいちょう〕して理を極はめよ。】
その返答によって、その宗派の論理をきわめて、その間違いを問いただすべきなのです。

【我が四教の行相〔ぎょうそう〕を以て並べ検〔かんが〕へて彼の所期の果を決定せよ。】
そして天台大師の蔵教、通教、別教、円教の四つの教えの修行の内容によって検討し、その修行の結果を決定しなければならない。

【若し我と違はゞ随って即ち之を詰めよ。】
もし、天台大師と違っていれば、その違いによって、その結果の相違を問い詰めるべきなのです。

【且〔しばら〕く華厳の如きは、五教に各々に修因向果〔しゅいんこうか〕有り。】
その中で華厳宗は、釈迦牟尼仏の一代聖教を五教に分けて、各々に原因となる修行によって結果が有ると教えているので、

【初中後の行一ならず。】
初めと中頃と最後の原因となる修行が同じではない。

【一教一果是所期〔しょご〕なるべし。若し蔵通別円の因と果とに非ざれば是仏教ならざるのみ。】
なぜならば一つの教えで一つの結果を目的としているからです。それらが、もし、蔵、通、別、円の原因と結果でなければ仏教とは言えないのです。

【三種の法輪〔ほうりん〕、三時の教等中〔なか〕に就て定むべし。】
三論宗では、三種の法輪でもって釈迦牟尼仏の一代聖教を判別し、法相宗では、三時の教判を立てているが、それによって間違いを正すべきなのです。

【汝〔なんじ〕何者を以て所期の乗と為すや。】
そして法相宗では、いずれの乗をもって目的とするかを問いただすべきなのです。

【若し仏乗なりと言はゞ未だ成仏の観行を見ず。】
もし、仏乗であると言うのであれば、未だ成仏の観心の修行を説いていないではないかと問い詰めるべきなのです。

【若し菩薩なりと言はゞ此亦即離〔そくり〕の中道の異あるなり。汝正しく何れを取るや。】
もし、菩薩乗であると言えば、中道と言っても即と離の異なりがあり、法相宗では、いずれを取るのかと質問し、

【設〔も〕し離の辺を取らば果として成ずべき無し。】
もし離の中道を取れば、結果として菩薩乗を成ずことはないと言うべきであり、

【如〔も〕し即是を要とせば仏に例して之を難ぜよ。】
もし、即の中道と言えば、仏乗と同じように、これを否定すべきなのです。

【謬〔あやま〕って真言を誦〔じゅ〕すとも、三観一心の妙趣〔みょうしゅ〕を会〔え〕せずんば、恐らくは別人に同じて妙理を証せじ。】
もし、間違って真言を唱えても、三観一心の妙法の主旨に合わなければ、結局は、別教を修行する人と同じで妙理を証得する事は出来ないのです。

【所以〔ゆえ〕に他の所期の極〔ごく〕に逐〔したが〕ひて理に準じて(我が宗の理なり)徴〔せ〕むべし。】
ゆえに他宗の目的とする極理を追求して妙理に照らし合わせて(日蓮大聖人の理)それを破折すべきなのです。

【因明〔いんみょう〕の道理は外道と対す。多くは小乗及び別教に在り。】
仏教の論理である因明の道理は、外道に対して説かれたものであり、その多くは、小乗教や別教にそれが説かれているのです。

【若し法華・華厳・涅槃等の経に望むれば接引門〔しょういんもん〕なり。】
法華経、華厳経、涅槃経など経文に対して、それらは、外道を法華経に導く為の法門なのです。

【権〔かり〕に機に対して設〔もう〕けたり。終に以て引進〔いんしん〕するなり。】
仮に衆生の機根に合わせて設けられた方便の教えなのです。ついには、正法に引き入れる為のものなのです。

【邪小〔じょしょう〕の徒〔と〕をして会して真理に至らしむるなり。】
そうやって邪宗である外道、小乗教の信徒に真理を教える為のものなのです。

【所以に論ずる時は四依撃目〔きゃくもく〕の志を存して之を執著すること莫〔なか〕れ。】
そうであるから、仏教を論じる時は、四依の目的とする内容を理解して、この教え、そのものに執著することがあってはならない。

【又須〔すべから〕く他の義を将〔も〕って自義に対検して随って是非を決すべし。】
すべからく他宗の教義と自分の教義を比較検討して、その結果によって正邪を決定するべきなのです。

【執して之を怨〔あだ〕むこと莫れ】
自分の意見に固執して、他宗を恨んではならない。

【(大底他は多く三教に在り円旨至って少なきのみ)」と。】
(他宗の教義は、大概、三教に属し、円教の妙旨は、極めて少ないのである)」と書かれているのです。

【先徳〔せんとく〕大師の所判〔しょはん〕是くの如し。】
比叡山第5代座主、智証円珍大師の仏教に対する判定は、このようなものなのです。

【諸宗の所立〔しょりゅう〕鏡に懸〔か〕けて陰〔くも〕り無し。末代の学者何ぞ之を見ずして妄〔みだ〕りに教門を判ぜんや。】
諸宗派の教義は、このように曇りのない鏡のように明白であり、末代の学者は、どうして、これを知らずに勝手に教門を判断してよいのでしょうか。

第20章 経の勝劣に迷う愚を戒める

【大綱〔だいこう〕の三教を能く能く学すべし。】
釈迦牟尼仏の一代聖教を理解するには、大綱である三つの教えを、よくよく学ばなければならないのです。

【頓〔とん〕と漸〔ぜん〕と円〔えん〕とは三教なり。是一代聖教の総の三諦なり。】
この大綱である三つの教えとは、頓教と漸教と円教の三教です。この三教を一代聖教の総の三諦と言うのです。

【頓・漸の二は四十二年の説なり。円教の一は八箇年の説なり。合して五十年なり。】
頓教と漸教の二つは、法華経以前の四十二年の説法であり、円教は、法華経の八年間の説法なのです。合わせて釈迦牟尼仏の五十年の説法なのです。

【此の外に法無し。何に由ってか之に迷はん。】
この外に法は無く、どうして、これに迷うことがあろうか。

【衆生に有る時には此を三諦〔たい〕と云ひ、仏果を成ずる時には此を三身〔じん〕と云ふ。一物の異名なり。】
衆生で有る時は、これを三諦と言い、仏果を成ずる時には、これを三身と言うのです。

【之を説き顕はすを一代聖教と云ふ。之を開会〔かいえ〕して只一の総の三諦と成す時に成仏す。此を開会と云ひ此を自行と云ふ。】
これを説き顕わしたものを一代聖教と言い、これをまとめて、ただ一つの総の三諦と成す時に成仏するのです。これを、まとめて自行と言うのです。

【又他宗所立の宗々は此の総の三諦を分別して八と為す。】
また、他宗派の立てている教義は、この総の三諦をばらばらにして、その為に八宗派になってしまっているので、

【各々に宗を立つるに依って、円満の理を欠〔か〕いて成仏の理無し。是の故に余宗には実の仏無きなり。】
その宗派の立てている教義は完全な論理ではなく、成仏する理由がないのです。これでは、他宗派では実際に成仏など有り得ないのです。

【故に之を嫌〔きら〕ふ意〔こころ〕は不足なりと嫌ふなり。】
それゆえに、これらの宗派を忌み嫌うのですが、その主旨は、道理として完全ではないという意味なのです。

【円教を取って一切の諸法を観ずれば、円融〔えんゆう〕円満〔えんまん〕して十五夜の月の如く、不足無く満足し究竟〔くきょう〕すれば】
円教である法華経によって、すべての法を観察すると、まんまるで十五夜の満月のように完全な円形であれば、それに究竟すれば、

【善悪をも嫌はず、折節〔おりふし〕をも撰〔えら〕ばず、静処〔じょうしょ〕をも求めず、人品〔じんぴん〕をも択〔えら〕ばず。】
善であっても悪であっても、時代を選ぶこともなく、良い場所を求めることもなく、人柄の良し悪しを考える事もなく、

【一切の諸法は皆是仏法なりと知れば諸法を通達す。即ち非道を行ずとも仏道を成ずるが故なり。】
すべての法は、みんな仏法であると理解すれば、諸法を理解できるのです。要するに、たとえ非道であっても仏道を成じる事が出来るのです。

【天地水火風は是五智の如来なり。】
天空、地面、水火、風力は、そのものが真言密教で説くところの五智の如来の姿なのです。

【一切衆生の身心の中に住在〔じゅうざい〕して片時〔かたとき〕も離るゝこと無きが故に、】
これが、すべての衆生の心の中に存在し、片時も離れる事が無いので、

【世間と出世と和合して心中に有って、心外〔しんげ〕には全く別の法無きなり。】
周りの環境である外界と自分の仏法への求道心が、そのまま心の中に有って、その信心と外界には、それ以外にまったく、法はないのです。

【故に之を聞く時、立ち所に速〔すみ〕やかに仏果を成ずること滯〔とどこお〕り無き道理至極なり。】
そうであるので、これを聞く時に瞬時に仏果を成じることは間違いないのです。これこそ究極の道理であるのです。

【総〔そう〕の三諦〔さんたい〕とは譬〔たと〕へば珠〔たま〕と光と宝との如し。】
総の三諦とは、たとえるならば珠と光と宝のようなものなのです。

【此の三徳有るに由って如意宝珠〔にょいほうじゅ〕と云ふ。故に総の三諦に譬ふ。】
この三通りの利益があるので、これを如意宝珠と言うのです。だからこそ総の三諦にたとえる事が出来るのです。

【若し亦珠の三徳を別々に取り放さば何の用にも叶ふべからず。隔別〔きゃくべつ〕の方便教の宗々も亦是くの如し。】
もし、珠の三つの利益が別々であるならば、何の意味があるのでしょうか。隔別の方便の教えである各宗派も、このようなものなのです。

【珠を法身に譬へ、光を報身に譬へ、宝を応身に譬ふ。】
つまり、この珠を法身にたとえ、光を報身にたとえ、宝を応身にたとえるのです。

【此の総の三徳を分別して宗を立つるを不足と嫌ふなり。之を丸めて一と為すを総の三諦と云ふ。】
この総の三徳を別々にして宗派を立てるので完全ではないと嫌っているのです。これらを、すべて一つにする事を総の三諦と言うのです。

【此の総の三諦は三身即一の本覚の如来なり。】
この総の三諦こそ、三身即一の本覚の如来なのです。

【又寂光〔じゃっこう〕をば鏡に譬へ、同居〔どうこ〕と方便と実報〔じっぽう〕の三土をば鏡に遷〔うつ〕る像〔かたち〕に譬ふ。】
また、寂光を鏡にたとえ、同居と方便と実報の三土を鏡にうつる映像にたとえているのです。

【四土も一土なり。三身も一仏なり。】
法華経では、この四つ国土も一つの国土であり、三身も一仏なのです。

【今は此の三身と四土と和合して仏の一体の徳なるを寂光の仏と云ふ。】
末法の現在においては、この三身と四土を合わせて、仏の究極の覚りとし、それを寂光の仏と言うのです。

【寂光の仏を以て円教の仏と為〔な〕し、円教の仏を以て、寤〔うつつ〕の実仏と為す。】
そして法華経においては、寂光の仏を円教の仏とし、円教の仏を現実の真実の仏とするのです。

【余の三土の仏は夢中の権仏〔ごんぶつ〕なり。】
その他の三つの国土の仏は、すべて夢の中の仮の仏であるのです。

【此は三世の諸仏の只同じ語に勘文〔かんもん〕し給へる総の教相なれば、人の語も入らず、会釈〔えしゃく〕も有らず。】
この三世諸仏は、まったく同じ言葉で、勘文した総の教相であれば、勝手に人の言葉を付け加える事も出来ず、その解釈も必要ないのです。

【若し之に違はゞ三世の諸仏に背〔そむ〕き奉る大罪人なり、天魔〔てんま〕外道〔げどう〕なり。】
もし、これを護らなければ、三世諸仏に背く大罪人であり、天魔外道の行いなのです。

【永く仏法に背くが故に。之を秘蔵して他人には見せざれ。】
これらの人々は、永久に仏法に背く故に、これを秘蔵して他人には見せてはならないのです。

【若し秘蔵せずして妄〔みだ〕りに之を披露〔ひろう〕せば、仏法に証理〔しょうり〕無くして二世に冥加〔みょうが〕無からん。】
もし、秘蔵せずに、みだりに、これを披露すれば、仏法に証拠となる論理がなくなってしまい、現在と未来において諸天の加護は、なくなるでしょう。

【謗〔ぼう〕ずる人出来せば三世の諸仏に背くが故に、】
万が一にも、これを見せて誹謗する人が出れば、三世の諸仏に背く故に、

【二人乍〔なが〕ら倶〔とも〕に悪道に堕〔お〕ちんと識〔し〕るが故に之を誡〔いまし〕むるなり。】
これを見せた人も誹謗した人も、ともに悪道に堕ちると知っているので、このように厳しく戒〔いまし〕めているのです。

【能く能く秘蔵して深く此の理を証し、三世の諸仏の御本意に相叶ひ、二聖・二天・十羅刹〔らせつ〕の擁護〔おうご〕を蒙〔こうむ〕り、】
よくよく秘蔵して深くこの論理を証得し、三世の諸仏の本意にかない、薬王と勇施菩薩、毘沙門と持国天、十人の羅刹(鬼神)女の支援を受けて、

【滞り無く上々品の寂光の往生を遂〔と〕げ、須臾〔しゅゆ〕の間に九界生死の夢の中に還〔かえ〕り来〔き〕たって、身を十方法界の国土に遍し、】
たちどころに上々品の寂光の往生をとげ、瞬く間に九界生死の夢の中に帰って来て、身体を十方法界の国土に行き渡らせて、

【心を一切有情〔うじょう〕の身中に入れて、内よりは勧発〔かんぼつ〕し、外よりは引導〔いんどう〕し、内外相応し、】
信心する思いを、すべての有情の身体の中に入れ、仏法を教え、正法へ案内し、内外相応し、

【因縁和合して自在神通の慈悲の力を施〔ほどこ〕し、広く衆生を利益すること滞り有るべからず。】
因縁和合して自由自在の神通の慈悲の力を施し、広く衆生を利益して滞ることがないのです。

第21章 一大事因縁を説いて勧誡

【三世の諸仏は此を一大事の因縁と思〔おぼ〕し食〔め〕して世間に出現し給へり。】
三世の諸仏は、これを仏の一大事の因縁と思い定めて、これを教える為に世間に出現したのです。

【一とは(中道なり法華なり)、大とは(空諦なり華厳なり)、事とは(仮諦なり阿含と方等と般若となり)。】
一とは、中道であり法華であり、大とは、空諦であり華厳であり、事とは、仮諦であり、阿含と方等と般若なのです。

【已上一代の総の三諦なり。之を悟り知る時仏果を成ずるが故に、出世の本懐成仏の直道〔じきどう〕なり。】
これが釈迦牟尼仏一代聖教の総の三諦なのです。これを悟り知る時、仏果を成ずるが故に、出世の本懐、成仏の直道となるのです。

【因とは一切衆生の身中に総の三諦有りて常住〔じょうじゅう〕不変〔ふへん〕なり。此を総じて因と云ふなり。】
因縁の因とは、すべての衆生の身体の中に総の三諦があって、常住不変である。これを総じて因と言うのです。

【縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値はざれば、悟らず知らず顕はれず。】
因縁の縁とは、三因仏性があっても善知識の縁に合わなければ、悟ることは出来ず、知る事すら出来ず、まして実際に現れないのです。

【善知識の縁に値へば必ず顕はるゝが故に縁と云ふなり。】
善知識の縁に合えば、必ず現れるゆえに縁と言うのです。

【然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して、値ひ難き善知識の縁に値ひて】
末法である、現在、この一と大と事と因と縁との五事が和合して、会い難き善知識の縁に会って

【五仏性を顕はさんこと、何の滞〔とどこお〕りか有らんや。】
天台が説いた正因仏性、了因仏性、縁因仏性、果性仏性、果果性仏性の五仏性が現れる事は間違いないのです。

【春の時来たりて風雨の縁に値ひぬれば、無心の草木も皆悉〔ことごと〕く萠〔も〕え出で、】
春が来て雨が降れば、それが縁となって、心が無いはずの草木も、生えて来ます。

【華を生じて敷〔さ〕き栄へて世に値ふ気色〔けしき〕なり。】
また、花が咲き、世間の景色は、花で美しく彩られます。

【秋の時に至りて月光の縁に値ひぬれば、草木皆悉く実〔み〕成熟して一切の有情を養育し、寿命を続きて長養し、】
また秋になり、月の光に合えば、それが縁となって草木すべてに果実が熟して、すべての有情を養い、生物の寿命が続いて繁栄し、

【終に成仏の徳用〔とくゆう〕を顕はす。之を疑ひ之を信ぜざる人有るべきや。】
最終的には、人々を自然に成仏を促すことになるのです。このことを、疑って信じない人がいるでしょうか。

【無心の草木すら猶〔なお〕以て是くの如し、何に況〔いわ〕んや人倫〔じんりん〕に於てをや。】
心が無い草木ですら、このようであるので、人間に生まれては、当然のことではないでしょうか。

【我等は凡夫なりと迷ふと雖も一分の心も有り解〔げ〕も有り、善悪を分別し折節〔おりふし〕を思ひ知る。】
私たちが凡夫であり、そのことで迷うとは言っても、少しでも信心があり、理解する力もあり、善悪を考え、適切な時期もわかるものです。

【然るに宿縁に催〔もよお〕されて生を仏法流布の国土に受けたり。】
しかも宿縁によって仏法の流布する国土に生を受けたのです。

【善知識の縁に値〔あ〕ひなば、因果を分別して、成仏すべき身なるを以て善知識〔ぜんちしき〕に値ふと雖も、】
善知識の因縁に会えさえすれば、その因果を理解して成仏すべき身であるのに、その善知識に会っても、

【猶草木にも劣りて身中の三因仏性を顕はさずして黙止〔もだ〕せる謂〔いわ〕れ有るべきや。】
なお、草木にも劣り、身体の中の三因仏性を顕わさずに、黙止していると言うのは、どういうことなのでしょう。

【此の度必ず必ず生死の夢を覚まし、本覚の寤〔うつつ〕に還〔かえ〕って生死の紲〔きずな〕を切るべし。】
この度は、必ず、必ず、生死の夢を覚まして、本覚の現実に帰って、生死のきずなを切るべきなのです。

【今より已後は夢中の法門を心に懸〔か〕くべからざるなり。】
今より以後は、夢の中の法門を心に思い描くことがあってはなりません。

【三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し、障〔さわ〕り無く開悟〔かいご〕すべし。】
三世諸仏と一心に心を合わせて妙法蓮華経を修行し、いかなる障害も乗り越えて仏界を開き悟るべきなのです。

【自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰〔くも〕り無し。】
自行と化他との二教の差別は、まったく曇りのない鏡のように明らかなのです。

【三世諸仏の勘文〔かんもん〕是くの如し。秘すべし秘すべし。】
三世諸仏の勘文は、このようであり、秘して、いかなくてはならないのです。

【弘安二年己卯十月 日蓮花押】
弘安2年(西暦1279年)10月 日蓮花押


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