日蓮正宗法華講開信寺支部より

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御書研鑚の集い 2019年3月10日


第38回 真言七重難 研鑚資料

真言見聞(御書608頁)

本抄は、文永九年(西暦1272年)七月、聖寿五十一歳の時に、佐渡の一谷〔いちのさわ〕において三位房日行に与えられた御書とされています。
御真蹟は現存しませんが、民部日向の著とされる「金綱集」の「真言見聞集」に三分割されて収録されています。
大聖人様は、佐渡以後の文永11年頃より天台密教の破折を始められましたが、本抄はそれ以前の佐渡在島中に書かれたため、真言に対する破折ではありますが、まだ天台宗に密教をに対する破折はありません。
この真言見聞の中の「真言七重難」として ①大日如来は架空の仏である②陀羅尼蔵を弘法は、勝手に「我が真言」と言っている③法華経は、諸仏の説の中で最第一であるのにその諸仏の中に大日如来は入っていないのか④法華経方便品の五仏章ですべての仏が法華経を第一と説いている⑤法華経は、諸経の本義であって三世にわたって不変の真実である⑥法華経より優れていると書かれた経文はない⑦一念三千の法門は天台の法門であり、これがなければ性悪の義もなく、性悪の義がなければ真言の法義は外道の法に同ずることを上げられています。
最後に、涅槃経や大智度論等を引かれ、世に二仏がなく、国に二主がないことを述べられて、本抄を結ばれています。


(御書615頁より)

【真言七重難。】
真言宗には、七つの重大な疑いがある。

[一]

【一、真言は法華経より外に大日如来の所説なり云云。】
一つ、真言は、釈迦牟尼仏が説かれた法華経ではなく、大日如来が説かれた説である。

【若し爾れば大日の出世・成道・説法・利生〔りしょう〕は釈尊より前か後か、如何〔いかん〕。】
もし、そうであれば、大日如来が生まれたのは、いつかあるか、仏になったのは、いつであるか、最初に説法をしたのは、いつであるか、衆生に利益を与えたのは、釈迦牟尼仏の前か後ろなのか。

【対機〔たいき〕説法〔せっぽう〕の仏は八相作仏〔はっそうさぶつ〕す。】
衆生の機根に合わせて説法をする仏は、成道も含めて一生の間にこの世に産まれて来るなどの八種類の別々の姿を顕すのです。

【父母は誰れぞ。】
そうであるならば、大日如来の父母は、誰なのか。

【名字は如何。】
名前は、何と言うのか。

【娑婆世界〔しゃばせかい〕の仏と云はば、世に二仏無く国に二主無きは聖教の通判〔つうはん〕なり。】
この世界の仏といえば二人といないのは、国に王が二人いないように、あたり前の事なのです。

【涅槃経の三十五の巻を見るべきなり。】
涅槃経の三十五の巻を見てみなさい。

【若し他土〔たど〕の仏なりと云はば、何ぞ我が主師親の釈尊を蔑〔ないがしろ〕にして他方疎縁〔たほうそえん〕の仏を崇むるや。】
もし、大日如来が他の土地の仏であると言うのであれば、我が主人であり、師匠であり、父親である釈迦牟尼仏をないがしろにして、どうしてまったく関係ない大日如来を敬うのですか。

【不忠なり、不孝なり、逆路〔ぎゃくろ〕伽耶陀〔かやだ〕なり。】
それは、釈迦牟尼仏に対して不忠であり、不孝であり、社会を乱す外道の集団の伽耶陀と同じではないですか。

【若し一体といはば何ぞ別仏と云ふや。】
もし、それを同じ仏だというのなら、なぜ別の仏だというのか。

【若し別仏ならば、何ぞ我が重恩の仏を捨つるや。】
もし別の仏であるならば、なぜ自分にとって大恩が有る釈迦牟尼仏を捨てるのか。

【唐尭〔とうぎょう〕は老ひ衰へたる母を敬ひ、虞舜〔ぐしゅん〕は頑〔かたく〕ななる父を崇む[是一]。】
唐尭という人は、老いたる母を敬い、虞舜という人は、頑固な父を崇めたのである。

[二]

【六波羅蜜経に云はく、「所謂〔いわゆる〕過去無量ゴウ伽沙〔ごうかしゃ〕の諸仏世尊の所説の正法、】
六波羅蜜経には、「いわゆる過去からの無数の数多くの仏の説かれた正法を

【我今亦当〔またまさ〕に是くの如き説を作すべし。】
私は、今まさに、同じように説法をしようとしている。

【所謂八万四千の諸の妙法蘊〔うん〕、而〔しか〕も阿難陀〔あなんだ〕等の諸大弟子をして】
いわゆる、八万四千の多くの優れた経文を阿難たち大弟子に対して、

【一たび耳に聞いて皆悉〔ことごとく〕く憶持〔おくじ〕せしむ」云云。】
一度聞けば、そのすべてをことごとく心に留めて忘れる事がないようにするのである」と言われています。

【此の中の陀羅尼蔵〔だらにぞう〕を弘法我が真言と云へる。】
この中の陀羅尼蔵を弘法大師は、勝手に自分が作った真言であると言っている。

【若し爾れば此の陀羅尼蔵は釈迦の説に非ざるか。】
もし、そうであるならば、陀羅尼蔵は、釈迦牟尼仏の説ではないのか。

【此の説に違す[是二]。】
この説は、間違っています。

[三]

【凡〔およ〕そ法華経は無量千万億の已説今説当説〔いせつこんせつとうせつ〕に最も第一なり。】
およそ法華経は、莫大な数の已〔すで〕に説き、今〔いま〕説き、当〔まさ〕に説く法の中で最高のものなのです。

【諸仏の所説・菩薩の所説・声聞の所説に此の経第一なり。】
諸仏の説法、菩薩の説法、声聞の説法の中でこの法華経が第一なのです。

【諸仏の中に大日漏〔も〕る可きや。】
その諸仏の中に大日如来が漏れているのでしょうか。

【法華経は正直無上道〔しょうじきむじょうどう〕の説、大日等の諸仏長舌〔ちょうぜつ〕を梵天〔ぼんてん〕に付けて真実と示し給ふ。[是三]。】
法華経は、最高の説であり、大日如来などの諸仏が頷き合って、これは、まったくの真実であると証明されたのです。

[四]

【威儀形色経〔いぎぎょうしききょう〕に「身相黄金色にして常に満月輪に遊び定慧智拳〔じょうえちけん〕の印法華経を証誠〔しょうじょう〕す」と。】
威儀形色経には、「その姿は、黄金色にして常に月暈(げつうん)に遊び、大日如来の印は、法華経を真実と証明している。」と書いてあります。

【又五仏章の仏も法華経第一と見えたり[是四]。】
また法華経方便品の五仏章である、過去仏、未来仏、現在仏、十方のすべての仏、釈迦仏などの仏達もすべて法華経が第一であると言っております。

[五]

【「要を以て之を云はば如来の一切所有〔しょう〕の法、乃至皆此の経に於て宣示顕説〔せんじけんぜつ〕す」云云。】
「ようを持ってこれを言えば、如来の全ての法は、すべてこの法華経によって説明がつくのです。」と言われています。

【此等の経文は釈迦所説の諸経の中に第一なるのみに非ず、三世の諸仏の所説の中に第一なり。】】
これらの経文は、釈迦牟尼仏の説法の第一であるだけではなく、過去、現在、未来の説法の中の第一なのです。

【此の外一仏二仏の所説の経の中に、法華経に勝れたる経有りと云はば用ふべからず。】
この外に一人や二人の仏だけが説法の中で法華経に勝る経文が有るなどと言うとは、とても思えません。

【法華経は三世不壊〔さんぜふえ〕の経なる故なり[是五]。】
法華経は、過去、現在、未来において絶対に変わる事がない真実の教えであるからなのです。

[六]

【又大日経等の諸経の中に法華経に勝るる経文之無し[是六]。】
また大日経などの多くの経文の中に法華経に勝るような経文などどこにもないのです。

[七]

【釈尊御入滅より已後〔いご〕、天竺〔てんじく〕の論師二十四人の付法蔵〔ふほうぞう〕、其の外大権の垂迹、震旦〔しんたん〕の人師、南三北七の十師、三論法相〔さんろんほっそう〕の先師の中に、天台宗より外に十界互具百界千如一念三千と談ずる人之無し。】
釈迦牟尼仏が亡くなって以後、インドの付嘱を受けた馬鳴、竜樹などの24人の論師、その外、仏菩薩が生まれ変わって現れた導師、また中国の人師、中国の南部の三師と北部の七師の十師、日本の南都六宗の三論宗・法相宗の先師のなかで天台宗より外に十界互具、百界千如、一念三千を話題にした人はいないのです。

【若し一念三千を立てざれば性悪〔しょうあく〕の義之無し。】
もし一念三千を立てなければ、仏菩薩に本来の性分として悪をそなえる意義はありません。

【性悪の義無くば仏菩薩の普現色身〔ふげんしきしん〕、】
この性悪の意義がなければ仏菩薩が衆生を救うために相手に応じて種々の姿を表わしたり、

【真言両界の漫荼羅〔まんだら〕、五百七百の諸尊は、本無今有〔ほんむこんぬ〕の外道の法に同ぜんか。】
真言の金剛界、胎蔵界の両界漫荼羅における五百、七百の諸尊は、原因がないのに現在があるという矛盾した外道の法と同ではありませんか。

【若し十界互具百界千如を立てば、本経何れの経にか十界皆成〔かいじょう〕の旨之を説けるや。】
もし真言宗が十界互具、百界千如を立てているのであれば、真言の三部経のどの経に十界がすべて成仏すると書いてあるのでしょうか。

【天台円宗〔てんだいえんしゅう〕見聞〔けんもん〕の後、邪智荘厳の為に盗み取れる法門なり。】
天台円宗を見聞きして後に邪智によって自らを飾る為に盗み取ったものが真言宗の一念三千の法門なのではありませんか。

【才芸〔さいげい〕を誦〔じゅ〕し浮言を吐〔は〕くには依る可からず。】
才知を誇り芸を頼りに人を欺〔あざむ〕き、無責任な言葉が広まっているのに、それをよりどころにしてはなりません。

【正しき経文金言を尋ぬべきなり[是七]。】
正しい経文と仏の真実の言葉を尋ねるべきでしょう。

【涅槃経の三十五に云はく】
涅槃経の三十五の巻には、このように書いてあります。

【「我処処の経の中に於て説いて言はく、一人出世すれば多人利益す。】
「私の数々の経文の中にこのように説いております。一人の仏が世に出れば、それだけで多くの人を助ける事が出来る。

【一国土の中に二の転輪王〔てんりんおう〕あり。一世界の中に二仏出世すといはば是の処〔ことわり〕有ること無し」文、】
一つの国土に二人の優れた王がいて、一つの世界に二人の仏が世に出るのであれば、この論理が合わなくなる。」と。

【大論の九に云はく】
大論の九にこう言われています。

【「十方恒河沙〔ごうがしゃ〕の三千大千世界を名づけて一仏世界と為す。】
「すべての大きな川の砂の数の銀河系を名づけて一人の仏が生まれ出る世界とする。

【是の中に更に余仏〔よぶつ〕無し。】
この中に他に別の仏などいない。

【実には一〔ひとり〕の釈迦牟尼仏〔しゃかむにぶつ〕なり」文。】
正しくは、一人、釈迦牟尼仏のみである」と。

【記の一に云はく「世には二仏無く国には二主無し。一仏の境界には二の尊号無し」文。】
記の一には、「世に二人の仏はいない。国に二人の王はいない。一人の仏の境界には二つの尊号はない。」と書いてあります。

【持地論〔じじろん〕に云はく「世に二仏無く国に二主無し。一仏の境界に二の尊号無し」文。】
持地論には、「世に二人の仏はいない。国に二人の王はいない。一人の仏の境界には二つの尊号はない。」と書いてあります。

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