日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


法華取要抄 4 第三章 教主釈尊は妙覚果満の仏


【今法華経と諸経とを相対するに一代に】
今、法華経と諸経とを比較すると、法華経が釈尊一代の他の諸経よりも、

【超過〔ちょうか〕すること廿種之有り。】
はるかに優れているところが二十箇所あります。

【其の中最要二有り。】
その中でも最も優れているところが二つあるのです。

【所謂〔いわゆる〕三・五の二法なり。】
それは、三千塵点劫と五百塵点劫の二つの法門です。

【三とは三千塵点劫〔じんてんごう〕なり。】
三とは、三千塵点劫であり、

【諸経は或は釈尊の因位〔いんい〕を明かすこと、】
諸経では、釈尊の因位の修行について、

【或は三祇〔さんぎ〕、或は動踰塵劫〔どうゆじんこう〕、或は無量劫なり。】
あるいは、三阿僧祇、あるいは、動逾塵劫、あるいは、無量劫と明かしています。

【梵王〔ぼんのう〕の云はく、此の土〔ど〕には廿九劫より】
つまり、大梵天王が「二十九劫以前から自分がこの娑婆世界を

【已来〔このかた〕知行の主なり。第六天・帝釈・四天王等も以て是くの如し。】
支配する主であり、第六天の魔王も帝釈天も四天王等もまた同様である」と言い、

【釈尊と梵王等と始めて知行の先後之を諍論〔じょうろん〕す。】
釈尊と大梵天王などが、初めて支配の後、先を論争したのです。

【爾りと雖も一指を挙げて之を降伏してより已来、】
しかし、釈尊が一指を挙げて大梵天王を降伏させてから以後は、

【梵天頭〔こうべ〕を傾け魔王掌〔たなごころ〕を合はせ】
大梵天王は、頭を下げて、第六天の魔王は、合掌して、

【三界の衆生をして釈尊に帰伏せしむる是なり。】
三界の衆生を釈尊に帰伏させたのです。

【又諸仏の因位と釈尊の因位と之を糾明〔きゅうめい〕するに、】
また、諸仏の因位と釈尊の因位を調べてみると、

【諸仏の因位は或は三祇或は五劫〔ごこう〕等なり。】
諸仏の因位は、あるいは三阿僧祇劫、あるいは五阿僧祇なのです。

【釈尊の因位は既に三千塵点劫より已来】
これに対して釈尊の因位は、既に三千塵点劫の過去より、

【娑婆世界の一切衆生の結縁〔けちえん〕の大士なり。】
娑婆世界のあらゆる衆生に仏縁を結んで来た大菩薩なのです。

【此の世界の六道の一切衆生は他土の他の菩薩に有縁の者一人も之無し。】
この娑婆世界の六道の一切衆生で他の仏土の菩薩に縁がある者は一人もいない。

【法華経に云はく「爾の時の聞法の者、】
法華経の化城瑜品には「一六人の沙弥による大通覆講の時に法を聞いた者は、

【各諸仏の所に在り」等云云。】
現在、各の有縁の仏のもとにいる」とあり、

【天台云はく「西方は仏別〔べつ〕に縁異〔こと〕なり、】
天台大師は、法華文句に「西方浄土は、仏が別であり、縁が異なる。

【故に子父の義成ぜず」等云云。】
故に仏と弟子の関係は、成り立たない」と云い、

【妙楽云はく「弥陀〔みだ〕・釈迦〔しゃか〕二仏既に殊〔こと〕なる○】
妙楽大師は、法華文句記で「阿弥陀と釈迦は、別々の仏である。

【況んや宿昔〔むかし〕の縁別にして化道同じからざるをや。】
まして三千塵点劫の過去における衆生との縁も異なり、化導も同じではない。

【結縁〔けちえん〕は生の如く成就は養の如し、】
結縁とは、出生のような事であり、成就とは、育成のようなものなので、

【生養〔しょうよう〕縁〔えん〕異〔こと〕なれば】
出生と育成では、縁が異なっており、

【父子成ぜず」等云云。】
仏と弟子の関係は成り立たない」と述べています。

【当世〔とうせい〕日本国の一切衆生の弥陀の来迎〔らいごう〕を待つは、】
現在の日本国のすべての人々にとって、阿弥陀の来迎を待つのは、

【譬へば牛の子に馬の乳を含〔ふく〕め】
例えば、牛の子に馬の乳を飲ませ、

【瓦〔かわら〕の鏡に天の月を浮かぶるが如し。】
瓦の鏡に空の月を映そうとするようなものなのです。

【又果位を以て之を論ずれば、】
また、果位の位を以って、諸仏と釈迦牟尼仏の優劣を論ずると、

【諸仏如来は或は十劫百劫千劫已来の過去の仏なり。】
諸経に説かれた諸仏は、十劫、百劫、千劫と云う過去に仏果を得た仏なのです。

【教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり。】
それに対して教主釈尊は、既に五百塵点劫の過去より妙覚果満の仏なのです。

【大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は、】
大日如来、阿弥陀如来、薬師如来などの十方世界すべての諸仏は、

【我等が本師教主釈尊の所従等なり。】
我等の本師である教主釈尊のかつての弟子であるのです。

【天月の万水に浮かぶ是なり。】
空の月があらゆる水面に影を浮かべるようなものなのです。

【華厳経の十方台上の毘盧遮那〔びるしゃな〕、大日経・】
華厳経に説かれている十方台の上に座った毘盧遮那仏や大日経、

【金剛頂経〔こんごうちょうきょう〕の両界〔りょうかい〕の大日如来は、】
金剛頂経に説かれている両界の大日如来は、

【宝塔品の多宝如来の左右の脇士なり。】
法華経見宝塔品第十一に説かれている多宝如来の左右の脇士なのです。

【例せば世の王の両臣の如し。】
例えば、世間で云うところの王の左右の臣下のようなものなのです。

【此の多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり。】
この多宝仏も、また寿量品の教主釈尊のかつての弟子なのです。

【此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来教主釈尊の愛子なり。】
この娑婆世界の衆生は、五百塵点劫の昔から教主釈尊の慈愛する弟子なのです。

【不孝の失〔とが〕に依って今に覚知せずと雖〔いえど〕も】
不孝の罪によって今は、仏と弟子の関係を理解出来ないでいるけれども、

【他方の衆生には似るべからず。】
釈尊との関係は、私たち娑婆世界の者と他の国土の衆生とでは、全く違うのです。

【有縁の仏と結縁の衆生とは】
有縁の仏と結縁の衆生との関係は、

【天月の清水に浮かぶが如し。】
たとえば、空の月が清水に、その影を浮かべるようなものであり、

【無縁の仏と衆生とは譬へば聾者〔ろうしゃ〕の雷の声を聞き】
また、無縁の仏と衆生との関係は、耳の聞こえない者が雷の音を聞こうとしたり、

【盲者〔もうしゃ〕の日月に向〔む〕かふが如し。】
目の見えない者が日月に向かっているようなものなのです。

【而るに或る人師は釈尊を下〔くだ〕して大日如来を仰崇〔ぎょうすう〕し、】
しかるに、ある祖師は、釈尊を卑しめて大日如来を仰いで崇拝し、

【或る人師は世尊は無縁なり阿弥陀は有縁なりと。】
ある祖師は、釈尊とは、無縁であり、阿弥陀如来とは、有縁であるとしており、

【或る人師の云はく、小乗の釈尊と、】
また、ある祖師は「選びとるべき最尊の仏は、小乗教の釈尊である」と云い、

【或は華厳経の釈尊と、】
また、ある祖師は「華厳経の釈尊である」と云い、

【或は法華経迹門の釈尊と、】
また、ある祖師は「法華経迹門の釈尊である」と云っているのです。

【此等の諸師並びに檀那等釈尊を忘れて諸仏を取ることは、】
これらの諸師、並びに檀那などが、釈尊を忘れて諸仏を取ることは、

【例せば阿闍世〔あじゃせ〕太子の頻婆沙羅〔びんばしゃら〕王〔おう〕を殺し、】
たとえば、阿闍世が父である頻婆沙羅王を殺し、

【釈尊に背〔そむ〕いて提婆達多〔だいばだった〕に付きしが如きなり。】
釈尊に背いて、提婆達多に付き従うようなものなのです。

【二月十五日は釈尊御入滅の日、】
二月十五日は、釈尊の御入滅の日であり、

【乃至十二月十五日も三界の慈父の御遠忌〔ごおんき〕なり。】
したがって毎月の十五日も、三界の衆生にとって恩がある釈尊の御遠忌なのです。

【善導〔ぜんどう〕・法然〔ほうねん〕・永観〔ようかん〕等の】
それなのに現在の人々は、善導、法然、永観と云った

【提婆達多に誑〔たぶら〕かされて阿弥陀仏の日と定め了〔おわ〕んぬ。】
提婆達多のような邪師に騙されて、阿弥陀仏の日と定めてしまっているのです。

【四月八日は世尊御誕生の日なり、薬師仏に取り了んぬ。】
また、四月八日は、釈尊の誕生日であるのに、薬師如来の日としているのです。

【我が慈父の忌日を仏他に替へるは孝養の者なるか如何。】
恩がある釈尊の忌日を他仏の日にすりかえる者が、孝行の者と云えるでしょうか。

【寿量品に云はく「我も亦為れ世の父、】
法華経寿量品に「寿量品の教主釈尊も、また世の衆生の父である。

【狂子〔おうし〕を治〔じ〕せんが為の故に」等云云。】
本心を失った子を治す為のゆえんである」と説かれています。

【天台大師の云はく「本此の仏に従って初めて道心を発こす、】
天台大師は、法華玄義で「本来、この仏によって初めて仏道を求める心を起こした。

【亦此の仏に従って不退の地に住す。】
また、この仏によって不退転の地に住むことが出来たのです。

【乃至猶〔なお〕百川〔ひゃくせん〕の海に潮すべきが如く、縁に牽〔ひ〕かれて】
まるで、すべての川の水が必ず海に流れ込むように、衆生は、仏縁に導かれて、

【応生すること亦〔また〕復〔また〕是〔か〕くの如し」等云云。】
有縁の仏の出現した世界に生まれてくるのです」と述べられています。


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