日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


唱法華題目抄 3 第二章 五十展転一念随喜


【又仰せに付いて驚き覚〔おぼ〕え侍り。】
また、あなたの言われている事に驚きました。

【其の故は法華経は末代の凡夫の機に叶〔かな〕ひ難き由を】
それは、法華経は、難信難解であり末法の凡夫の理解力には適さないと、

【智者申されしかば、さか〔左歟〕と思ひ侍る処に、】
念仏の智者が云っておられたので、そうかと思っていたのですが、

【只今の仰せの如くならば、】
ただ今、あなたが言われた通りであるならば、

【弥陀の名号を唱ふとも法華経をいゐうとむるとが〔失〕によりて】
阿弥陀仏の名前を唱えても法華経を嫌う謗法の罪によって、

【往生をも遂げざる上、悪道に堕つべきよし承るは、ゆゝしき大事にこそ侍れ。】
往生出来ないばかりか悪道に堕ちてしまえば、まったく意味がないではないですか。

【抑〔そもそも〕大通結縁の者は謗法の故に六道に回〔めぐ〕るも】
そもそもの問題は、大通結縁の者が謗法の為に六道に輪廻すると云っても、

【又名字即〔みょうじそく〕の浅位の者なり。】
それは、六即の名字即と云う下から二番目の低い位の者であると云う事であり、

【又一念随喜五十展転〔てんでん〕の者も又名字観行即の位と申す釈は】
一念随喜五十展転の者が名字即、観行即の低い位で者であると云う解釈は、

【何れの処に候やらん、委〔くわ〕しく承り候はゞや。】
いったい何処に書かれているのかを詳しく教えて欲しいものです。

【又義理をも知らざる者の僅〔わず〕かに法華経を信じ侍〔はべ〕るが、】
また、法華経の道理も知らないでいる者が、わずかに法華経を信じて、

【悪知識の教によて法華経を捨て権教に移るより外の、】
悪知識の教えによって法華経を捨てて権教に移らない限り、

【世間の悪業に引かれては悪道に堕つべからざる由申さるゝは証拠あるか。】
世間の悪業によって三悪道に堕ちる事がないと云う証拠が何処にあるのでしょうか。

【又無智の者の念仏申して往生すると何に見えてあるやらんと】
さらに無知の者が念仏を唱えて往生すると何処の経文に説かれているかなどと、

【申し給ふこそよ〔世〕に事あたらしく侍れ。】
尋ねられる事こそ、世間では有り得ない当然の事ではないでしょうか。

【双観経〔そうかんぎょう〕等の浄土の三部経・善導〔ぜんどう〕和尚等の経釈に】
双観経の浄土三部経や善導和尚などの経文の解釈に、

【明らかに見えて侍らん上は、なにとか疑ひ給ふべき。】
明らかに説かれているからには、何をそんなに疑われているのでしょうか。

【答へて曰く、大通結縁の者を】
それらの疑問について答えるとすると、大通智勝仏に結縁した者を、

【退大〔たいだい〕取小〔しゅしょう〕の謗法、】
大乗を退転して小乗を取った謗法の者であり、

【名字即の者と申すは私の義にあらず。】
名字即と云う低い位であると云う主張は、私が勝手に言った事ではありません。

【天台大師の文句〔もんぐ〕第三の巻に云はく】
天台大師は、法華文句第三巻で、

【「法を聞いて未だ度せず、】
「大通智勝仏の十六人の王子が話した法を聞いても、未だ理解する事が出来ず、

【而して世々に相値ひて】
その後、生まれる毎に仏法の師匠に会いながら、

【今に声聞地に住する者有り。】
釈迦在世になっても、まだ声聞の位にいる者がおり、

【即ち彼の時の結縁の衆なり」と釈し給ひて侍るを、】
これらは、大通結縁の者である」と述べているのです。

【妙楽大師の疏記〔しょき〕第三に、重ねて此の釈の心を述べ給ひて云はく】
妙楽大師は、この天台大師の解釈の本意について疏記の第三で、

【「但し未だ品に入らず倶〔とも〕に】
「末だ六即の三番目の観行即の中の五品に入っていないのです。

【結縁と名づくるが故に」文。】
いずれも結縁衆と名付ける故である」と述べています。

【文の心は大通結縁の者は名字即の者となり。】
これらの文章の意味は、大通結縁の者は、名字即の者であると云う事なのです。

【又天台大師の玄義〔げんぎ〕の第六に大通結縁の者を釈して云はく】
また、天台大師は、法華玄義の第六で大通結縁の者について、

【「若しは信若しは謗、】
「信じた者も謗じた者も共に悟りを得た。

【因〔よ〕って倒れ因って起く。】
それは、地面に倒れた者が、その地面から起き上がるようなものであり、

【喜根を謗ずと雖も】
勝意比丘が喜根菩薩を謗〔そし〕ったけれども、

【後要〔かなら〕ず度を得るが如し」文。】
後で必ず度脱したようなものである」と述べています。

【文の心は大通結縁の者の三千塵点を経るは】
この文章の意味は、大通結縁の者が三千塵点を経たと云うのは、

【謗法の者なり。例せば勝意〔しょうい〕比丘〔びく〕が】
謗法の者の事であり、例えば勝意比丘が

【喜根〔きこん〕菩薩を謗ぜしが如しと釈す。】
喜根菩薩を謗〔そし〕った事と同じであると云う意味なのです。

【五十展転の人は五品の初めの初随喜〔しょずいき〕の位と申す釈もあり。】
五十展転の人は、五品の初めの初随喜の位であると述べている解釈もあるし、

【又初随喜の位の先の名字即〔みょうじそく〕と申す釈もあり。】
また、初随喜の位の前の名字即であると云う解釈もあります。

【疏記第十に云はく「初めに法会にして聞く、】
法華文句記の第十には「五十展転で初めて法華経の会座において、

【是れ初品なるべし。】
法華経を聞いた人の位は、五品の初めの初随喜品であり、

【第五十人は必ず随喜の位の初めに在る人なり」文。】
五十人目の人は、必ず随喜品の前の位の人である」と述べているのです。

【文の心は初会聞法〔もんぽう〕の人は必ず初随喜の位の内、】
この文章の意味は、最初に法界で法華経を聞いた人は、必ず初随喜の位の内で、

【第五十人は初随喜の位の先の名字即と申す釈なり。】
第五十人は、初随喜の位の前の名字即であると云う解釈なのです。

【其の上五種法師にも】
その上、天台大師は、法華経法師品の五種法師について法華文句で五種修行の中の、

【受持・読・誦・書写の四人は自行の人、】
「受持」、「読」、「誦」、「書写」の四人は、自行の人、

【大経の九人の先の四人は解無き者なり。】
涅槃経に九品の位を立てている内、前半の四品の人であり、

【解説〔げせつ〕は化他、】
五種法師の中の「解説」の人は、化他の人、涅槃経の九品の位の内、

【後の五人は解有る人と証し給へり。】
後半の五品の人は、「解」のある人である事を明らかにしています。

【疏記第十に五種法師を釈するには「或は全く未だ品に入らず」と。】
妙楽大師は、法華文句記の第十で「五種法師は、全く未だ観行五品に入っていない」

【又云はく「一向未だ凡位に入らず」文。】
あるいは「五種法師は、一向に未だ凡位には入っていない」と述べています。

【文の心は五種法師は観行五品と釈すれども、】
この文章の意味は、五種法師を観行五品と解釈していますが、

【又五品已前の名字即の位とも釈するなり。】
また、観行五品の前の名字即の位であるとも解釈しているのです。

【此等の釈の如くんば】
これらの解釈の通りであるならば、

【義理を知らざる名字即の凡夫が随喜等の功徳も、】
法華経の教義や論理を知らない名字即の位の凡夫が法華経で随喜する功徳も、

【経文の一偈〔げ〕一句〔く〕一念随喜の者、】
法華経の経文の一偈、一句を聞いて一念随喜する者や、

【五十展転等の内に入るかと覚え候。】
五十展転の人などの功徳の内に入ると思われるのです。

【何〔いか〕に況〔いわ〕んや此の経を信ぜざる謗法の者の罪業は】
まして、法華経を信じない謗法の者の罪業は、

【譬喩品に委〔くわ〕しくとかれたり。】
譬喩品に詳しく説かれている通りなのです。

【持経者を謗ずる罪は法師〔ほっし〕品にとかれたり。】
また、法華経の持経者を誹謗する罪は、法師品に説かれているのです。

【此の経を信ずる者の功徳は分別〔ふんべつ〕功徳品・随喜功徳品に説けり。】
更に法華経を信じる者の功徳は、分別功徳品、随喜功徳品に説かれています。

【謗法と申すは違背〔いはい〕の義なり。】
謗法と云うのは、正法に違背するという意味であり、

【随喜と申すは随順の義なり。】
随喜と云うのは、正法に随い順ずるという意味であり、

【させる義理を知らざれども、】
法華経の教理が、それほど分からなくても、

【一念も貴き由申すは違背・随順の中には】
法華経が貴い事を少しでも言う事は、違背と随順の中では、

【何〔いず〕れにか取られ候べき。】
どちらと捉えるべきなのでしょうか。

【又末代無智の者のわづかの供養随喜の功徳は】
また、末法において無智な者が、わずかに供養して随喜する功徳は、

【経文には載〔の〕せられざるか如何。】
経文で説かれていないと云う事でしょうか。

【其の上天台・妙楽の釈の心は、】
その上、天台大師、妙楽大師の注釈の心と云うのは、

【他の人師ありて法華経の乃至童子戯〔どうじげ〕・一偈一句・】
他の人師がいて法華経方便品の乃至童子戯の文字の一偈一句を

【五十展転の者を、爾前の諸経のごとく】
五十展転する者を爾前経の諸経のように、

【上聖〔じょうしょう〕の行儀と釈せられたるをば謗法の者と定め給へり。】
特別に偉い人の行為と解釈したならば、それを謗法の者と定めたのです。

【然るに我が釈を作る時、】
しかしながら、念仏の諸師が、法華経を解釈する時に、

【機を高く取りて】
これらの者の理解力を無理に高くして、法華経は、末法の衆生に適さないと云って、

【末代造悪の凡夫を迷はし】
過去に悪業を重ねて理解力が極めて低い末法の凡夫を迷わしているのは、

【給はんは自語相違にあらずや。】
末法の凡夫を救うと主張している事と矛盾しているのではないでしょうか。

【故に妙楽大師、五十展転〔てんでん〕の人を釈して云はく】
それ故に妙楽大師は、五十展転の人を釈して、

【「恐らくは人謬〔あやま〕りて解せる者初心の功徳の大なることを】
「恐れるべきは、法華経を誤って理解した人が、法華経の初心の功徳の大きい事を、

【測〔はか〕らず、而して功を上位に推〔ゆず〕りて】
理解出来ずに法華経の功徳は、理解力が上位の者の為にあるとして、

【此の初心を蔑〔あなど〕る故に、今彼の行浅く功深きことを示して】
この初心の者を侮る事である。五十展転の者の修行が浅くても功徳が深い事を示し、

【以て経力を顕はす」文。】
これによって法華経の力の絶大である事を顕したのである」と述べているのです。

【文の心は謬って法華経を説かん人の、此の経は利智精進】
文章の意味は、法華経を誤って説く人が、法華経は、智慧に優れ、修行に励む、

【上根上智の人のためといはん事を仏をそ〔畏〕れて、】
理解力が優れた人の為に説かれたものだと云う事を仏が恐れて、

【下根下智末代の無智の者の、】
理解力も低く、智慧もない末法の衆生が

【わづかに浅き随喜の功徳を、】
法華経を聞いて、わずかに浅く随喜した功徳でさえも、

【四十余年の諸経の大人〔だいにん〕上聖〔じょうしょう〕の功徳に】
四十余年の諸経を修行する智者の功徳に、

【勝れたる事を顕はさんとして五十展転の随喜は説かれたり。】
優れる事を顕そうとして、五十展転の随喜の功徳を説かれたと云う事なのです。

【故に天台の釈には、外道・小乗・権大乗までたくら〔比〕べ来たって、】
それ故に天台大師は、外道から小乗経、権大乗経までを順に比較し、

【法華経の最下の功徳が】
法華経の最も低い功徳が、

【勝れたる由を釈せり。】
それらの教えの功徳よりも優れている事を述べたものなのです。

【所以〔ゆえ〕に阿竭多〔あかだ〕仙人は】
外道の阿竭多仙人は、

【十二年が間恒河〔ごうが〕の水を耳に留め、】
十二年の間、大河の水を耳に留め、

【耆兎〔ぎと〕仙人は一日の中に大海の水をすいほす。】
耆兎仙人は、一日で大海の水を飲み干したと云いますが、

【此くの如き得通〔とくつう〕の仙人は、】
このような神通力を得た仙人であっても、

【小乗阿含経の三賢〔けん〕の浅〔せん〕位の】
小乗経である阿含経を修行する三賢という浅い位の

【一通もなき凡夫には百千万倍劣れり。】
一つの神通力もない凡夫に比べると百千万倍も劣っているのです。

【三明〔みょう〕六通を得たりし】
また、三明六通と云う神通力を得た

【小乗の舎利弗〔しゃりほつ〕目連〔もくれん〕等は、】
小乗の舎利弗や目連などは、

【華厳・方等・般若等の諸大乗経の】
華厳経や方等経、般若経などの諸大乗経を修行しても、

【未断〔みだん〕三惑〔さんなく〕の一通もなき】
三惑を末だ断じる事が出来ずに、一つの神通力も持っていない諸大乗経の

【一偈一句の凡夫には百千万倍劣れり。】
一偈一句を修行しているだけの凡夫に比べても、百千万倍も劣っているのです。

【華厳・方等・般若経を習ひ極めたる等覚の大菩薩は、】
更に華厳経や方等経、般若経を習い極めた等覚の大菩薩であっても、

【法華経を僅〔わず〕かに結縁〔けちえん〕をなせる】
法華経に少しばかり結縁しただけで、

【未断三惑無悪不造の末代の凡夫には】
未だ三惑を断ぜず、造らない悪業はないと云った末法の凡夫に比べて、

【百千万倍劣れる由、】
百千万倍も劣っているのです。

【釈の文顕然〔けんねん〕なり。】
以上の趣旨が天台の解釈に明確に述べられているのです。

【而るを当世の念仏宗等の人、】
ところが、今の世の念仏宗などの人々は、

【我が身の権教の機にて実教〔じっきょう〕を信ぜざる者は、】
自分自身が権教の理解力で実経を信じられないのですから、

【方等・般若の時の二乗のごとく、】
方等経や般若経の時に仏から訶責された二乗のように、

【自身をはぢ〔恥〕しめてあるべき処に敢〔あ〕へて其の義なし。】
自分自身を恥じて当然であるのに全くそうした姿はないのです。

【あまつさへ世間の道俗の中に、】
そればかりか世間の出家者や在家者の中で、

【僅かに観音品・自我偈なんどを読み、】
少しばかり法華経の普門品の偈や自我偈などを読んだり、

【適〔たまたま〕父母孝養なんどのために一日経等を書く事あれば、】
たまたま父母の孝養などの為に一日経などを書く人がいると、

【いゐさまたげて云はく、】
その人に対して、このように言って妨げているのです。

【善導和尚は念仏に法華経をまじふるを雑行と申し、】
それは、「善導和尚は、念仏の修行に法華経を混ぜるのを雑行と言い、

【百の時は希〔まれ〕に一・二を得、】
百人修行する時には、まれに一人か二人、

【千の時は希に三・五を得ん。】
千人修行する時には、まれに三人か五人が得道出来るかどうかであり、

【乃至千中無一と仰せられたり。】
また、千人修行しても一人も得道出来ないと言われています。

【何〔いか〕に況〔いわ〕んや智慧第一の法然上人は法華経等を行ずる者をば、】
まして智慧第一の法然上人は、法華経などを修行する人を、

【祖父の履〔くつ〕、】
使い古された祖父の靴を履く愚か者であると云い、

【或は群賊〔ぐんぞく〕等にたとへられたり】
また盗賊などに例えられる」と云った悪口雑言の数々なのです。

【なんどいゐうとめ侍〔はべ〕るは、】
いままで私が何度も言っているのは、これらの言葉を信じて、

【是〔か〕くの如く申す師も弟子も】
このような事を言っている念仏の師匠も弟子も、

【阿鼻〔あび〕の焔〔ほのお〕をや招かんずらんと申す。】
必ずや無間地獄の炎を招くであろうと主張しているのです。


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