日蓮正宗法華講開信寺支部より

ようこそ開信寺へ

開信寺・歳時記 【平成三十年 十一月度】

あなたも開信寺の行事に参加しませんか。

お会式

11月3日(土曜日)開信寺にて午後3時からお会式が取り行われました。「お会式(えしき)とは、宗祖日蓮大聖人が弘安五年(西暦1282年)10月13日に御入滅あそばされ、滅不滅のお姿を示されたことをお祝いする儀式です。
日蓮正宗においては、4月6日~7日の御霊宝虫払大法会(ごれいほうむしばらいだいほうえ)と共に、二大法要の一つとなっています。
お会式について、世間では大聖人の御命日の法要ぐらいに考えていますが、日蓮大聖人は、末法万年の闇を照らし、濁悪の衆生を救済し給う御本仏にましますのであり、その御入滅は非滅の滅にして、三世常住のお姿を示されたものと拝するのであります。したがって、お会式は故人に対する追善供養の法事などではなく、日蓮正宗僧俗一同が御本仏の三世常住をお祝いし、御報恩申し上げる儀式なのです。(日蓮正宗の年中行事より)
その為、受付の方達は、お会式に来られた人達に「おめでとうございます。」と言って迎えられます。
この日は、「立正安国論」並びに日興上人、日目上人、歴代上人が時の権力者に対して立正安国論を送られた時の「申状棒読」の儀式が御尊師の方々によって厳粛に行われました。
その後、御尊師の法話があり、松野殿御返事(十四誹謗抄)の「此の経の四の巻には、若しは在家にてもあれ出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀(そし)る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀(そし)り奉る罪には勝れたりと見へたり、或は、若実若不実(にゃくじつにゃくふじつ)とも説かれたり、之を以て之を思ふに忘れても法華経を持つ者をば互に毀(そし)るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり。」を御文を引かれ、「或は、若実若不実とも説かれたり、ここを読み飛ばしちゃいけませんよ。それが真実であろうとなかろうと戒壇の大御本尊様を信じている人を謗(そし)る事は大変な謗法になるのですよ。」と日蓮正宗の人々を謗(そし)る創価学会の非を話されました。
日蓮大聖人が御入滅された時、冬にもかかわらず桜が一時に咲いたという事で寺院内も手作りの桜の花で飾られていました。
最後は、皆その桜を頂いて帰って行きました。


  


日舜上人第350回遠忌法要

11月5日~6日、総本山に於いて総本山第19世日舜上人第350回遠忌法要が営まれました。
全国の法華講各支部より1名と割り当てられた代表者が参加させていただき、その多さに圧倒、感動、感銘を受け、一日も早く他宗の方々が、日蓮大聖人の正しい教えを知り、法華講員となり、人生を謳歌して欲しいという気持ちにかられた次第でした。
奉安堂で御開扉を受けた後、客殿での布教講演会で日舜上人の御生涯のご紹介がありました。

日蓮正宗総本山大石寺第19世の法主(西暦1610年~1669年)
京都要法寺で出家。西暦1629年20歳の時、江戸に下って、芝上行寺に住み、その年に江戸本所中の郷に妙縁寺を再興。
また千葉県沼田檀林に遊学して講義も担当した。
西暦1645年10月27日、日精上人から相承を受け法主となる。
在職10年の後、西暦1652年、法を第20世日典上人に付属して下之坊に隠居、西暦1669年11月12日60歳で御遷化された。
その間、西暦1659年12月15日、日眼の五人所破抄見聞を書写。
建立した寺は、妙縁寺のほかに上井出の本証寺、寿命寺等があり、下条の下之坊も修復。

5日の御逮夜法要と6日の御正当会法要が客殿であり、私ども信徒代表も全員、御焼香が許され読経、唱題の中、焼香させて頂きました。
その後、法華講連合会役員、地方部代表の方々が猊下様の墓参に参加され両日の遠忌法要が滞りなく終了。
下山の折、私たちの祖先の法要を何回忌までしてきたのか、反省と法統相続の大切さをかみしめた次第でした。

目師会

11月15日(木)、開信寺にて午後1時と午後7時に第三祖日目上人の祥月命日の法要がとり行なわれました。

御住職の法話から
日興上人は、芹〔せり〕がお好きだったのに対し、日目上人は、蕪〔かぶ〕がお好きだったので蕪づくしの御膳をお供へ申上げます。本宗では、宗祖日蓮大聖人、二祖日興上人、三祖日目上人を「三祖」と云い、以下の歴代の上人を「世」と云い、区別します。「祖」とは、元祖つまり「三祖一体」となり、御三人であるけれども切り離せない一体のものとみるのです。また客殿の御宝前では、「別体三宝式」として真ん中に法宝の御本尊、左に仏宝の大聖人、右に僧宝の日興上人と三宝が並ぶ形で奉安され、猊下の座が日目上人の座で、代々の上人は、日目上人の座にて御客を三宝へ導くと共に広宣流布を願って丑寅勤行が奉修されています。
日目上人は、15歳の年、日興上人に出会い、17歳の時、日興上人の弟子として得度され、その後、身延山に登り、日蓮大聖人の御入滅までの6年間、薪水〔しんすい〕の労を厭〔いと〕わず常随給仕されました。身延の沢に下って水を汲み、水桶を頭に載せて運んだので頭部にくぼみが出来たと言われています。日目上人は、問答に勝れ、弘安5年の池上問答では、大聖人の名代として天台の学僧、二階堂伊勢法印、その後、十宗房を論破されるなど問答第一と言われております。折伏布教に於いても日目上人の生れられた新田家の本領(宮城県の迫町新井田)で大布教され、親類縁者の豪族など数々の人々を入信させ、数多くの寺院を建立されました。
更に大聖人、日興上人の御精神を受け継がれ四十二度に亘り、時の国家に対して「諌暁の書」を捧げられました。大聖人の弟子門下に於いて最初に天奏をされたのも日目上人で、大聖人の申し状を奉持され、大聖人の代官として天奏なされ、御会式に於いて奉読申し上げる申し状は、「元弘三年の申し状」と申して日目上人最後の申し状です。日目上人は、この申し状を天皇に奉ずべく一路、富士より京都に行脚されました。そしてその京都上洛の途中、美濃の垂井で一夜の宿を取られた折、長旅の疲れにより74歳で御入滅遊ばされました。付き人に「申し状」を頼み、臨終の御言葉に「此の申し状奉せずして遂に臨終す。此の土に生を受け、所用なしと雖も、もし此の状奉聞の人未来において此れあらば、日目が再来と知るべし」と仰せられたと伝えられています。

私達も日目上人に習い大聖人の御精神を受け継ぐ弟子でありたいと思います。

支部登山会

11月24日~11月25日、開信寺において支部登山会が行なわれました。
参加者の声です。

H30.11月登山会。お天気にめぐまれ寒さも思ったより強くなく本当に良き登山でした。久し振り丑寅勤行にも参加させて頂きました。帰り道夜空を見上げると月夜も神々しく心洗われた様な一日でした。今日25日も天気に恵まれ御開扉受け次なる次回登山にむけ日々精進を心に誓う。H・H

初めて総本山に行きました。思ったより広大で河の水が勢いよく流れていました。富士山も初めて間近で見ました。雲一つなく晴れていてとてもきれいでした。皆さんとお話できて楽しかったです。M・N

晴天に恵まれて最高のご登山に成った。開信寺の折伏目標達成に精進することをお誓い申し上げました。

一年ぶりの登山。天気も良く気持ちが洗われる気がしました。又、来年も参加したいです。K・M

丑寅勤行の時、空気が澄んでまん丸のお月様がとてもきれいでした。次の登山は桜の頃に来たいと思います。K・S

本山で感じた事。奉安堂の警備の方の制服のみすぼらしい事。奉安堂での年配者のルール無視の行動がはずかしい。布教講演の時間遅刻者多数。部屋での指示、船頭多し。K

毎年一年一回の登山参加させて頂き本当に感謝しております。お天気も良くて楽しい登山でした。来年も楽しみにしています。

いつもお世話に成っています。今回で何度目かの登山か自分でも解らないですが総本山が整備されて大きなウネリになっている様に思いました。身内も一緒に参加出来ました事、ありがとう御座居ました。S・S

来年2月に次女に5番目の女の子が生まれる。そして長女の息子が国立大学の一ツ橋大学を受験する。天国のママにいい知らせが出来る様にしっかりと題目をあげきって行きたい。S・F


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