日蓮正宗法華講開信寺支部より

ようこそ開信寺へ

開信寺・歳時記 【令和五年 二月度】

あなたも開信寺の行事に参加しませんか。

宗祖御誕生会

二月十六日、開信寺において「宗祖御誕生会」が開催されました。
まだまだ新型コロナの影響が心配されている中、多くの方がマスク姿でした。
勤行、唱題の後、御住職から誕生会の意義について、お話がありました。
釈迦牟尼仏の御入滅は、二月十五日であり、日蓮大聖人は、貞応元年(西暦1222年)二月十六日にお生まれになられました。
実に不思議な符合であり、日興上人が記された「産湯相承事」(御書1708頁)には、日蓮大聖人の母、梅菊(法号妙蓮禅尼)が不思議な夢を見たと話をされています。
「清澄寺に通夜申したりし時、汝が志〔こころざし〕真に神妙なり、一閻浮提第一の宝を与へんと思ふなり。東条の片海に三国大夫〔みくにのたいふ〕と云ふ者あり、是を夫と定めよと云々。七歳の春三月廿四日の夜なり、正〔たしか〕に今も覚え侍〔はべ〕るなり。」と述べられ、父母が亡くなられた後、不思議にも夢の通りに三国大夫重忠〔しげただ〕へ嫁がれました。
ある夜、「叡山の頂に腰をかけて近江の湖水を以て手を洗ひ、富士の山より日輪の出でたまふを懐〔いだ〕き奉ると思ひて、」大変驚いた夢を見た後に妊娠したと、夫の三国大夫に話すと私も不思議な夢を見たと言われ、虚空蔵菩薩が可愛い小さな子供を肩に乗せて現れ、「此の小人我が為には上行菩提薩埵なり。日の下の人の為には生財摩訶薩埵なり。亦一切有情の為には行く末三世常恒の大導師なり。是を汝に与へんとの給ふ見て後、」貴女から懐妊したと聞いたと夫婦で語り相ったのでした。
これが日蓮大聖人の御誕生での出来事なのです。
又、出産の夜にも、富士山の頂に登って十方を見ると、掌の中を見るように三世が明らかに見え、梵天・帝釈・四大天王等の諸天悉く来下〔らいげ〕して、「本地自受用報身如来の垂迹上行菩薩の御身を凡夫地に謙下〔けんげ〕したまふ。御誕生は唯今なり、〔中略〕人・天・竜・畜共に白き蓮を各手に捧げて、日に向かって」「今此三界〔こんしさんがい〕、皆是我有〔かいぜがう〕、其中衆生〔ごちゅうしゅじょう〕、悉是吾子〔しつぜごし〕、唯我一人〔ゆいがいちにん〕、能為救護〔のういくご〕」と唱え奉る夢を見て驚いて、則ち出産されたことが書かれています。
釈迦牟尼仏は、釈迦国の王子として生まれ、輝く姿で人々に敬われましたが、末法今世では、衆生を救う事は、出来ないと自ら説かれています。
日蓮大聖人は、自らを旃陀羅〔せんだら〕が子と言われています。旃陀羅とは、インドのカースト制度の最下級以下の人々の事で、人として扱われない賤しい者とされていました。日蓮大聖人は、末法の一切の衆生を救う御本仏として、最下級以下の身分として生まれられたのです。
本山富士大石寺では、毎年二月十六日に御影堂にて誕生会が執り行われた後、御法主上人が五重塔に御出仕され、扉を開き、読経、唱題をして御誕生会を奉祝されるそうです。大石寺の建物は、総て南向きに建てられていますが、五重塔だけは西向きに建てられています。それは、月氏国(インド)で釈迦牟尼仏が仏教を説かれ、東に広まり、その最後の際〔きわ〕が日本の富士大石寺の五重塔であり、そこから西に還って行く意義を現されているのです。
諌暁八幡抄(御書1543頁)に「天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国〔ふそうこく〕をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東に向かへり、月氏の仏法、東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相〔ずいそう〕なり。月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝〔まさ〕れり、五五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり。」と、日蓮大聖人がその意味を書かれています。
今年は、その日蓮大聖人、御生誕八百年として三月から本山への登山が開始されます。その意義深い年の日蓮大聖人の御誕生会は、とても大切な日に思えました。開信寺でも登山の募集がありましたが、すぐに一杯になったそうです。皆、待ちこがれていたのでしょう。いつもの年のように登山が行われるようになり、大変嬉しく思いながら、家路につきました。

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