日蓮正宗法華講開信寺支部より

ようこそ開信寺へ

開信寺・歳時記 【令和五年 四月度】

あなたも開信寺の行事に参加しませんか。

立宗会


4月28日開信寺にて「立宗会」が催されました。 初夏を思わせるような暑さで、室内は、扇風機がまわっていました。 読経、唱題の後、御住職より、立宗会の意義についてお話がありました。 日蓮大聖人は、幼少より、大変、賢い方で、16歳の時に生まれ故郷の安房国(千葉県)の清澄寺(せいちょうじ)において、道善房を師として出家得度され、是生房〔ぜしょうぼう〕蓮長〔れんちょう〕と名乗られました。 12歳の頃には、清澄寺に入られ、得度する為の修行をされておられたようです。 大聖人様は、御自身のことを「栴陀羅〔せんだら〕が子」と言われていますが、「今では、魚を獲って食べるのは普通ですが、この(鎌倉)時代には非常に忌み嫌われる最下層の身分で、その子供が寺に上がると云う事は、大変、異例な事であったと思われます」と御住職は話されました。 出家された後も、鶴岡八幡宮や南都薬師寺、東寺、仁和寺、叡山、摂津天王寺等で一切経を学ばれるのみならず、藤原為家に歌道及び書道を学ばれています。 そして十数年の遊学の後、清澄寺に戻られました。 「聖人御難事」に「去ぬる建長五年四月二十八日に安房国長狭郡〔ながさのこおり〕の内 、東条の郷、今は都なり。天照太神の御〔み〕くりや〔厨〕、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみ〔御〕くりや〔厨〕、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午〔うま〕の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年なり。」(御書1396頁)と記されています。 清澄寺に戻られた日蓮大聖人は、その山上の嵩(かさ)ケ森に立たれ、朝日に向かい「南無妙法蓮華経」と唱えられたと言われています。 この「南無妙法蓮華経」は、釈迦牟尼仏の法華経ではなく、誰も唱えたことの無い久遠元初本因下種、三大秘法の第三の題目なのです。 この時より、是生房蓮長と言う名を捨てられ、日蓮と名乗られます。 長い間の遊学から、帰られた日蓮大聖人の話を聞こうと、地頭の東条景信〔かげのぶ〕をはじめ、多くの人が午の刻(正午)に清澄寺諸坊の持仏堂に集まっていました。そこで日蓮大聖人は、宗旨建立にあたり「阿弥陀仏は無間の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗持斎等は国賊」と世の中の不幸の原因が世間で持て囃〔はや〕されている宗教にあると破折されたのです。それを聞いていた東条景信は激怒し、長年に渡り、憎しみを懐き七年後には、武装した多数の部下を率〔ひき〕い、大聖人を小松原で襲うという暴挙に及んだのです。法華経には「而も此の経は如来の現在すら猶〔なお〕怨嫉〔おんしつ〕多し、況んや滅度〔めつど〕の後をや」「法華経の行者を罵詈毀辱〔めりきにく〕せしむべき時なり」とある様に、この時、日蓮大聖人の弟子である工藤義隆などが大聖人を御守りして討ち死にされています。 大聖人、御自身も額に怪我を負われ、腕を折られながらも、逃げおおせる事が出来たのです。 しかし、日蓮大聖人の御一生は、如説修行抄に 「恐らくは天台・伝教も法華経の故に日蓮が如く大難に値ひ給ひし事なし。彼は只悪口〔あっく〕怨嫉〔おんしつ〕計〔ばか〕りなり。是は両度の御勘気、遠国の流罪、竜口の頸の座、頭〔こうべ〕の疵〔きず〕等、其の外悪口せられ、弟子等を流罪せられ、籠に入れられ、檀那の所領を取られ、御内を出だされし。是等の大難には竜樹・天台・伝教も争〔いか〕でか及び給ふべき。されば如説修行の法華経の行者には三類の強敵の杖〔つえ〕定んで有るべしと知り給へ。」 (御書673頁)と書かれているように苦難の連続でありました。 この宗旨建立は、日蓮大聖人が法華経の行者としての御化導の端緒〔たんしょ〕であり、御本仏、日蓮大聖人が末法において、妙法を弘通される初めであると言う深義の上から、総本山大石寺においては、御法主上人の大導師のもと御影堂において、3月28日に、立宗内証宣示報恩会を、4月28日に立宗会を奉修し、日蓮大聖人の大慈大悲に対し奉り、御報恩謝徳、申し上げているのです。日蓮大聖人は、「善知識に会う」ことが最も大事であると言われています。善知識とは、本門戒壇の大御本尊のことであり、その大御本尊を堅固に守られてこられた日蓮正宗に巡り合うことが出来たことに深く感謝致しました。


法華講連合会・福岡西地方 第14回 総会


4月23日(日)13時30分より「福岡西地方部・第14回総会」が久留米シティプラザにて開催されました。
ホール内では、マスク着用の上、座席を一つずつ空けて座るという新型コロナウィルス対策が引きつづき行われました。
二人の女性の司会者による開会の言葉に続き、小・中学生による華やかな鼓笛隊の演奏があり、九州各寺の御尊師様をお迎えして、総会が始まりました。
立正寺支部の方の体験発表は、父親の死相に衝撃を受け、母親は念仏、真言宗に救いを求めたのに統合失調症になってしまい、自身は世間の宗教に不信感を募らせて、すっかり宗教嫌いになってしまったそうです。せっかく結婚をして子供も出来、家族を持てたのに仕事や自分の楽しみに逃げ、妻も子供も家を出てしまい、自分一人になってしまったことを機に、立正寺にて折伏をうけ、入信されました。入信後、自分でも折伏を行うと必ず相手の方に悪口を言われてしまうそうです。それでも「愚人に褒められるは一生の恥」という御書の一文を思い出して、ただ日蓮大聖人の顕〔あらわ〕された大御本尊のみが正しいと云うことを話し続け、友人を入信させることができたそうです。
次に、霑妙寺支部の活動報告、福岡西地方部の決意発表がありました。
そして、法華講・連合会の関野委員長より祝辞を賜りました。
福岡西布教区・宗務支院長、岩城永学御尊士よりも御祝辞を賜り、そのお話の中で諸法実相抄(御書668ページ)「行学の二道をはげみ候べし。行学た(絶)へなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あれば一文一句なりともかたらせ給ふべし。」という一文を引かれましたが、日蓮大聖人の御心と異体同心の信心を行うことの大事さをお話いただいたのだと思います。
今世間を騒がしている宗教とは言えない団体の盲信・狂信に陥ることのない「依法不依人」の御金言を忘れずに、日蓮大聖人の御書を学び、一人でも伝えていきたいと思いました。その後には、福岡西地方部長より御挨拶があり、最後に舞台上で少年部が“みんなで唱題”というボードを掲げ、鼓笛隊の演奏で「広布の青嵐」を皆で合唱し、閉会となりました。


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