日蓮正宗法華講開信寺支部より

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開信寺・歳時記 【令和八年(2026年) 二月度】

あなたも開信寺の行事に参加しませんか。

令和8年 節分会

2月3日13時より、開信寺で令和8年の節分会〔せつぶんえ〕が、にぎやかに行われました。
日蓮正宗の節分会では、御宝前に御供〔そな〕えした豆を「福は、内」の声とともにまかれ、「鬼は、外」とは、言いません。
それは、法華経の行者を守護すると誓った鬼子母神や十羅刹女などの善鬼は、豆を投げて追い払う必要は、ないからなのです。
御義口伝の「鬼子母神の事」には、「逆次〔ぎゃくじ〕に次第する時、神とは九識なり、母とは八識へ出づる無明なり、子とは七識六識なり、鬼とは五識なり。流転門の時は悪鬼なり。還滅門〔げんめつもん〕の時は善鬼なり。仍って十界互具百界千如の一念三千を鬼子母神十羅刹女と云ふなり。」(御書1791頁)とあります。
つまりは、鬼にも法華経の行者を守る働きの「善鬼」と法華経の行者を憎む働きの「悪鬼」がおり、法華経の会座が顕わされた御本尊まします日蓮正宗の寺院には、その「悪鬼」が住みつくことは、ないからなのです。
日蓮大聖人は、富木殿御返事で、この御本尊様に対して、「若し悩乱する者は頭七分に破れ供養すること有らん者は福十号に過ぐ」、「讃むる者は福を安明〔あんみょう〕に積み、謗る者は罪を無間に開く」(御書1578頁) と妙楽大師、伝教大師の文をあげられて御教示されています。
また、法華経・勧持品にも、この御本尊様を信じない者は、「悪鬼入其身〔あっきにゅうごしん〕(悪鬼、其の身に入る)」(御書1762頁)と説かれています。
この言葉どおり、「悪鬼」は、人の心に入り、その人を狂わせ、また周りの人をも不幸にするのです。
本来、節分とは、一年の節目の時に当たり、この節目に、自らの信心の在り方を確認する時です。
この節目において、御本尊様に正しい信仰を御誓い申し上げ、さらには、鬼子母神を代表とする諸天善神に、あらゆる災厄からの守護を御祈念するものなのです。



令和8年 興師会

2月7日13時より、開信寺で興師会〔こうしえ〕が行われました。
日興上人法要の興師会は、日蓮正宗・富士大石寺の第二祖、日興上人に御報恩申し上げる法要です。
総本山をはじめ各末寺において、日興上人の祥月命日に当たる二月に奉修されます。
日興上人は、常に粗衣粗食で特に芹を好まれていたと伝えられています。
書かれた手紙の中にも「御供養された初物の芹とお酒を御本尊・大聖人の御宝前にお供えいたしました」との記述が見られます。
このようなことから、古来、総本山では、興師会御逮夜法要の前に青々とした芹を御宝前にお供えしています。
その日興上人は、寛元四年(西暦1246年)三月八日、甲斐国・巨摩郡〔こまぐん〕・大井荘・鰍沢〔かじかざわ〕に誕生されました。
日興上人略伝には、「師生れながらにして奇相あり特に才智凡ならず」と記〔しる〕されているように、幼少から優れた容姿で非常に聡明でしたが、幼くして父を亡くし、その為に駿河国・富士に住む母方の祖父・河合入道に預けられました。
また、その近くの天台宗寺院・四十九院に上って仏法を学び、その他、漢学、歌道・書道などを習われました。
その為、日蓮大聖人の重要な御書を書写され、後世に残され、今日も、その御筆跡を見ることができます。
正嘉二年(西暦1258年)、日蓮大聖人は、立正安国論を幕府要人に提出される為、岩本の実相寺で一切経を閲覧されていましたが、ちょうど同寺に居合わせた十三歳の日興上人と出会われました。
日興上人は、その場で日蓮大聖人に入門を願い出て、それを許され、伯耆〔ほうき〕房日興の名を賜〔たまわ〕りました。
以後、日興上人は、大聖人の傍〔そば〕に影の如く付き添われて常随給仕され、伊豆流罪、佐渡流罪では、大聖人に付き従い苦難を共にされました。
建治元年(西暦1275年)頃には、日興上人の折伏、弘教により、熱原・滝泉寺の僧侶や多くの農民が大聖人の仏法に帰依しました。
これを恨んだ滝泉寺院の行智の策謀により、熱原の法難が起ったのです。
しかし、日興上人の指導により、熱原の農民・信徒は、拷問と脅迫にも屈することなく、大聖人への信仰を貫〔つらぬ〕いたのです。
弘安五年(西暦1282年)、日興上人は、大聖人から一切を付嘱され、御入滅後は、身延山に入られて、正法正義を曲げることなく、守り抜かれ、弟子の育成に力を注〔そそ〕がれました。
しかし、弟子のほとんどが、大聖人が末法の御本仏であることを理解できずに、世間を憚〔はばか〕って、天台沙門を名乗り、日興上人から離れていったのです。
その後、身延に登ってきた民部・日向を学頭に迎えられましたが、その日向によって身延の地頭・波木井実長〔はぎいさねなが〕が誑〔たぶら〕かされ、謗法を繰り返した為、日興上人は 身延を去ることを決意されました。
正応二年(西暦1289年)春、日興上人は、本門戒壇の大御本尊をはじめ一切の重宝を持って身延を離山し、地頭・南条時光の招きにより、富士・上野に入られたのです。
奇しくも、大聖人の「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(御書1675頁)との御遺命に従い、大石ヶ原を本門戒壇建立の地と定め、正応三年十月十二日、大石寺を創建されました。
本宗では、日興上人を末法下種の三宝の僧宝と拝し、日蓮大聖人の仏法を受け継がれ、後世に正しく伝えられたことに対し御報恩申し上げ、この興師会を執り行われています。



令和八年二月度 御講

2月8日13時より、二月の御講が行われました。
今月の拝読御書は、「弁殿尼御前御書」です。
本抄は、文永十年(西暦1273年)九月十九日、御歳五二の時に、佐渡の一谷で著され、御真筆は、中山・法華経寺に現存しています。
対告衆の弁殿尼御前ですが、弁殿とは、六老僧の一人、弁阿闍梨日昭のことであり、おそらく日昭の母親、もしくは、姉と伝えられています。
尼御前は、御書の中に「一文不通」とあるように文字が読めない普通の女性であったようです。
当時としては、それが普通の女性であって、まして大聖人の仏法の講義がわかる人など、ほとんど、いなかったのです。
しかしながら、弁殿尼御前は、純粋な信心を持〔たも〕ち、一年前に、大聖人が竜口〔たつのくち〕の法難を受けられたときも、「かまくら〔鎌倉〕にも御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候」(御書765頁)とあるように、千人の内、九百九十九人が退転するほどの弾圧があり、或る者は、所を追われ、或る者は、所領を没収されるなどの大きな法難を受けたのですが、そのような時でさえ、退転するどころか佐渡の大聖人のもとへ、身を案じて人を遣〔つか〕わされているのです。
これらの弾圧は、結局のところ、純粋な信心を持〔たも〕つ者を、この娑婆世界から、追い落とそうとする第六天の魔王の仕業であり、大智度論第十五巻に説かれる「欲望、憂鬱、貧乏、渇愛、怠惰、恐怖、疑念、憤怒、名声、虚栄」(趣意)の十種類の仏道修行を妨げる魔の働きなのです。
第六天の魔王は、人の心を自由自在に操〔あやつ〕ることが出来るので他化自在天王とも呼ばれ、また、人の命や功徳を奪うので奪命魔、奪功徳者とも言われています。
その第六天の魔王が、大聖人を信じる者から、この世を奪われまいと十種類の魔軍を使って必死の戦いを起こしているのです。
そのような中で大聖人は、「日蓮一度もしり〔退〕ぞく心なし」(御書686頁)と述べられています。
また、日如猊下は、「魔が競い起きた時こそ、信心決定の絶好の機会と捉え、一人ひとりが妙法受持の大功徳を確信して、決然と魔と対決し、粉砕していくことが大事であります。所詮、いかなる魔も仏様には絶対に勝てないのであります」と御指南されています。






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