日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


義浄房御書 背景と大意


義浄房御書(御書668頁)

この御書は、文永十年(西暦1273年)5月28日、日蓮大聖人が佐渡で五二歳の時に現在の千葉県の清澄寺、住僧、義浄房〔ぎじょうぼう〕に宛てて送られたものです。
義浄房〔ぎじょうぼう〕は、日蓮大聖人がこの清澄寺に十二歳で出家された時の清澄寺住職であった道善房〔どうぜんぼう〕の弟子で、浄顕房〔じょうけんぼう〕と共に大聖人の兄弟子にあたる人です。
また、この兄弟子の二人は、日蓮大聖人がこの清澄寺で立宗宣言をされたときに地頭の東条景信から捕えられようとしましたが、それをかくまい無事に逃がしたのでした。
そのような経緯で義浄房は、たびたび、大聖人に御手紙を出して法門を聞かれていたと思われます。
本抄の最初には、「御法門の事、委〔くわ〕しく承〔たまわ〕り候〔そうら〕い畢〔おわ〕んぬ」とあり、大聖人が佐渡におられる時も法門を尋ねていた事がわかります。
ですから、本抄は、義浄房の法門に関する質問の返書であると思われます。
日蓮大聖人は、本抄を認められた一ヵ月ほど前に、法本尊開顕の書と言われる「観心本尊抄」を著〔あらわ〕されており、本抄において、妙法蓮華経寿量品の「自我偈」にある、「一心欲見仏 不自惜身命」について、この文こそ、大聖人の己心の仏果を顕しており、寿量品の文の底に秘されている事の一念三千、三大秘法であると御教示されています。
この事は、天台大師、伝教大師も心には知っていても、それを現実に顕すことも、言い出すことも出来なかったとされ、それは、竜樹菩薩や天親菩薩も同じであって、法華経に書かれている通りに末法において数々の難に遭われ、その中で身命をとして折伏をされている御本仏、日蓮大聖人だけが、顕すことが出来ることを示されています。
そうであるからこそ、釈迦如来は、「唯仏与仏の境界」と言い、「十方分身の智慧も及ぶか及ばざるかの内証なり」と言われているのです。
この寿量品の文の底に秘されている事の一念三千、三大秘法こそ日蓮大聖人そのものであり、富士大石寺の戒壇の御本尊様なのです。
また、そうであるからこそ、「一心欲見仏」の一心について「一とは一道清浄〔しょうじょう〕の義」であり、「心とは諸法なり」と書かれています。
この中の「一道」とは、無上道である法華経の一仏乗、戒壇の御本尊であり、それが蓮華のように清浄であるという意味です。
また、心の字を説明すると天台大師によれば「一月三星心果〔しんか〕清浄」とあり、心の字の三つの点は、星であり、下の一画は、月であるとされ、仏果は、本来衆生の心法に内在して清浄である事を明かし、戒壇の御本尊様に題目を唱える衆生の心がそのまま即三身如来であるという妙義が示されているとされています。
最後の結びに「相構〔あいかま〕へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからずと仏は記し給ひしなり。」と間違っても自分の我儘な心をもって本尊とすることなく、どこまでも日蓮大聖人の心を本尊として「法華経の御為に身をも捨て命をも惜しまざれと強盛に申せしは是なり」と仰せになり、折伏こそ日蓮大聖人の心であることを示されて終わられています。


義浄房御書 本文


【義浄房御書 文永一〇年五月二八日 五二歳】
義浄房〔ぎじょうぼう〕御書 文永10年(西暦1273年)5月28日 52歳御作


【御法門の事委〔くわ〕しく承り候ひ畢んぬ。】
御質問は、詳しくお聞きしました。

【法華経の功徳と申すは唯仏与仏の境界、】
法華経の功徳と言うのは、ただ仏と仏のみが理解するものであり、

【十方分身の智慧も及ぶか及ばざるかの内証なり。】
また十方の仏の智慧をもってしても及ぶものではありません。

【されば天台大師も妙の一字をば、】
そうであるからこそ、天台大師も妙の一字を

【妙とは妙は不可思議と名づくと釈し給ひて候なるぞ。】
不可思議と名付けているのです。

【前々〔さきざき〕御存知の如し。】
このように前々から、お答えしている通りなのです。

【然れども此の経に於て重々の修行分かれたり。】
そうではあっても、この法華経については、いくつもの説明が出来ます。

【天台・妙楽・伝教等計〔ばか〕り】
しかし、この事については、天台・妙楽・伝教などしか

【し〔知〕らせ給ふ法門なり。】
知る事が出来ず、説明が出来ない法門であるのです。

【就中〔なかんずく〕伝教大師は天台の後身〔ごしん〕にて渡らせ給へども、】
その中でも伝教大師は、天台大師の後を継ぐ人であり、

【人の不審を晴さんとや思〔おぼ〕し食〔め〕しけん、】
人々の疑問を晴らそうと思われたので、

【大唐へ決〔けつ〕をつかはし給ふ事多し。】
唐の国へ行って何度も確認されております。

【されば今経の所詮は】
その結果、法華経の大事な内容というのは、

【十界互具・百界千如・一念三千と云ふ事こそゆゝしき大事にては候なれ。】
十界互具・百界千如・一念三千の法門なのです。

【此の法門は摩訶止観と申す文にしるされて候。】
この法門は、摩訶止観に記〔しる〕されております。

【次に寿量品の法門は日蓮が身に取ってたの〔頼〕みあることぞかし。】
次に法華経の寿量品の法門は、日蓮が身にとって関係の深い内容であるのです。

【天台・伝教等も粗〔ほぼ〕しらせ給へども】
この内容については、伝教大師なども知ってはいましたが、

【言に出して宣べ給はず。竜樹・天親等も亦是くの如し。】
それを口に出して言う事はありませんでした。竜樹菩薩や天親菩薩も同様でした。

【寿量品の自我偈に云はく「一心に仏を見たてまつらんと欲して】
寿量品の自我偈には「一心に仏を見たてまつらんと欲して

【自ら身命を惜しまず」云云。】
自ら身命を惜しまず」と説かれています。

【日蓮が己心の仏果を此の文に依って顕はすなり。】
この文章は、日蓮の己心の仏界を此の文に依つて顕しているのです。

【其の故は寿量品の事の一念三千の】
その故は、法華経の寿量品の事の一念三千の

【三大秘法を成就せる事此の経文なり。】
三大秘法を成就せる事が此の経文の意味なのです。

【秘すべし秘すべし。】
その事は、秘密にすべき大事な事なのです。

【叡山の大師渡唐〔ととう〕して此の文の点を相伝し給ふ処なり。】
比叡山の伝教大師が唐に渡って、この文章を相伝したのです。

【一とは一道清浄〔しょうじょう〕の義、心とは諸法なり。】
一とは、一道清浄の義、心とは、諸法なのです。

【されば天台大師心の字を釈して云はく】
そうであればこそ、天台大師は、心の字を解釈して

【「一月三星心果〔しんか〕清浄」云云。】
「一月三星心果清浄」と言われたのです。

【日蓮云はく、一とは妙なり、心とは法なり、】
それに対して、日蓮は、この文章を、一とは妙なり、心とは法なり、

【欲とは蓮なり、見とは華なり、仏とは経なり。】
欲とは蓮なり、見とは華なり、仏とは経なりと理解しております。

【此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり。】
この妙法蓮華経を弘めていく事が不自惜身命なのです。

【一心に仏を見る、】
これを考えるならば、この一心欲見仏とは、一心に仏を見る、

【心を一にして仏を見る、一心を見れば仏なり。】
心を一にして仏を見る、一心を見れば仏なりという意味となります。

【無作の三身の仏果を成就せん事は、】
日蓮が無作の三身の仏果を成就する事は、

【恐らくは天台・伝教にも越へ竜樹・迦葉にも勝れたり。】
おそらく天台・伝教にも越へ、竜樹・迦葉にも勝れている事でしょう。

【相構〔あいかま〕へ相構へて心の師とはなるとも】
この文章によって、釈迦牟尼仏は、心の師とはなるとも

【心を師とすべからずと仏は記し給ひしなり。法華経の御為に身をも捨て】
心を師とすべからずと記されているのです。日蓮が法華経の為に身をも捨て、

【命をも惜まざれと強盛〔ごうじょう〕に申せしは是なり。】
命をも惜まざれと強く言っているのはこの事なのです。

【南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。】
南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

【文永十年五月廿八日 日蓮花押】
文永10年(西暦1273年)5月28日 日蓮花押

【義浄房御返事】
義浄房御返事

ページのトップへ戻る