日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


十如是事 背景と大意


十如是事(御書104頁)

この十如是事は、正嘉二年(西暦1258年)に書かれた御書です。正嘉二年は、日蓮大聖人が「立正安国論」を御述作の為に駿河国(静岡県)岩本の実相寺で一切経を閲覧〔えつらん〕されていた時期である為、本抄は岩本の地で著わされたものと考えられます。別名を「法華経肝心抄」とも言い、まだ宗旨建立から間もない時期に当たる為、一往、天台の法門を中心に理論的に御教示をされています。御真蹟は、現存しませんが、写本が身延日朝本、三宝寺本、本満寺本の三本があります。また、対告衆については不明です。
初めに、日蓮大聖人は、我ら衆生の身が三身即一の本覚の如来であることを法華経方便品の十如是の文を挙げて示されます。これを我が身の上のことと知る人を、法華経を覚れる人と御教示です。
この十如是は、如是相(仮諦)、如是性(空諦)、如是体(中諦)の三如是をもととして、十如是となるのであり、この十如是が百界、千如、三千世間、さらには八万法蔵とも言われる仏教の多くの法門となるのであって、結局は、すべて一つの空仮中の三諦の法であり、三諦より他に法門はないと仰せられています。また、初めの三如是の三諦と、終わりの七如是の三諦とは、ただ一つの三諦であり、これらは、我が一身の中の理〔ことわり〕であって、ただ一物であり不可思議なる故に「如是本末究竟等」と説かれている事を示されています。
さらに、この十如是は、我が身の中の三諦で、この三諦を三身如来とも言うのであり、我が心身より他に法がない故に、我が身が三身即一の本覚の如来となると明かされています。そして、これを覚れば、やがて現世の内に本覚の如来を顕わして即身成仏するのであり、一生のうちに我が身が三身即一の仏となると御教示されています。
さらに、妙法蓮華経の法体が尊く優れている理由について、妙法の体は、我ら衆生の心性の八葉の白蓮華であり、我が身の体性が妙法蓮華経であること、これを知れば、我が身が三身即一の本覚の如来となることを明かされています。この文章の「心性の八葉の白蓮華」とは、人間の心臓が八葉の蓮華に似ている事により、衆生の体、心性が妙法の当体蓮華であることを御教示されたものです。つまり、私たち衆生の心身が、そのまま蓮華の当体なのです。しかし、ここで重要なのは、「御義口伝」に「無作の三身とは末法の法華経の行者なり」(御書1765頁)「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書1773頁)とあるように、末法御出現の御本仏、日蓮大聖人の御当体が、人法一箇の御本尊の御当体として顕わされ、この御本尊を正直に信じて南無妙法蓮華経と唱えていくところにのみ、私たち衆生の心身が三身即一身の本覚の如来と顕われ、即身成仏が叶うということであるのです。
よって本抄は、御本尊という文章は、用いられていませんが、その意味するところは、人法一箇の御本尊を受持するところに成仏の境涯が得られることを示されているのです。そして、このことを信じて一遍でも南無妙法蓮華経と題目を唱えるならば、法華経一部を読誦したことになり、十遍は十部、千遍は千部、如法に読誦したことになると仰せられ、このことを信じて信行に励む者を「如説修行の人」というのであると述べられて、本抄を結ばれています。ここに仰せの「如説修行の人」とは厳密に解釈すれば、日蓮大聖人、御自身のことであります。それは、この後の人生に於いて、数々の大難を忍ばれ、法華経を身読し、一切衆生を仏にせんと戒壇の大御本尊を顕されたのは、日蓮大聖人、御一人であるからなのです。


十如是事 本文


【十如是事 正嘉二年 三七歳】
十如是事 正嘉2年(西暦1288年) 37歳作


【我が身が三身即一の】
自分自身が報身如来、応身如来、法身如来の三身を一身とした

【本覚〔ほんがく〕の如来にてありける事を今経に説いて云はく】
真実の如来である事が、この法華経に説かれています。

【「如是相 如是性 如是体】
その文は、法華経方便品の「如是相、如是性、如是体、

【 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 】
如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、

【如是本末究竟等」文。】
如是本末究竟等」という文章です。

【初めに如是相とは我が身の色形に顕はれたる相を云ふなり。】
この文章の始めの如是相とは、自分自身の姿や形に現れた相を言うのです。

【是を応身如来とも、又は解脱〔げだつ〕とも、】
これを応身如来とも、解脱とも、

【又は仮諦〔けたい〕とも云ふなり。次に如是性とは我が心性を云ふなり。】
仮諦とも、言います。次の如是性とは、自分自身の心の中の性分を言います。

【是を報身如来とも、又は般若〔はんにゃ〕とも、】
これを報身如来とも、般若とも、

【又は空諦〔くうたい〕とも云ふなり。三に如是体とは我が此の身体なり。】
空諦とも、言います。三番目の如是体とは、自分自身の身体の事を言います。

【是を法身〔ほっしん〕如来とも、又は中道〔ちゅうどう〕とも、】
これを法身如来とも、中道とも、

【法性〔ほっしょう〕とも、寂滅〔じゃくめつ〕とも云ふなり。】
法性とも、寂滅とも、言います。

【されば此の三如是を三身如来とは云ふなり。】
つまりは、この三如是を三身如来と言うのです。

【此の三如是が三身如来にておはしましけるを、】
この三如是が三身如来である事を、

【よそに思ひへだてつるが、】
どこか余所〔よそ〕の事であるように思っているでしょうが、

【はや我が身の上にてありけるなり。】
実は、自分自身の身の上の事であるのです。

【かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり。】
この事を知っている人を法華経を覚〔さと〕っている人と言うのです。

【此の三如是を本として、】
この三如是を基本として、

【是〔これ〕よりのこ〔残〕りの七つの如是はい〔出〕でて】
これより残りの七つの如是は、出ており、

【十如是とは成りたるなり。】
それで十如是が成り立っているのです。

【此の十如是が百界にも千如にも】
この十如是が、十界互具して百界にも、百界に十如是が互具して千如是にも、

【三千世間にも成りたるなり。】
また千如是に三世間が互具して三千世間にも、成るのです。

【かくの如く多くの法門と成りて八万法蔵と云はるれども、】
このように多くの法門が成立して、仏教には八万もの法門が有るのですが、

【すべて只一つの三諦の法にて】
すべては、ただこの仮諦、空諦、中諦の三諦の法であって、

【三諦より外には法門なき事なり。其の故は百界と云ふは仮諦なり、】
この三諦以外の法門はないのです。その故は、百界と言うのは、仮諦の事であり、

【千如と云ふは空諦なり、三千と云ふは中諦なり。】
千如と言うのは、空諦の事であり、三千と言うのは、中諦の事であるからなのです。

【空と仮と中とを三諦と云ふ事なれば、】
この空と仮と中を三諦と言うのであれば、

【百界千如三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども】
百界、千如、三千世間の多くの法門が有ると言っても、

【唯一つの三諦にてある事なり。】
ようは、ただ一つの三諦の事であるのです。

【されば始めの三如是の三諦と、終はりの七如是の三諦とは、】
そうであれば、この三如是の三諦と、他の七如是の三諦とは、

【唯一つの三諦にて始めと終はりと我が一身の中の理にて、】
ただ一つの三諦であって、本と末とが、すべて自分自身の中に道理としてあり、

【唯一物にて不可思議なりければ、】
ただ、三身即一身のひとつとして存在すると言う不思議な事実を、

【本と末とは究竟して等しとは説き給へるなり。】
最初と最後が究極的には等しいと説かれているのです。

【是を如是本末究竟等とは申したるなり。】
これを如是本末究竟等〔にょぜほんまつくきょうとう〕と言うのです。

【始めの三如是を本とし、終はりの七如是を末として、】
始めの三如是を本とし、終はりの七如是を末として、

【十の如是にてあるは、我が身の中の三諦にてあるなり。】
十の如是があるので、自分自身の中に三諦があるのです。

【此の三諦を三身如来とも云へば、】
この三諦を三身如来と言うのであれば、

【我が心身より外には善悪に付けて】
自分自身より外には、それがどんなに善くても悪くても、

【かみ〔髪〕すぢ計りの法もなき物を、】
毛筋ほどの法門もないと言う事になります。

【されば我が身が頓〔やが〕て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり。】
そうであれば、自分自身が三身即一身の真実の如来であるという事になるのです。

【是〔これ〕をよそに思ふを衆生とも迷ひとも凡夫とも云ふなり。】
これが余所にあると思うのを衆生と言い、迷いと言い、凡夫と言うのです。

【是を我が身の上と知りぬるを】
これを自分自身の身の上の事であると知るのを、

【如来とも覚〔さと〕りとも聖人〔しょうにん〕とも智者とも云ふなり。】
如来とも、覚りとも、聖人とも、智者とも、言うのです。

【かう解〔さと〕り明らかに観ずれば、】
このように明らかに観る事が出来れば、

【此の身頓〔やが〕て今生の中に本覚の如来を顕はして】
この自分自身が、すべて今世の内に真実の如来と現れ、

【即身成仏とはい〔言〕はるゝなり。譬へば春夏田を作りう〔植〕へつれば、】
これを即身成仏と言うのです。たとえば、春に田んぼに種を植えれば、

【秋冬は蔵に収めて心のまゝに用ふるが如し。】
秋には、その稲を収穫して蔵に収めて自由に出来るようなものなのです。

【春より秋をまつ程は久しき様なれども、一年の内に待ち得るが如く、】
春から秋までは、長いようにあるけれども、一年の内には、収穫が可能なように、

【此の覚りに入りて仏を顕はす程は久しきやうなれども、】
この事を覚れば即身成仏するまでには長い時間がかかるようではあっても、

【一生の内に顕はして我が身が三身即一の仏となりぬるなり。】
必ず一生の内には、自分自身が三身即一身の仏となるのです。

【此の道に入りぬる人にも上中下の三根〔こん〕はあれども、】
この道理を信じれば、上中下という仏法理解の程度の差は、あっても

【同じく一生の内に顕はすなり。】
等しく一生の内には即身成仏の姿を顕わす事が出来るのです。

【上根の人は聞く所にて】
その中でも仏法の理解が速い人は、これを聞いて、

【覚りを極めて顕はす。】
すぐに悟りを極めて即身成仏するのです。

【中根の人は若〔も〕しは一日、若しは一月、若しは一年に顕はすなり。】
普通の人は、一日か、一月、または、一年の後に即身成仏の姿を現します。

【下根の人は】
理解が低い人は、

【の〔延〕びゆく所なくてつ〔詰〕まりぬれば、】
なかなか、この事を信じる事が出来ずに最後まで即身成仏出来ずにいるのですが、

【一生の内に限りたる事なれば、】
それでも一生の内には即身成仏出来るので、

【臨終の時に至りて諸〔もろもろ〕のみえつる夢も覚〔さ〕めて】
臨終の時に至って、ようやく眠っていて多くの夢を見ていたのが

【うつゝ〔寤〕になりぬるが如く、】
目覚めて現実に戻れるように、

【只今までみつる所の生死妄想の邪思〔ひがおも〕ひ、】
いままで見えていた過去世や現世の妄想から目覚めて、

【ひがめの理はあと形もなくなりて、本覚のうつゝの覚りにかへりて】
これまでの邪見や偏見は、あとかたもなくなり、真実の正しい見え方に戻って、

【法界をみれば皆寂光の極楽にて、】
この今、住んでいる娑婆世界を見れば、これらはみな寂光の極楽であって、

【日来〔ひごろ〕賎〔いや〕しと思ひし我が此の身が、】
日頃、卑しい身と思っていた自分自身の身が、

【三身即一の本覚の如来にてあるべきなり。】
三身即一身の真実の如来である事に気が付くのです。

【秋のいねには早〔わせ〕と中〔なか〕と晩〔おく〕との】
秋の稲は、早く取れたり、中頃に取れたり、遅く取れたりはするけれども、

【三つのいね有れども一年が内に収むるが如く、】
いずれも一年の内には取れるように、

【此も上中下の差別〔しゃべつ〕ある人なれども、】
人によって、仏法理解の上中下の差別があったとしても、

【同じく一生の内に諸仏如来と一体不二に思ひ合はせてあるべき事なり。】
同じく一生の内には、諸仏如来と一体不二となるのです。

【妙法蓮華経の体〔たい〕のいみじくおはしますは、】
妙法蓮華経の体とは、

【何様〔いかよう〕なる体にておはしますぞと尋ね出だしてみれば、】
どのような体であるかと尋ねてみれば、

【我が心性の八葉〔はちよう〕の白蓮華にてありける事なり。】
自分自身の心の中にある八葉の白い蓮華であるのです。

【されば我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なれば、】
そうであれば、自分自身が妙法蓮華経であるという事であって、

【経の名にてはあらずして、はや我が身の体にてありけると知りぬれば、】
それは、経の名前ではなく、もはや自分の身体の事であると知るならば、

【我が身頓〔やが〕て法華経にて、法華経は我が身の体をよび顕はし】
自分の身体が法華経であって、法華経は、自分の身体を呼び表すと、

【給ひける仏の御言〔みことば〕にてこそありければ、】
仏である釈迦牟尼仏が言われているわけで、

【やがて我が身三身即一の本覚の如来にてあるものなり。】
やがては、必ず、自分自身が三身即一身の真実の如来となるのです。

【かく覚りぬれば無始より已来、今まで思ひならはしゝひが思ひの妄想は、】
このように理解したならば、久遠の過去より現在に至るまでの妄想は、

【昨日の夢を思ひやるが如く、あとかたもなく成りぬる事なり。】
昨日の夢のように跡形もなくなるのです。

【是を信じて一遍も南無妙法蓮華経と申せば、】
これを信じて一遍でも南無妙法蓮華経と唱えるならば、

【法華経を覚りて如法〔にょほう〕に一部〔いちぶ〕をよみ奉るにてあるなり。】
法華経を覚って、人々に法華経一部を説いた事になります。

【十遍は十部、百遍は百部、千遍は千部を如法によみ奉るにてあるべきなり。】
十遍は十部、百遍は百部、千遍は千部、人々に法華経を説いた事となるのです。

【かく信ずるを如説修行の人とは申すなり。】
このように信ずる事を「如説修行の人」と言うのです。

【南無妙法蓮華経。】
南無妙法蓮華経。

【日蓮花押】
日蓮花押


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