日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


女人往生抄 背景と大意


女人往生抄(御書339頁)

この御書は、文永2年(西暦1265年)、大聖人が44歳の時に安房国(千葉県)にて書き著されたものです。
対告衆は、不明ですが、内容から房州に住む婦人ではないかと思われます。なお、御真蹟は、現存しません。
大聖人は、文永元年(西暦1264年)の秋、母の妙蓮が危篤〔きとく〕との知らせにより、故郷である安房国へ11年ぶりに帰郷されたのです。この時期に大聖人は、女人の往生成仏に関して「女人往生抄」「女人成仏抄」「薬王品得意抄」「法華題目抄」などを次々と著されています。
本抄は、大きく二段からなり、前段では、すべての者に仏性があると説かれているのに、法華経以外の大乗経では、女人の成仏は、認められていないことから、法華経こそ女性が成仏できる真実の教えであることを述べられています。
そして末法こそ、その女性が真に成仏することが出来る時代であることを強調されているのです。
後段では、二問二答の問答形式となっており、第一問答では、正像二千年の女性と、それよりも劣る末法の女性の成仏往生を、なぜ法華経が詳しく説いているのかとの問いに、その答えとして、末法における日蓮大聖人の法華経が他の大乗経典に比べても、また、他のどんな諸仏の教えに比べても、はるかにその力が優れているからであると説明されています。
第二問答では、権大乗経で説かれている阿弥陀仏による女人往生では、まったく末法においては力が及ばず、これでは女性が成仏することは出来ないことを示されて本抄を結ばれます。
このように末法においては、釈迦牟尼仏一代の仏教は、白法隠没して完全に力を失い、それは、釈迦牟尼仏が説いた法華経であっても、まったく同じなのです。しかし、その法華経で説かれている、末法において法華経が女性を往生成仏させるという言葉は、まさに日蓮大聖人の法華経、一閻浮提総与の大御本尊が女性の成仏をさせる真の力がある仏教であることを物語っているのです。


女人往生抄 本文


【女人往生抄 文永二年 四四歳】
女人往生抄 文永2年(西暦1265年) 44歳御作


【第七の巻に後五百歳二千余年の】
法華経第七の巻に後五百歳〔ごのごひゃくさい〕である釈迦滅後二千余年の

【女人の往生を明かす事を云はゞ、】
末法時代における女性の往生が明かしています。その内容を話すと、

【釈迦如来は十九にして浄飯〔じょうぼん〕王宮を出で給ひて、】
釈迦牟尼仏は、十九歳で父である浄飯王の王宮を出て、

【三十の御年成仏し、八十にして御入滅ならせ給ひき。】
三十歳で成仏し、八十歳で入滅されたのですが、

【三十と八十との中間を数ふれば年紀五十年なり。】
成仏した三十歳と入滅した八十歳の間を数えると、その年数は五十年となります。

【其の間一切経を説き給ひき。】
その間に釈迦牟尼仏は、すべての経文を説かれたのです。

【何れも皆衆生得度の御ため無虚妄〔むこもう〕の説、】
いずれも、すべて衆生を救う為のものであり、すべてにおいて嘘ではなく、

【一字一点もおろ〔疎〕かなるべからず。】
一字一句も疎〔おろそ〕かにしてはならないのです。

【又凡夫の身として】
智慧がなく仏の智慧に頼らなければ成仏できない凡夫の身としては、

【是を疑ふべきにあらず。】
このことを疑うべきではありません。

【但し仏説より事起こりて、】
しかし、それらは、ただ一人の釈迦の口より出た言葉なのに、

【小乗大乗・権大乗実大乗・】
小乗経、大乗経、権大乗経、実大乗経、

【顕教密教と申す名目〔みょうもく〕新たに出来せり。】
顕教、密教と言う立て分けが、後に出て来たのです。

【一切衆生には皆成仏すべき種〔たね〕備はれり。】
すべての衆生に成仏する為の種が備〔そな〕わっているのですが、

【然りと雖も小乗経には此の義を説き顕はさず。】
小乗経には、その意義は顕〔あらわ〕されてはいないのです。

【されば仏の説き給ふ経なれども、】
そうであれば釈迦牟尼仏の説いた経文ではあっても、

【諸大乗経には多く】
大乗経では、それを説いていない小乗経を一様に低い教えであると言って

【小乗経を嫌へり。】
嫌っているのです。

【又諸大乗経にも法華已前の四十余年の諸大乗経には、】
また同じ大乗経でも、法華経以前の四十余年の間に説かれた多くの大乗経では、

【一切衆生に多分は仏性の義をば許せども、】
すべての衆生に仏になる種の存在を説明してはいるけれども、

【又一類の衆生には無仏性の義を説き給へり。】
いまだ一部の謗法の衆生には、仏になる種がないことを説いているのです。

【一切衆生多分仏性の義は巧〔たく〕みなれども、】
せっかく、すべての衆生に仏性があると言っているのに、

【一類無仏性の義がつたな〔拙〕き故に、】
仏性がない者もいると言っては、

【多分仏性の巧みなる言も又拙〔つたな〕き言と成りぬべし。】
それほど優れているとも思えないのです。

【されば涅槃経に云はく】
そうであるからこそ涅槃経には

【「衆生に是仏性有りと信ずと雖も、必ずしも一切皆悉〔ことごと〕く之有らず。】
「衆生に仏性が有ると信じていても、必ずしもすべてではない。

【是の故に名づけて信不具足と為す」等云云。】
これを名づけて信不具足と言う」と説かれているのです。

【此の文の心は一切衆生に多分仏性ありと説けども、】
この文章の心は、すべての衆生に仏性が有ると説いているけれども、

【一類に無しと説けば、】
謗法の者にはないと説けば、

【所化の衆生は闡提〔せんだい〕の人と成るべしと云ふ文なり。】
多くの衆生には仏性はないと説いているのと同じで、

【四十余年の衆生は】
法華経を説くまでの四十余年の間の衆生は、

【三乗・五乗倶〔とも〕に】
菩薩、縁覚、声聞の三乗、それに天界と人界を加えた五乗ともに

【闡提の人と申す文なり。】
仏性はない人々であるという意味なのです。

【されば仏、無量義経に四十余年の諸経を結して云はく】
そうであればこそ、釈迦牟尼仏は、無量義経に四十余年の経文を

【「四十余年未だ】
「法華経以前の四十余年の間は、

【真実を顕はさず」文。】
いまだ真実を顕していない」と言われているのです。

【されば智者は且〔しばら〕く置く。】
そう言うことで、智慧がある者は、これを学ばず、

【愚者に於ては且く四十余年の御経をば仰いで信をなして置くべし。】
愚かな者は、法華経以前の四十余年の経文を学んでそれを信じているのです。

【法華経こそ「正直に方便を捨てゝ但〔ただ〕無上道を説く、】
法華経こそ「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説く、

【妙法華経は皆是〔これ〕真実」と釈迦多宝の二仏定めさせ給ふ上、】
妙法華経は、すべて、これ真実である」と説いたのは、釈迦、多宝の二仏であり、

【諸仏も座に列〔つら〕なり給ひて、舌を出ださせ給ひぬ。】
多くの仏がその法華経の説法の集会に参加して証明されたのです。

【一字一文・一句一偈なりとも、】
これを一字一句であっても、

【信心を堅固に発〔お〕こして疑ひを成すべからず。】
強く信じて、疑いを持ってはならないのです。

【其の上、疑ひを成すならば】
それでも疑う者がいれば、法華経には

【「疑ひを生じて信ぜざる者は即ち当に悪道に堕〔お〕つべし」】
「疑いを生じて信ぜざる者は、即座に悪道に堕ちる」とあり、

【「若〔も〕し人信ぜずして】
「もし、人が信じないのであれば、

【乃至其の人命終〔みょうじゅう〕して阿鼻獄に入らん」と、】
その人は、命が終って無間地獄に入る」と説かれており、

【無虚妄の御舌をもて定めさせ給ひぬれば、】
せっかく仏が衆生を心配されて、このように言われているのに、

【疑ひをなして悪道におちては何の詮か有るべきと覚ゆ。】
わざわざ、それを疑って悪道に堕ちて何になるのでしょうか。

【されば二十八品】
そうであれば、法華経二十八品の

【何〔いず〕れも疑ひなき其の中にも、】
いずれも疑いがなく、真実であり、その中においても、

【薬王品の後五百歳の文と勧発品〔かんぼつぽん〕の後五百歳の文とこそ】
薬王品の後五百歳の文章と勧発品の後五百歳の文章こそ、他の経文にはない、

【殊〔こと〕にめづ〔珍〕らしけれ。勧発品には此の文三処にあり。】
ことに大事な内容なのです。この勧発品には、この文章が三カ所にあり、

【三処倶に後五百歳、】
その三カ所は、ともに後五百歳、

【二千余年已後の男女等に亘〔わた〕る。】
釈迦滅後二千余年以後の末法の男女の事が書いてあるのです。

【薬王品には此の文二処にあり。】
薬王品には、この文章が二カ所にあり、

【一処には後五百歳に法華経の南閻浮提に流布すべき由を説かれて候。】
一カ所は、後五百歳に法華経が東洋に流布する事が説かれています。

【一処には後五百歳の女人の法華経を持ちて、】
また一カ所には、後五百歳に女性が法華経を持〔たも〕って、

【大通智勝仏の第九の王子・阿弥陀如来の浄土、】
大通智勝仏の第九の王子、阿弥陀如来の浄土、つまり、

【久遠実成の釈迦如来の分身〔ふんじん〕の】
久遠実成の釈迦如来の分身、

【阿弥陀の本門同居〔どうご〕の浄土に往生すべき様を説かれたり。】
阿弥陀が住んでいる法華経本門の浄土に往生する様子が説かれているのです。

【抑〔そもそも〕仏には】
そもそも、仏の教えに

【偏頗〔へんぱ〕御坐〔おわ〕すまじき事とこそ思ひ侍〔はべ〕るに、】
不平等という事はないと思うので、

【後五百歳の男女ならば】
後五百歳の男女であるならば、

【男女にてこそ御坐すべきに、】
男女共にと言うべきなのにここでは女性と言われています。

【余処に後五百歳の男女】
他では、後五百歳の男女は、

【法華経を持ちて往生成仏すべき由の委細なるに、】
法華経を持〔たも〕って往生成仏すると説かれているのに、

【重ねて後五百歳の女人の事を説かせ給へば、】
ここで重ねて詳細に後五百歳の女性だけの事を説かれると、

【女人の御為にはいみじく聞こゆれども、】
女性の為には、良いように思えるけれども、

【男子の疑ひは尚あるかと覚ゆる故に、】
男性からは、男性は往生出来ないのかと疑いが出て、

【仏には偏頗のおわするかとたの〔頼〕もしくなき辺もあり。】
仏であっても不平等と言う事もあるのかも知れないと思って、

【旁〔かたがた〕疑はしき事なり。】
この話を、なかなか信じられないのです。

【然りと雖も力及ばず、後五百歳二千余年已後の女人は】
しかし、そうは言っても、後五百歳、釈迦滅後二千余年以後の女性は、

【法華経を行じて、阿弥陀仏の国に往生すべしとこそ御覧じ侍りけめ。】
法華経を修行して阿弥陀如来の国に往生する事を説かれているのです。

【仏は悉達〔しった〕太子〔たいし〕として御坐せしが、】
釈迦牟尼仏が悉達太子と名乗っていた時、

【十九の御出家なり。三十の御年仏に成らせ給ひたりしかば、】
つまり十九歳の時に出家され、その後、三十歳で仏に成られて、

【迦葉〔かしょう〕等の大徳・通力〔つうりき〕の人々】
迦葉などの威徳がある力のある人々が、

【千余人付きまいらせたりしかども、】
ぞくぞくと千余人も弟子になりましたが、

【猶〔なお〕五天竺の外道怨〔あだ〕み奉りてあや〔危〕うかりしかば、】
インドの外道がそれを怨〔うら〕んで命さえ危ない状態になったので、

【浄飯大王おほ〔仰〕せありしやうは、】
父である浄飯大王は、このように嘆いたのです。

【悉達太子をば位を譲り奉りて転輪聖王と仰ぎ奉らんと思し召ししかども、】
悉達太子に王位を譲って世界の大王にしようと思ったけれども、

【其の甲斐もなく出家して仏となり給ひぬ。】
その甲斐もなく出家して仏となってしまった。

【今は又人天一切衆生の師と成らせ給ひぬれば、】
今は、人界、天界のすべての衆生の師匠と成ってしまったので、

【我一人の財〔たから〕にあらず、一切衆生の眼目〔げんもく〕なり。】
もはや、私一人の宝ではなく、すべての衆生の眼目〔がんもく〕となった。

【而るを外道に云〔い〕ひ甲斐〔がい〕なく】
しかし、外道にその非道をいくら言って聞かせても、その甲斐もなく、

【あやまたせ奉る程ならば悔ゆるとも甲斐なけん。】
悉達太子が殺されてしまえば、いくら悔いても意味がない。

【されば我を我と思はん一門の人々は、出家して仏に付き奉れと】
そうであるならば、一族の者を出家させて釈迦の弟子にしようと思い、

【仰せありしかば、】
浄飯大王は、釈迦族の人々にその事を告げたのです。

【千人の釈子出家して仏に付き奉る。】
そこで千人の釈迦一族の人々が次々に出家して仏に付き従ったのです。

【千人の釈子一々に浄飯王宮にまひ〔参〕り、】
そして千人の釈迦族の人々が浄飯王の宮殿に行き、

【案内を申して御門を出で給ひしに、】
王の前で別れを告げ、いざ、その門を出ようとすると、

【九百九十八人は事ゆへ〔故〕なく御門の橋を打ち渡りき。】
九百九十八人は、何事もなく、その門の橋を渡ったのですが、

【提婆達多〔だいだばった〕と瞿伽利〔くがり〕とは橋にして馬倒れ】
提婆達多と瞿伽利が橋を渡ろうとすると、いきなり馬が倒れて、

【冠〔かんむり〕ぬ〔脱〕げたりき。相人〔そうにん〕之を見て、】
被〔かぶ)っていた王冠が脱げてしまったのです。それを見ていた釈迦族の人達は、

【此の二人は仏の聖教の中に利益あるべからず。】
この二人は、釈迦牟尼仏の人生において利益とはならないであろう。

【還〔かえ〕って仏教によて重罪を造りて】
かえって仏教によって重い罪を作ってしまい

【阿鼻地獄に堕つべしと相〔そう〕したりき。】
無間地獄に堕ちるのではないかと心配したのです。

【又震旦国〔しんだんこく〕には周の第十三平王の御宇〔ぎょう〕に、】
また、中国には、周の第十三代、平王の時代に、

【かみ〔髪〕をかうぶ〔被〕り、身赤裸〔あかはだか〕なる者出で来たれり。】
カツラを被〔かぶ〕り、真っ裸の者が多く出たのです。

【相人相して云はく、百年に及ばざるに世将〔まさ〕に亡びなんと。】
その姿を見て、心ある人々は、百年のうちに、周の世は、亡びるだろうと心配し、

【此等の先相に寸分も違はず。】
その通りに周は滅びてしまったのです。

【遂〔つい〕に瞿伽利、現身に阿鼻地獄に提婆と倶に堕ち、】
結局は、瞿伽利は、提婆達多と共に生きたまま無間地獄に堕ち、

【周の世も百年の内に亡びぬ。】
周の世も百年の内に亡びたのです。

【此等は皆仏教の智慧を得たる人は一人もなし。】
これを予言した人々の中に仏教の智慧を得た人は、誰一人いないのです。

【但二天・三仙・六師と申す外典、三皇・五帝等の儒家共〔じゅけども〕なり。】
ただインドの外典で学んだ者や儒教を信じている人々ばかりなのです。

【三惑〔さんなく〕一分も断ぜず、】
見思惑、塵沙惑、無明惑の三惑を少しも断ぜず、

【五眼〔ごげん〕の四眼既に欠けて】
肉眼、天眼、慧眼 、法眼、仏眼の五眼のうちの四眼が欠けて

【但肉眼〔にくげん〕計りなり。一紙の外をもみ〔見〕ず、】
肉眼だけの人々なのです。紙に書かれている事以外、理解できず、

【一法も推〔お〕し当てん事難かるべし。】
そこから一つの法則でさえ、推量する事が難しい人々だったのですが、

【然りと雖も此等の事一分も違はず。】
それでもこの事は、少しの違いもなかったのです。

【而るに仏は五重の煩悩の雲晴れ、五眼の眼曇り無く、】
仏は、五重の煩悩の雲が晴れ、五眼の眼に曇り無く、

【三千大千世界・無量世界・過去未来現在を】
三千大千世界、無量世界、過去未来現在を、

【掌〔たなごころ〕の中に照知照見せさせ給ふが、】
掌〔てのひら〕を見るようにz知っているのです。

【後五百歳の南閻浮提の一切の女人、法華経を一字一点も信じ行ぜば、】
後五百歳の東洋のすべて女性は、法華経を一字一句だけでも信じて修行をすれば、

【本時同居の安楽世界に往生すべしと、】
阿弥陀如来のいる場所と同じ安楽な世界に往生するのです。

【知見し給ひける事の貴く】
この内容を詳しく、わからなくても釈迦牟尼仏が言っていると知っているだけでも、

【憑〔たの〕も敷〔し〕き事云ふ計りなし。】
心強く、たのもしく思えるのではないでしょうか。

【女人の御身として漢の李夫人・楊貴妃・王昭君・小野小町・】
女性の身として過去の中国の李夫人や楊貴妃、王昭君、過去の日本の小野小町や

【和泉式部と生まれさせ給ひたらんよりも、当世の女人は喜ばしかるべき事なり。】
和泉式部と生まれるよりも、現在の女性は、喜こぶべきではないでしょうか。

【彼等は寵愛〔ちょうあい〕の時にはめづら〔珍〕しかりしかども】
この女性たちは、美しい時には、珍しがられたけれども、

【一期は夢の如し。】
一生は夢のように儚〔はかな〕いものなのです。

【当時は何れの悪道にか】
この当時の女性は、どのような悪道を行ってしまって

【侍らん。】
現在の女性として生まれなかったのでしょうか。

【彼の時は世はあがり〔上代〕たりしかども、或は仏法已前の女人、】
この時代は、神代のことであり、仏法がある以前の女性であり、

【或は仏法の最中〔もなか〕なれども後五百歳の已前なり。】
たとえ仏法があっても後五百歳以前のことなのです。

【仏の指し給はざる時なれば】
この時代は、釈迦牟尼仏が仏法を説いている時代ではないので、

【覚束〔おぼつか〕なし。】
その根拠は、あやふやなものですが、

【当世の一切の女人は仏の記し置き給ふ後五百歳二千余年に当たって】
現在のすべての女性は、釈迦牟尼仏が遺言された後五百歳の末法であり、

【是実〔まこと〕の女人往生の時なり。】
釈迦滅後二千余年の事であり、すべての女性が往生する時代なのです。

【例せば、冬は氷乏しからず、春は花珍しからず、】
例えば、冬には、氷は沢山あり、春には、花は珍しくなく、

【夏は草多く、秋は菓〔このみ〕多し。時節此くの如し。】
夏には、草が多く、秋には、木の実が多いのです。季節さえこのようであるのです。

【当世の女人往生も】
現在の女性の往生も、

【亦此くの如し。】
また、このようであって、どんな女性でも必ず往生できる時代なのです。

【貪〔とん〕多く瞋〔しん〕多く愚〔ぐ〕多く慢〔まん〕多く嫉〔しつ〕多きを】
たとえ、貪欲、瞋恚〔しんに〕、愚痴、慢心、嫉妬が多く、

【嫌はず。】
そのことに少しも気が付かなくても、

【何に況んや、此等の過〔とが〕無からん女人をや。】
ましてや、このようなことがない女性であれば、なおさら往生は間違いないのです。

【問うて云はく、内外典の詮〔せん〕を承るに】
それでは質問しますが、内典、外典の結論を教えてもらいましたが、

【道理には過ぎず。】
それは、ただの道理に過ぎないのではないでしょうか。

【されば天台釈して云はく「明者は其の理を貴び、】
そうであれば天台大師は、それを解釈して「賢い者は、その理論を貴〔とうと〕び、

【暗者は其の文を守る」文。】
愚かな者は、その文章を守る」と、このように言っています。

【釈の心はあきらかなる者は道理をたっとび、】
この解釈の意味は、賢者は、書いてある内容の道理をたっとび、

【くらき者は文をまもると会〔え〕せられて侍り。】
愚者は、文章の表面上の言葉を守ると言われているのです。

【さればこそ此の「後五百歳に若し女人有って」の文は、】
そうであればこそ、この「後五百歳に、もし、女性がいて」の文章は、

【仏説なれども心未だ顕はれず。】
仏説であるけれども、その意味は、未だ顕われては、いないのではないでしょうか。

【其の故は正法千年は】
その故は、正法千年は、

【四衆倶に持戒なり。】
男の僧侶、女の僧侶、男の信者、女の信者、四衆ともに持戒である。

【故に女人は五戒を持ち、比丘尼は五百戒を持ちて、】
故に女性は、五戒を持ち、女性の僧侶は、五百戒を持って、

【破戒無戒の女人は市の中の虎の如し。】
破戒無戒の女性は、都会の中の虎のように稀であるのです。

【像法一千年には破戒の女人・比丘尼是多く、】
像法一千年には、破戒の女性、女性の僧侶が多く、

【持戒の女人は是希〔まれ〕なり。】
持戒の女性は、希〔まれ〕なのです。

【末法に入っては無戒の女人是多し。】
また、末法に入っては、無戒の女性が多いのです。

【されば末法の女人いかに賢しと申すとも】
そうであれば末法の女性が、いかに賢いと言っても

【正法・像法の女人には過ぐべからず。】
正法、像法の女性には、かなわないのです。

【又減劫〔げんこう〕になれば】
また、世の中が滅亡に向かっている日々であれば、

【日々に貪瞋癡〔とんじんち〕増長すべし。】
なおさら貪瞋癡の害毒が増すのです。

【貪瞋癡強盛〔ごうじょう〕なる女人を法華経の機とすべくば】
また貪瞋癡が強盛である女性を法華経が説かれる原因とするのであれば、

【末法万年等の女人をも取るべし。】
末法万年の女性をもその中に入れるべきでしょう。

【貪瞋癡微薄〔みはく〕なる女人をとらば】
貪瞋癡が少ない女性をその中に入れるならば

【正像の女人をも取るべし。】
正法時代、像法時代の女性もその中に入れるべきでしょう。

【今とりわけて後五百歳二千余年の女人を】
今、とりわけて後五百歳、釈迦滅後二千余年の女性だけのことを、

【仏の記させ給ふ事は第一の不審なり。】
釈迦牟尼仏が書かれているのは、大きな疑問です。

【答へて云はく、此の事第一の不審なり。】
それに答えると、この事は、まさに大きな疑問ではあるのです。

【然りと雖も試みに一義を顕はすべし。】
しかし、試みにその答えの一端を述べてみましょう。

【夫〔それ〕仏と申すは大丈夫〔だいじょうぶ〕の相を具せるを仏と名づく。】
そもそも、仏と言うのは、非常に丈夫な身体の姿を備えている事を言うのです。

【故に女人は大丈夫の相無し。】
ですから、そもそも、女性に丈夫な身体の姿などは、ないのです。

【されば諸小乗経には一向に女人成仏を許さず。】
そうであるから、小乗経は、一様に女性の成仏を許していないのです。

【女人も男子と生まれて後に成仏あるべしと説かる。】
女性は、男性と生まれて、その後に成仏するのです。

【諸大乗経には多分は女人成仏を許さず。】
また大乗経でも多くは、女性の成仏は許していないのです。

【少分成仏往生を許せども又有名無実〔うみょうむじつ〕なり。】
成仏往生を許していると言っても、それは、有名無実のことなのです。

【然りと雖も法華経は九界の一切衆生、】
そうであっても法華経だけは、九界の一切衆生、

【善悪・賢愚・有心無心・有性無性・男子女人、】
善悪、賢愚、有心無心、有性無性、男性女性、

【一人も漏れなく成仏往生を許さる。】
一人も漏れなく成仏往生が許されているのです。

【然りと雖も経文略を存する故に、】
そうであっても経文の脈絡が存在する為に、

【二乗作仏・女人悪人の成仏・久遠実成等をこまや〔細〕かに説いて、】
二乗作仏、女性、悪人の成仏、久遠実成などを詳細に説いて、

【男子・善人・菩薩等の成仏をば委細にあげず。】
男性、善人、菩薩などの成仏は、詳細には説いていないのです。

【人此を疑はざる故か。】
もちろん、これらの人々の成仏は、疑いないことなのです。

【然るに在世には仏の威徳の故に成仏やすし。】
なぜならば、釈迦牟尼仏の在世には、仏の尊い姿の為に成仏しやすいのです。

【仏の滅後には成仏は難く、往生は易かるべし。】
仏の滅後には、成仏は難しく、往生は易〔やさ〕しいのです。

【然りと雖も滅後には二乗少〔すく〕なく善人少なし、】
そうではあっても滅後には、二乗は少なく、善人は少なく、

【悪人のみ多かるべし。悪人よりも女人の生死〔しょうじ〕を離れん事かたし。】
悪人のみ多いのです。その悪人よりも女性が生死を離れる事は難しいのです。

【然りと雖も正法一千年の女人は】
そうではあっても正法一千年の女性は、

【像法・末法の女人よりも少〔すこ〕しなをざりなるべし。】
像法、末法の女性よりも少し、なおざりになっているのです。

【諸経の機たる事も有りなん。】
法華経以外の経文が広がる時期でもあったのでしょうが、

【像法の末、末法の始めよりの女人は】
像法の末、末法の始めの女性は、

【殊に法器にあらず。】
特に法華経以外を理解できる器には、なれなかったのです。

【諸経の力及ぶべからず。】
このように法華経以外の経文では、力が及ばず、

【但法華経計り助け給ふべし。】
法華経のみが女性を助ける事が出来るのです。

【故に次上〔つぎかみ〕の文に十喩〔じゅゆ〕を挙ぐるに、】
故に次の文章には、十のたとえを挙〔あ〕げて、

【川流〔せんる〕江河〔こうが〕の中には大海第一、、】
すべての河川の中では、大海が第一であり、

【一切の山の中には須弥山〔しゅみせん〕第一、】
すべての山の中では、須弥山が第一であり、

【一切の星の中には月天子第一、】
すべての星の中では、月が第一であり、

【衆星〔しゅしょう〕と月との中には日輪第一等とのべて】
あらゆる星と月の中では、太陽が第一であると述べて、

【千万億の已今当〔いこんとう〕の諸経を挙げて】
千万億の過去、現在、未来の法華経以外の経文を挙〔あ〕げて、

【江河・諸川・衆星等に譬へて、法華経をば大海・須弥・日月等に譬へ、】
河川、衆星などに例えて、法華経を大海、須弥山、日月などに例えているのです。

【此くの如く讃〔ほ〕め已〔お〕はりて、】
このように褒めて、

【殊に後五百歳の女人に此の経を授け給ひぬるは、】
特に釈迦滅後、後五百歳の末法時代の女性に、この法華経を授けているのは、

【五濁〔ごじょく〕に入り正像二千年過ぎて末法の始めの女人は】
五濁悪世の末法に入り、正像二千年の女性よりも末法の始めの女性は、

【殊に諂曲〔てんごく〕なるべき故に、諸経の力及ぶべからず、】
特に諂曲である故に、法華経以外の経文では、力が及ばないからなのです。

【諸仏の力も又及ぶべからず、但〔ただ〕法華経の力のみ及び給ふべき故に、】
諸仏の力も、また及ぼないからなのです。ただ法華経の力のみが及ぶ故に、

【後五百歳の女人とは説かれたるなり。】
釈迦滅後、後五百歳の女性と説かれているのです。

【されば当世の女人は法華経を離れては往生協〔かな〕ふべからざるなり。】
そうであれば、現在の女性は、法華経を離れては往生は叶わないのです。

【問うて云はく、双観経に】
それでは質問しますが、双観経には、

【法蔵比丘の四十八願の第三十五に云はく】
法蔵比丘の四十八願の第三十五には、このように説かれています。

【「設〔も〕し我仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏の世界に其れ女人有って、】
「もし、私が仏と成って、十方無量不可思議の諸仏の世界に女性がいて、

【我が名字を聞いて歓喜信楽〔しんぎょう〕して】
私の名前を聞いて歓喜し、

【菩提心を発〔お〕こし女身を厭悪〔えんお〕せんに、】
仏道修行の心を起こし女性の身体を嫌悪して、

【寿終〔じゅじゅう〕の後】
寿命が終わっての後、

【復〔また〕女像と為〔な〕らば正覚を取らじ」文。】
また、女性と生まれたならば、成仏は不可能である」と説かれています。

【善導〔ぜんどう〕和尚の観念法門に云はく】
善導和尚の観念法門には

【「乃〔すなわ〕ち弥陀の本願力に由るが故に女人仏の名号を称〔とな〕へば、】
「すなわち阿弥陀如来の本願の力に依って、女性が仏の名前を唱えるならば、

【正しく命終の時即ち女身を転じて男子と成ることを得。】
間違いなく命が終った時に女性の身体が変わって男性と成る事が出来るのです。

【弥陀は手を接〔と〕り、菩薩は身を扶〔たす〕け、】
阿弥陀如来は、手を取って、菩薩は、身体を持って、

【宝華〔ほうけ〕の上に坐して仏に随って往生し、仏の大会〔だいえ〕に入って】
宝華の上に座って、仏に案内されて往生し、仏の集会に参加して、

【無生を証悟せん」文。】
二度と娑婆世界に生まれないことを確信できるのです」と説かれています。

【又云はく「一切の女人若し弥陀の名願力に因〔よ〕らずんば、】
また「すべての女性が、もし、阿弥陀如来の名前と本願の力に依らないならば、

【千劫・万劫・恒河沙〔ごうがしゃ〕等の劫にも】
千劫、万劫、恒河沙という長大な時間においても、

【終〔つい〕に女身を転じ得〔う〕べからず」等文。】
最終的に女性から男性に変わる事は出来ない」とあります。

【此の経文は弥陀の本願に依って女身】
この経文は、阿弥陀如来の本願に依ってのみ女身が

【男子と成りて往生すべしと見えたり。】
男と成って往生すると説かれているように思えるのです。

【又善導和尚の「不因弥陀名願力者」等の釈は、】
また善導和尚の「不因弥陀名願力者」などの解釈は、

【弥陀の本願によらずば、】
阿弥陀如来の本願に依らなければ

【女人の往生有るべからずと見えたり、】
女性の往生は、有るはずがないと言う意味ではないですか。

【如何〔いかん〕。】
如何〔いかが〕でしょうか。

【答へて云はく、双観経には女人往生の文は有りといへども、】
それに答えると、双観経には、女性の往生の文章では有るけれども、

【法華経に説かるゝとろこの川流江河の内、或は衆星の光なり。】
所詮〔しょせん〕、法華経に説かれるところの、河川の内、星の光であるのです。

【末代後五百歳の女人弥陀の願力に依って往生せん事は、】
末法時代の後五百歳の女性が阿弥陀如来の本願の力に依って往生する事は、

【大石を小船に載せ大胄〔おおよろい〕を弱兵に著〔き〕せたらんが如し。】
大きな石を小船に載せ、思い荷を体の弱い者に背負わせるのと同じなのです。


ページのトップへ戻る