日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


四菩薩造立抄

四菩薩造立抄 (御書1368頁)

背景と大意
本抄は、弘安2年(西暦1279年)5月17日、日蓮大聖人が58歳の時、身延から下総(千葉県)の富木常忍に送られたものです。
御真筆は、不明です。
本抄の冒頭に富木常忍からの御供養の品として「薄墨〔うすずみ〕の染め衣一・同色の袈裟一帖」とあり、日蓮大聖人が法衣として用いられていた衣と袈裟が、現在の日蓮正宗と同じく薄墨染めの色であったことがわかります。
法衣の色に関しては、第二祖日興上人が遺誡置文の中で「一、衣の墨、黒くすべからざる事」とあります。
また、なぜ、薄墨染めの衣を着用するのかについては、第二十六世日寛上人の六巻抄の当家三衣抄第六に詳しく説明されています。
さらに本抄の最初に、まず、本門久成の教主釈尊と久遠地涌の四菩薩の造立時期について富木常忍の質問が示されており、それは、富木常忍がすでに賜わっている観心本尊抄に「其の本尊の為体〔ていたらく〕、本師の娑婆の上に宝塔空〔くう〕に居〔こ〕し、塔中〔たっちゅう〕の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士〔きょうじ〕上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属〔けんぞく〕として末座に居し、迹化〔しゃっけ〕・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処〔しょ〕して雲閣月卿〔うんかくげっけい〕を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処したまふ。」(御書654頁)と末法下種の御本尊の相貌を御教示されて、さらにその時期について「此等の仏をば正像に造り画〔えが〕けども未〔いま〕だ寿量の仏有〔ましま〕さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。」(御書654頁)とあったからと思われます。
しかし、富木常忍は、当時の常識であった本尊と言えば、木像や絵像であると思い込んでいたようで、富木常忍が日蓮大聖人の甚深の法門をどの程度理解できていたのか、はなはだ疑問であったのです。
恐らく理解できていなかったのではないかと思われるのは、佐渡以前のことではありますが、大黒供養とか、釈尊の一体仏の木像を造立しており、大聖人は、一往の化導の上から、容認されてはいますが、それが日蓮大聖人を御本仏と仰ぐ文底下種仏法ではないことは当然であり、それは、富木常忍が賜わっている観心本尊抄に「在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但〔ただ〕し彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり。」(御書656頁)とあるように、在世は、文上脱益の一品二半であり、末法は、文底下種の南無妙法蓮華経であり、したがって先の観心本尊抄に仰せの本尊とは、事の一念三千の本尊であり、十界具足の大曼荼羅であるのです。
すでに日蓮大聖人は、御本尊を御図顕されており、文永十年(西暦1273年)の経王殿御返事には、四条金吾に御本尊を授与され「其の御本尊は正法・像法二時には習へる人だにもなし。」(御書685頁)と前代未聞、未顕の御本尊であることを御教示されているのです。
そうであればこそ、観心本尊抄には「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為〔な〕す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支〔がっし〕・震旦〔しんだん〕に末〔いま〕だ此の本尊有〔ましま〕さず。」(御書661頁)とあり、「此の時」とは末法の闘諍堅固の時を指し、「地涌千界出現」とは、御本仏、日蓮大聖人の出現なのです。まさに「本門の釈尊を脇士と為〔な〕す一閻浮提第一の本尊」とは、本抄を著わされた弘安二年(西暦1279年)の戒壇の大御本尊なのです。 このように「観心本尊抄」を賜わり、その御文を拝していたにもかかわらず、その御真意を富木常忍は知りえなかったのです。
それゆえに「本門久成〔くじょう〕の教主釈尊を造り奉り、脇士〔きょうじ〕には久成地涌の四菩薩を造立〔ぞうりゅう〕し奉るべし」と言われている本尊は、いつ造立されるのでしょうかと質問したのでしょう。
したがって、日興上人は、日蓮大聖人の仏法における本尊について「富士一跡門徒存知事」に「聖人御立ての法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯〔ただ〕御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし、即ち自筆の本尊是なり。」(御書1872頁)と御指南されているのです。
この「富士一跡門徒存知事」に見られるように、日興上人以外の五老僧も本尊について邪義に陥っていたのです。
この事実からも、富木常忍が大聖人の正意を理解出来なかったことは容易に察せられるのです。
しかし、富木常忍は、大聖人外護の第一人者であり、また天台教学にも詳しく、それなりの財力もあったので、観心本尊抄を始めとする多くの重要御書を与えられ、令法久住の為に数々の御書を後世に伝えられたのです。
そこで法華経本門久成の教主釈尊と四菩薩が造立される時期についての質問に対して、末法が四菩薩造立の時であり、顕す人が必ず出現するとし、仏法の上からみれば、末法の法華経の行者である日蓮大聖人が世界一の富める者であることを御教示されています。
さらには、末法が法華経本門の時だからと言って、迹門を捨てよとは、教えていないことを述べられ、そのような邪説を立てる者は、日蓮の弟子ではないと厳しく指導されています。
それは、釈迦仏法の文上の法華経の本迹に執着することなく、文底下種の教主、日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、大聖人の本意の法門を習うことが最も大事であることを示されているのです。
最後に、三位房日行の死去の報に触れられて、本抄を終えられています。

第一章 本門の本尊建立の時 [先頭へ戻る]

【四菩薩造立抄 弘安二年五月十七日 五十八歳】
四菩薩造立抄 弘安2年5月17日 58歳御作

【白小袖〔こそで〕一・薄墨〔うすずみ〕の染め衣一・】
白小袖一枚、薄墨色の染め衣一枚、

【同色の袈裟〔けさ〕一帖〔いちじょう〕・鵞目〔がもく〕一貫文給び候。】
同色の袈裟一帖、銭一貫文を頂戴いたしました。

【今に始めざる御志、言〔ことば〕を以て宣〔の〕べがたし。】
前々からの御志は、言葉にする事が出来ないものです。

【何れの日を期してか対面を遂げ、】
いつの日にか御会いして、

【心中の朦朧〔もうろう〕を申し披〔ひら〕かんや。】
いままで感謝が出来なかった気持ちを申し上げたいものです。

【一、御状に云はく、本門久成〔くじょう〕の教主釈尊を造り奉り、】
御手紙に本門久成の教主、釈尊を造り奉り、

【脇士〔きょうじ〕には久成地涌の四菩薩を造立〔ぞうりゅう〕し奉るべしと】
脇士には、久成の地涌の四菩薩を造立し奉ると、

【兼ねて聴聞仕り候ひき。】
かねてから聞いておりました。

【然れば聴聞の如くんば何れの時かと云云。】
もし、それが聞いた通りであれば、いずれの時代に成るのかと思案しております。


第二章 閻浮提未曾有 [先頭へ戻る]

【夫〔それ〕仏、世を去らせ給ひて二千余年に成りぬ。】
仏が世を去られてから、二千余年となります。

【其の間月氏・漢土・日本国・一閻浮提〔えんぶだい〕の内に仏法の流布する事、】
その間にインド、中国、日本、さらに一閻浮提に仏法が広く流布し、

【僧は稲麻〔とうま〕のごとく法は竹葦〔ちくい〕の如し。】
僧侶は、稲や麻のように、法門は、竹や葦のように多くあります。

【然るにいまだ本門の教主釈尊並びに本化の菩薩を造り奉りたる寺は】
しかし、未だに本門の教主、釈尊と本化の菩薩を造って本尊とした寺は、

【一処も無し。三朝の間に未だ聞かず。】
一箇所もなく、インド、中国、日本の三国でも、未だ聞いたことがないのです。

【日本国に数万の寺々を建立せし人々も、】
日本国中に数万の寺を建立した人々も、

【本門の教主・脇士を造るべき事を知らず。】
本門の教主と脇士を造るべきことを知らないのです。

【上宮太子は仏法最初の寺と号して四天王寺を造立せしかども、】
上宮太子は、日本における仏法最初の寺院として、四天王寺を造立したけれども、

【阿弥陀仏を本尊として脇士には観音等の四天王を造り副(そ)へたり。】
阿弥陀仏を本尊とし、脇士には観音などを立てて、四天王をそえたのです。

【伝教大師延暦寺〔えんりゃくじ〕を立て給ふに、】
伝教大師は、延暦寺を建てられましたが、

【中堂には東方の鵞王〔がおう〕の相貌〔そうみょう〕を造りて本尊として、】
中堂には、東方の鵞王の相貌を造って本尊とされ、

【久成の教主・脇士をば建立し給はず。】
久成実成の教主と脇士は、建立されなかったのです。

【南京〔なら〕七大寺の中にも此の事を未だ聞かず。】
奈良の七大寺の中にも、この事は、いまだ聞いたことがありません。

【田舎の寺々以て爾〔しか〕なり。】
田舎の寺々もまた同様なのです。


第三章 仏の禁めを重んず [先頭へ戻る]

【かたがた不審なりし間、】
あれこれ不審に思ったので、

【法華経の文を拝見し奉りしかば其の旨〔むね〕顕然なり。】
法華経の文章を拝見すると、その旨が明らかに書いてあるのです。

【末法闘諍〔とうじょう〕堅固〔けんご〕の時にいたらずんば】
ようするに、末法の闘諍堅固の時に至らなければ

【造るべからざる旨分明〔ふんみょう〕なり。】
造立してはならないことが明瞭なのです。

【正像に出世せし論師人師の造らざりしは、】
正法、像法二千年間に出世した論師、人師が造立しなかったのは、

【仏の禁〔いまし〕めを重んずる故なり。】
この仏の禁めを重んずるゆえなのです。

【若し正法・像法の中に久成の教主釈尊並びに脇士を造るならば、】
もし、正法、像法の中で久遠実成の教主、釈尊と脇士を造るならば、

【夜中に日輪出で日中に月輪の出でたるが如くなるべし。】
夜中に日輪が出て、日中に月輪が出現したようなものなのです。

【末法に入つて始めの五百年に、上行菩薩の出でさせ給ひて造り給ふべき故に、】
末法に入って始めの五百年に、上行菩薩が出現されて造立するべきであるゆえに、

【正法・像法の四依の論師人師は言にも出ださせ給はず。】
正法、像法年間の四依の論師、人師は、言葉にも出されなかったのです。

【竜樹・天親こそ知らせ給ひたりしかども、】
竜樹、天親は、心の中では、知っていましたが、

【口より外へ出ださせ給はず。】
口に出して説くことはなかったのです。

【天台智者大師も知らせ給ひたりしかども、迹化〔しゃっけ〕の菩薩の一分なれば】
天台智者大師も心では、知っておられましたが、迹化の菩薩の一分ですから、

【一端は仰せ出ださせ給ひたりしかども、】
一端は、仰せられましたが、

【其の実義をば宣〔の〕べ出ださせ給はず。】
その実義は、述べられなかったのです。

【但ねざめの枕に時鳥〔ほととぎす〕の一音〔ひとこえ〕を聞きしが如くにして、】
ちょうど寝ざめの間際に、ホトトギスが一声を鳴いたのを聞いたように、

【夢のさめて止〔や〕みぬるやうに弘め給ひ候ひぬ、】
夢から覚めて、それが現実とも思えずに弘められなかったのです。

【夫〔それ〕より已外の人師はまして一言をも仰せ出だし給ふ事なし。】
いわんや、それ以外の人師は、一言も仰せられていないのです。

【此等の論師人師は霊山にして、迹化の衆は】
それは、これらの論師、人師たちに、霊鷲山において、

【末法に入らざらんに、正像二千年の論師人師は】
末法になる前の、正像二千年間に、

【本門久成の教主釈尊並びに久成の脇士地涌上行等の四菩薩を】
本門久成の教主、釈尊、並びに久成の脇士、地涌上行などの四菩薩のことを、

【影ほども申し出だすべからずと御禁〔いまし〕めありし故ぞかし。】
露ほども申し出してはならないと、厳しく禁じられたからなのです。


第四章 四菩薩建立の時 [先頭へ戻る]

【今末法に入りぬれば尤〔もっと〕も仏の金言の如きんば、造るべき時なれば】
今、末法に入って、仏の金言の通りであれば、

【本仏本脇士造り奉るべき時なり。】
本仏、並びに本脇士を、造立する時なのです。

【当時は其の時に相当たれば、】
今は、まさにその時に当たっているので、

【地涌の菩薩やがて出でさせ給はんずらん。】
地涌の菩薩もやがて出現されることでしょう。

【先づ其の程に四菩薩を建立し奉るべし。尤も今は然るべき時なりと云云。】
その時こそ四菩薩を建立し奉るべきなのです。もっとも、今がその時なのです。

【されば天台大師は】
それゆえに天台大師は、法華文句巻一で

【「後五百歳遠く妙道に沾〔うるお〕はん」とした〔慕〕ひ、】
「後の五百歳遠く妙道に沾うであろう」と末法を慕い、

【伝教大師は】
伝教大師は、守護国界章巻上の下に

【「正像稍〔やや〕過ぎ已〔お〕はって末法太〔はなは〕だ近きに有り。】
「正像やや過ぎおわって末法、はなはだ近きにあり、

【法華一乗の機、今正〔まさ】しく是其の時なり」と恋ひさせ給ふ。】
法華一乗が弘まるのは、今、正に是れ其の時である」と恋されているのです。

【日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども、】
日蓮は、世間的には、日本第一の貧しい者であるけれども、

【仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富める者なり。】
仏法の上から論ずるならば、一閻浮提第一の富める者なのです。

【是〔これ〕時の然らしむる故なりと思へば喜び身にあまり、】
これは、時の然〔しか〕らしむる故であると思うと、喜びは身にあまり、

【感涙押さへ難く、教主釈尊の御恩報じ奉り難し。】
感涙、押えがたく、教主、釈尊の御恩は、報じ奉り難いのです。

【恐らくは付法蔵の人々も日蓮には果報は劣らせ給ひたり。】
おそらくは、付法蔵の人々も、日蓮より果報は、劣っており、

【天台智者大師・伝教大師等も及び給ふべからず。】
また天台智者大師、伝教大師も及ばないでしょう。

【最も四菩薩を建立すべき時なり云云。】
今こそ、四菩薩を建立すべき時であるのです。

【問うて云はく、四菩薩を造立すべき証文之〔これ〕有りや。】
それでは、四菩薩を造立すべき証文はあるのでしょうか。

【答へて云はく、涌出品に云はく】
それは、法華経従地涌出品第十五に

【「四導師有り。一をば上行と名づけ、二をば無辺行と名づけ、】
「四人の導師が有って、一をば、上行と名づけ、二をば、無辺行と名づけ、

【三をば浄行と名づけ、四をば安立行と名づく」等云云。】
三をば、浄行と名づけ、四をば、安立行と名づく」とあります。

【問うて云はく、後五百歳に限るといへる経文之〔これ〕有りや。】
それでは、後の五百歳に限るという経文はあるのでしょうか。

【答へて云はく、薬王品に云はく「我が滅度の後、後五百歳の中に】
それは、同じく薬王菩薩本事品第二十三に「我が滅度の後、後の五百歳の中に、

【閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」等云云。】
閻浮提に広宣流布して断絶することが無い」とあるのです。


第五章 迹門捨棄の僻見 [先頭へ戻る]

【一、御状に云はく、太田方の人々、】
一、御状によれば、太田の人々が、

【一向に迹門に得道あるべからずと申され候由、】
今末法においては、一向に本門のみに得道があって、

【其の聞こえ候と。】
迹門には、得道がないと言われているそうですが、

【是は以ての外の謬〔あやま〕りなり。御得意〔こころえ〕候へ。】
これは、もってのほかの間違いなのです。よくよく心得てもらいたいものです。

【本迹二門の浅深・勝劣・与奪・傍正は時と機とに依るべし。】
本門と迹門の浅深、勝劣、与奪、傍正は、仏法流布の時と機根とによるのです。

【一代聖教を弘むべき時に三つあり。】
仏の一代聖教を弘める時に、正法、像法、末法の三つの時があるのです。

【機もて爾〔しか】なり。】
機根も、また、これらの三つの時によって異なるのです。

【仏滅後正法の始めの五百年は一向小乗、】
仏の滅後、正法の始め五百年間は、一向に小乗教の弘まるべき時であり、

【後の五百年は権大乗、像法一千年は法華経の迹門等なり。】
正法の後半五百年は、権大乗教、像法一千年は、法華経迹門が流布する時なのです。

【末法の始めには一向に本門なり。】
末法の始めには、一向に法華経の本門が弘まる時なのです。

【一向に本門の時なればとて迹門を捨つべきにあらず。】
ただし、一向に本門の時であるからと言って、迹門を捨てるべきではありません。

【法華経一部に於て前の十四品を捨つべき経文之〔これ】無し。】
法華経すべてにおいて、前の十四品を捨てよと言う経文はないのです。

【本迹の所判は一代聖教を三重に配当する時、】
本門、迹門の判別は、一代聖教を三重に配当する時、

【爾前迹門は正法像法、】
爾前と迹門とは、正法と像法の時に弘まり、

【末法は本門の弘まらせ給ふべき時なり。】
末法の時は、本門の弘まるべき時なのです。

【今の時は正には本門、傍には迹門なり。】
今の時は、正には、本門であり、傍には、迹門であるのです。

【迹門無得道と云ひて、迹門を捨てゝ一向本門に心を入れさせ給ふ人々は、】
ゆえに迹門無得道と言って迹門を捨てて、本門ばかりを信ずる人々は、

【いまだ日蓮が本意の法門を習はせ給はざるにこそ、】
未だ日蓮の本意の法門を知らないのであって、

【以ての外の僻見〔びゃっけん〕なり。私ならざる法門を僻案せん人は、】
もってのほかの僻見なのです。大事な法門を曲げて考える人は、

【偏〔ひとえ〕に天魔波旬〔はじゅん〕の其の身に入り替はりて、】
ひとえに天魔波旬がその身に入り替わって、

【人をして自身ともに無間〔むけん〕大城に墜つべきにて候。つたなしつたなし。】
他人と自身を共に、無間地獄に堕としてしまうのです。愚かなことです。

【此の法門は年来〔としごろ〕貴辺に申し含めたる様に】
この法門は、長年、あなたに申し含めているように、

【人々にも披露あるべき者なり。】
人々にも教えてください。

【総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ。】
総じて日蓮の弟子と名乗って、法華経を修行する人は、日蓮のようにするべきです。

【さだにも候はゞ、釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も】
そうするならば、釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏、十羅刹も

【御守り候べし。】
必ず守護されるでしょう。

【其れさへ尚人々の御心中は量りがたし。】
そうであるのに太田の人々の心中は、量りがたいものです。

【一、日行房死去の事不便〔ふびん〕に候。】
一、日行房が死去されたことは、実に不憫に思います。

【是にて法華経の文読み進らせて南無妙法蓮華経と唱へ進らせ、】
この身延の山で法華経を読み、南無妙法蓮華経と唱えて、

【願はくは日行を釈迦・多宝・十方の諸仏、】
願わくは、日行房を、釈迦、多宝、十方の諸仏に、

【霊山へ迎へ取らせ給へと申し上げ候ひぬ。】
霊山浄土へ迎えて欲しいとお願い申し上げました。

【身の所労いまだきらきらし〔快然〕からず候間省略せしめ候。】
我が身の病気も、未だよくならないので、他の事は、ここで省略して、

【又々申すべく候。恐々謹言。】
また後日申し上げることにします。恐れながら申し上げます。

【弘安二年五月十七日   日蓮花押】
弘安2年5月17日   日蓮花押

【富木殿御返事】
富木殿御返事


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