日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


富木常忍御消息文 33 富城入道殿御返事

【富城入道殿御返事 弘安四年一〇月二二日 六〇歳】
富城入道殿御返事 弘安4年10月22日 60歳御作


【今月十四日の御札〔ぎょさつ〕同じき十七日到来〔とうらい〕、】
今月14日の手紙には、同じく17日に到着、

【又去ぬる後の七月十五日の御消息同じき二十比〔はつかごろ〕到来せり。】
また、さる7月15日の手紙にも、同じく20日頃、到着したとありました。

【其の外度々の貴札〔きさつ〕を賜〔たま〕ふと雖も、】
その他、度々、手紙を頂きましたが、

【老病〔ろうびょう〕たるの上又不食気〔ふしょくげ〕に候間、】
老病の身の上であり、食事も進まないので、

【未だ返報を奉らず候条、其の恐れ少なからず候。】
いまだ返事を差し上げていない事に、恐縮しております。

【何よりも去ぬる後〔のちの〕七月の御状の内に云はく、】
それらの中で、何よりも7月の手紙の中に

【鎮西〔ちんぜい〕には大風吹き候ひて浦々島々に破損の船充満の間、】
「九州の鎮西府では、大風が吹いて、浦々、島々に難破した船が充満している、

【乃至京都には思円〔しえん〕上人。】
また、京都で思円〔しえん〕上人の調伏〔じょうぶく〕の祈禱〔きとう〕によって、

【又云はく、理豈〔あに〕然〔しか〕らんや等云云。】
蒙古が敗れたとあり、そのような道理があるでしょうか」などとありました。

【此の事別して此の一門の大事なり。】
この事は、別しては、日蓮一門の大事です。

【総じて日本国の凶事〔きょうじ〕なり。】
総じては、日本の凶事です。

【仍〔よ〕って病を忍んで一端是を申し候はん。】
その為、病苦を忍んで、その事について一端を申し上げましょう。

【是偏〔ひとえ〕に】
思円〔しえん〕上人の祈禱〔きとう〕によって、蒙古を調伏〔じょうぶく〕した

【日蓮を失はんとして】
などと言う事は、ただ、日蓮を葬〔はうむ〕ってしまおうとして、

【無かろう事を造り出ださん事兼ねて知れり。其の故は、】
有り得ない事を捏造したことであると最初から知っています。

【日本国の真言宗等の七宗】
それは、日本の俱舎、成実、律、法相、三論、華厳、真言宗の七宗、

【八宗の人々の大科〔たいか〕今に始めざる事なり。】
天台宗を加えた八宗の人々の大悪事は、今に始まった事ではないのです。

【然りと雖も且〔しばら〕く一を挙げて万を知らしめ奉らん。】
しかし、ここで一例を挙げて、すべてを知らせましよう。

【去ぬる承久年中に隠岐〔おき〕の法皇、】
去る承久三年に隠岐〔おき〕の法皇が

【義時を失はしめんが為の調伏〔じょうぶく〕を山の座主・東寺・】
北条義時を除く為に、義時調伏〔じょうぶく〕を比叡山の座主、東寺、

【御室〔おむろ〕・七寺・園城に仰せ付けらる。】
仁和寺、奈良七大寺、園城寺に命ぜられ、

【仍って同じき三年の五月十五日、鎌倉殿の御代官・】
同じ三年の五月十五日、鎌倉幕府の代官、

【伊賀太郎判官〔はんがん〕光末〔みつすえ〕を】
伊賀太郎判官〔はんがん〕光末〔みつすえ〕を

【六波羅に於て失はしめ畢〔おわ〕んぬ。】
京都の六波羅で殺害させたのです。

【然る間、同じき十九日廿日鎌倉中に騒ぎて、】
その間に同じ五月十九日、二十日に、その報告が届き、鎌倉中が大騒ぎとなって、

【同じき廿一日山道・海道・北陸道の三道より】
北条義時は、同五月二十一日、中山道、東海道、北陸道の三道から

【十九万騎の兵者〔つわもの〕を指〔さ〕し登〔のぼ〕す。】
十九万騎の兵を京都に向けて出発させました。

【同じき六月十三日、其の夜の戌亥〔いぬい〕の時より】
同じく六月十三日、その夜の8時から10時より

【青天俄〔にわ〕かに陰〔くも〕りて震動雷電して、】
青天が、たちまちに曇〔くも〕って雷電が鳴り渡り、

【武士〔もののふ〕共〔ども〕】
武士達の

【首〔こうべ〕の上に鳴り懸〔か〕かり鳴り懸かりし上、】
頭の上で鳴り響き、

【車軸の如き雨は篠〔しの〕を立つるが如し。】
車軸のような激しい雨は、篠を立てたようであったのです。

【爰〔ここ〕に十九万騎の兵者等、遠き道は登りたり、】
十九万騎の兵達は、遠い道を行軍して、

【兵乱〔ひょうらん〕に米は尽きぬ、馬は疲れたり、在家の人は皆隠れ失せぬ、】
兵乱の為に米は、尽き、馬は、疲れ、付近の住民は、皆、逃げてしまいました。

【冑〔かぶと〕は雨に打たれて綿〔わた〕の如し。】
冑〔かぶと〕は、雨に打たれて綿のようになったのです。

【武士共宇治〔うじ〕勢田〔せた〕に打ち寄せて見ければ、】
武士達が宇治川と瀬田川に押し寄せてみると、

【常には三丁四丁の河なれども】
いつもなら、300m、400mの川幅であるのに、

【既に六丁七丁十丁に及ぶ。】
大雨のため、600m、700m、1000mの川幅にもなっていたのです。

【然る間、一丈二丈の大石は枯葉の如く浮かび、】
しかも、3m、6mもある大石が枯葉のように浮かび、

【五丈六丈の大木流れ塞〔ふさ〕がること間〔ひま〕無し。】
15m、18mの大木によって、流れが塞がれて、すき間がないのです。

【昔利綱〔としつな〕・高綱〔たかつな〕等が】
昔、足利利綱〔としつな〕と佐々木高綱〔たかつな〕などが

【度〔わた〕せし時には似るべくも無し。】
渡った時とは、比べることもできなかったのです。

【武士之を見て皆臆〔おく〕してこそ見えたりしが、】
武士は、これを見て、皆、臆したようにみえましたが、

【然りと雖も今日を過ごさば】
そうは言っても、今日を逃してしまうと、

【皆心を翻〔ひるがえ〕して堕ちぬべし。】
皆、心を飜〔ひるがえ〕して、京都方に堕ちてしまうことでしょう。

【去る故に馬筏〔いかだ〕を作りて之を度す処に、】
その為に馬筏〔いかだ〕を作って、向こう岸に渡ろうとしたところ、

【或は百騎或は千万騎、】
あるいは、百騎、あるいは、千騎、万騎と、

【此くの如く皆我も我もと度〔わた〕ると雖も、】
そのようにして、皆、我も我もと川を渡ったのですが、

【或は一丁或は二丁三丁渡〔わた〕る様なりと雖も、】
あるいは、100m、あるいは、200m、300mと渡っても、

【彼の岸に付く者は一人も無し。】
向こう岸に着く者は、誰一人おらず、

【然る間、緋綴〔ひおどし〕赤綴〔あかおどし〕等の冑〔よろい〕、】
こうして緋綴〔ひおどし〕、赤綴〔あかおどし〕などの鎧〔よろい〕、

【其の外弓箭〔きゅうせん〕・兵杖〔ひょうじょう〕・】
その他、弓や矢や武器の刀、

【白星の甲〔かぶと〕等の河中に流れ浮かぶ事は、】
白星の冑〔かぶと〕などが川の中に浮かぶ姿は、

【猶長月〔ながつき〕神無月〔かんなづき〕の紅葉〔もみじ〕の】
まるで九月か十月頃の紅葉〔もみじ〕が

【吉野・立田の河に浮かぶが如くなり。】
吉野や立田川に浮かぶようであったのです。

【爰に叡山・東寺・七寺・園城等の高僧等之を聞くことを得て、】
このことを聞いた比叡山、東寺、奈良七大寺、園城寺などの高僧は、

【真言の秘法大法の験〔しるし〕とこそ悦び給ひける。】
真言の秘法、大法の験〔しるし〕と喜んだのです。

【内裏〔だいり〕の紫宸殿〔ししんでん〕には山の座主・東寺・御室〔おむろ〕、】
宮中の紫宸殿では、比叡山の座主、東寺、仁和寺の高僧が、

【五壇十五壇の法を】
真言密教の五壇、十五壇の修法を

【弥〔いよいよ〕盛んに行なはれければ法皇の御叡感〔ごえいかん〕極まり無く、】
いよいよ盛んに行じたので、後鳥羽院上皇は、感嘆される事、この上なく、

【玉の厳〔かざ〕りを地に付け】
玉の飾りを地につけ、

【大法師等の御足〔みあし〕を御手にて摩〔な〕で給ひしかば、】
修法の大法師などの足を、その手で摩〔な〕でられたので、

【大臣公卿〔くぎょう〕等は庭の上へ走り落ち】
その他の大臣、公卿〔くぎょう〕などは、庭の上へ走り降りて、

【五体を地に付けて高僧等を敬ひ奉る。又宇治勢田にむかへたる公卿・】
五体を地につけ高僧を敬ったのです。また、宇治、瀬田に出陣した公卿、

【殿上人〔てんじょうびと〕は甲を震〔ふる〕ひ挙げて】
殿上人〔てんじょうびと〕は、関東武者に対し、冑〔かぶと〕を震い挙げて

【大音声〔おんじょう〕を放って云はく、】
大音声〔おんじょう〕を放って言ったのです。

【義時所従の毛人〔えびす〕等慥〔たし〕かに承れ。】
「義時の家来の田舎者よ、心して聞け。

【昔より今に至るまで王法に敵を作〔な〕し奉る者は何者か安穏なるや。】
昔より今に至るまで、王法に敵対した者で安穏であった者がいるか。

【狗犬〔くけん〕が師子を吼〔ほ〕えて其の腹破れざること無く、】
犬が師子に吼えて、その腹が破れなかった事などなく、

【修羅が日月を射るに其の箭〔や〕還〔かえ〕りて】
修羅が日月を射て還〔かえ〕って

【其の眼に中〔あた〕らざること無し。遠き例は且く之を置く。】
その矢が自らの眼に刺さらなかったことはない。遠い外国の例は、しばらくおいて、

【近くは我が朝に代〔よ〕始まって人王八十余代の間、】
近くは、日本が始まって以来、人王八十余代の間の例を挙げれば、

【大山〔おおやま〕の皇子〔みこ〕・】
応神天皇の子、大山守皇子〔おおやまもりのみこ〕や

【大石の小丸を始めとして廿余人に、】
日本書紀にある豪族、文石小麻呂〔あやしのおまろ〕を始めとして二十余人が

【王法に敵を為〔な〕し奉れども一人として素懐〔そかい〕を遂げたる者なし。】
王法に敵対したが、誰一人として謀叛の目的を達した者はいない。

【皆頸〔くび〕を獄門に懸〔か〕けられ、】
皆、獄門〔ごくもん〕に頚〔くび〕をかけられ、

【骸〔かばね〕を山野に曝〔さら〕す。】
死骸〔しがい〕を山野に曝〔さら〕した。

【関東の武士等、或は源平或は高家〔こうけ〕等、】
今や関東の武士など、源氏と平氏、あるいは、高家〔こうけ〕が、

【先祖相伝の君〔きみ〕を捨て奉り、】
先祖が相伝した大君〔おおきみ〕を捨てて、

【伊豆の国の民たる義時が下知〔げち〕に随ふ故に】
伊豆国の民の出である北条義時の命令に随った為に、

【かゝる災難は出で来たるなり。王法に背き奉り民の下知に随ふ者は、】
このような災難が起こったのである。王法に背き、民の命令に随う者は、

【師子王が野狐〔やこ〕に乗せられて】
師子王が妖怪の狐に乗せられて、

【東西南北に馳走するが如し。】
東西南北に駈け巡っているようなものである。

【今生の恥之を何如〔いかん〕。】
これこそ一生の恥であり、これをどうするのか。

【急ぎ急ぎ甲を脱ぎ弓弦〔ゆづる〕をはづして、】
急いで冑〔かぶと〕を脱ぎ捨て、弓弦〔ゆづる〕を外〔はず〕して、

【参〔まい〕れ参れと招きける程に、何〔いか〕に有りけん、】
すぐに降参せよ」と告げたのですが、どうしたことか、

【申〔さる〕酉〔とり〕の時にも成りしかば、】
午後4時から6時になると、

【関東の武士等河を馳〔は〕せ度〔わた〕り、勝ちかゝりて責めし間、】
関東の武士は、川を駆け上がり、優勢に攻撃してきたので、

【京方の武者共一人も無く山林に逃げ隠るゝの間、】
京都方の武者達は、一人残らず、山林に逃げ隠れてしまったのです。

【四つの王をば四つの島へ放ちまいらせ、】
そこで、関東の武士達は、四人の王を四つの島へ流罪に処し、

【又高僧・御師・御房達は或は住房を追はれ或は恥辱に値ひ給ひて、】
また、高僧、御師、御房などは、住む寺を追われ、様々な恥辱にあって、

【今に六十年の間いまだそのはぢをすゝがずとこそ見え候に、】
それから、今まで六十年間、未だに、その恥をそそいでいないと思われるのに、

【今亦彼の僧侶の御弟子達】
今、また、それらの祈禱〔きとう〕を行った僧侶の弟子達が

【御祈禱承られて候げに候あひだ、】
ふたたび、祈禱〔きとう〕を仰せつけられたのです。

【いつもの事なれば、秋風に纔〔わず〕かの水に】
そして、いつも吹く秋風による僅かな波浪で、

【敵船賊船なんどの破損仕〔つかまつ〕りて候を、】
蒙古の船が破損したのを、

【大将軍生〔い〕け取〔ど〕りたりなんど申し、】
蒙古の大将軍を生け取りにしたなどと言い、

【祈り成就の由を申し候げに候なり。】
祈りが成就したなどと誇っているのです。もし、祈りが叶ったと言うのであれば、

【又蒙古の大王の頸の参りて候かと問ひ給ふべし。】
蒙古の大王の頸〔くび〕が届いたとでも言うのかと反論すべきです。

【其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず。】
その他の事は、どのように言っても返答をしては、なりません。

【御存知のためにあらあら申し候なり。】
知って置いた方が良いと思ったので、御報せしたのです。

【乃至此の一門の人々にも相触〔ふ〕れ給ふべし。】
なお、この事は、一門の人々にも伝えてください。

【又必ずしいぢ〔椎地〕の四郎が事は承り候ひ畢〔おわ〕んぬ。】
また、椎地四郎のことは、承知いたしました。

【予既に六十に及び候へば、天台大師の御恩報じ奉らんと仕り候あひだ、】
日蓮は、すでに六十歳になったので、天台大師の恩を報じようと思って、

【みぐるしげに候房をひ〔引〕きつくろ〔繕〕い候ときに、】
見苦しくなっている住まいを修繕するときに、

【さくれう〔作料〕にお〔下〕ろして候なり。】
その改築をする費用に御供養の銭を使わせて頂きました。

【銭四貫をもちて、一閻浮提第一の法華堂造りたりと、】
銭四貫文を供養して、一閻浮提、第一の法華堂を造ったと、

【霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給ふべし。恐々謹言。】
霊山浄土に行かれた時には、言ってください。恐れながら謹んで申し上げます。

【十月廿二日    日蓮花押】
10月22日    日蓮花押

【進上 富城入道殿御返事】
進上 富城入道殿御返事


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