日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


月水御書

月水御書 (御書300頁)

文永元年(西暦1264年)4月17日、43歳の時に鎌倉で本抄を認〔したた〕められました。
この月水御書の「月水」とは、女性の「月経」のことで鎌倉時代には、迷信のひとつとして女性の生理は倦〔う〕むべきであり、神道においては、汚れ多きものという認識が一般にありました。それに対して大学三郎妻から、月水の時における修行を問われて、それに答えられた内容となっています。
また、別名「方便寿量読誦事」と言われるように大学三郎の夫人から、法華経全般の読誦と一品の読誦とは、どちらが良いのかとの質問に法華経の方便品と如来寿量品の読誦を勧められている御書であり、現在の日蓮正宗の化儀と同じとなっています。また、他にも「報大学三郎妻書」「大学抄」と呼ばれることもあり、御真筆は存在していません。末尾に、大聖人、自〔みず〕から「大学三郎殿御内御報」と宛名されているように、鎌倉に住んでいた大学三郎の夫人に与えられた御書で詳細は判っていません。 夫の大学三郎は、姓は比企〔ひき〕、名は、能本〔よしもと〕 で、正式には、比企大学三郎能本と言います。吾妻鏡によると京都で儒学を習学し、承久の乱後に順徳天皇の佐渡島配流に同行したのちに四代将軍、藤原頼経の御台所となった姪の竹御所の計〔はか〕らいによって儒官〔じゅかん〕として幕府に用〔もち〕いられたと言います。その為、立正安国論を北条時頼に提出されるにあたり、あらかじめ、この大学三郎に確認をとられていることがわかっています。
竹御所の死後に、比企家の菩提を弔うため、本行院日学として出家し、比企ヶ谷の自分の屋敷を法華堂としました。これが現在の鎌倉の妙本寺の前身となります。 このような経緯から、大学三郎の夫人も、大聖人の仰せどおりの純粋にして着実な信心修行を実践されていたであろうことは、「四条金吾殿御返事」の中に「だいがくどの〔大学殿〕ゑもん〔衛門〕のたいうどの〔大夫殿〕の事どもは申すまゝにて候あいだ、いのり叶ひたるやうにみえて候。」(御書1118頁)とのお言葉から、うかがい知ることができます。
日蓮大聖人は、弘長元年(西暦1261年)2月、から弘長3年(西暦1263年)2月までの三年間、伊豆配流となりました。その翌年に執筆されたのが本抄です。
まず、最初に大聖人は、法華経には、絶大な功徳があり、その大きさは、法華経、薬王菩薩本事品、第二十三に「仏の智慧を以て多少を籌量〔ちょうりょう〕すとも其の辺を得ず」と説かれており、この仏の智慧というのは、この三千大千世界に二週間の間に降る雨の数ですらも知る事が出来るほどであるのに、ただ法華経の一字を唱えた人の功徳の大きさだけは、知ることはできないと述べられています。
それなのに日本と云う辺境の島国に五障三従の女性の身で生まれて、どんな智者、学匠であっても、近ごろは、法華経を捨てて念仏を唱えていると云うのに、どのような宿善があって、この法華経の一偈一句を唱えられる御身となられたのかと述べられ、千年に一度花が咲く優曇華〔うどんげ〕や大海で自分の体に合った穴が空いている浮き木に出会う一眼の亀よりも珍しく、稀〔まれ〕な事かと讃嘆されています。
このように、題目には、如意宝珠のように無量の福徳が具〔そな〕わっているので、法華経八巻すべてを読むのも、題目を唱えるのも、功徳は、まったく同じであると考えるべきであると断言されています。
そして、あなたのように法華経を持(たも)てば女性であっても成仏は、疑いなく、しかし、謗法があれば、必ず阿鼻地獄に堕ちることになると注意されています。
さらに法華経二十八品の中で重要なのは、方便品と寿量品であり、他は、枝葉であり、この両品を読むならば余品の功徳は、自然に具わることを教えられています。
続いて女性の生理について、それに対する経論は、仏法には、ないけれども、随方毘尼〔ずいほうびに〕と言うことが説かれており、元々、法華経を信じていない人が、なんとか世間の理屈に合わせて女性を脅し、法華経を捨てさせようとすることを考えて、当時の日本の習慣も考えて行動し、生理の一週間ほどは、礼拝においても御本尊様に向かわずに、また、身体の調子が悪いときは、無理をせず、休養を取って、経を読むことができるならば、経も読み、南無妙法蓮華経と唱えるようにと指導をされています。
日寛上人も当流行事抄において「修行に二有り、所謂〔いわゆる〕正行及び助行なり、」と言われ「当門所修〔しょしゅう〕の二行の中に初めに助行とは方便寿量の両品を読誦し正行甚深の功徳を助顕す、」と助行に方便品、寿量品の読誦を挙げられ、あくまでも正行とは、「次に正行とは、三世の諸仏の出世の本懐・法華経二十八品の最要・本門寿量の肝心・文底秘沈の大法・本地難思・境智冥合・久遠元初の自受用身の当体・事の一念三千・無作〔むさ〕本有〔ほんぬ〕の南無妙法蓮華経是れなり、荊渓〔けいけい〕尊者謂〔いえ〕る有り「正助・合行して因〔よ〕って大益を得」と御指南されているのです。

第一章 唱題の功徳 [先頭へ戻る]

【月水御書 文永元年四月一七日 四三歳】
月水御書 文永元年4月17日 43歳御作

【伝へ承る御消息の状に云はく、法華経を日ごとに一品〔いっぽん〕づつ、】
言付けられました御手紙に「法華経を日毎に一品ずつ、

【二十八日が間に一部を読みまいらせ候ひしが、】
二十八日の間に法華経一部を読誦〔どくじゅ〕して参〔まい〕りましたが、

【当時は薬王品の一品を毎日の所作〔しょさ〕にし候。】
現在は、薬王品の一品を毎日の勤〔つと〕めとしております。

【たゞもとの様に一品づつをよみまいらせ候べきやらんと云云。】
ただ、もとのように一品ずつを読誦すべきなのでしょうか」とありました。

【法華経は一日の所作に一部八巻二十八品、】
法華経は、一日の勤めに一部、八巻、二十八品、

【或は一巻、或は一品・一偈〔いちげ〕・一句〔いっく〕・一字、】
あるいは、一巻、あるいは、一品、一偈、一句、一字、

【或は題目ばかりを南無妙法蓮華経と只一遍〔いっぺん〕となへ、】
あるいは、題目ばかりを南無妙法蓮華経と、ただ一遍だけ唱え、

【或は又一期〔いちご〕の間に只一度となへ、】
あるいは、また一生の間に、ただ一度だけ唱え、

【或は又一期の間にたゞ一遍唱ふるを聞いて随喜〔ずいき〕し、】
あるいは、また一生の間に、ただ一遍だけ唱えるのを聞いて喜び、

【或は又随喜する声を聞いて随喜し、】
あるいはまた、その喜んだ声を聞いて、また喜び、

【是〔これ〕体〔てい〕に五十展転して末になりなば志もうすくなり、】
このように五十展転して、終わりに近づけば、その気持ちも薄くなり、

【随喜の心の弱き事、二三歳の幼稚の者のはかなきが如く、】
その喜びの心が弱いことは、二、三歳の幼子〔おさなご〕のように頼りなく、

【牛馬なんどの前後を弁〔わきま〕へざるが如くなりとも】
牛馬が、なにを聞いても憶えていないような状態であっても、

【他経を学する人の利根〔りこん〕にして智慧かしこく、】
他の経文を修学する者で、非常に利口で智慧も賢く、

【舎利弗〔しゃりほつ〕・目連〔もくれん〕・】
舎利弗や目連尊者、

【文殊〔もんじゅ〕・弥勒〔みろく〕の如くなる人の、】
文殊菩薩、弥勒菩薩のような、

【諸経を胸の内にうかべて御坐〔おわ〕しまさん人々の御功徳よりも、】
多くの経文を空に暗記されている人々の功徳よりも、

【勝れたる事百千万億倍なるべきよし、】
優れていることは、百千万億倍であると、

【経文並びに天台・妙楽の六十巻の中に見え侍〔はべ〕り。】
法華経や天台、妙楽大師の著わされた六十巻の書物の中に明かされているのです。

【されば経文には「仏の智慧を以て】
それゆえ、経文には「仏の智慧を以〔も〕って

【多少を籌量〔ちょうりょう〕すとも其の辺を得ず」と説かれて、】
多少を籌量すとも其の辺を得ず」と説かれており、

【仏の御智慧すら此の人の功徳をばしろしめさず。】
仏の智慧でさえ、この人の功徳を知ることはできないのです。

【仏の智慧のありがたさは、此の三千大千世界に七日、】
仏の智慧の有難さは、この三千大千世界に一週間、

【若〔も〕しは二七日なんどふる雨の数をだにも】
もしくは、二週間の間に降る雨の数ですらも、

【しろしめして御坐し候なるが、只法華経の一字を唱へたる人の】
知る事が出来るほどであるが、ただ、法華経の一字を唱えた人の

【功徳をのみ知ろしめさずと見えたり。何〔いか〕に況〔いわ〕んや、】
功徳だけは、知ることはできないと経文に説かれているのです。いかにいわんや、

【我等逆罪〔ぎゃくざい〕の凡夫の此の功徳を知り候ひなんや。】
私達のような罪深く愚かな凡夫が、この功徳の大きさを知ることができましょうか。


第二章 法華経受持を称賛 [先頭へ戻る]

【然りと云へども如来滅後二千二百余年に及んで、】
そうではありますが、釈尊滅後二千二百余年に及んで、】

【五濁〔ごじょく〕さか〔盛〕りになりて年久し。】
五濁が盛んになって年久しく、

【事にふれて善なる事ありがたし。】
何事につけても善い事は、少ない御時世です。

【設〔たと〕ひ善を作〔な〕す人も一の善に十の悪を造り重ねて、】
たとえ善を行なう人であっても、一つの善に十の悪を造り重ねてしまい、

【結句〔けっく〕は小善につけて大悪を造り、】
結局は、小さい善のために大きな悪を造り、

【心には大善を修したりと云ふ慢心〔まんしん〕を起こす世となれり。】
心では、大善を修行したと云う慢心を起こすような世となったのです。

【然るに如来の世に出でさせ給ひて候ひし国よりしては、】
ところが、あなたは、釈尊の生まれた国から、

【二十万里の山海をへだてゝ、】
二十万里の山海を隔て、

【東によれる日域〔にちいき〕辺土〔へんど〕の小島にうまれ、】
はるか東方にある日本と云う辺境の小島に生まれ、

【五障〔ごしょう〕の雲厚うして、】
女性は、梵天、帝釈、魔王、転輪聖王、仏身に成れないと云う五障の雲が厚く、

【三従〔さんじゅう〕のきづな〔絆〕につながれ給へる女人なんどの御身として、】
親、夫、子に従うと云う三つの束縛につながれた女人の御身として、

【法華経を御信用候はありがたしなんどとも】
法華経を信用されることは、まことに有難いことであり、

【申すに限りなく候。凡〔およ〕そ一代聖教を披〔ひら〕き見て、】
どのように言葉にしても尽くしがたいほどです。およそ仏教の一代聖教をみて、

【顕密〔けんみつ〕二道を究〔きわ〕め給へる様なる】
顕教、密教の二道を究めたような

【智者〔ちしゃ〕学匠〔がくしょう〕だにも、】
智者、学匠であっても、

【近来〔このごろ〕は法華経を捨て念仏を申し候に、】
近ごろは、法華経を捨てて、念仏を唱えていると云うのに、

【何〔いか〕なる御宿善〔ごしゅくぜん〕ありてか、】
あなたは、いかなる過去の善根があって、

【此の法華経を一偈〔いちげ〕一句〔いっく〕もあそばす】
この法華経の一偈一句を唱えられる

【御身と生まれさせ給ひけん。されば此の御消息を拝し候へば、】
御身と生まれられたのでしょうか。それ故、このお手紙を拝見することは、

【優曇華〔うどんげ〕見たる眼〔まなこ〕よりもめづらしく、】
優曇華を見るよりも珍しく、

【一眼〔いちげん〕の亀の浮木の穴に値へるよりも乏〔まず〕しき事かなと、】
一眼の亀が海に浮かぶ浮木の穴に身体がぴったり合うよりも稀〔まれ〕な事かと、

【心ばかりは有りがたき御事に思ひまいらせ候間、】
心から有難く尊いことであると思ったので、

【一言一点も随喜の言〔ことば〕を加へて】
一言、二言でも喜びの言葉を添えて、

【善根の余慶〔よけい〕にもやとはげみ候へども、】
あなたの善根の後押しにもなるようにと励みましたが、

【只恐らくは雲の月をかくし、塵〔ちり〕の鏡をくもらすが如く、】
ただ、おそらくは雲が月を隠し、ほこりが鏡を曇らすように、

【短く拙〔つたな〕き言にて殊勝〔しゅしょう〕にめでたき御功徳を申し隠し、】
短くつたない言葉で、非常に優れている、あなたの功徳の素晴らしさを隠し、

【くもらす事にや候らんと、いたみ思ひ候ばかりなり。然りと云へども、】
曇らすことになるのではないかと、恐れるばかりなのです。そうは、言っても、

【貴命もだ〔黙止〕すべきにあらず。】
あなたからの問いかけに黙っているわけにもいかず、このように御話するのです。

【一滴を江海〔こうかい〕に加へ、□火〔しゃっか〕を日月にそへて、】
一滴の水を大海に加え、ともし火を日月に添えて、

【水をまし光を添ふると思〔おぼ〕し食〔め〕すべし。】
水を増し光を増すようなものだと思ってください。


第三章 題目の功徳 [先頭へ戻る]

【先づ法華経と申すは八巻・一巻・一品〔いっぽん〕・一偈〔いちげ〕・】
まず、法華経と言うのは、八巻すべて読み、一巻を読み、一品を読み、一偈を読み、

【一句乃至題目を唱ふるも、功徳は同じ事と思し食すべし。】
一句を読み、題目を唱えるのも、その功徳は、同じであると考えるべきです。

【譬へば大海の水は一滴なれども無量の江河の水を納めたり。】
譬えば大海の水は、一滴であっても、無量の江河の水を納めているのです。

【如意〔にょい〕宝珠〔ほうじゅ〕は】
如意宝珠は、なんでも願いが叶うので、このことを考えれば、

【一珠〔いちじゅ〕なれども万宝〔ばんぽう〕をふらす。】
一珠であっても万宝を降らすことが出来るのです。

【百千万億の滴珠〔てきじゅ〕も又これ同じ。】
百千万億の水滴も、この宝珠も、また、これと同じなのです。

【法華経は一字も一の滴珠の如し。】
法華経は、一字であっても、一滴の海水、一つの宝珠と同じなのです。

【乃至万億の字も又万億の滴珠の如し。】
法華経の万億の文字も、また、万億の水滴や万億の宝珠のようなものなのです。

【諸経諸仏の一字一名号〔みょうごう〕は、】
法華経以外の諸経の一字、諸仏の一名号は、

【江河の一滴の水、山海の一石の如し。】
河川の一滴の水、山海の一つの石のようなものなのです。

【一滴に無量の水を備へず。】
河川の水の一滴には、無量の水は、含まれず、

【一石に無数の石の徳をそなへもたず。】
山海の一石には、無数の石の徳を備えもっていないのです。

【若し然らば、此の法華経は何れの品〔ほん〕にても御坐〔おわ〕しませ、】
もし、そうであるならば、この法華経は、どの品であれ、

【只御信用の御坐さん品こそめづらしくは候へ。総じて如来の聖教は、】
ただ、信用される品こそが尊いのであり、総じて釈尊の一代聖教は、

【何れも妄語〔もうご〕の御坐すとは承り候はねども、】
いずれも嘘、偽〔いつわ〕りがあるとは思われませんが、

【再び仏教を勘〔かんが〕へたるに、】
ふたたび、仏教を考えてみると、

【如来の金言〔きんげん〕の中にも大小・権実〔ごんじつ〕・】
釈尊の金言の中にも、大乗教と小乗教、権教と実教、

【顕密〔けんみつ〕なんど申す事、】
顕教と密教などの差別があることは、

【経文より事起こりて候。】
説かれた経文の内容の違いから起こっている事なのです。

【随って論師人師の釈義〔しゃくぎ〕にあらあら見えたり。】
そう云うことで、論師、人師の説明によって、それがおおよそは、わかるのです。

【詮〔せん〕を取って申さば、釈尊の五十余年の諸教の中に、】
ようするに、釈尊が五十余年にわたって説いた多くの教えの中で、

【先四十余年の説教は猶〔なお〕うたがはしく候ぞかし。】
最初の四十余年の説教が正しいかと問われると、かなり疑わしく思われるのです。

【仏自ら無量義経に「四十余年未顕〔みけん〕真実〔しんじつ〕」と申す経文、】
それは、仏がみずから無量義経に「四十余年、未だ真実を顕さず」という経文を

【まのあたり説かせ給へる故なり。法華経に於ては、】
説かれているからなのです。しかし、法華経においては、

【仏自ら一句の文字を「正直に方便を捨てゝ、但無上道を説く」と】
仏みずから「正直に方便である四十余年の教えを捨てて、ただ無上道を説く」と

【定めさせ給ひぬ。】
述べられて、法華経が無上道であることを教えられているのです。

【其の上、多宝仏大地より涌〔わき〕出〔い〕でさせ給ひて、】
そのうえ、多宝如来が大地から、涌き出でられて、

【「妙法華経皆是〔かいぜ〕真実〔しんじつ〕」と証明を加へ、】
「妙法華経は、すべて真実である」と証明を加えられ、

【十方の諸仏皆法華経の座にあつまりて、】
十方の諸仏は、すべて法華経の説法の集会において、

【舌を出〔い〕だして法華経の文字は一字なりとも妄語なるまじきよし】
法華経の文字は、一字たりとも妄語ではないと言葉にして、

【助成〔じょせい〕をそへ給へり。】
その証明を助けられたのです。

【譬へば大王と后〔きさき〕と長者等の一味同心に約束をなせるが如し。】
譬えば、大王と后と長者が心を一つにして、約束をしたようなものなのです。


第四章 信心の功徳 [先頭へ戻る]

【若し法華経の一字をも唱へん男女等、】
もし、法華経の一字を唱えた男女などが、その莫大な功徳があるにもかかわらず、

【十悪・五逆・四重等の無量の重業に引かれて悪道におつるならば、】
十悪、五逆罪、四つの禁戒などの無量の悪業によって悪道に堕ちるのであれば、

【日月は東より出でさせ給はぬ事はありとも、】
日月が東から出ないことがあろうとも、

【大地は反覆〔はんぷく〕する事はありとも、】
大地がひっくりかえることが、あろうとも、

【大海の潮はみちひぬ事はありとも、破〔われ〕たる石は合ふとも、】
大海の潮の満ち引きがなくなろうとも、砕けた石がもとどおりになろうとも、

【江河〔こうが〕の水は大海に入らずとも、法華経を信じたる女人の、】
高所の水が大海に流れ込まなくなっても、法華経を信仰している女人が、

【世間の罪に引かれて悪道に堕〔お〕つる事はあるべからず、】
どんなに世間の罪が深くとも、悪道に堕ちることがあるわけがないのです。

【若し法華経を信じたる女人、物をねたむ故、腹のあしきゆへ、】
もし法華経を信仰している女人が、物を妬むゆえ、意地が悪いゆえ、

【貪欲〔とんよく〕の深きゆへなんどに引かれて悪道に堕つるならば、】
欲深きゆえに、悪道に堕ちるならば、

【釈迦如来・多宝仏・十方の諸仏、無量〔むりょう〕曠劫〔こうごう〕より】
釈迦如来、多宝如来、十方の諸仏が無量劫の過去から、

【このかた持〔たも〕ち来たり給へる】
今日まで持ち続けてこられた

【不妄語戒〔ふもうごかい〕忽〔たちま〕ちに破れて、】
不妄語戒は、たちまちに破れて、

【調達〔ちょうだつ〕が虚誑罪〔こおうざい〕にも勝れ、】
提婆達多の虚誑罪以上であり、

【瞿伽利〔くがり〕が大妄語にも超えたらん。】
瞿伽利の大妄語をも超えてしまうことでしょう。

【争〔いか〕でかしかるべきや。】
どうして、そのようなことがあるでしょうか。

【法華経を持つ人憑〔たの〕もしく有りがたし。】
法華経を持つ人は、このように頼もしく、有難いのです。

【但し一生が間一悪をも犯さず、】
ただし、一生の間、一つの悪をも犯さず、

【五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒・無量の戒を持ち、】
五戒、八戒、十戒、十善戒、二百五十戒、五百戒など無量の戒を持ち、

【一切経をそらに浮かべ、一切の諸仏菩薩を供養し、】
一切経を暗記し、一切の諸仏や菩薩に供養し、

【無量の善根をつませ給ふとも、法華経計〔ばか〕りを御信用なく、】
無量の善根を積まれたとしても、法華経だけを信用せずに、

【又御信用はありとも諸経諸仏にも並べて思〔おぼ〕し食〔め〕し、】
また、信仰はしていても、諸教や諸仏と同じに考えたり、

【又並べて思し食さずとも、】
また、同等とは、思わなくても、

【他の善根をば隙〔ひま〕なく行じて時々法華経を行じ、】
法華経以外の善根をひまなく修行して、時々、法華経を修行したり、

【法華経を用ひざる謗法の念仏者なんどにも語らひをなし、】
法華経を用いない謗法の念仏者などとも親しく法門を語り合い、

【法華経を末代の機に叶はずと申す者を】
法華経を末法の理解力のない衆生には、合わない教えであるなどと言う者に対して、

【科〔とが〕とも思し食さずば、】
それを罪悪とも思わないのであれば、

【一期〔いちご〕の間行じさせ給ふ処の無量の善根も忽ちにうせ、】
一生の間に修行した無量の善根も、たちまちに消え失せ、

【並びに法華経の御功徳も且〔しばら〕く隠れさせ給ひて、】
また法華経の功徳も、しばらく隠れてしまって、

【阿鼻〔あび〕大城〔だいじょう〕に堕ちさせ給はん事、】
阿鼻大城に堕ちられることは、

【雨の空にとゞまらざるが如く、】
雨が空にとどまっていないように、

【峰の石の谷へころぶが如しと思し食すべし。】
峰の石が谷へ転げ落ちるようなものであると考えてください。

【十悪五逆を造れる者なれども、法華経に背〔そむ〕く事なければ、】
十悪、五逆を造った者であっても、法華経に背くことがなければ、

【往生〔おうじょう〕成仏は疑ひなき事に侍〔はべ〕り。】
往生成仏は疑いないことなのです。

【一切経をたもち、諸仏菩薩を信じたる持戒〔じかい〕の人なれども、】
一切経を持ち、諸仏や菩薩を信じている持戒の人であっても、

【法華経を用ひる事なければ、】
法華経を用いなければ、

【悪道に堕つる事疑ひなしと見えたり。】
悪道に堕ちることは、疑いないと経文に説かれてあるのです。

【予が愚見〔ぐけん〕をもて近来〔このごろ〕の世間を見るに、】
しかし私が愚見をもって、近ごろの世間を見ると、

【多くは在家・出家、誹謗〔ひぼう〕の者のみあり。】
多くは、在家、出家ともに法華誹謗の者ばかりなのです。


第五章 方便・寿量の読誦 [先頭へ戻る]

【但し御不審の事、】
では、法華経のどの品を読めばよいのかとのあなたの疑問についてお答えします。

【法華経は何〔いず〕れの品も先に申しつる様に愚〔おろ〕かならねども、】
法華経は、どの品も先に申し上げたように、おろそかにすることは、できませんが、

【殊〔こと〕に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り。】
ことに二十八品の中でも優れている、素晴らしい品は、方便品と寿量品なのです。

【余品〔よほん〕は皆枝葉〔しよう〕にて候なり。されば常の御所作には、】
他の品は、すべて、その枝葉なのです。それゆえ、平常の御勤めには、

【方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ。】
方便品の長行と寿量品の長行とを読むようにしてください。

【又別に書き出だしてもあそばし候べく候。】
また、別の紙に書かれて読まれてもよいでしょう。

【余の二十六品は身に影の随ひ、玉に財〔たから〕の備〔そな〕はるが如し。】
その他の二十六品は、身に影が従い、珠玉に財産としての価値が備わるように、

【寿量品・方便品をよみ候へば、】
寿量品、方便品を読むならば、

【自然〔じねん〕に余品はよみ候はねども備はり候なり。】
自然に他の品を読まなくても、その功徳は、備わるのです。

【薬王品・提婆品〔だいばほん〕は】
法華経の薬王品、提婆品は、

【女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども、】
女人の成仏往生を説かれている品ではありますが、

【提婆品は方便品の枝葉、薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候。】
提婆品は、方便品の枝葉であり、薬王品は、方便品と寿量品の枝葉であるのです。

【されば常には此の方便品・寿量品の二品をあそばし候ひて、】
それゆえ、いつも、この方便品と寿量品の二品を読まれて、

【余の品をば時々御いとまのひまにあそばすべく候。】
他の品は、時々、暇〔ひま〕のある時に読まれるがよいでしょう。


第六章 月水時の行法 [先頭へ戻る]

【又御消息の状に云はく、】
また、御手紙には、

【日ごとに三度づつ七つの文字を拝しまいらせ候事と、】
「日毎に三度ずつ、南無妙法蓮華経と七文字の題目を申し上げていることと、

【南無一乗妙典と一万遍申し候事とをば、日毎〔ひごと〕にし候が、】
南無一乗妙典と一万遍、唱えることを日毎に行なっていますが、

【例の事に成りて候程は、御経をばよみまいらせ候はず。】
例のことに、なっている間は、経文は、読まずにおります。

【拝しまいらせ候事も、一乗妙典と申し候事も、】
その時には、七文字を拝み申し上げることも、一乗妙典と唱えることも、

【そら〔暗〕にし候は苦しかるまじくや候らん。】
御宝前にまいらずに、暗唱することなど許されるのでしょうか。

【それも例の事の日数の程は叶ふまじくや候らん。】
また、それも例の事のある間は、いけないのでしょうか。

【いく日ばかりにてよみまいらせ候はんずる等云云。】
それとも、幾日ほど過ぎれば、読誦してもよいのでしょうか。」とありました。

【此の段は一切の女人ごとの御不審に常に問はせ給ひ候御事にて侍〔はべ〕り。】
この件については、すべての女人の皆さんの疑問であり、

【又古〔いにしえ〕も女人の御不審に付いて申したる人も多く候へども、】
また、過去には、この女人の質問に答えた人も数多くいますが、

【一代聖教にさして説かれたる処のなきかの故に、】
仏の一代聖教に、とくに、これと言って説かれた経文がないからか、

【証文分明〔ふんみょう〕に出だしたる人もおはせず。】
このことを文章として明らかにした人もいないのです。

【日蓮粗〔ほぼ〕聖教を見候にも、】
日蓮が釈迦牟尼仏の教典を、ほぼ、すべて見ても、

【酒肉〔しゅにく〕・五辛〔ごしん〕・婬事〔いんじ〕なんどの様に、】
酒肉、五辛、婬事などのように、

【不浄を分明に月日をさして禁〔いまし〕めたる様に、】
不浄を明らかにされて禁止されているように、

【月水をいみたる経論を未だ勘〔かんが〕へず候なり。】
月水を忌み嫌う経論を未だ見出してはいないのです。

【在世の時、多く盛んの女人尼になり、仏法を行ぜしかども、】
釈尊在世の時、多くの若い女人が尼僧になり、仏法を修行したのですが、

【月水の時と申して嫌はれたる事なし。是をもて推〔お〕し量〔はか〕り侍るに、】
月水の時と言ってとくに嫌われたことはなく、このことから推測するのには、

【月水と申す物は外より来たれる不浄にもあらず、】
月水と云うものは、外から来た不浄でもなく、

【只女人のくせかたわ生死の種を】
ただ、女人としての生物的性質に過ぎず、それは、生死の種を、

【継〔つ〕ぐべき理〔ことわり〕にや。又長病〔ながわずらい〕の様なる物なり。】
継ぐべき道理としてのものなのです。また長患いのようなものなのです。

【例せば屎尿〔しにょう〕なんどは人の身より出づれども】
たとえば、糞や尿などは、人の身から出ますが、

【能〔よ〕く浄くなしぬれば別にいみ〔忌〕もなし。】
清潔をたもってさえいれば、別に忌み嫌うものではないでしょう。

【是体〔これてい〕に侍る事か。】
これと同じようなことなのです。

【されば印度・支那〔しな〕なんどにもいたくいむよしも聞こえず。】
それゆえ、インドや中国でも、それほど忌み嫌うこととも聞いてはいません。


第七章 修行の要諦 [先頭へ戻る]

【但し日本国は神国なり。此の国の習ひとして、】
ただし、日本国は神国であり、この国の習慣として、

【仏菩薩の垂迹不思議に経論にあいに〔相似〕ぬ事も多く侍るに、】
仏、菩薩の働きとして現れる神は、不思議なもので、経論に合致しないことも多く、

【是をそむけば現に当罰あり。委細に経論を考へ見るに、】
これに背けば現に罰を受けるのです。委細に経論を考えてみると、

【仏法の中に随方毘尼〔ずいほうびに〕と申す戒の法門は是に当たれり。】
仏法の中の随方毘尼と云う戒の法門がこれにあたるのです。

【此の戒の心は、いた〔甚〕う事か〔欠〕けざる事をば、】
この戒の心とは、大きく仏法に相違しなければ、

【少々仏教にたが〔違〕ふとも、其の国の風俗に違〔たが〕ふべからざるよし、】
多少、仏教と違うところがあっても、その国の習慣に背かないことも、

【仏一つの戒を説き給へり。此の由を知らざる智者共、】
仏は、一つの戒であると説かれているのです。この原則を知らない智者たちは、

【神は鬼神なれば敬ふべからずなんど申す強義〔ごうぎ〕を申して、】
神は、鬼神であるから敬うべきではないなどと言う強硬論を出して、

【多くの檀那を損ずる事ありと見えて候なり。】
多くの檀那の信仰心を損なうことがあるのです。

【若し然らば此の国の明神〔みょうじん〕、】
この隨方毘尼の戒に従えば、この国の神々は、

【多分は此の月水をいませ給へり。】
多くは、この月水を嫌われ、疎〔うと〕まれる故に、

【生を此の国にうけん人々は大に忌〔い〕み給ふべきか。】
生をこの国に受けた人々は、そのとおりにするべきでしょうか。

【但し女人の日〔ひび〕の所作〔しょさ〕は苦しかるべからずと覚え候か。】
ただし、女人の毎日の勤めには、差し支えないでしょう。

【元より法華経を信ぜざる様なる人々が、】
もとより法華経を信じないような人々が、

【経をいかにしても云ひうとめんと思ふが、】
法華経を、なんとかして捨てさせようと思っているのですが、

【さすがにたゞちに経を捨てよとは云ひえずして、身の不浄なんどにつけて、】
さすがに、ただちに経を捨てよとはいえないので、身の不浄などにかこつけて、

【法華経を遠ざからしめんと思う程に、】
法華経から遠ざからせようと思っており、

【又不浄の時、此を行ずれば、経を愚かにしまいらするなんど】
不浄の時に、これを行ずれば、法華経を粗末にすることになるなどと脅して、

【をど〔脅〕して罪を得させ候なり。】
なんとか法華経を捨てる罪を犯させようとしているのです。

【此の事をば一切御心得候ひて、月水の御時は七日までも其の気あらん程は、】
このことを心得られて、月水の時は、一週間ほど、その気配のある時は、

【御経をばよませ給はずして、暗〔そら〕に南無妙法蓮華経と唱へさせ給ひ候へ。】
経を読まれずに、そらに南無妙法蓮華経と唱えられてください。

【礼拝〔らいはい〕をも経にむ〔向〕かはせ給はずして拝せさせ給ふべし。】
礼拝においても、経に向かわずに拝むようになさればよいのです。

【又不慮〔ふりょ〕に臨終なんどの近づき候はんには、】
また、身体の調子が悪く、命が危うくなり、

【魚鳥なんどを服せさせ給ひても候へ、よみぬべくば経をもよみ、】
鳥や魚を食しておられるような時でも、読むことができるならば経も読み、

【及び南無妙法蓮華経とも唱へさせ給ひ候べし。】
さらに南無妙法蓮華経とも唱えられてください。

【又月水なんどは申すに及び候はず。】
また月水のときなども、これと、まったく同じなのです。

【又南無一乗妙典と唱へさせ給ふ事、是同じ事には侍〔はべ〕れども、】
また南無一乗妙典と唱えられていることは、これも同じことではあるが、

【天親〔てんじん〕菩薩〔ぼさつ〕・天台大師等の唱へさせ給ひ候ひしが如く、】
天親菩薩や天台大師などが唱えられたように、

【只南無妙法蓮華経と唱へさせ給ふべきか。】
ただ、南無妙法蓮華経と唱えられるべきでしょう。

【是〔これ〕子細〔しさい〕ありてかくの如くは申し候なり。】
このことについては、子細があって、このように申しているのです。

【穴賢〔あなかしこ〕穴賢。】
穴賢穴賢。

【文永元年卯月十七日   日蓮花押】
文永元年4月17日   日蓮花押

【大学三郎殿御内御報】
大学三郎殿御内御報


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