日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


木絵二像開眼の事

木絵二像開眼の事(御書636頁)

本抄は、文永9年(西暦1272年)、日蓮大聖人が御年51歳の時に佐渡において認〔したた〕められた御書です。御真蹟は、伝わっていません。
本抄には、宛名や題名がなく、御書の草案ではないかと考えられています。
なお木絵二像開眼の事と云う題号は、後世に付されたもので、死骨の供養についても法華経に依らなければならないことが示されており、このことより、別に法華骨目肝心抄や法華骨目抄の名称もあります。
また、著作年月日については、いくつかの説があり、現在の御書では文永9年の著作とされています。
その理由は、本抄の「草木成仏義」の内容が文永9年2月21日著作の草木成仏口決に説かれる「草木成仏義」と一致していることや、また文永10年の観心本尊抄に説かれている内容から、本抄は、その準備段階にある文永9年にすることが一番妥当であるとされた為です。
内容については、最初にまず、仏は、三十二種類の素晴らしい相を、すべて具〔そな〕えているが、それらは、すべて色法であり、そのうち、三十一相は「可見有対色〔かけんうたいしき〕」で仏像や仏画で表現することが出来るが、梵音声〔ぼんのんじょう〕の一相だけは「不可見無対色」であり、顕すことが出来ないとされています。 しかし、涅槃経〔ねはんぎょう〕には、生身の仏と滅後の木絵の二像との功徳は、等しいと説かれており、また大瓔珞経〔だいようらくきょう〕には、木絵二像は、生身の仏に劣ると説いています。 この疑問について、木絵二像の前に経を置けば経が、仏の声となって三十二相を具足するが、心がないので三十二相を具足しても仏とは言えず、法華経を置いた場合のみ、仏となると述べられます。
なぜならば法華経の文字は、そのまま仏の真実の声であり、仏の意〔こころ〕そのものであるからなのです。
結論として「法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。」(御書637頁)と草木成仏の意義について述べられます。
しかし、法華経を侮〔あなど)る真言師などが同じことをすれば、木絵二像は、そのまま奪命者〔だつみょうしゃ〕の餓鬼、奪功徳者〔だつくどくしゃ〕の魔神となり、我を食らい子孫を亡〔ほろぼ〕し、最後には、無間地獄に堕ちると厳しく諫〔いさ〕めておられます。
さらに「智者あって法華経を読誦して骨の魂となせば、死人の身は人身、心は法身〔ほっしん〕。生身得忍〔しょうじんとくにん〕といへる法門是なり。華厳・方等・般若の円をさとれる智者は、死人の骨を生身得忍と成す。」(御書638頁)とあり、草木成仏と同じ原理で死骨に法華経を読誦して、その魂とすれば、死人の身は、人身となり、心は、法身となって、涅槃経にある「円教の理を悟った智者」が「すべての事象は、生ずることもなく滅することもない」と云う法理を認識して心が定まる「無生法忍」を得ることが出来ると述べられています。 涅槃経にある「身は人身なりと雖も心は仏心に同ず」とは、このことであると説明されています。
実際に法華経分別功徳品第十七には、「時に世尊、弥勒菩薩摩訶薩に告げたまわく、阿逸多、我、是の如来の寿命長遠なるを説く時、六百八十万億那由他恒河沙の衆生、無生法忍を得。」とあります。 しかし、この生身得忍は、無生法忍を得たと言っても、まだ生滅を離れるにとどまり、真の即身成仏とは、ほど遠いのです。 その為には、「法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身なり。是を即身といふ。さりぬる魂を取り返して死骨に入れて、彼の魂を変じて仏意と成す。成仏是なり。即身の二字は色法、成仏の二字は心法、死人の色心を変じて無始の妙境妙智と成す。是則ち即身成仏なり。」(御書638頁)と述べらています。 この事は、本抄の最後に法華経提婆達多品の文を引かれて生身得忍が「深く罪福の相を達して遍〔あまね〕く十方を照らしたまふ。」と罪福の相に智慧で通達しているのに対し、即身成仏は、「微妙〔みみょう〕の浄き法身、相を具せること三十二」と法身に仏の三十二相をそなえており、あらゆる福徳を具しているとされており、即身成仏の手本は、この提婆達多品の竜女であり、生身得忍の手本は、涅槃経の純陀〔じゅんだ〕であると述べられて本抄を終わられています。
この「法華を悟れる智者」とは、日蓮大聖人のことであり、現在では、日蓮正宗の御法主上人猊下のことであり、また、それに連なる御僧侶方であり、 御義口伝の「今日蓮等の類聖霊を訪〔とぶら〕ふ時、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、題目の光無間〔むけん〕に至って即身成仏せしむ。廻向〔えこう〕の文此より事起こるなり。法華不信の人は堕在〔だざい〕無間なれども、題目の光を以て孝子法華の行者として訪はんに豈〔あに〕此の義に替はるべきか。」(御書1724頁)とあるように、この日蓮正宗の御僧侶方に弔〔とむら〕っていただくことにより、死せる人も即身成仏することができるのです。

第一章 不可見無対色 [先頭へ戻る]

木絵二像開眼の事 (御書636頁)

【木絵二像開眼の事 文永九年 五一歳】
木絵二像開眼の事 文永9年 51歳御作

【仏に三十二相有り、皆色法〔しきほう〕なり。】
仏に三十二相があり、それらは、すべて色法です。

【最下の千輻輪〔せんぷくりん〕より終はり】
三十二相のうち、一番下の千輻輪相から、終わり

【無見頂相〔むけんちょうそう〕に至るまでの三十一相は、】
無見頂相に至るまでの三十一相は、

【可見有対色〔かけんうたいしき〕なれば書きつべし作りつべし。】
可見有対色ですから書くこともでき、作ることもできます。

【梵音声〔ぼんのんじょう〕の一相は、】
しかし、梵音声の一相だけは、

【不可見無対色〔ふかけんむたいしき〕なれば書くべからず作るべからず。】
不可見無対色ですから、書くこともできないし、作ることもできません。


第二章 木絵二像と生身の仏 [先頭へ戻る]

【仏滅後は木画〔もくえ〕の二像あり。】
仏滅後は、木像、画像の二像で仏を顕しています。

【是〔これ〕三十一相にして梵音声かけたり。】
これは、三十一相は、そなえていますが、梵音声だけは欠けています。

【故に仏に非ず。又心法〔しんぽう〕かけたり。】
それゆえに仏では、ありません。また、心法が欠けています。

【生身〔しょうじん〕の仏と木画の二像を対するに天地雲泥〔うんでい〕なり。】
このように生身の仏と木画の二像を比べると、天地雲泥の差があるのです。

【何ぞ涅槃の後分〔ごぶん〕には生身の仏と、】
それなのに、どうして涅槃経後分に生身の仏と、

【滅後の木画の二像と功徳斉等なりといふや。】
仏滅後の木画の二像と、その功徳は、等しいと説いているのでしょうか。

【又大瓔珞経〔だいようらくきょう〕には、】
菩薩瓔珞経には、

【木画の二像は生身の仏にはをと〔劣〕れりとと〔説〕けり。】
木画の二像は、生身の仏に劣ると説かれているのです。


第三章 木絵二像開眼の本義 [先頭へ戻る]

【木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり。】
実は、木画二像の仏前に経を置くとき、三十二相は、具足〔ぐそく〕するのです。

【但し心なければ、三十二相を具すれども必ずしも】
ただし、心法がなければ、三十二相を具〔そな〕えていると言っても、

【仏にあらず。】
必ずしも仏ではないのです。

【人天も三十二相あるがゆへに。】
それは、人界、天界の衆生にも三十二相があるからです。

【木絵の三十一相の前に五戒経を置けば、】
木絵の三十一相の仏像の前に五戒経を置くとき、

【此の仏は輪王とひとし。十善論と云ふを置けば、帝釈とひとし。】
この仏像は、転輪聖王と等しいのです。十善論を置くときは、帝釈と等しいのです。

【出欲論と云ふを置けば、梵王とひとし。全く仏にあらず。】
出欲論を置くときは、梵天と等しく、まったく仏ではないのです。

【又木絵二像の前に阿含経を置けば、声聞とひとし。】
また木絵二像の前に阿含経を置くときは、声聞と等しくなります。

【方等・般若の一時一会の】
方等、般若のさまざまな会座で説かれた

【共般若〔ぐうはんにゃ〕を置けば、縁覚〔えんがく〕とひとし。】
共般若の経を置くときは、縁覚と等しくなります。

【華厳・方等・般若の別円を置けば、】
華厳、方等、般若の別円の経を置くときは、

【菩薩とひとし。全く仏に非ず。】
菩薩と等しいのであり、まったく仏ではありません。

【大日経・金剛頂経・蘇悉地〔そしっじ〕経等の】
大日経、金剛頂経、蘇悉地経などの

【仏眼〔ぶつげん〕、大日の印・真言は、】
仏眼尊や大日如来の印真言は、

【名は仏眼大日といへども其の義は仏眼大日に非ず。】
名前は、仏眼、大日と言っても、その意義は、仏眼、大日ではないのです。

【例せば仏も華厳経は円仏には非ず。】
たとえば、仏と言っても華厳経の仏は、円仏ではないのです。

【名にはよらず。】
このように名前には、よらないのです。

【三十一相の仏の前に】
三十一相の仏像の前に法華経を安置するときは、

【法華経を置きたてま〔奉〕つれば必ず純円の仏なり云云。故に】
この仏像は、正しく純円の仏となります。それゆえに仏説〔ぶっせつ〕

【普賢〔ふげん〕経に】
観普賢菩薩〔かんふげんぼさつ〕行法経〔ぎょうほうきょう〕には、

【法華経の仏を説いて云はく「仏の三種の身は方等より生ず」文。】
法華経の仏を説いて「仏の法報応の三種の身は、方等から生ずる」とあります。

【是の方等は方等部の方等に非ず、法華を方等といふなり。】
この方等とは、方等部の方等ではない。法華経をさして方等と言うのです。

【又云はく「此の大乗経は是諸仏の眼なり。】
また「この大乗経は、諸仏の眼目である。

【諸仏是に因〔よ〕って五眼〔ごげん〕を具することを得る」等云云。】
諸仏は、これによって五眼をそなえることができる」と説かれています。


第四章 法華経こそ仏意 [先頭へ戻る]

【法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を、】
法華経の文字は、仏の梵音声と言う不可見無対色を、

【可見有対色のかたち〔形〕とあらは〔顕〕しぬれば、】
可見有対色のかたちに顕しているので、

【顕・形〔ぎょう〕の二色となれるなり。】
顕色と形色の二色となったのです。

【滅せる梵音声、かへ〔還〕て形をあらはして、】
消滅した梵音声が元に還〔かえ〕って形を顕し、

【文字と成りて衆生を利益するなり。】
文字となって衆生を利益するのです。

【人の声を出だすに二つあり。】
また人が声を出すには、二つの場合がありますが、

【一には自身は存ぜざれども、】
一つには、自分自身は、思っていないけれども、

【人をたぶらかさむがために声をいだす、】
他人を騙〔だま〕そうとして声を出すことがありますが、

【是は随他意〔ずいたい〕の声。】
これは、随他意の声なのです。

【自身の思ひを声にあらはす事あり、】
二つには、自分自身の思いを、そのまま声に顕すことがあります。

【されば意が声とあらはる。】
それゆえに意〔こころ〕 が声と顕れるのです。

【意は心法、声は色法。心より色をあらはす。】
意〔こころ〕は、心法、声は、色法です。心法より色法を顕しているのです。

【又声を聞いて心を知る。】
また、声を聞いて心を知ることができます。

【色法が心法を顕はすなり。】
これは、色法が心法を顕しているのです。

【色心不二なるが故に而二〔にに〕とあらはれて、】
色心不二であるがゆえに色法、心法の二つと顕れて、

【仏の御意〔みこころ〕あらはれて法華の文字となれり。】
仏の御意は、顕れて法華経の文字となったのです。

【文字変じて又仏の御意となる。】
法華経の文字は、変じて、仏の御意となるのです。

【されば法華経をよませ給はむ人は、文字と思〔おぼ〕し食〔め〕す事なかれ。】
ゆえに、法華経を読まれる人は、たんに文字と思ってはいけません。

【すなはち仏の御意なり。】
それは、とりもなおさず仏の御意なのです。

【故に天台の釈に云はく「請を受けて説く時は】
ゆえに天台大師の法華玄義、巻十上には「度々の請を受けてから法を説く時は、

【只〔ただ〕是〔これ〕教の意を説く。教の意は是仏意、】
ただ教の意を説くのである。教の意〔こころ〕とは、仏意〔ぶつい〕であり、

【仏意即ち是仏智なり。仏智至って深し。】
仏意とは、すなわち仏智である。仏智はまことに深い。

【是の故に三止〔さんし〕四請〔ししょう〕す。】
このゆえに、三度、止めて、四度、請〔こ〕うのである。

【此くの如き艱難〔かんなん〕あり。】
法華経の説法には、このような難しさがあるのです。

【余経に比するに余経は則ち易し」文。】
これを余経と比較すると余経は容易である」と著わされています。

【此の釈の中に仏意と申すは、】
この文の中で仏意と言っているのは、

【色法をおさ〔抑〕へて心法といふ釈なり。】
色法である経文を指して心法であると言う解釈なのです。


第五章 一念三千と草木成仏 [先頭へ戻る]

【法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、】
法華経を心法と定めて、三十一相の木絵の像に刻印するとき、

【木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。】
木絵二像の全体は、生身の仏となります。草木成仏と言うのは、このことなのです。

【故に天台は「一色一香無非中道」云云。】
ゆえに天台大師は「一色一香も中道実相の当体でないものはない」と述べています。

【妙楽是をうけて釈するに】
妙楽大師は、これを受けて、止観輔行伝弘決巻一の二に

【「然るに亦倶〔とも〕に色香中道を許せども、】
「世の人は、共に色香が即ち中道実相の当体であることを認めても、

【無情仏性は】
無情の色香等にも仏性が具〔そな〕わると云う草木成仏の義を聞いては、

【耳を惑〔まど〕はし心を驚かす」云云。】
耳を惑わし心を驚かせるのである」と述べられています。

【華厳の澄観〔ちょうかん〕が天台の一念三千をぬす〔盗〕んで華厳にさしいれ、】
華厳宗の澄観が天台大師の一念三千を盗んで華厳経に加〔くわ〕え、

【法華・華厳ともに一念三千なり。】
「法華と華厳とは、ともに一念三千である。

【但し華厳は頓々〔とんとん〕さき〔先〕なれば、】
ただし華厳は、優れた頓頓の教である。それは、先に説かれたからである。

【法華は漸頓〔ぜんとん〕のち〔後〕なれば、】
法華は、劣った漸頓の教である。後に説かれたからである。

【華厳は根本さき〔魁〕をしぬれば、】
また華厳は、根本である。それは、最初の説法であるからである。

【法華は枝葉等といふて、】
法華は、後の枝葉であって、その根本に帰る教である」などと言って、

【我れ理をえたりとおもへる意〔こころ〕山の如し。】
このように澄観の自分が真理を得たと思う増上慢は、山のような大きさなのです。

【然りと雖も一念三千の肝心、】
しかしながら、一念三千の肝心である、

【草木成仏を知らざる事を妙楽のわらひ給へる事なり。】
草木成仏を知らない愚かさを、妙楽大師が笑われているのです。

【今の天台の学者等、我れ一念三千を得たりと思ふ。】
今の天台宗の学者たちは、我こそ一念三千の法門を会得したと思っています。

【然りと雖も法華をも〔以〕て、或は華厳に同じ、】
しかしながら、彼等は、法華経を、あるいは、華厳経と同じであると思い、

【或は大日経に同ず。】
あるいは、大日経と同じであるとしています。

【其の義を論ずるに澄観の見〔けん〕を出でず。】
それらの意見を論ずれば、澄観の見解を出でず、

【善無畏〔ぜんむい〕・不空〔ふくう〕に同ず。詮を以て之を謂はゞ、】
善無畏、不空の説と同じであるのです。結論から言えば、

【今の木絵二像を真言師を以て之を供養すれば、】
今の木絵の二像を、真言師によって開眼供養するときは、

【実仏に非ずして権仏なり。権仏にも非ず、】
この二像は真実の仏ではなくて権仏であり、さらに言えば、権仏でもなく、

【形は仏に似れども意は本〔もと〕の非情の草木なり。】
形は、仏に似ていても、意〔こころ〕は、もとの非情の草木なのです。

【又本の非情の草木にも非ず、魔なり、鬼なり。】
また、もとの非情の草木でもなく、魔であり、鬼であるのです。

【真言師が邪義、印・真言と成りて木絵二像の意と成れるゆへに。】
真言師の邪義が印、真言となって、木絵の二像の意となってしまうからなのです。

【例せば人の思ひ変じて石と成る。】
たとえば、人の思いが、身を変えて石となすことがあります。

【倶留〔くる〕と】
死を恐れて長生の薬を飲み、石になったと言う止観私記巻十にある倶留外道と

【黄夫石〔こうふせき〕が如し。】
止観輔行伝弘決巻十の一にある迦毘羅〔かびら〕外道のようなものなのです。

【法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、】
法華経を心得た人が木絵の二像を開眼供養しないときは、

【家に主のなきに盗人〔ぬすびと〕が入り、】
家に住んでいる人がいなくて、盗人が入り、

【人の死するに其の身に鬼神入るが如し。】
人が死んだとき、その身に鬼神が入るようなものです。

【今真言を以て日本の仏を供養すれば、】
今、真言をもって日本の仏像を開眼供養するときは、

【鬼入りて人の命をうばふ。鬼をば奪命者〔だつみょうしゃ〕といふ。】
仏像に鬼が入って人の命を奪うのです。鬼を奪命者と言うのです。

【魔入りて功徳をうばふ。魔をば奪〔だつ〕功徳者といふ。】
また仏像に魔が入って人の功徳を奪うのです。魔を奪功徳者と言うのです。

【鬼をあがむるゆへに、今生には国をほろぼす。】
鬼を崇〔あが〕めるゆえに、今生には、国を滅ぼします。

【魔をたと〔尊〕むゆへに、後生には無間の獄に堕す。】
魔を尊〔とうと〕ぶ故に、後生には、無間地獄に堕ちるのです。


第六章 死骨供養 [先頭へ戻る]

【人死すれば魂去り、其の身に鬼神入れ替はりて子孫を亡ず。】
人が死んだとき魂〔たましい〕は去り、その身に鬼神が入り、子孫を滅ぼすのです。

【餓鬼〔がき〕といふは我をくらふといふ是なり。】
餓鬼と言うのは、自分自身を食べると言いますが、このことなのです。

【智者あって法華経を読誦して骨の魂となせば、】
もし智者がいて法華経を読誦して死骨〔しこつ〕の魂〔たましい〕とするときは、

【死人の身は人身、心は法身〔ほっしん〕。】
死人の身は、人身であって、心は法身となるのです。

【生身〔しょうじん〕得忍〔とくにん〕といへる法門是なり。】
生身得忍と云う法門がこれなのです。

【華厳・方等・般若の円をさとれる智者は、】
華厳、方等、般若の円教を悟った智者は、

【死人の骨を生身得忍と成す。】
死人の骨を生身得忍とすることができるのです。

【涅槃経に「身は人身なりと雖も心は】
涅槃経に「身は、人身であっても、心は、

【仏心に同ず」といへるは是なり。】
仏心と同じである」と説かれているのは、このことなのです。

【生身得忍の現証は純陀〔じゅんだ〕なり。法華を悟れる智者、】
生身得忍の現証は純陀であり、法華経を悟った智者が、

【死骨を供養せば生身即法身なり。是を即身といふ。】
死者を供養するならば、生身がそのまま法身となり、これを即身と言うのです。

【さりぬる魂を取り返して死骨に入れて、彼の魂を変じて仏意と成す。】
去っていった魂を取り返して、死骨に入れて、その魂を変えて仏の心とするのです。

【成仏是なり。即身の二字は色法、成仏の二字は心法、】
成仏とは、このことであり、即身の二字は、色法、成仏の二字は、心法なのです。

【死人の色心を変じて無始の妙境妙智と成す。】
死人の色心を変えて、無始の不可思議の境智とするのです。

【是則ち即身成仏なり。】
これが、すなわち即身成仏なのです。

【故に法華経に云はく「所謂諸法如是相(死人の身)】
それゆえに法華経方便品第二に「所謂諸法の如是相、

【如是性(同じく心)如是体(同じく色心等)」云云。又云はく】
如是性、如是体」云云とある。また提婆達多品第十二には、

【「深く罪福の相を達して遍〔あまね〕く十方を照らしたまふ。】
「仏は、深く、罪と福との二つの相に通達して、あまねく十方を照らされる。

【微妙〔みみょう〕の浄き法身、相を具せること三十二」等云云。】
不思議で浄き法身は、優れた相を三十二具〔そな〕えている」と説かれています。

【上〔かみ〕の二句は生身得忍、下〔しも〕の二句は即身成仏。】
この文の上の二句は、生身得忍、下の二句は、即身成仏を示しているのです。

【即身成仏の手本は竜女是なり。生身得忍の手本は純陀是なり。】
即身成仏の手本は竜女であり、生身得忍の手本は純陀であるのです。


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