日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


草木成仏口決

草木成仏口決(御書522頁)

本抄は、文永9年(西暦1272年)2月20日、日蓮大聖人が五十一歳の時に佐渡の塚原で御述作され、帰依して間もない最蓮房日浄に与えられたものです。
この年の正月16日に佐渡や越後の念仏者など数百人が塚原の三昧〔さんまい〕堂に集まり、日蓮大聖人との間で問答が行われ、大聖人は、これら念仏僧をことごとく論破されました。
この塚原問答以後に、すでに佐渡に流されていた最蓮房が大聖人に帰伏したものと思われます。
最蓮房は、元々、天台宗の僧であり、生死一大事血脈抄、諸法実相抄、当体義抄など、数々の重要な御書を賜〔たまわ〕っており、本抄も開目抄の執筆中にもかかわらず、2月11日の生死一大事血脈抄に続いて2月20日に本抄を著〔あら〕わされています。
まず本抄の最初に、草木成仏とは、心がある有情と心を持たない非情のうちの非情の成仏であることを述べられ、法華経によって、有情も非情も共に成仏し、その証文は妙法蓮華経であることを御教示されています。
この妙法蓮華経について、妙法とは、有情の成仏、蓮華とは、非情の成仏であり、有情は、生死のうちの生の成仏、非情は、死の成仏であり、私達、衆生が死んだときに塔婆を建てて開眼供養をするのは、死の成仏であり、草木の成仏であると明かされています。
最蓮房が天台宗の学僧であることから、天台大師の摩訶止観〔まかしかん〕巻一の「一色一香中道に非ざることなし」の文をあげられ、さらに無情に仏性があり、成仏すると言う事は、なかなか信じられないことであり、耳を疑い心を驚かすと妙楽が「止観〔しかん〕輔行伝〔ぶぎょうでん〕弘決〔ぐけつ〕」で述べていることを指摘され、このことが難信難解であることを示されています。
日寛〔にちかん〕上人は、このことについて「観心本尊抄文段」で以下のように御教示されています。
「凡〔およ〕そ草木成仏とは、一往〔いちおう〕熟脱〔じゅくだつ〕に通ずと雖〔いえど〕も、実はこれ文底下種の法門なり。その故は宗祖云く「詮ずる所は一念三千の仏種に非ざれば、有情〔うじょう〕の成仏・木画〔もくえ〕二像の本尊は有名無実〔うみょうむじつ〕なり。」(御書652頁)と。一念三千の法門は但〔ただ〕法華経の本門寿量品の文底に秘沈し給えるが故なり。末師の料簡〔りょうけん〕は且〔しばら〕く之〔これ〕を閣〔お〕く云々。
今謹〔つつし〕んで諸御抄の意を案ずるに、草木成仏に略して二意あり。一には不改本位〔ふかいほんい〕の成仏、二には木画〔もくえ〕二像の成仏なり。 初めの不改本位の成仏とは、謂〔いわ〕く、草木の全体、本有〔ほんぬ〕無作〔むさ〕の一念三千即自受〔じじゅ〕用身〔ゆうしん〕の覚体なり。外十三十四に草木成仏の口伝〔くでん〕に云く「草にも木にも成る仏なり云々。此の意は、草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり。」(御書522頁)と云々。また二十三二十一に云く「又〔また〕之を案ずるに草木の根本、本覚の如来〔にょらい〕・本有常住の妙体なり」と云々。総勘文抄に云く「春の時来たりて風雨の縁に値ひぬれば、無心の草木も皆悉〔ことごと〕く萠〔も〕え出で、華を生じて敷〔さ〕き栄へて世に値ふ気色〔けしき〕なり。秋の時に至りて月光の縁に値ひぬれば、草木皆悉く実〔み〕成熟して一切の有情を養育し、寿命を続きて長養し、終に成仏の徳用〔とくゆう〕を顕はす。」(御書1426頁)等云々。応〔まさ〕に知るべし、この中に草木の体はこれ本覚の法身なり。その時節を差〔たが〕えざる智慧は本覚の報身なり。有情を養育するは本覚の応身〔おうじん〕なり。故に不改本位の成仏というなり。
二に木画二像の草木成仏とは、謂〔いわ〕く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄〔こんぱく〕を入るるが故に、木画の全体生身〔しょうしん〕の仏なり。二十八十三四条金吾抄に云く「一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり。(乃至)第三の国土世間と申すは草木世間なり。(乃至)五色のゑのぐ〔絵具〕は草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。此の画木〔えもく〕に魂魄〔こんぱく〕と申す神〔たましい〕を入〔い〕るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。」(御書993頁)と云々。文の中に「此の法門」とは、一念三千の法門なり。また三十一巻二十骨目抄に云く「三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。」(御書637頁)と云々。若〔も〕しこの意を得ば、答の大旨自ら知るべし。またまた当〔まさ〕に知るべし、若し草木成仏の両義を暁〔さと〕れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作〔ほんぬむさ〕の一念三千の生身の御仏なり。謹〔つつし〕んで文字〔もんじ〕及び木画と謂〔おも〕うことなかれ云々。
このように本抄にある「一念三千の法門をふ〔振〕りすゝ〔濯〕ぎたてたるは大漫荼羅なり。」とある大曼荼羅とは、現在、富士大石寺の奉安堂に安置し奉る処の大御本尊であり、草木成仏の意義から考えると、この大御本尊自体が本有無作の一念三千の生身の御仏、日蓮大聖人であり、謹んで文字、木画と思ってはならないと言う御指示なのです。 このことを、日蓮大聖人は、経王殿御返事に「日蓮がたましひ〔魂〕をすみ〔墨〕にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意〔みこころ〕は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。」(御書685頁)とあり、また観心本尊抄には「百界千如は有情〔うじょう〕界に限り、一念三千は情非情に亘〔わた〕る。」「草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃〔たの〕み奉〔たてまつ〕ること無益〔むやく〕なり」(御書645頁)と述べられ、草木成仏がなければ、木や紙に本尊を顕わしても意味がないと仰せです。
大御本尊は、元は、草木ではありますが、しかし、草木成仏の法門により、御本仏日蓮大聖人の生命がそのまま顕現されているゆえに、仏界の当体であり、一切衆生に仏性を顕現させる対境となるのです。
この大御本尊に対して法華経、薬王菩薩本事品において薬王菩薩が、神通力の願を以て、自らの身体に塗った香油を燃して、その光明と香りを供養し、諸仏を喜ばせたとあるように、死身弘法の題目を唱えることにより、「一色一香中道に非ざることなし」と言う摩訶止観の文が現実となるのです。
しかし、このことは、当世の習いそこないの学者が夢にも知らない法門であり、天台、妙楽、伝教などは内心は知っていたけれども、それを弘める事はせず、「一色一香」とののしり、耳を疑い心を驚かし、「妙法蓮華」と言うべきを「円頓止観」と変えてしまったのです。そうであれば、草木成仏は、死者の成仏であり、この法門を知る人は少なく、所詮は、「妙法蓮華」を知らざる故に迷うところであると指摘されています。
そして最後に「敢〔あ〕へて忘失する事なかれ」と結ばれています。

第一章 非情の成仏 [先頭へ戻る]

草木成仏口決 (御書522頁)

【草木成仏口決 文永九年二月二〇日 五一歳】
草木成仏口決 文永9年2月20日 51歳御作

【問うて云はく、草木成仏とは有情非情の中何〔いず〕れぞや。】
草木成仏とは、有情、非情のうちのいずれの成仏でしょうか。

【答へて云はく、草木成仏とは非情の成仏なり。】
それは、草木成仏とは、非情の成仏です。

【問うて云はく、情・非情共に今経に於て成仏するや。】
それでは、有情も非情も法華経で成仏できるのでしょうか。

【答へて云はく、爾〔しか〕なり。問うて云はく、証文如何。】
それは、成仏できます。それでは、その文証は、どこにあるのでしょうか。

【答へて云はく、妙法蓮華経是〔これ〕なり。】
それは、妙法蓮華経の五字です。

【妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。】
妙法とは、有情の成仏であり、蓮華とは、非情の成仏なのです。

【有情は生の成仏、非情は死の成仏、】
また、有情は、生の成仏、非情は、死の成仏です。

【生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり。】
生死の成仏と云うのが、有情、非情の成仏のことなのです。

【其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、】
そのゆえは、我等衆生が死んだ時に塔婆を立てて開眼、供養をしますが、

【死の成仏にして草木成仏なり。】
これが死の成仏であり非情草木の成仏なのです。


第二章 中道法性 [先頭へ戻る]

【止観の一に云はく「一色一香中道に非ざること無し」と。】
摩訶止観の第一に「一色一香といえども中道実相の理であらざることなし」とあり、

【妙楽云はく】
妙楽大師がこの文を受けて、

【「然も亦共〔とも〕に色香中道を許す。】
「しかるに、世の人々は、色、香ともに中道実相であることを認めるが、

【無情仏性】
その無情に仏性が具〔そな〕わっているとすると

【惑耳驚心〔わくにきょうしん〕す」と。】
耳を惑わし心を驚かす」と言っています。

【此の一色とは、五色〔ごしき〕の中には何れの色ぞや、】
この一色とは、青、黄、赤、白、黒の五色のなかのどの色であるかといえば、

【青・黄・赤・白・黒の五色を一色と釈せり。】
青、黄、赤、白、黒の五色を一色と解釈しているのです。

【一とは法性なり、爰〔ここ〕を以て妙楽は色香中道と釈せり。】
一とは、法性真如の一理のことであり、これを妙楽大師は「色香中道」と説明し、

【天台大師も無非中道といへり。】
天台大師も「無非中道」と言ったのです。

【一色一香の一は、二三相対の一には非ざるなり。】
一色一香の一は、二や三に相対した一ではなく、

【中道法性をさして一と云ふなり。】
中道実相の法性をさして一と云うのです。

【所詮十界・三千・依正等を】
要するに、この中道法性のうちには、十界の依正、三千の諸法のすべて、

【そな〔具〕へずと云ふ事なし。】
具〔そな〕えていないものはないのです。

【此の色香は草木成仏なり。是即ち蓮華の成仏なり。】
この色香の成仏は、草木の成仏であり、これは、すなわち蓮華の成仏であるのです。

【色香と蓮華とは、言〔ことば〕はか〔変〕はれども草木成仏の事なり。】
色香と蓮華とは、言葉は違っても草木成仏のことなのです。


第三章 草木成仏口決 [先頭へ戻る]

【口決に云はく「草にも木にも成る仏なり」云云。】
秘伝の口決に「草木が仏に成る」を「草にも木にも成る仏」と読むのである。

【此の意は、草木にも成り給へる】
この文章の意味は、非情の草木にまでも、成られるところの

【寿量品の釈尊なり。】
法華経如来寿量品の釈尊を言うのです。

【経に云はく「如来秘密神通之力」云云。】
法華経寿量品に「如来秘密神通之力」と説かれていますが、

【法界は釈迦如来の御身に非ずと云ふ事なし。】
十方法界は、ことごとく釈迦如来の当体でないものは、ないのです。


第四章 事理の顕本 [先頭へ戻る]

【理の顕本は死を表はす、妙法と顕はる。】
理の顕本は、死を表し、妙法の二字と顕れ、

【事の顕本は生を表はす、蓮華と顕はる。】
事の顕本は、生を表し、蓮華と顕れるのです。

【理の顕本は死にて有情をつかさどる。】
したがって、理の顕本は、死であり、有情をつかさどり、

【事の顕本は生にして非情をつかさどる。】
事の顕本は、生であって、非情をつかさどるのです。

【我等衆生のために依怙・依託なるは非情の蓮華がなりたるなり、】
我ら衆生にとって、たのみとなるものは、非情の蓮華がなっているのです。

【我等衆生の言語〔ごんご〕・音声〔おんじょう〕、】
また、我ら衆生の言語、音声、

【生の位には、妙法が有情となりぬるなり。】
生の位には、妙法が有情となっているのです。


第五章 一身所具の有情非情 [先頭へ戻る]

【我等一身の上には有情非情具足せり。】
我らの一身にも有情と非情とを具足しているのです。

【爪と髮とは非情なり、き〔切〕るにもいた〔痛〕まず、】
爪と髪は、非情であり、切っても痛みを感じません。

【其の外は有情なれば切るにもいたみ、くるしむなり。】
その他は、有情であるから、切れば、痛み苦しむのです。

【一身所具の有情非情なり。】
これを一身所具の有情、非情と言うのです。

【此の有情非情、十如是の因果の二法を具足せり。】
この有情、非情、ともに十如是の因果の二法を具足しているのです。

【衆生世間・五陰〔ごおん〕世間・国土世間、此の三世間有情非情なり。】
衆生世間、五陰世間、国土世間の、これら三世間が、有情、非情なのです。


第六章 一念三千の大曼荼羅 [先頭へ戻る]

【一念三千の法門をふ〔振〕りすゝ〔濯〕ぎたてたるは大曼荼羅なり。】
一念三千の法門を降〔ふ〕り注〔そそ〕ぎ、建立したのが大曼荼羅なのです。

【当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり。】
当世の習いそこないの学者どもが、夢にも思わない法門なのです。

【天台・妙楽・伝教、内にはかが〔鑑〕みさせ給へどもひろめ給はず。】
天台、妙楽、伝教も内心には、このことを知っていましたが、外には弘められず、

【一色一香とのゝしり】
ただ、一色一香、中道にあらざるものはないとか、

【惑耳驚心とさゝやき給ひて、】
無情にも仏性がそなわっているとすると耳を惑わし心を驚かすなどと言って、

【妙法蓮華と云ふべきを円頓止観とか〔変〕へさせ給ひき。】
南無妙法蓮華経と言うべきを、円頓止観と言葉を変えて弘められたのです。


第七章 死人の成仏 [先頭へ戻る]

【されば草木成仏は死人の成仏なり。】
ゆえに、草木成仏とは、死人の成仏を言うのです。

【此等の法門は知る人すくなきなり。】
これらの甚深の法門を知る人は、少なく、

【所詮妙法蓮華をしらざる故に迷ふところの法門なり。】
結局のところ、妙法蓮華の意義を知らないところからくる迷いなのです。

【敢〔あ〕へて忘失する事なかれ。恐々謹言。】
恐れながら、あえて言わせてもらうならば、この法門を忘れるべきではないのです。

【二月廿日 日蓮花押】
2月20日 日蓮花押

【最蓮房御返事】
最蓮房御返事


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