日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


生死一大事血脈抄

生死一大事血脈抄(御書513頁)

本抄は、天台宗の学僧であった最蓮房より、天台宗の教義である「生死一大事血脈」についての質問に答えられたものです。
御真筆は、ありませんが、写本には、文永9年2月11日の記述があり、大聖人が51歳の時に佐渡の塚原において認〔したた〕められたものと思われます。
最蓮房についての詳細は、わかりませんが、大聖人より以前に、すでに佐渡に流人として居たものと思われます。
文永8年10月28日、佐渡に到着された日蓮大聖人は、11月1日に塚原の三昧堂に入られました。
「種種御振舞御書」には、そこは、「死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたま〔板間〕あはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所にしきがは〔敷皮〕打ちしき蓑〔みの〕うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹〔ゆきあられ〕・雷電〔いなずま〕ひまなし、昼は日の光もさゝせ給はず、心細かるべきすまゐなり。」(御書1062頁)と述べられ、「法蓮抄」には、「北国の習ひなれば冬は殊に風はげしく、雪ふかし。衣薄く、食ともし」(御書821頁)と仰せのように寒さと飢えの苦を一身に受けられた非常に厳しいものだったのです。それに加えて念仏の強信者は、大聖人を亡き者にしようと虎視耽々とその御命を狙っていたのです。
翌年の文永9年1月、諸宗の僧俗が大挙して大聖人の居られる塚原三昧堂に押し寄せ、口々に大聖人を罵〔ののし〕り騒ぎ立てました。大聖人は、それらを静め、正々堂々と問答を行われたのです。当然のことながら、諸宗の主張は、大聖人によって完膚〔かんぷ〕なきまでに打ち破られました。これが塚原問答です。
最蓮房は、この塚原問答における日蓮大聖人の理路整然とした話しを聴聞するうちに、その威厳に満ちた御姿に接し、文永9年2月初旬の頃、帰依したものと考えられています。
日蓮大聖人も、もともと天台宗の学僧であった最蓮房の仏法に対する学識に対して「最蓮房御返事」に、経の文には「在々諸仏の土に、常に師と倶〔とも〕に生まれん」とも、或は「若し法師に親近〔しんごん〕せば速〔すみ〕やかに菩薩の道を得ん。」(御書585頁)と述べられ、最蓮房とは、過去よりの深い縁があり、「父母・主君等の御勘気を蒙り遠国の島に流罪せらるゝの人、我等が如く悦び身に余りたる者よもあらじ。されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ、常寂光の都たるべし。」(御書588頁)と励まされています。
最蓮房は、本抄の他にも「当体義抄」「諸法実相抄」「立正観抄」などの重要な御書を賜〔たま〕わっており、甚深の法門の多くが、最蓮房に対して開示され、後世に伝承されており、その信仰の厚さを物語るといえるでしょう。
また、日蓮大聖人は、この同じ時期に人本尊開顕の書である「開目抄」を著わされており、本抄は、一往、上行菩薩の再誕としての御立場を示すに止められていますが、しかし再往、御文の元意は、当然、開目抄と同様に末法の一切衆生救済の御本仏の御立場からの御指南であると拝すべきです。
御法主日顕上人猊下は、御説法中において、この生死一大事血脈抄も、開目抄と同様に「標・釈・結」の三段に分けられることを御指南されています。
この標・釈・結の三段は、文の主旨、文の解釈、文の結論のことで、この御指南に則〔のっと〕って御書の大意を拝するべきなのです。
まず「主旨」の部分では、「夫〔それ〕生死一大事血脈とは所謂〔いわゆる〕妙法蓮華経是〔これ〕なり。其の故は釈迦多宝の二仏、宝塔の中にして上行菩薩に譲り給ひて、此の妙法蓮華経の五字過去遠々劫〔おんのんごう〕より已方〔このかた〕寸時〔すんじ〕も離れざる血脈なり。」と仰せになっています。
次に「解釈」の文として「総じて日蓮が弟子檀那等自他〔じた〕彼此〔ひし〕の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり。」と述べられ、最蓮房が日蓮大聖人に随順して難に遇っていることに、過去に法華経の結縁強盛である故に現在この経を受持しており、未来に仏果を成就することは、現在の難をみれば疑いなく、過去、現在、未来の三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈と言うと御指南されています。 最後の「結論」においては、「在々〔ざいざい〕諸仏土〔しょぶつど〕常与〔じょうよ〕師俱生〔しぐしょう〕よも虚事〔そらごと〕候はじ。殊に生死一大事の血脈相承の御尋ね先代未聞の事なり貴〔とうと〕し貴し。」と、この「生死一大事血脈相承」が大聖人にとって重大な事柄であり、「只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ」と結論を述べられ、最後に「相〔あい〕構〔かま〕へ相構へて強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ。生死一大事の血脈此より外に全く求むることなかれ。煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり。信心の血脈なくんば法華経を持〔たも〕つとも無益なり。」と教誡されて本抄を結ばれるのです。
第六十五世日淳上人は、血脈相承が大事である所以を「仏法に於て相承の義が重要視されるのは、仏法が惑乱されることを恐れるからであって、即ち魔族が仏法を破るからである」と仰せになっています。
本抄の通り、末法の御本仏、日蓮大聖人に随順し、離れないことが生死一大事の血脈相承であり、第二祖日興上人已来、南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩の戒壇の大御本尊を受持し、その本尊を血脈相承されている御当代上人猊下を深く信ずることが信心の血脈なのです。
その上人猊下を誹謗中傷する魔族こそが仏法を惑乱し、生死一大事血脈を破るものなのです。

第一章 生死一大事血脈の体を明かす [先頭へ戻る]

【生死一大事血脈抄 文永九年二月一一日 五一歳】
生死一大事血脈抄 文永9年2月11日 51歳御作

【日蓮之を記す】
日蓮これを記す

【御状委細〔いさい〕披見〔ひけん〕せしめ候ひ畢んぬ。】
御手紙を詳しく拝見しました。

【夫〔それ〕生死一大事血脈とは所謂〔いわゆる〕妙法蓮華経是〔これ〕なり。】
御尋ねの生死一大事の血脈とは、いわゆる、妙法蓮華経のことです。

【其の故は釈迦多宝の二仏、宝塔の中にして上行菩薩に譲り給ひて、】
そのわけは、釈迦、多宝の二仏が、宝塔の中で上行菩薩に譲られたところの、

【此の妙法蓮華経の五字過去遠々劫〔おんのんごう〕より已来〔このかた〕】
此の妙法蓮華経の五字は、過去遠々劫以来、

【寸時〔すんじ〕も離れざる血脈なり。】
瞬時も途切れることがなかった血脈であるからです。

【妙は死、法は生なり、此の生死の二法が十界の当体なり、】
妙とは死、法とは生のことで、この生死の二法が即、十界の当体なのです。

【又此を当体蓮華とも云ふなり。天台云はく「当に知るべし】
また、これを当体蓮華とも言うのです。天台大師は「まさに知るべきである。

【依正〔えしょう〕の因果は悉く是蓮華の法なり」云云。】
十界の依正の因果がことごとく蓮華の法門である」と述べられています。

【此の釈に依正と云ふは生死なり、】
この解釈に依正と言うのは、十界の生死の意味です。

【生死之〔これ〕有れば因果又蓮華の法なる事明〔あき〕らけし。】
生死があれば、その因果も、また蓮華の法門であることは、明らかなのです。

【伝教大師云はく「生死の二法は一心の妙用、】
伝教大師は「生死の二法は、一心の妙用であり、

【有無の二道は本覚の真徳」文。】
有無の二道は、本覚の真徳である」と述べています。

【天地・陰陽・日月・五星・地獄乃至仏果、】
天地、陰陽、日月、五星、地獄、ないし仏果に至るまで、

【生死の二法に非ずと云ふことなし。】
生死の二法でないものは、ないのです。

【是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり。天台の止観に云はく】
このように、生死も、ただ妙法蓮華経の生死なのです。天台大師の摩訶止観に

【「起は是法性の起、滅は是法性の滅」云云。】
「起は、これ法性の起であり、滅もまた、これ法性の滅である」と記されています。

【釈迦多宝の二仏も生死の二法なり。】
釈迦、多宝の二仏も生死の二法を顕しているのです。


第二章 深い信に生死一大事の血脈 [先頭へ戻る]

【然れば久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経と、】
そうであれば久遠の過去に仏になった釈尊と、皆成仏道の妙法蓮華経と

【我等衆生との三つ全く差別無しと解〔さと〕りて、】
我ら九界の衆生の三つは、全く差別がないと領解〔りょうげ〕して、

【妙法蓮華経と唱へ奉る処を生死一大事の血脈とは云ふなり。】
妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈と言うのです。

【此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり。】
このことが日蓮が弟子檀那等の肝要なのです。

【法華経を持つとは是なり。】
法華経を持〔たも〕つとは、このことを言うのです。

【所詮〔しょせん〕臨終只今にありと解りて、】
所詮、臨終只今にありと覚悟して、

【信心を致して南無妙法蓮華経と唱ふる人を】
信じる心をもって南無妙法蓮華経と唱える人を法華経普賢菩薩勧発品には、

【「是人〔ぜにん〕命終〔みょうじゅう〕】
「是〔こ〕の人は命終〔みょうじゅう〕して、

【為〔い〕千仏〔せんぶつ〕授手〔じゅしゅ〕、令不恐怖〔りょうふくふ〕】
千仏の手〔みて〕を授〔さず〕け、恐怖〔くふ〕せず、

【不堕悪趣〔ふだあくしゅ〕」と説かれて候。】
悪趣に堕〔お〕ちざらしめたまうことを為〔え〕」と説かれています。

【悦ばしいかな一仏二仏に非ず、百仏二百仏に非ず、】
喜ばしいことに、一仏二仏ではなく、また百仏、二百仏でもなく、

【千仏まで来迎〔らいごう〕し手を取り給はん事、歓喜の感涙押へ難し。】
千仏までも来迎し、手を取ってくださるとは、歓喜の涙を押え難いことなのです。

【法華不信の者は】
これに対し法華経不信の者は、法華経譬喩品に、

【「其人〔ごにん〕命終〔みょうじゅう〕入〔にゅう〕阿鼻獄〔あびごく〕」と】
「其の人は命終〔みょうじゅう〕して阿鼻獄に入らん」と

【説かれたれば、定めて獄卒迎えに来たって手をや取り候はんずらん。】
説かれているので、必ずや獄卒が迎えに来て、その手を取ることでしょう。

【浅猿〔あさまし〕浅猿、】
ほんとうに、あさましいことです。

【十王〔じゅうおう〕は裁断し】
このような人は、閻魔王などの十王にその罪を裁断され、

【倶生神は呵責〔かしゃく〕せんか。】
同生天、同名天の倶生神に呵責されるに違いありません。

【今日蓮が弟子檀那等南無妙法蓮華経と唱へん程の者は、】
今、日蓮の弟子、檀那など、南無妙法蓮華経と唱える者に、

【千仏の手を授け給はん事、】
千仏の御手を授けて迎えてくださる様子は、

【誓へば□〔うり〕・夕顔の手を出だすが如くと】
まるで、瓜や夕顔のつるが伸びて、なかなか離れないような、

【思〔おぼ〕し食〔め〕せ。】
力強いものであると考えてください。

【過去に法華経の結縁強盛なる故に】
過去世において、強盛に法華経に信じていたゆえに、

【現在に此の経を受持す、】
今生において、この経に遇〔あ〕うことができたのです。

【未来に仏果を成就せん事疑ひ有るべからず。】
そうであるから、未来世において仏果を成就することは、疑いないのです。

【過去の生死・現在の生死・未来の生死、】
過去、現在、未来と三世の生死において、

【三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云ふなり。】
法華経から離れないことを、法華経の血脈相承と言うのです。

【謗法不信の者は】
謗法不信の者は、法華経譬喩品に

【「即断〔そくだん〕一切〔いっさい〕世間〔せけん〕仏種〔ぶっしゅ〕」とて、】
「即ち一切世間の仏種を断ぜん」と説かれていて、

【仏に成るべき種子を断絶するが故に、生死一大事の血脈之〔これ〕無きなり。】
成仏すべき、すべての仏種を断絶するがゆえに、生死一大事の血脈はないのです。


第三章 異体同心に生死一大事の血脈 [先頭へ戻る]

【総じて日蓮が弟子檀那等自他〔じた〕彼此〔ひし〕の心なく、】
総じて日蓮が弟子檀那などが、自分と他人、あの人、この人の心なく、

【水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、】
水魚の思いをなして、異体同心に南無妙法蓮華経と唱えたてまつるところを、

【生死一大事の血脈とは云ふなり。】
生死一大事の血脈と言うのです。

【然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり。】
しかも今、日蓮が弘通するところは、所詮、これなのです。

【若し然らば広宣流布の大願も叶ふべき者か。】
もし、弟子、檀那などがこの心で有れば、広宣流布の大願も成就することでしょう。

【剰〔あまつさ〕へ日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば、】
これに反して、日蓮の弟子のなかに異体異心の者があれば、

【例せば城者として城を破るが如し。】
それは、例えば、城を守るべき者が中から城を破るようなものなのです。


第四章 一切衆生救済の大慈大悲を示す [先頭へ戻る]

【日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて】
日蓮は、日本国の一切衆生に法華経を信じさせ、

【仏に成る血脈を継がしめんとするに、】
仏に成るべき血脈を継がせようとしているのに、

【還って日蓮を種々の難に合はせ、】
かえって日蓮を種々の難に遭〔あ〕わせ、

【結句〔けっく〕此の島まで流罪す。】
揚げ句のはてに、この佐渡にまで流しました。

【而るに貴辺〔きへん〕日蓮に随順し】
そうしたなかで、あなたは日蓮に随〔したが〕われ、

【又難に値ひ給ふ事、】
また法華経のゆえに難に遭〔あ〕われています。

【心中思ひ遣〔や〕られて痛ましく候ぞ。】
その心中が思いやられて心を痛めております。

【金〔こがね〕は大火にも焼けず大水にも漂はず】
黄金は、大火にも焼けず、大水にも流されず、

【朽〔く〕ちず、】
また、錆〔さ〕びることもないのです。

【鉄〔くろがね〕は水火共に堪へず。】
鉄は、水にも火にも、ともに耐えることができません。

【賢人は金の如く愚人は鉄の如し、】
賢人は、黄金のようであり、愚人は、鉄のようなものなのです。

【貴辺豈真金に非ずや。】
あなたは、まさに現在の難に耐えられている真金のような方なのです。

【法華経の金を持つ故か。】
それは、法華経の黄金を持〔たも〕つゆえでしょうか。

【経に云はく「衆山の中に須弥山為〔こ〕れ第一、】
薬王菩薩本事品に「諸山の中で須弥山が第一であるように、

【此の法華経も亦復是くの如し」と。】
この法華経も、また諸経中、最第一である」とあり、

【又云はく「火も焼くこと能〔あた〕はず水も漂はすこと能はず」云云。】
また「火も焼くこともできず、水も漂わすことができない」と説かれております。

【過去の宿縁追ひ来たって今度日蓮が弟子と成り給ふか。】
もしかすると過去の宿縁で、今世において日蓮の弟子となられたのでしょうか。

【釈迦多宝こそ御存知候らめ。「在々〔ざいざい〕諸仏土〔しょぶつど〕】
釈迦、多宝の二仏こそ御存知と思われますが、法華経化城喩品の「在在、諸仏土に、

【常与〔じょうよ〕師倶生〔しぐしょう〕」よも虚事〔そらごと〕候はじ。】
常に師と倶に生ぜん」の経文は、よもや虚事とは思われないのです。


第五章 本化地涌の利益 [先頭へ戻る]

【殊に生死一大事の血脈相承の御尋ね】
ことに、生死一大事血脈についてのお尋ねは、

【先代未聞の事なり貴〔とうと〕し貴し。】
先代未聞のことであり、まことに尊いことです。

【此の文に委悉〔いしつ〕なり、】
このことについては、手紙に詳しく記したとおりであり、

【能く能く心得させ給へ。】
よくよく、御覧になってください。

【只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ。】
南無妙法蓮華経と唱え、釈迦、多宝、上行菩薩、血脈相承を修学されてください。

【火は焼き照らすを以て行と為し、】
火は、物を焼き、物を照らすことを、その働きとし、

【水は垢穢〔くえ〕を浄〔きよ〕むるを以て行と為し、】
水は、垢〔あか〕や穢〔けがれ〕を清めることをもって、その働きとし、

【風は塵埃〔じんあい〕を払ふを以て行と為し、】
風は、塵〔ちり〕や埃〔ほこり〕を払うことをもってその働きとし、

【又人畜草木の為に魂〔たましい〕となるを以て行と為し、】
また、人畜、草木のために魂となることをもってその働きとし、

【大地は草木を生ずるを以て行と為し、】
大地は、草木を生ずることをもってその働きとし、

【天は潤〔うるお〕すを以て行と為す。】
天は、万物を潤すことをもってその働きとします。

【妙法蓮華経の五字も又是くの如し、】
妙法蓮華経の五字もまた、このような働きがあるのです。

【本化地涌の利益是なり。】
本化地涌の利益がこれなのです。

【上行菩薩末法今の時此〔こ〕の法門を弘めんが為に御出現之有るべき由、】
上行菩薩が末法の現在、この法華経を弘めるために、御出現されることが、

【経文には見え候へども如何が候やらん、】
経文に見えているのですが、いかがでしょうか。

【上行菩薩出現すとやせん、出現せずとやせん。】
上行菩薩が経文通りに出現されているにせよ、されないにせよ、

【日蓮先づ粗〔ほぼ〕弘め候なり。】
日蓮は、その先駆けとして、上行菩薩の法門を、ほぼ弘めているのです。


第六章 信心の血脈 [先頭へ戻る]

【相構〔あいかま〕へ相構へて強盛の大信力を致して、】
心して強盛の大信力をもって、

【南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ。】
南無妙法蓮華経、臨終正念と祈念してください。

【生死一大事の血脈此より外に全く求むることなかれ。】
生死一大事の血脈を、このこと以外にまったく求めては、なりません。

【煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり。】
煩悩即菩提、生死即涅槃とは、このことです。

【信心の血脈なくんば法華経を持〔たも〕つとも無益なり。】
信心の血脈がなければ、法華経を持〔たも〕っても、まったく無益なのです。

【委細の旨〔むね〕又々申す可く候。恐々謹言。】
詳しくは、また申し上げましょう。おそれながら申し上げます。

【文永九年(壬申)二月十一日 桑門 日蓮花押】
文永9年2月11日   桑門 日蓮花押

【最蓮房上人御返事】
最蓮房上人御返事


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