日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


諸法実相抄

諸法実相抄(御書664頁)

本抄は、文永10年(西暦1273年)5月17日、日蓮大聖人が52歳の時に佐渡の一谷〔いちのさわ〕において、最蓮房日浄に認〔したた〕められた御書です。
御真筆は、現存していません。
最蓮房は、佐渡の流人〔るにん〕であった天台宗の僧侶で、文永9年の2月に塚原問答を機に大聖人の弟子となったと思われます。
文永10年1月28日の「最蓮房御返事」によると最蓮房は、病いを患〔わず〕らっていたようです。
その中で「仰せを蒙りて候末法の行者息災延命の祈禱〔きとう〕の事。別紙に一巻註し進〔まい〕らせ候。毎日一返欠如なく読誦〔どくじゅ〕せらるべく候。日蓮も信じ始め候ひし日より毎日此等の勘文を誦し候ひて、仏天に祈誓〔きせい〕し候によりて、種々の大難に遇ふと雖も法華経の功力〔くりき〕、釈尊の金言深重なる故に今まで相違無く候なり。其れに付けても法華経の行者は信心に退転無く身に詐親〔さしん〕無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥〔たし〕かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり。」(御書642頁) と励まされています。
日蓮大聖人は、文永9年の夏に前述の塚原問答が行われた墓場の中の三昧堂から一谷〔いちのさわ〕に移られましたが、流人としての扱いに変わりはなく、日々の食事はもちろん、紙や筆、墨などにも事欠く有様でしたが、そのような中にあって「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」「開目抄」「祈祷抄」「観心本尊抄」など数多くの重要御書を執筆され、いよいよ末法弘通の本尊について書き著されます。
それが文永9年2月に著〔あら〕わされた人本尊〔にいほんぞん〕開顕の書である「開目抄」と文永10年4月に著された法本尊開顕の書である「観心本尊抄」で、その直後に本抄が与えられたことを考えると非常に重要な御書である事がわかります。
事実、本抄の内容は、「開目抄」や「観心本尊抄」に示された人法一箇の御本尊開顕の意義を基調とされ、「此の文には日蓮が大事の法門どもかきて候ぞ。よくよく見ほど〔解〕かせ候へ、意得〔こころえ〕させ給ふべし。一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。」(御書667頁)と述べられています。
本抄では、まず最初に最蓮房が天台宗の学僧であったことから、法華経方便品の「諸法実相乃至本末究竟等」の経文の意味について「下〔しも〕地獄より上〔かみ〕仏界までの十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがた〔相〕なりと云ふ経文なり。」と仰せになり、このことから「釈迦、多宝の二仏と云ふも、妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時、事相に二仏と顕はれて宝塔の中にしてうなづき合ひ給ふ。」と御本尊を宝塔の姿として説明されています。
そして、このような法門を言い出された者は、日蓮大聖人以外には、誰一人おらず、それは、天台、妙楽、伝教なども、心の中では、知っていたが、「付嘱なきが故に、時のいまだいたらざる故に、」御本尊である「宝塔の中の二仏並座〔びょうざ〕の儀式を作り顕はすべき人なし。」と述べられ「是即ち本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり。」とその理由を明かされています。
また「妙法蓮華経こそ本仏にては御坐〔おわ〕し候へ。」とあり、法華経の中にある「如来秘密神通之力」とは、このことであるとされ、凡夫である日蓮大聖人こそ末法の御本仏であり、釈迦、多宝と言っても用の三身の迹仏であり、体の三身にして本仏である日蓮大聖人の倶体倶用〔くたいくゆう〕であることが示されています。
このように日蓮大聖人こそが末法に生まれて上行菩薩が弘めるべき妙法を弘め、御本尊を作り顕〔あら〕わすことが出来る御本仏であることを明かされている重要な箇所です。
その日蓮大聖人を迫害し流罪にする罪の重さと、また大聖人の弟子檀那となる功徳を述べられ、その功徳は、仏の智慧をもってしても、その大きさを量〔はか〕ることはできないとされ、諸天は、末法に生まれて法華経を弘める者を助けほめるべきであると大確信をもって仰せになっています。
そして最蓮房に対して「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。」と言われ「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。」と明言され、広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱えることは、大地を的とするように間違いないことであるとされ、この御本尊の意義は、末法の一切衆生を成仏に導くためであると述べられています。
そして法華経の行者となる事は過去の宿習であり、現在、過去、未来の三世は、別々のものではないとされています。
最後に「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。」と述べられ「行学の二道をはげみ候べし。行学た〔絶〕へなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし。」と結ばれています。
さらに追伸では、前に最蓮房に与えられた御書にも日蓮大聖人の重要な法門を書いていたが、ことにこの御書には、重要な事を書き記〔しる〕していると、この諸法実相抄の重要性を強調されています。それは、この諸法実相抄が「日蓮が身に当たっての法門わたしまいらせ候ぞ。」「日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ。」と末法の御本仏としての御内証を明かされているからなのです。
日顕上人は、このことに対して本抄を講義された中で「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なりと云う御文ですが、これが付嘱の本門の上からの大聖人様の独自の解釈です。これは、大変な御文です。つまり寿量品の文底たる付嘱の本門から、体の三身・用の三身を立て分けるときには、実は、凡夫の上におけるところの三身をもって、如来秘密と云うのであると仰せなのです。ここにこそ、たいへん大事な、付嘱の妙法を地涌の再誕たる大聖人様が末法に御出現して御指南あそばす御法門があるのです。この元意は、何かと言うと、日蓮大聖人様は、末法に凡夫として出現されましたが、この凡夫のままの日蓮が実は久遠の本仏であるぞという意味なのです。」(大日蓮536号)と御指南されています。

第一章 諸法実相の意義 [先頭へ戻る]

【諸法実相抄 文永一〇年五月一七日 五二歳】
諸法実相抄 文永10年5月17日 52歳御作

【問うて云はく、法華経の第一方便品に云はく】
教えていただきたいのですが、法華経第一の巻方便品第二に、

【「諸法実相乃至本末究竟等」云云。】
「諸法実相とは、所謂諸法の如是相、(中略)如是本末究竟等」と説かれています。

【此の経文の意如何。答へて云はく、】
この経文の意味とは、どのようなものなのでしょうか。

【下〔しも〕地獄より上〔かみ〕仏界までの十界の依正の当体、】
それは、下は、地獄界から、上は、仏界までの十界の依報と正報の当体が、

【悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがた〔相〕なりと云ふ経文なり。】
すべて一法も残さずに妙法蓮華経の姿であるという経文なのです。

【依報あるならば必ず正報住すべし。釈に云はく】
依報があるならば、必ず正報が存在しており、妙楽大師の法華文句記巻十下には、

【「依報正報常に妙経を宣ぶ」等云云。】
「依報も正報も常に妙法蓮華経を顕している」と述べています。

【又云はく「実相は必ず諸法、】
また金剛錍には「実相は、必ず諸法となって顕れる。

【諸法は必ず十如〔じゅうにょ〕、十如は必ず十界〔じっかい〕、】
諸法は、また必ず十如を具〔そな〕え、十如は、必ず十界を具えており、

【十界は必ず身土」云云。】
その十界には、必ず身体〔からだ〕と国土が存在する」と述べています。

【又云はく】
また、同じく金剛錍の中において、

【「阿鼻〔あび〕の依正は全く極聖〔ごくしょう〕の自心に処し、】
「阿鼻地獄の依報と正報は、尊極の仏の自身のなかに具〔そな〕わり、

【毘盧〔びる〕の身土は】
毘盧舎那仏〔びるしゃなぶつ〕の法身の身体〔からだ〕と国土も、

【凡下〔ぼんげ〕の一念を逾〔こ〕えず」云云。】
凡夫の一念の外にあるものではない」とされています。

【此等の釈義分明なり。誰か疑網〔ぎもう〕を生ぜんや。】
これらの妙楽大師の解説は、明確なのです。誰が疑問を生じるでしょうか。

【されば法界のすがた、妙法蓮華経の五字にかはる事なし。】
したがって、法界の姿は、妙法蓮華経の五字に他ならないのです。


第二章 虚空会の儀式 [先頭へ戻る]

【釈迦・多宝の二仏と云ふも、】
釈迦、多宝の二仏と言っても、

【妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時、】
妙法蓮華経の五字の中から、その作用によって実際の利益を施〔ほどこ〕すとき、

【事相に二仏と顕はれて宝塔の中にしてうなづき合ひ給ふ。】
現実に釈迦、多宝の二仏と顕れ、宝塔の中で頷〔うなず〕き合われたのです。

【かくの如き等の法門、日蓮を除きては申し出だす人一人もあるべからず。】
このような法門は、日蓮を除いて言い出した者は、誰一人いないのです。

【天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども】
天台大師、妙楽大師、伝教大師などは、心の中では知っておられましたが、

【言に出だし給ふまではなし、胸の中にしてくらし給へり。】
言葉に出されることはなく、ただ胸の中にしまっておかれたのです。

【其れも道理なり、付嘱なきが故に、】
それも、あたりまえなのです。それは、付嘱がなかったからであり、

【時のいまだいたらざる故に、】
時期がいまだ来ていなかったからであり、

【仏の久遠の弟子にあらざる故に、】
釈尊の久遠の弟子では、なかったからなのです。

【地涌の菩薩の中の上首唱導】
地涌の菩薩の中の上首、唱導の師である

【上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始めの五百年に出現して】
上行菩薩、無辺行菩薩などの菩薩より他には、末法の始めの五百年に出現して、

【法体の妙法蓮華経の五字を弘め給ふのみならず、】
法体の妙法蓮華経の五字を弘めるだけでなく、

【宝塔の中の二仏並座〔びょうざ〕の儀式を作り顕はすべき人なし。】
宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すことが、できる人はいないのです。

【是即ち本門寿量品の】
これは、すなわち法華経、本門、如来寿量品に説かれたところの、

【事の一念三千の法門なるが故なり。】
事の一念三千の法門であるからなのです。


第三章 妙法蓮華経が本仏 [先頭へ戻る]

【されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり。】
したがって、釈迦、多宝の二仏と言っても、作用としての迹仏であり、

【妙法蓮華経こそ本仏にては御坐〔おわ〕し候へ。経に云はく】
妙法蓮華経こそ本仏であられるのです。法華経、如来寿量品第十六に、

【「如来秘密神通之力」是なり。】
「如来秘密神通之力」と説かれているのは、このことなのです。

【如来秘密は体の三身にして本仏なり、】
「如来秘密」は、体の三身であって本仏であるのです。

【神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし。】
「神通之力」とは、作用としての三身であって、迹仏なのです。

【凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、】
凡夫は、体の三身であって本仏であり、

【仏は用の三身にして迹仏なり。】
仏は、作用としての三身であって迹仏なのです。

【然れば釈迦仏は我等衆生のためには】
したがって、釈迦仏が我ら衆生のために、

【主師親の三徳を備へ給ふと思ひしにさにては候はず、】
主師親の三徳を具〔そな〕えられていると思っていたのですが、

【返って仏に三徳をかぶ〔被〕らせ奉るは凡夫なり。】
実は、そうではなく、かえって仏に三徳をこうむらせているのは凡夫なのです。

【其の故は如来と云ふは天台の釈に】
そのゆえは、如来と言うのは、天台大師の法華文句、巻九の下には、

【「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・】
「如来とは、十方三世の諸仏、真仏と応仏の二仏、法身と報身と応身の三仏、

【本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり。】
本仏と迹仏の一切の仏を通じて如来と言うのである」と判定されているのです。

【此の釈に本仏と云ふは凡夫なり、迹仏と云ふは仏なり。】
この解説に本仏と言うのは、凡夫であり、迹仏と言うのは、仏なのです。

【然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依って、】
しかしながら、迷いと悟りの相違によって、衆生と仏との相違があり、

【倶体倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり。】
このため、衆生は、倶体倶用と言うことを知らないのです。

【さてこそ諸法と十界を挙げて】
そうであるからこそ、諸法と言う言葉で十界を挙げ、

【実相とは説かれて候へ。実相と云ふは妙法蓮華経の異名なり。】
これを実相であると説かれたのです。実相と言うのは、妙法蓮華経の異名なのです。

【諸法は妙法蓮華経と云ふ事なり。】
ゆえに十界である諸法は、妙法蓮華経であると言うことになのです。

【地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、】
地獄は、地獄の姿を見せているのが実の相であり、

【餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず。】
餓鬼と変わってしまえば、地獄の実の姿ではないのです。

【仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、】
仏は、仏の姿、凡夫は、凡夫の姿であり、

【万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を】
万法の当体の姿が妙法蓮華経の当体であると言うことを、

【諸法実相とは申すなり。天台云はく】
諸法実相と言うのです。このことについて天台大師は、

【「実相の深理、本有の妙法蓮華経」云云。】
「実相の深理は、本有常住の妙法蓮華経である」と述べています。

【此の釈の意は実相の名言は迹門に主〔ぬし〕づけ、】
この解釈の意味は、実相の命名の由来は、迹門の立場から付けられたものであり、

【本有の妙法蓮華経と云ふは本門の上の法門なり。】
本有の妙法蓮華経と言うのは、本門の上での法門なのです。

【此の釈能く能く心中に案じさせ給へ候へ。】
この解釈の意味を、よくよく心の中で思案されてください。


第四章 人法一箇の御本尊建立 [先頭へ戻る]

【日蓮末法に生まれて】
日蓮が末法に生まれて、

【上行菩薩の弘め給ふべき所の妙法を先立ちて粗〔ほぼ〕ひろめ、】
上行菩薩が弘められるところの妙法蓮華経を先立って、ほぼ弘め、

【つくりあらはし給ふべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏、】
作り顕されるところの本門寿量品の古仏である釈迦仏、

【迹門宝塔品の時涌出し給ふ多宝仏、涌出品の時出現し給ふ地涌の菩薩等を】
迹門の宝塔品で涌出された多宝仏、従地涌出品の時に出現された地涌の菩薩などを、

【先づ作り顕はし奉る事、予が分斉〔ぶんざい〕にはいみじき事なり。】
まず作りあらわしたてまつることは、自分の分際を過ぎたことではありますが、

【日蓮をこそにく〔憎〕むとも内証にはいかゞ及ばん。】
この日蓮をいかに憎むとも、その内証を、どうすることもできないのです。

【さればかゝる日蓮を此の島まで遠流しける罪、】
それゆえ、このような日蓮を佐渡の島まで流した罪は、

【無量劫にもき〔消〕えぬべしとも覚えず。】
無量劫を経ても、とても消えるとは、思われないのです。

【譬喩品に云はく「若し其の罪を説かば】
法華経譬喩品第三には「もし、法華経誹謗の罪を説くならば、

【劫を窮〔きわ〕むるも尽きず」とは】
劫のあらんかぎりを説いても説きつくすことはできない」と

【是なり。】
説かれているのは、このことなのです。

【又日蓮を供養し、又日蓮が弟子檀那となり給ふ事、其の功徳をば】
また、日蓮を供養し、また日蓮の弟子檀那となられた功徳は、

【仏の智慧にてもはかり尽くし給ふべからず。】
仏の智慧によっても、はかることはできないのです。

【経に云はく「仏の智慧を以て多少を籌量〔ちゅうりょう〕すとも】
法華経薬王菩薩本事品第二十三には「仏の智慧をもって、はかるとも、

【其の辺〔ほとり〕を得じ」と云へり。】
その功徳の多少を得る事は、できない」と説かれているのです。

【地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、】
地涌の菩薩の先駆けは、日蓮一人なのです。

【地涌の菩薩の数にもや入りなまし。】
あるいは、地涌の菩薩の数の中に入っているかも知れません。

【若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば、】
もし、日蓮が地涌の菩薩の数に入っているならば、

【豈日蓮が弟子檀那地涌の流類〔るるい〕に非ずや。】
日蓮の弟子檀那は、地涌の類〔たぐい〕と言うことになるでしょう。

【経に云はく「能く竊〔ひそ〕かに一人の為に法華経の乃至一句を説かば、】
法華経法師品第十の「法華経の一偈一句を一人だけにでも説くならば、

【当に知るべし是の人は則ち如来の使ひ、如来の所遣として】
まさにこの人は、如来の使いであり、如来から遣〔つか〕わされ、

【如来の事を行ずるなり」と、】
如来の事を行ずる者と知るべきである」との文は、

【豈〔あに〕別人の事を説き給ふならんや。】
だれか他の人のことを説かれたものではないのです。


第五章 妙法弘通の人を諸仏・諸天が賛嘆 [先頭へ戻る]

【されば余りに人の我をほ〔誉〕むる時は】
このように、人から自分自身が誉〔ほ〕められれば、

【如何様〔いかよう〕にもなりたき意の出来し候なり。】
どのような困難でも耐えようとする強い意志が出てくるものです。

【是ほ〔誉〕むる処の言よりを〔起〕こり候ぞかし。】
これは、誉〔ほ〕められた言葉から起きてくるものなのです。

【末法に生まれて法華経を弘めん行者は、】
末法に生まれて法華経を弘める行者には、

【三類の敵人有って流罪死罪に及ばん。】
三類の強敵が起きて、流罪、死罪にまで及ぶことでしょう。

【然れどもた〔堪〕へて弘めん者をば衣を以て】
しかれども、この難に耐えて法華経を弘める者を、

【釈迦仏をほ〔覆〕ひ給ふべきぞ、諸天は供養をいたすべきぞ、】
釈迦仏は、衣をもって覆ってくださり、諸天は供養をし、

【かた〔肩〕にかけせなか〔背中〕にを〔負〕ふべきぞ、】
あるいは肩に担〔かつ〕ぎ、背に負〔お〕って守ることでしょう。

【大善根の者にてあるぞ、一切衆生のためには大導師にてあるべしと、】
その行者は、大善根の者であり、一切衆生のためには、大導師であると、

【釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏菩薩・天神七代・地神五代の神々・】
釈迦、多宝、十方の諸仏、菩薩、天神七代、地神五代の神々、

【鬼子母神・十羅刹女・四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・】
鬼子母神、十羅刹女、四大天王、梵天、帝釈、閻魔法王、水神、

【風神・山神・海神・大日如来・普賢・文珠・日月等の諸尊たちに】
風神、山神、海神、大日如来、普賢菩薩、文殊師利菩薩、日月天などの諸尊に、

【ほめられ奉る間、無量の大難をも堪忍〔かんにん〕して候なり。】
誉〔ほ〕められているので、日蓮は、無量の大難をも耐え忍んでいるのです。

【ほめられぬれば我が身の損ずるをもかへりみず、】
誉〔ほ〕められれば、我が身の損ずることも顧〔かえり〕みず、

【そし〔謗〕られぬる時は又我が身のやぶ〔破〕るゝをもしらず】
謗〔そし〕られるときには、また我が身の破滅することも気づかずに、

【ふるまふ事は凡夫のこと〔事〕はざ〔業〕なり。】
振る舞うのが凡夫の常〔つね〕なのです。


第六章 弟子門下の信心の在り方 [先頭へ戻る]

【いかにも今度信心をいたして】
ひとたび、信心をしたからには、どのようなことがあっても、

【法華経の行者にてとを〔通〕り、日蓮が一門とな〔成〕りとをし給ふべし。】
法華経の行者として生き抜き、日蓮の一門となり通していくべきです。

【日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。】
日蓮と同意ならば、地涌の菩薩でしょうか。

【地涌の菩薩にさだ〔定〕まりなば】
地涌の菩薩であると定まっているならば、

【釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。】
釈尊の久遠の弟子であることを、どうして疑うことができましょうか。

【経に云はく】
法華経従地涌出品第十五に

【「我久遠より来〔このかた〕是等の衆を教化す」とは】
「これらの地涌の菩薩は、久遠の昔から教化してきたのである」と

【是なり。】
説かれているのは、このことなのです。

【末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、】
末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は、男女を差別してはなりません。

【皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。】
皆、地涌の菩薩が出現したのでなければ、唱えることができない題目なのです。

【日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、】
はじめは、日蓮一人が南無妙法蓮華経と唱えましたが、

【二人三人百人と次第に唱へつた〔伝〕ふるなり。未来も又しかるべし。】
二人、三人、百人と次第に唱え伝えてきたのです。未来もまたそうであり、

【是あに地涌の義に非ずや。】
これが地から涌〔わ〕くと言うことの意義では、ないでしょうか。

【剰〔あまつさ〕へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は】
そればかりか広宣流布のときは、日本中が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは、

【大地を的とするなるべし。】
大地を的とするように、絶対に間違いないことなのです。


第七章 法華は末代衆生のため [先頭へ戻る]

【ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給ふべし。】
ともかくも法華経に名をたて身を任せていくべきです。

【釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏菩薩、】
釈迦仏、多宝仏、十方の諸仏菩薩が集まり、

【虚空にして二仏うなづき合ひ、】
虚空会において釈迦、多宝の二仏が頷〔うなず〕きあい、

【定めさせ給ひしは別の事には非ず。】
定められたことは、別のことではなく、

【唯ひとへに末法の令法久住の故なり。】
ただ、ひとえに末法の令法久住のためであるのです。

【既に多宝仏は半座を分かちて釈迦如来に奉り給ひし時、】
すでに多宝如来が半座を空けて、釈迦如来に譲られたとき、

【妙法蓮華経の旛〔はた〕をさし顕はし、】
妙法蓮華経の旛をさし顕して、

【釈迦・多宝の二仏大将としてさだめ給ひし事】
釈迦、多宝の二仏が大将として、定められたことが、

【あにいつは〔偽〕りなるべきや。】
どうして偽りでしょうか。

【併〔しかしなが〕ら我等衆生を仏になさんとの御談合なり。】
それは、我々衆生を仏にしようとの話し合いなのです。

【日蓮は其の座には住し候はねども、】
日蓮は、その座には、居合わせて、おりませんでしたが、

【経文を見候に少しもくも〔曇〕りなし。】
経文を見ると少しの曇りもなく明らかなことなのです。

【又其の座にもやありけん、】
また、その座に居たのかも知れませんが、

【凡夫なれば過去をしらず、】
凡夫であるから過去のことは分からないのです。

【現在は見へて法華経の行者なり、】
しかし、現在は、明らかに法華経の行者であるので、

【又未来は】
また、未来においては、法華経の普賢菩薩勧発品〔かんぼっぽん〕にあるように、

【決定として当詣〔とうけい〕道場なるべし。】
間違いなく、道場に参詣して当に阿耨多羅三藐三菩提を得るのです。

【過去をも是を以て推するに】
過去のことも、このことをもって推測するならば、

【虚空会にもやありつらん、】
虚空会にも居合わせたことでしょう。

【三世各別あるべからず。】
過去、現在、未来の三世が別のものであるわけがないのです。


第八章 御本仏の絶対的な境界を述ぶ [先頭へ戻る]

【此くの如く思ひつゞけて候へば】
このように思いをめぐらし考えていくと、

【流人なれども喜悦はかりなし。】
たとえ流人ではあっても、その喜びは、はかり難いのです。

【うれ〔嬉〕しきにもなみだ〔涙〕、つら〔辛〕きにもなみだ〔涙〕なり。】
嬉しいことにも涙を落とし、辛いことにも涙を落とすものです。

【涙は善悪に通ずるものなり。】
涙は、このように善悪に通じているものです。

【彼の千人の阿羅漢、仏の事を思ひいでて涙をながし、】
釈尊滅後、釈尊の弟子、千人の阿羅漢は、仏のことを思い出して涙を流し、

【ながしながら文殊師利菩薩は妙法蓮華経と唱へさせ給へば、】
涙を流しながら、文殊師利菩薩が妙法蓮華経と唱えられると、

【千人の阿羅漢の中の阿難尊者はな〔泣〕きながら如是我聞と答へ給ふ。】
千人の中の阿難尊者は、泣きながら如是我聞と答えられたのです。

【余の九百九十九人はな〔泣〕く涙を硯〔すずり〕の水として、】
その他の九百九十九人は、泣く涙を硯〔すずり〕の水として、

【又如是我聞の上に妙法蓮華経とかきつけしなり。】
また、如是我聞の上に妙法蓮華経と書きつけたのです。

【今日蓮もかくの如し。】
今、日蓮もまったく同じなのです。

【かゝる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり。】
このような流人の身となったことも妙法蓮華経の五字七字を弘めたがゆえであり、

【釈迦仏・多宝仏、未来日本国の一切衆生のために】
釈迦如来、多宝如来が未来の日本国の一切衆生のために、

【とゞめをき給ふ処の妙法蓮華経なりと、】
留〔とど)め置かれたところの妙法蓮華経であると、

【かくの如く我も聞きし故ぞかし。】
このように日蓮も聞いたためなのです。

【現在の大難を思ひつゞくるにもなみだ〔涙〕、】
現在の大難を思い続けるにも涙があふれ、

【未来の成仏を思ひて喜ぶにもなみだ〔涙〕せきあへず、】
未来の成仏を喜ぶにつけても、涙が止まらないのです。

【鳥と虫とはな〔鳴〕けどもなみだ〔涙〕をちず、】
鳥と虫とは、鳴いても涙を落とすことは、ありません。

【日蓮はな〔泣〕かねどもなみだ〔涙〕ひまなし。】
日蓮は、泣きませんが、涙は、とまらないのです。

【此のなみだ世間の事には非ず、】
しかし、この涙は、世間の涙ではありません。

【但偏〔ひとえ〕に法華経の故なり。】
ただ、ひとえに法華経のゆえの涙なのです。

【若ししからば甘露の涙とも云ひつべし。】
もし、そうであるならば甘露の涙とも言えましょう。

【涅槃経には父母・兄弟・妻子・眷属にわかれて】
涅槃経には「父母、兄弟、妻子、親類に別れて、

【流すところのなみだは四大海の水よりもをゝ〔多〕しといへども、】
流すところの涙は、四大海の水よりも多いのですが、

【仏法のためには一滴〔てき〕をもこぼさずと見えたり。】
仏法のためには、一滴をもこぼさない」と説かれています。

【法華経の行者となる事は過去の宿習なり、】
法華経の行者となることは、過去の宿命なのです。

【同じ草木なれども仏とつく〔造〕らるゝは宿縁なるべし。】
同じ草木であっても仏とつくられることは宿縁であるのです。

【仏なりとも権仏となるは又宿業なるべし。】
仏であっても権仏となるのも、また宿業なのです。


第九章 信・行・学の要諦 [先頭へ戻る]

【此の文には日蓮が大事の法門どもかきて候ぞ。】
この手紙には、日蓮の大事な法門を書いております。

【よくよく見ほど〔解〕かせ給へ、意〔こころ〕得〔え〕させ給ふべし。】
よくよく読んで理解し、心得ておいてください。

【一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。】
一閻浮提、第一の御本尊を、どこまでも信じていってください。

【あひかま〔相構〕へて、あひかま〔相構〕へて、】
あいかまえて、あいかまえて、

【信心つよく候ふて三仏の守護をかうむ〔蒙〕らせ給ふべし。】
信心を強くして釈迦、多宝、十方の諸仏の三仏の守護を受けていってください。

【行学の二道をはげみ候べし。行学た〔絶〕へなば仏法はあるべからず。】
また、行学の二道を励んでください。行学が絶えれば、仏法は、なくなるのです。

【我もいたし人をも教化候へ。】
自分も学び、人にも教化していってください。

【行学は信心よりをこるべく候。】
行学は、信心から起きるものなのです。

【力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし。】
力があるならば、一文一句でも人に語っていってください。

【南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。恐々謹言。】
南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。おそれながら謹んで申し上げます。

【五月十七日    日蓮花押】
5月17日    日蓮花押

【最蓮房御返事】
最蓮房御返事


第十章 追伸 [先頭へ戻る]

【追って申し候。】
追伸。

【日蓮が相承の法門等前々かき進らせ候ひき。】
日蓮が相承したところの法門などを前々から書いております。

【ことに此の文には大事の事どもしるしてまいらせ候ぞ。】
その中でも、この手紙には、特に大事な事を記しております。

【不思議なる契約なるか、】
まことに不思議な過去からのつながりでしょうか。

【六万恒沙の上首上行等の四菩薩の変化〔へんげ〕か。】
六万恒沙の指導者である上行菩薩などの四菩薩の生まれ変わりなのでしょうか。

【さだめてゆへあらん。】
さだめて深い理由があることでしょう。

【総じて日蓮が身に当たっての法門わたしまいらせ候ぞ。】
総じて日蓮の身に当たっての法門を御教えしましょう。

【日蓮もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属にもやあるらん。】
日蓮は、もしかすれば、六万恒沙の地涌の菩薩のひとりなのかも知れません。

【南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女をみちびかんとおもへばなり。】
南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女を導こうと思っているからなのです。

【経に云はく】
法華経従地涌出品第十五には、このことを

【「一を上行と名づく乃至唱導の師」とは説かれ候はぬか。】
「一名上行乃至唱導之師」と説かれているのではないでしょうか。

【まことに宿縁のを〔追〕ふところ予が弟子となり給ふ。】
過去からの深い宿縁によって、私〔わたくし〕の弟子になられたのでしょう。

【此の文あひかま〔相構〕へて秘し給へ。】
この手紙は、心して秘しておいてください。

【日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ。とゞめ畢んぬ。】
日蓮の己証の法門などを書いております。なくすことがないようにしてください。


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