日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


新池御書

新池御書(御書1456頁)

本抄は、弘安3年(西暦1280年)2月、大聖人が59歳の時に身延において、新池左衛門尉に与えられた御書です。
新池左衛門尉は、遠江国磐田郡新池(静岡県袋井市)に鎌倉より居住されていた鎌倉幕府直参の武士であり、総本山第五十九世日亨上人は、富士日興上人詳伝の中で本抄の末文の「此の僧によませまひらせて聴聞あるべし。此の僧を解悟の智識と憑〔たの〕み給ひてつねに法門御たづね候べし。聞かずんば争でか迷闇の雲を払はん。」の中の冒頭の「此の僧」とは、考えるまでもなく富士大石寺の日興上人のことであると述べられており、日蓮大聖人が身延へ入山されて間もなく日興上人によって折伏教化されて入信したものと説明されています。
本抄の内容については、まず初めに、妙法流布の末法に生まれ合わせたことを喜び、それにも関わらず妙法を信じることが出来ない人々を嘆かれており、また、せっかく法華経を信仰し、法華経を誉め称えたとしても、末法の御本仏、日蓮大聖人に背くならば、十方の諸仏の命を奪う罪となり、必ずや地獄、餓鬼、畜生、修羅の悪道に堕ち、「かゝる悪所にゆけば、王位将軍も物ならず、獄卒の呵責〔かしゃく〕にあへる姿は猿をまは〔回〕すに異ならず。」と地獄に行けば、世間的な地位や名聞名利など何の意味もなくなると示されて、名聞名利、我慢偏執の信心を誡〔いまし〕められています。
それ故に、末法の法華経の行者である日蓮大聖人に御供養を申し上げる功徳が、いかに莫大であるかを示され、法華経の心を知れる僧について法の道理を学び、始めより終わりまで純粋な信心の歩みを運んでいくよう諭されています。
また、この国は、その日蓮大聖人に迫害を加え、一国謗法と化したため、諸天善神は、堂社を捨て去り、天に上り、すでに残された堂社は、悪鬼魔神の住み家となっており、そうなってからは、いかに供養をしようとも、諸仏諸神は、謗法の供養を受けず、それに近づく者さえ与同罪となると、その恐ろしさを顕されています。
逆に少しも我見を交えず、人の言葉に迷わされず、また法華経の心に背かず、南無妙法蓮華経と他事なく唱えれば、釈迦牟尼仏程度の仏にやすやすとなることが御教示され、日蓮大聖人、弘安二年の御本尊様、日興上人の仏法僧の三宝を正しく尊崇し供養していくべきことを勧められています。
従って、極楽寺の良観のような高貴な僧侶であっても邪義を説く者には、従ってはならず、賤しき身分の者でも法華経を説く僧を、生身の仏のように敬うべきであり、このことを信じることが即身成仏の大事な要諦であるのに、末法の衆生は、少々、仏法の法門を学ぶと禅宗の僧のように慢心を起こし、自らの心に仏性があるなどと言い、現世の価値に捉われ、その天魔の振る舞いで悪道に堕ちると述べられ、最後に、これらの法門をよくよく理解して御本尊様を頭に頂き信行に励むよう御指南されるとともに、日興上人を解悟の知識とたのみにして常に法門を尋ね迷いの闇を払うよう御指南されて本抄を結ばれます。
なお、本抄の「諸仏も諸神も謗法の供養をば全く請け取り給はず」との謗法厳誡の御教示などから、日蓮宗などでは、本抄を意図的に偽書となしています。
このように「法華経を持ち読み奉り讃むれども、法華の心に背きぬれば、還って釈尊十方の諸仏を殺すに成りぬ」と仰せにあるように「法華経の心」、つまり三大秘法の大御本尊に背いて、形だけは、法華経を持〔たも〕っていたとしても、その行為は、かえって十方の諸仏の命を絶つほどの罪となり、謗法の者となってしまうのです。
また、与同罪についても「いかなる智者聖人も無間〔むけん〕地獄を遁〔のが〕るべからず。又それにも近づくべからず。与同罪恐るべし恐るべし。」と仰せのように、仏法では、正法を誹謗する者に供養したり、その非を諫めることを怠れば、正法誹謗の者と同じ罪、すなわち堕地獄の苦を受けることになるのです。故に、謗法の罪の恐ろしさを肝に銘じ、謗法を厳に慎んで、一心に帰依していくことが大切なのです。
また本抄には、「法華経をしれる僧を不思議の志にて一度も供養しなば、悪道に行くべからず。」と御教示されています。
この「法華経をしれる僧」とは、末法の御本仏である日蓮大聖人のことです。
つまり末法の法華経の行者であり、末法の御本仏である日蓮大聖人に供養することは「此の経の行者を一度供養する功徳は、釈迦仏を直ちに八十億劫が間、無量の宝を尽くして供養せる功徳に百千万億勝〔すぐ〕れたりと仏は説かせ給ひて候。」と述べられている通り、無量の功徳があることを御教示されています。
私たちは「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥〔いよいよ〕法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし。」と仰せのように「此の経の心をしれる僧」である日蓮大聖人に近づき、いよいよ法の道理を聴聞して信心の歩みを運んでいきましょう。

第一章 謗法の怖ろしさ [先頭へ戻る]

【新池御書 弘安三年十二月 五九歳】
新池御書 弘安3年12月 59歳御作

【うれしきかな末法流布に生まれあへる我等、】
末法の広宣流布の時に生まれた我らは、なんと嬉しいことでしょうか。

【かなしきかな今度此の経を信ぜざる人々。】
それなのに、この法華経を信じない人々は、なんと悲しいことでしょうか。

【抑〔そもそも〕人界に生を受くるもの誰か無常を免〔まぬか〕れん。】
そもそも人間に生を受けた者で、誰が死を免〔まぬが〕れることができましょうか。

【さあらんに取っては何ぞ後世のつと〔勤〕めをいたさゞらんや。】
そのような者が、どうして死後のための努力を、しないでいられましょうか。

【倩〔つらつら〕世間の体〔てい〕を観ずれば、人皆口には此の経を信じ、】
詳細に世間の有様を見てみると、人は、皆、口では、この法華経を信じ、

【手には経巻をにぎるといへども、】
手には、法華経の巻物を握っていると言っても、

【経の心にそむく間、悪道を免れ難し。】
法華経の心に背いているので、悪道を免れ難いのです。

【譬へば人に皆五臓あり。】
たとえば、人にみな内臓があります。

【一臓も損ずれば其の臓より病出来して余の臓を破り、】
その中の一臓でも損なうときには、その臓より病いが起きて他の臓を破壊し、

【終〔つい〕に命を失ふが如し。爰〔ここ〕を以て伝教大師は】
ついに命を失うようなものなのです。このことをさして伝教大師は、

【「法華経を讃すと雖も】
「法華経を讃嘆するといっても、

【還って法華の心を死〔ころ〕す」等云云。】
かえって法華経の心を殺している」と述べているのです。

【文の心は法華経を持ち読み奉り讃むれども、】
この文章の意味は、法華経を持〔たも〕ち、読誦し、讃嘆したとしても、

【法華の心に背きぬれば、】
法華経の心に背いたときには、

【還って釈尊十方の諸仏を殺すに成りぬと申す意なり。】
かえって釈尊や十方の諸仏を殺すことになってしまうと言う意味なのです。

【縦〔たと〕ひ世間の悪業衆罪は須弥の如くなれども、】
世間の悪業や罪は、須弥山のように大きくても、

【此の経にあひ奉りぬれば、】
この法華経にあったときには、

【衆罪は霜露〔そうろ〕の如くに法華経の日輪に値ひ奉りて消ゆべし。】
その罪は、霜や露のように法華経の太陽にあたって消えてしまうのです。

【然れども此の経の十四謗法の中に、】
しかしながら、この法華経で説く十四の謗法のうち、

【一も二もをか〔犯〕しぬれば其の罪消えがたし。】
一つでも二つでも犯したときには、その罪は、消え難いのです。

【所以は何〔いかん〕、一大三千界のあらゆる有情を殺したりとも、】
理由は、なぜかと言うと、三千大千世界のあらゆる心があるものを殺したとしても、

【争〔いか〕でか一仏を殺す罪に及ばんや。】
どうして、ひとりの仏を殺す罪に及ぶでしょうか。

【法華の心に背きぬれば、十方の仏の命を失ふ罪なり。】
それなのに、法華経の心に背いたときには、あらゆる仏の命を殺す罪となるのです。

【此のをきて〔掟〕に背くを謗法の者とは申すなり。】
この定めに背く者の事を、謗法の者と言うのです。

【地獄おそるべし、炎を以て家とす。】
地獄は、恐ろしく、炎の家にいるようなものです。

【餓鬼悲しむべし、飢渇に〔けかち〕うへて子を食らふ。修羅は闘諍なり。】
餓鬼は、悲しむべきであり、飢えて子供を食い、修羅は、いつも争い合うのです。

【畜生は残害とて互ひに殺しあふ。】
畜生は、残害と言って、互いに殺し合うのです。

【紅蓮〔ぐれん〕地獄と申すはくれな〔紅〕ゐのはちす〔蓮〕とよむ。】
紅蓮地獄と言うのは、紅の蓮と読むのです。

【其の故は余りに寒につ〔詰〕められてこゞ〔屈〕む間、】
その理由は、あまりの寒さに責められて屈〔かが〕むことにより、

【せなか〔背中〕われて肉の出でたるが紅の蓮〔はちす〕に似たるなり。】
背中が割れて肉が露出したのが、紅の蓮に似ているからなのです。

【況んや大紅蓮をや。】
ましてや大紅蓮地獄においては、なおさらのことです。

【かゝる悪所にゆけば、】
そのような死後の苦悩の世界に行ったときには、

【王位将軍も物ならず、】
王の位や将軍の権威も、ものの数ではないのです。

【獄卒の呵責〔かしゃく〕にあへる姿は猿をまは〔回〕すに異ならず。】
獄卒の責めにあっている姿は、猿まわしの猿と同じで異なるところがないのです。

【此の時は争でか名聞名利・我慢偏執有るべきや。】
この時は、どうして名聞名利や我慢偏執の心でいられましょうか。

第二章 信心の歩みを運ぶべし [先頭へ戻る]

【思〔おぼ〕し食〔め〕すべし、法華経をしれる僧を不思議の志にて】
法華経を知る僧を不思議な志〔こころざ〕しで

【一度も供養しなば、悪道に行くべからず。】
一度でも、供養するならば、悪道に堕ちることはないと理解すべきです。

【何に況んや、十度・二十度、乃至五年・十年・一期生〔ごしょう〕の間】
ましてや十度、二十度、ないし、五年、十年、また一生の間、

【供養せる功徳をば、仏の智慧にても知りがたし。】
供養をする功徳は、仏の智慧をもってしても知り難いのです。

【此の経の行者を一度供養する功徳は、釈迦仏を直ちに八十億劫が間、】
この法華経の行者を一度でも供養する功徳は、釈迦牟尼仏を直に八十億劫の間、

【無量の宝を尽くして供養せる功徳に】
無量の宝をもって供養する功徳に

【百千万億勝〔すぐ〕れたりと仏は説かせ給ひて候。】
百千万億倍、優れていると仏は、説かれているのです。

【此の経にあ〔値〕ひ奉りぬれば悦び身に余り、】
この法華経に遇ったときには、悦びは、身に溢〔あふ〕れ、

【左右の眼に涙浮かびて】
左右の眼に涙が浮かんで、

【釈尊の御恩報じ尽くしがたし。】
この経を説いた釈尊の御恩は、どのようにしても報じ尽くし難いほどなのです。

【かやうに此の山まで度々の御供養は、】
しかし、このように、この山まで何度も、御供養されることは、

【法華経並びに釈迦尊の御恩を報じ給ふに成るべく候。】
法華経並びに釈尊の、その御恩に報いることとなるでしょう。

【弥〔いよいよ〕はげませ給ふべし、懈〔おこた〕ることなかれ。】
そうであるから、いよいよ、励んで怠〔おこた〕ってはなりません。

【皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、】
皆、人がこの法華経を信じ始めるときは、信心があるように見えるのですが、

【中程は信心もよは〔弱〕く、僧をも恭敬〔くぎょう〕せず、】
中ほどになると、信心も弱く、僧侶も敬わず、供養もせずに、

【供養をもなさず、自慢して悪見をなす。】
慢心を抱いて、邪悪な考えを起こすのです。

【これ恐るべし、恐るべし。】
これは、ほんとうに恐るべきことなのです。

【始めより終はりまで弥信心をいたすべし。】
始めから終わりまで、いよいよ信心を貫〔つらぬ〕くべきなのです。

【さなくして後悔やあらんずらん。】
そうでなければ後悔するでしょう。

【譬へば鎌倉より京へは十二日の道なり。】
たとえば、鎌倉から京都までは、十二日の道のりなのです。

【それを十一日余り歩〔あゆ〕みをはこびて、】
それを十一日ほど歩いて、

【今一日に成りて歩みをさしをきては、】
あと一日になって歩くのをやめてしまったならば、

【何として都の月をば詠〔なが〕め候べき。】
どうやって、都の月を眺〔なが〕めることができましょうか。

【何としても此の経の心をしれる僧に近づき、】
なんとしても、この法華経の心を知る僧侶に近づき、

【弥〔いよいよ〕法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし。】
いよいよ仏法の道理を聞いて、信心の歩みを運ぶべきなのです。

第三章 寸善尺魔と神天上 [先頭へ戻る]

【噫〔ああ〕、過ぎにし方の程なきを以て知んぬ、】
実に過ぎ去った時が、瞬〔またた〕く間であることを知って、

【我等が命今幾程〔いくほど〕もなき事を。】
我らの命が、長くないことを容易に知る事ができるのです。

【春の朝〔あした〕に花をながめし時、ともな〔伴〕ひ遊びし人は、】
春の朝に花を眺めたときに、一緒にいた人は、

【花と共に無常の嵐に散りはてゝ、名のみ残りて其の人はなし。】
花とともに無常の嵐に散り果てて、名のみ残って、その人は、いなくなるのです。

【花は散りぬといへども又こん春も発〔ひら〕くべし。】
花は、散ったと言っても、また春に咲くのです。

【されども消えにし人は亦〔また〕いかならん世にか来たるべき。】
しかし、消えてしまった人は、また、いかなる世に生まれてくることでしょうか。

【秋の暮れに月を詠〔なが〕めし時、戯〔たわむ〕れむつびし人も、】
秋の暮れに月を眺〔なが〕めたときに、一緒にいた人も、

【月と共に有為〔うい〕の雲に入りて後、】
月とともに一緒に雲に隠れてしまった後は、

【面影〔おもかげ〕ばかり身にそひて物いふことなし。】
面影ばかり、身に寄り添っていますが、物を言うことなど、ありません。

【月は西山に入るといへども亦こん秋も詠むべし。】
月は、西の山に入ると言っても、また次の秋にも眺めることができるでしょう。

【然れどもかく〔隠〕れし人は今いづくにか住みぬらん、】
しかしながら、隠れてしまった人は、今、どこに住んでいるのでしょうか。

【おぼつかなし。】
まったく、わからないではないですか。

【無常の虎のなく音〔こえ〕は耳にちかづくといへども聞いて驚くことなし。】
無常の虎の鳴く声は、耳に近いと言っても、聞いて驚くことはありません。

【屠所〔としょ〕の羊は今幾日か無常の道を歩みなん。】
屠殺場の羊は、あと数日、無常の道を歩むことでしょうか。

【雪山の寒苦鳥は寒苦にせ〔責〕められて、】
雪山の寒苦〔かんく〕鳥は、寒苦〔かんく〕に責められて

【夜明けなば栖〔す〕つくらんと鳴くといへども、】
「夜が明けたら巣を造ろう」と鳴くけれども、

【日出でぬれば朝日のあたゝかなるに眠り忘れて、】
日が出たときには、朝日の暖かさに、つられて眠ってしまい、

【又栖をつくらずして一生虚〔むな〕しく鳴くことをう〔得〕。】
また巣を造らないで、一生の間、むなしく鳴くと言います。

【一切衆生も亦復〔またまた〕是くの如し。地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、】
一切衆生もまた同様なのです。地獄に堕ちて炎にむせぶときには、

【願はくは今度人間に生まれて諸事を閣〔さしお〕いて三宝を供養し、】
願わくは、今度、人間に生まれては、すべてを差し置いて、仏法僧の三宝に供養し、

【後世菩提をたす〔助〕からんと願へども、】
後世の為に仏道修行を行おうと願っても、

【たまたま人間に来たる時は、】
たまたま、人間として生まれてきたときには、

【名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯〔ともしび〕は消えやすし。】
名聞名利の風が激しく、仏道修行の灯は、消えやすいのです。

【無益〔むやく〕の事には財宝をつ〔尽〕くすにお〔惜〕しからず。】
無益の事には、財宝を使うのを惜しまないのに、

【仏法僧にすこしの供養をなすには是をもの〔物〕う〔憂〕く思ふ事、】
仏法僧に少しの供養をするのも面倒くさく思うのは、

【これたゞごとにあらず、地獄の使ひのきを〔競〕ふものなり。】
これは、ただごとではなく、地獄の使者が地獄に引っぱる力の方が強いのです。

【寸善尺魔と申すは是なり。】
寸善尺魔〔すんぜんしゃくま〕と言うのは、このことなのです。

【其の上此の国は謗法の土なれば、】
その上、この国は、謗法の国土であるので、

【守護の善神法味にう〔飢〕へて社〔やしろ〕をすて天に上り給へば、】
守護の善神は、法味に飢えて神社を捨てて、天に上〔のぼ〕られたので、

【悪鬼入りか〔替〕はりて多くの人を導く。】
神社には、悪鬼が入れ替わって、多くの人を悪道へ導いているのです。

【仏陀は化をやめて寂光土へ帰り給へば、】
仏は、化導をやめて寂光土へ帰られたので、

【堂塔寺社は徒〔いたずら〕に魔縁の栖〔すみか〕と成りぬ。】
堂塔や寺社は、いたずらに魔の住み家となってしまったのです。

【国の費〔つい〕え民の歎きにて、いらか〔甍〕を並べたる計りなり。】
国費と民の嘆きによって、瓦〔いらか〕を並べて建っているだけなのです。

【是〔これ〕私の言にあらず経文にこれあり、習ふべし。】
これは、私の言葉ではなく、経文にあることでなので、理解すべきことなのです。

第四章 謗法の供養 [先頭へ戻る]

【諸仏も諸神も謗法の供養をば全く請け取り給はず、】
諸仏も諸神も謗法の供養は、決して受け取られないのです。

【況んや人間としてこれをう〔受〕くべきや。】
ましてや人間として、これを受けることが、できましょうか。

【春日大明神の御託宣に云はく、】
春日大明神の御託宣には、

【飯に銅の炎をば食すとも心穢〔けが〕れたる人の物をうけじ。】
食事で溶けた銅を食べることがあっても、心が汚れた人の物は、受け取らない。

【座に銅の焰〔ほのお〕には坐すとも、心汚れたる人の家にはいたらじ。】
住まいとして溶けた銅に座っても、心が汚れた人の家には、行かない。

【草の廊〔ほそどの〕、萱〔かや〕の軒〔のき〕にはいたるべしと云へり。】
草の廊下や萱〔かや〕の軒先〔のきさき〕には、行くであろうと言い、

【縦令〔たとい〕千日のしめを引くとも】
たとえ千日の間、しめ縄を引いて、身を慎〔つつし〕んでも、

【不信の所には至らじ。重服深厚の家なりとも】
不信の者の所には、行かない。父母が相次いで亡くなった家であったとしても、

【有信の所には至るべし云云。】
信心のある者の所には行くであろうと言っています。

【是くの如く善神は此の謗法の国をばなげ〔歎〕きて天に上らせ給ひて候。】
善神は、この謗法の国を嘆〔なげ〕いて、天に上〔のぼ〕られたのです。

【心けがれたると申すは法華経を持たざる人の事なり。】
心の汚れたと言うのは、法華経を受持しない人のことなのです。

【此の経の五の巻に見えたり。】
それが、この法華経の第五の巻に述べられています。

【謗法の供養をば銅の焔とこそおほせられたれ。】
謗法の供養よりも、溶けた銅の方がましだと仰せられているのです。

【神だにも是くの如し、】
神でさえ、このようであるのに、

【況んや我等凡夫としてほむら〔焔〕をば食すべしや。】
ましてや、我ら凡夫が炎を食べることができるでしょうか。

【人の子として我が親を殺したらんものゝ、】
人の子として、自分の親を殺した者が、

【我に物をえ〔得〕させんに是を取るべきや。】
自分に物を与えようとしたときに、これを受け取ることができるでしょうか。

【いかなる智者聖人も無間〔むけん〕地獄を遁〔のが〕るべからず。】
どのような智者や聖人であっても、無間地獄を逃れることはできないのです。

【又それにも近づくべからず。与同罪恐るべし恐るべし。】
また、それに近づいてもなりません。与同罪を恐れるべきなのです。

第五章 極楽寺良観 [先頭へ戻る]

【釈尊は一切の諸仏・一切の諸神・人天大会・一切衆生の父なり、】
釈尊は、一切の諸仏、一切の諸神、人天大会、一切衆生の父であり、

【主なり、師なり。此の釈尊を殺したらんに、】
主君であり、師匠であるのです。この釈尊を殺そうとしているのを、

【争〔いか〕でか諸天善神等うれしく思〔おぼ〕し食〔め〕すべき。】
どうして諸天善神などが嬉しく思うことが、あるでしょうか。

【今此の国の一切の諸人は皆釈尊の御敵なり。】
今、この国のすべての人々は、みな釈尊の敵〔かたき〕なのです。

【在家の俗男俗女等よりも邪智心の法師ばらは殊〔こと〕の外の御敵なり。】
在家の男女よりも、邪智の心の僧侶は、とくに、強い敵〔かたき〕なのです。

【智慧に於ても正智あり邪智あり。】
同じ智慧でも、正しい智があり、邪〔よこしま〕な智があります。

【智慧ありとも其の邪義には随ふべからず。】
智慧があっても、その邪義に随〔したが〕ってはならないのです。

【貴僧高僧には】
貴〔とうと)い僧であるとか、高名な僧であるからと言って、

【依るべからず。】
それに依〔よ〕ってはならないのです。

【賎〔いや〕しき者なりとも、此の経の謂〔いわ〕れを知りたらんものをば】
賎しい者であっても、この法華経の意味を知っている者を

【生身〔しょうじん〕の如来のごとくに礼拝供養すべし。】
生きている仏のように、礼拝し、供養すべきなのです。

【是〔これ〕経文なり。】
これは、経文に説かれていることなのです。

【されば伝教大師は無智破戒の男女等も此の経を信ぜん者は、】
それゆえ、伝教大師は「無智破戒の男女であっても、この法華経を信ずる者は、

【小乗二百五十戒の僧の上の座席に居〔す〕えよ、】
小乗教の二百五十戒をたもった僧侶の上位の座席に座らせなさい。

【末座にすべからず。】
末座にしてはならない。

【況んや大乗の此の経の僧をやとあそ〔遊〕ばされたり。】
ましてや大乗教のこの法華経の僧侶は、なおさらである」と仰せられています。

【今生身の如来の如くみえたる極楽寺の良観房よりも、】
今、生仏〔いきぼとけ〕のように見える極楽寺の良観よりも、

【此の経を信じたる男女は座席を高く居〔す〕えよとこそ候へ。】
この法華経を信じた男女は、座席を高座に据えるべきであるとの言葉なのです。

【彼の二百五十戒の良観房も、日蓮に会ひぬれば】
あの二百五十戒をたもつと言う良観房が、日蓮に会ったときには、

【腹をたて眼をいか〔瞋〕らす、是たゞごとにはあらず。】
腹を立て、眼を怒らせるのは、これはただごとではないでしょう。

【智者の身に魔の入りか〔代〕はればなり。】
智者の身に魔が入れ替わっているからなのです。

【譬へば本性よき人なれども、】
たとえば、もともとは、良い人であっても、

【酒に酔ひぬればあ〔悪〕しき心出来し、人の為にあしきが如し。】
酒に酔ったときには、悪い心が出てきて、人に迷惑をかけるようなものなのです。

【仏は法華以前の迦葉・舎利弗・目連等をば】
仏は、法華経を説く以前は、迦葉、舎利弗、目連などについて、

【是を供養せん者は三悪道に堕つべし。】
これらに供養する者は、三悪道に堕ちるであろうと述べ、

【彼等が心は犬・野干の心には劣れりと説き給ひて候なり。】
彼らの心は、犬や狐の心に劣っていると説かれました。

【彼の四大声聞等は、二百五十戒を持つことは金剛の如し。】
この四大声聞などは、二百五十戒を持つことは、金剛のようであり、

【三千の威儀具足する事は十五夜の月の如くなりしかども、】
三千の威儀を具〔そな〕えることは、十五夜の月のようであったけれども、

【法華経を持たざる時は是くの如く仰せられたり。】
法華経を持〔たも〕たないときは、このように仰せられたのです。

【何に況んや、それに劣れる今時の者共をや。】
ましてや、それに劣る今の者たちはなおさらであるのです。

【建長寺・円覚寺の僧共の作法戒文を破る事は】
建長寺や円覚寺の僧達が、仏教の作法や戒律を破〔やぶ〕っている姿は、

【大山の頽〔くず〕れたるが如く、】
まさに大山が崩〔くず〕れたように、ひどく、

【威儀の放埒〔ほうらつ〕なることは猿に似たり。】
威儀の出鱈目〔でたらめ〕なことは、猿となんら変わらないのです。

【是を供養して後世〔ごせ〕を助からんと思ふは、はかなしはかなし。】
これを供養して死後を助かろうと思うのは、実に、愚かなことなのです。

第六章 悪鬼神 [先頭へ戻る]

【守護の善神此の国を捨つる事疑ひあることなし。】
守護の善神が、この国を捨て去ったことは、間違いがないのです。

【昔釈尊の御前にして諸天・善神・菩薩・声聞、】
昔、釈尊の御前で諸天善神や菩薩や声聞が、

【異口同音に誓ひをたてさせ給ひて、若し法華経の御敵の国あらば、】
異口同音に誓いを立てられて、もし法華経の敵〔かたき〕の国があれば、

【或は六月に霜〔しも〕霰〔あられ〕と成りて国を飢饉せさせんと申し、】
六月に霜や霰〔あられ〕となって、その国を飢饉に陥らせましょうと言い、

【或は小虫と成りて五穀をは〔食〕み失はんと申し、】
あるいは、小さな虫となって五穀を食べ尽くしましょうと言い、

【或は旱魃〔かんばつ〕をなさん、】
あるいは、旱魃〔かんばつ〕を起こしましょうと言い、

【或は大水と成りて田園をなが〔流〕さんと申し、】
あるいは、大水となって田園を流しましょうと言い、

【或は大風と成りて人民を吹き殺さんと申し、】
あるいは、大風となって人々を吹き殺しましょうと言い、

【或は悪鬼と成りてなや〔悩〕まさんと面々に申させ給ひき。】
あるいは、悪鬼となって悩ましましょうと、それぞれに言ったのです。

【今の八幡大菩薩も其の座におはせしなり。】
今の八幡大菩薩も、その場にいらっしゃったのです。

【争でか霊山の起請〔きしょう〕の破るゝをおそれ給はざらん。】
どうして、この霊山での起請が破れてしまうのを恐れないことがあるでしょうか。

【起請を破らせ給はゞ無間〔むけん〕地獄は疑ひなき者なり。】
起請〔きしょう〕を破られたならば、無間地獄は疑いないところなのです。

【恐れ給ふべし恐れ給ふべし。】
必ず、それを恐れるはずなのです。

【今までは正しく仏の御使ひ出世して此の経を弘めず、】
今までは、正しく仏の御使いが世に出て、この法華経を弘めることなく、

【国主もあなが〔強〕ちに御敵にはならせ給はず、】
国主も一概に法華経の敵〔かたき〕とはならず、

【但いづれも貴しとのみ思ふ計りなり。】
ただ、どれであっても貴〔とうと)いと思うだけであったのです。

【今某〔それがし〕、仏の御使ひとして此の経を弘むるに依りて、】
しかるに今、私が仏の御使いとして、この法華経を弘めることによって、

【上一人より下万民に至るまで皆謗法と成り畢〔おわ〕んぬ。】
上一人から下万民までが、みな、謗法の者となってしまったのです。

【今までは此の国の者ども法華経の御敵にはな〔成〕さじと、】
今までは、諸天も、この国の者達を法華経の敵〔かたき〕には、するまいと、

【一子のあやにく〔生憎〕の如く捨てかねておは〔御座〕せども、】
いくら憎い子であっても親が容易に見捨てられないように、躊躇していたけれども、

【霊山の起請のおそろしさに社を焼き払ひて】
ついに、霊山の起請を破ることの恐ろしさに、神社を焼き払って

【天に上らせ給ひぬ。】
天に上〔のぼ〕られてしまったのでしょう。

【さはあれども身命をお〔惜〕しまぬ法華経の行者あれば】
そうでは、あるけれども、身命を惜しまない法華経の行者がいるならば、

【其の頭には住むべし。天照大神・八幡大菩薩天に上らせ給はゞ、】
その頭には、住むのです。天照太神や八幡大菩薩が天に上られたならば、

【其の余の諸神争でか社に留まるべき。】
その他の諸神が、どうして神社に留まることがあるでしょうか。

【縦〔たと〕ひ捨てじと思〔おぼ〕し食〔め〕すとも、】
たとえ捨てまいと思っても、

【霊山のやくそく〔約束〕のまゝに某呵責〔かしゃく〕し奉らば、】
霊山での約束の通りに、私が責めたならば、

【一日もやはかおは〔御座〕すべき。】
一日として、いる事は出来ないのです。

【譬へば盗人の候に、知れぬ時はかしこ〔彼処〕やここに住み候へども、】
たとえば、盗人〔ぬすっと〕が世間に知られていない時には、どこに住んでも、

【能く案内知りたる者の、是こそ盗人よとのゝし〔詈〕りどめけば、】
よく事情を知った者が、この者こそ盗人だと大声で騒ぎ立てたならば、

【おもはぬ外に栖〔すみか〕を去るが如く、】
不本意でも住み家を去るように、

【某にさゝへられて社をば捨て給ふ。】
諸天善神も、私に責められて神社を捨てたのです。

【然るに此の国思ひの外に悪鬼神の住家となれり。】
こうして、この国は、思いもかけずに悪鬼魔神の住み家となってしまったのです。

【哀れなり哀れなり。】
実に哀れなことです。

第七章 即身成仏の道 [先頭へ戻る]

【又一代聖教を弘むる人は多くおはせども、】
また釈尊一代の聖教を弘める人は、多くおられるけれども、

【是程の大事の法門をば伝教・天台もいまだ仰せられず。】
これほどの大事な法門を伝教大師や天台大師も、いまだ仰せられていないのです。

【其れも道理なり。末法の始の五百年に】
それも道理であり、末法の始めの五百年の間に

【上行菩薩の出世あて弘め給ふべき法門なるが故なり。】
上行菩薩が世に出現して、弘められるべき法門であるがゆえなのです。

【相構へて、いかにしても此の度此の経を能く信じて、】
心して、なんとしても、この度、この経を強く信じて、

【命終の時千仏の迎へに預かり、】
臨終のときには、千仏の迎えを受け、

【霊山浄土に走りまいり自受法楽すべし。】
霊山浄土に速やかに参り、自受法楽すべきであるのです。

【信心弱くして成仏のの〔延〕びん時、某をうらみさせ給ふな。】
信心弱くて成仏が延びたときに、私を恨んではなりません。

【譬へば病者に良薬〔ろうやく〕を与ふるに、】
たとえば、病人に良薬を与えたのに、

【毒を好んでくひぬれば其の病愈〔い〕えがたき時、】
病人が毒を好んで食べていれば、その病を治すことはできません。

【我がとが〔失〕とは思はず、】
そのくせ病人は、自分の過ちとは思わずに、

【還って医師を恨むるが如くなるべし。】
かえって医師を恨むようなものなのです。

【此の経の信心と申すは、少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず、】
この経の信心と言うのは、少しも我見なく、経文のとおりに、人の言葉を用いずに、

【法華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ。】
法華経すべてに背くことさえ、なければ仏に成るのです。

【仏に成り候事は別の様は候はず、】
仏に成ると言うことは、別のことではありません。

【南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば、】
南無妙法蓮華経と他の事にとらわれることなく、唱えていくときに

【天然と三十二相八十種好を備ふるなり。】
自然と三十二相、八十種好を備える仏になるのです。

【如我等無異と申して】
我が如く、等しくして異なることなしと言って

【釈尊程の仏にやすやすと成り候なり。】
釈尊程度の仏には、簡単に成るのです。

【譬へば鳥の卵は始めは水なり、】
たとえば、鳥の卵は、始めは、液体なのです。

【其の水の中より誰かなすともなけれども、】
その液体の中から、誰がしたと言うこともなく、

【觜〔くちばし〕よ目よと厳〔かざ〕り出で来て虚空にかけるが如し。】
くちばしや目が間違いなく出来て、やがて大空を飛ぶようなものなのです。

【我等も無明の卵にしてあさましき身なれども、】
私達も無明の卵で浅ましい身であるけれども、

【南無妙法蓮華経の唱への母にあたゝめられまいらせて、】
南無妙法蓮華経と唱えれば、母に暖められるように、

【三十二相の觜出でて八十種好の鎧毛〔よろいげ〕生〔お〕ひそろひて】
三十二相のくちばしが出てきて、八十種好の毛が生〔は〕え揃〔そろ〕い、

【実相真如の虚空にかけるべし。爰〔ここ〕を以て経に云はく】
実相真如の大空を飛ぶことができるのです。このことを経文には、

【「一切衆生は無明の卵に処して智慧の口ばしなし。】
「一切衆生は、無明の卵の中に身を置いて智慧のくちばしはない。

【仏母の鳥は分段同居の古栖〔ふるす〕に返りて、】
仏母の鳥は分段、同居の古巣に帰って、

【無明の卵をたゝき破りて一切衆生の鳥をす〔巣〕だ〔立〕てて、】
無明の卵を叩き割って、一切衆生の鳥を巣立てて、

【法性真如の大虚にとばしむ」と説けり取意。】
法性真如の大空に飛ばせる」と説いています。

第八章 成仏の要諦は信 [先頭へ戻る]

【有解〔うげ〕無信〔むしん〕とて法門をば解〔さと〕りて】
有解無信と言って法門を、いくら理解しても

【信心なき者は更に成仏すべからず。】
信心のない者は、絶対に成仏することはできません。

【有信無解とて解〔げ〕はなくとも信心あるものは成仏すべし。】
有信無解と言って、理解は、できなくても、信心のある者は、成仏できるのです。

【皆此の経の意なり、私の言にはあらず。】
すべて、この法華経の説くところなのです。私の言葉ではありません。

【されば二の巻には】
それゆえ、法華経の第二の巻譬喩品第三には

【「信を以て入ることを得、己が智分に非ず」とて、】
「信をもって悟りに入ることができた。自分の智慧によってではない」と説かれ、

【智慧第一の舎利弗も但此の経を受け持ち信心強盛にして仏になれり。】
智慧第一の舎利弗も、この法華経を受持し、信心強盛にして仏に成ったのです。

【己が智慧にて仏にならずと説き給へり。】
自らの智慧によって仏に成ったのではないと説かれているのです。

【舎利弗だにも智慧にては仏にならず。】
舎利弗でさえも智慧によっては、仏に成れなかったのですから、

【況んや我等衆生少分の法門を心得たりとも、】
ましてや我ら衆生が、少しばかりの法門を心得たと言っても、

【信心なくば仏にならんことおぼつかなし。】
信心がなければ、仏に成ることはおぼつかないのです。

【末代の衆生は法門を少分こゝろえ、僧をあなづり、】
末法の時代の衆生は、法門を少しばかり心得て、僧侶を侮〔あなど〕り、

【法をいるか〔忽〕せにして悪道におつべしと説き給へり。】
法をゆるがせにして悪道に堕ちるであろうと説かれています。

【法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。】
法を心得たしるしとしては、僧侶を敬い、法を崇〔あが〕め、仏を供養すべきです。

【今は仏ましまさず、解悟の智識を仏と敬ふべし、】
今は、仏がおらず、仏法を理解し悟った善知識を仏として敬うべきなのです。

【争でか徳分なからんや。】
そうすれば、どうして功徳がないなどと言うことがあるでしょうか。

【後世を願はん者は名利名聞を捨てゝ、何に賎〔いや〕しき者なりとも】
死後を願う者は、名利名聞を捨てて、どんなに賎しい者であっても

【法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。】
法華経を説く僧侶を、生身の仏のように敬うべきなのです。

【是正しく経文なり。】
これは、まさしく経文に説くところなのです。

第九章 禅僧の天魔の振舞い [先頭へ戻る]

【今時の禅宗は大段、仁・義・礼・智・信の五常に背けり。】
今の時代の禅宗は、大体、仁義礼智信の五常に違背しているのです。

【有智の高徳をおそれ、老いたるを敬ひ、】
智慧のある高徳の人をおそれ敬い、老人を敬い、

【幼きを愛するは内外典の法なり。】
幼き者を愛せよと言うのは、仏典でも外典でも説いている法なのです。

【然るを彼の僧家の者を見れば、】
ところが、かの禅僧の者を見ると、

【昨日今日まで田夫〔でんぶ〕野人〔やじん〕にして黒白を知らざる者も、】
昨日、今日まで粗野な田舎者で黒白を見分けられない者であっても、

【かちん〔褐色〕の直綴〔じきとつ〕をだにも著〔き〕つれば、】
褐色〔かっしょく〕の僧侶が普段着用する衣を着ただけで、

【うち慢じて天台真言の有智高徳の人をあなづり、】
慢心して、天台宗や真言宗の智慧のある高徳の人を侮り、

【礼をもせず其の上に居らんと思ふなり。】
礼もしないで、その上位にいると思っているのです。

【是傍若無人〔ぼうじゃくぶじん〕にして畜生に劣れり。】
このように傍若無人で、礼儀を知る畜生にも劣っているのです。

【爰〔ここ〕を以て伝教大師の御釈に云はく、】
この礼と言うことについて、伝教大師の解説書には、

【川獺〔せんだつ〕祭魚のこゝろざし、】
「カワウソは、魚を供えて先祖を祭る志をもっている。

【林烏〔りんう〕父祖の食を通ず、】
林の中の烏は、父や祖父に食べ物を運んで恩に報いる。

【鳩鴿三枝〔きゅうごうさんし〕の礼あり、】
鳩〔はと〕は、親よりも三つ下の枝に止まる礼を心得ている。

【行雁〔こうがん〕連〔つら〕を乱〔みだ〕らず、】
飛ぶ雁〔がん)は、列を乱さない。

【羔羊〔こうよう〕踞〔うずくま〕りて乳を飲む。】
小羊は、膝を屈めて乳を飲む。

【賤しき畜生すら礼を知ること是くの如し、】
このように、賤しい畜生でさえ、礼儀を知っているのである。

【何ぞ人倫に於て其の礼なからんやと】
どうして人間同士の間において、その礼儀がなくてよいものであろうか」と

【あそばされたり取意。彼等が法門に迷へる事道理なり。】
仰せになっているのです。彼ら禅僧が法に迷っていることは、あたりまえなのです。

【人倫にしてだにも知らず、】
人の行うべき道さえも知らないのです。

【是天魔波旬のふるまひにあらずや。】
これこそ、天魔の振る舞いではないでしょうか。

第十章 此の僧に聴聞あるべし [先頭へ戻る]

【是等の法門を能く能く明らめて、】
これらの法門を、よくよく明らかに見て、

【一部八巻廿八品を頭にいたゞき懈〔おこた〕らず行なひ給へ。】
法華経一部八巻二十八品を信じ敬い、怠らず修行してください。

【又某を恋しくおはせん時は日々に日を拝ませ給へ、】
また、私を恋しく思ったならば、日々に太陽を拝〔おが〕まれてください。

【某は日に一度天の日に影をうつす者にて候。】
私は、日に一度、天の太陽に影を映す者です。

【此の僧によませまひらせて聴聞あるべし。】
この僧侶に疑問を読まれて答えを聞いてください。

【此の僧を解悟の智識と憑〔たの〕み給ひてつねに法門御たづね候べし。】
この僧侶を仏法理解のための智識と頼みにされて、常に法門を尋ねてください。

【聞かずんば争でか迷闇の雲を払はん。】
聞かなければ、どうして迷いの雲を払うことができるでしょうか。

【足なくして争でか千里の道を行かんや。】
足がなくて、どうして千里の道を進めましょうか。

【返す返す此の書をつねによませて御聴聞あるべし。】
かえすがえす、この書を常に読ませて、お尋ねください。

【事々面の次〔つ〕いでを期〔ご〕し候間委細には申し述べず候。】
いろいろなことは、次に御会いしたときにと思って、詳しくは、申し上げません。

【穴賢穴賢。】
穴賢穴賢。

【弘安三年十二月 日   日蓮花押】
弘安3年12月 日   日蓮花押

【新池殿】
新池殿


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