御書研鑚の集い 御書研鑚資料
小乗大乗分別抄 背景と大意
小乗大乗分別抄(御書704頁)
本抄は、文永十年(西暦1273年)、日蓮大聖人が五十二歳の時に佐渡一谷〔いちのさわ)において御述作になり、下総の富木常忍へ与えられた御書とされています。
書かれた年については、異説もあるようですが、観心本尊抄に関する内容が本抄に見られることから、文永十年とするのが妥当と思われます。
内容は、題名が示すように小乗教と大乗教の区別について、述べられています。
御真筆は、断片の書簡が小湊〔こみなと)の日蓮宗・誕生寺他二十カ所に現存しており、末尾は、欠損しています。
第一章 五重相対
五重相対〔ごじゅうのそうたい〕とは、開目抄で明かされた、すべての宗教・思想・哲学を五段階に比較対照し、浅い教法より深い教法に導く教判のことです。
①内外相対
内道〔ないどう〕の仏教と外道〔げどう〕の仏教以外の宗教との相対〔そうたい〕を言います。
この相対の基準は、三世の因果が説かれているかどうかにあります。
すべての外道は、三世の因果を見通された仏の教説とは違い、文証・理証・現証の三証がなく、単なる人間の想像の産物(文証)であり、その教主の主観と独断と偏見により、矛盾に満ちたもの(理証)であり、その教えも生きている間だけの刹那〔せつな〕的なもので、その教えの実体(現証)は、無いのです。
従って、それを信じている者も死を目前にすると、何の根拠も科学的、裏付けもない天国や地獄を持ち出さざるを得ないのが、現状なのです。
②大小相対
大乗教と小乗教との相対を言います。
大乗教は、大きな乗りものを意味し、小乗教は、小さな乗りものを意味します。
小乗教は、戒定慧〔かい・じょう・え〕の三学によって、戒律を守り(戒)、すべての煩悩〔ぼんのう〕を断絶して(定)、三界(欲界・色界・無色界)六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人界・天界)から離れようとする(慧)ものであり、大乗教は、同じ戒定慧の三学であっても、本尊を定め(定)、その本尊を信仰し(戒)、すべての衆生を救うことを目的とする(慧)ものです。
小乗教によって阿羅漢(覚りを開いた者)になることは、至難の業〔わざ〕であり、俗世間に生きる煩悩に左右される衆生においては、何の意味もないものなのです。
まして、末法ともなれば、小乗を名乗る者は、すべて、見せかけだけのそれを生業〔なりわい〕とする、俗も俗の最たる者なのです。
③権実相対
権教〔ごんきょう〕と実教〔じっきょう〕の相対を言います。
実教とは、真実の教え、つまり法華経の事で、権教とは、その法華経以外の方便の大乗経を指します。
権教は、権〔かり〕の教えであり、膨大な時間を要する歴劫修行〔りゃっこう・しゅぎょう〕に依って事実上、成仏は、不可能なのです。
その為に二乗(声聞・縁覚)は、菩薩に、女性は、男性に生まれ変わる必要があり、その身のままで成仏を果たす、二乗作仏〔さぶつ〕、女人〔にょにん〕成仏・悪人成仏を説く即身成仏の法華経よりも、はるかに劣るのです。
④本迹相対
実教〔じっきょう〕である法華経は、前半の「迹門〔しゃくもん〕」と後半の「本門〔ほんもん〕」に立て分けられ、これを相対します。
後半の法華経寿量品で初めて、釈迦牟尼仏がインドで成仏したという始成正覚を捨てて、久遠実成〔くおん・じつじょう〕を明かしています。
これによって三世の因果が、始めて説かれたのです。
そうでなければ、いくら釈迦牟尼仏が法を説いたとしても、その釈迦自身が成仏した、その因となる法は、いつまでも不明のままで、何を説いているのかわからないままとなるのです。
これでは、仏教を信じることは、できません。
そこで釈迦牟尼仏が、久遠の過去に成仏した本因を明かしたのです。
⑤種脱相対
種脱〔しゅだつ〕相対とは、法華経寿量品において釈迦の文上脱益〔だっちゃく〕の仏法と、日蓮大聖人の文底下種〔げしゅ〕の仏法を相対する法門です。
日蓮大聖人は、法華経・寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経こそ、文底下種・本門・事の一念三千の法門であると明かされています。
この南無妙法蓮華経とは、久遠元初の本仏である日蓮大聖人の所有〔しょ・う〕の法であり、すべての仏が悟りを開く為に題目を唱えた、根本の本尊なのです。
第二章 五重三段
日蓮大聖人は「観心本尊抄」において、釈尊一代五十年の教法を五重に立て分けられ、それぞれに「序分〔じょぶん〕」「正宗分〔しょうしゅうぶん〕」「流通分〔るつうぶん〕」の三段に区別される教判を立てられ、最終的に、末法の衆生が信じるべき本尊を示されました。
「序分」とは、教法を説く為の準備段階であり、「正宗分」とは、まさに仏の本意とする中心の教法が説かれているところであり、「流通分」とは、衆生を利益することを目的として、教法を広く流布する為に説かれたところをいいます。
①第一重 一代一経三段
釈尊一代五十年の経々を三段に分けて判釈
序分 =法華経以前の爾前〔にぜん〕・権経〔ごんきょう〕
正宗分=法華三部経(無量義経・法華経・観普賢菩薩行法経)
流通分=涅槃経など
この段では釈尊出世の本懐が、法華経であることを明かします。
②第二重 法華経一経三段
第一重の正宗分を序・正・流通の三段に分けて判釈します。
序分 =無量義経と法華経の序品〔じょほん〕第一まで
正宗分=方便品第二より分別功徳品第十七の十九行の偈に至るまでの十五品半
流通分=分別功徳品第十七の後半、現在の四信より普賢菩薩勧発品第二十八までに至る十一品半と観普賢菩薩行法経の一経
この段では法華経の正意が二乗作仏・久遠実成にあることを明かします。
以上の①一代一経三段と②法華経一経三段は、一応、法華経を一代説教の中心とすることから「一往〔いちおう〕・総の三段」と言い、これからの③迹門熟益〔じゅくやく〕三段・④本門脱益〔だっちゃく〕三段・⑤文底下種三段を末法の本尊が明かされていくことから「再往〔さいおう〕・別の三段」と言います。
③第三重 迹門熟益三段
法華三部経の内、無量義経と法華経迹門を三段に分けて判釈
序分 =無量義経と法華経の序品第一
正宗分=方便品第二より授学無学人記品第九までの八品
流通分=法師品第十より安楽行品第十四までの五品
この段では迹門熟益の本尊として、仏は始成正覚〔しじょう・しょうがく〕の応即法身を示し、法は、二乗作仏・百界千如〔せんにょ〕が明かされます。
④第四重 本門脱益三段
法華三部経の内、法華経本門と観普賢菩薩行法経を三段に分けて判釈
序分 =従地涌出品第十五の前半品
正宗分=従地涌出品第十五の略開近顕遠の文よりの後半品、寿量品第十六の広開近顕遠の一品、分別功徳品第十七の前半品十九行の偈までの一品二半
流通分=分別功徳品第十七の後半品現在の四信より、普賢菩薩勧発品第二十八までの十一品半と、観普賢菩薩行法経の一経
この段では、本門脱益の本尊として、仏は久遠実成〔じつじょう〕の仏身を示し、法は本因妙〔ほんにんみょう〕・本果妙・本国土妙の三妙合論〔さんみょう・ごうろん〕の上における一念三千を明かされています。
以上の四重の判釈により、釈尊一代仏教の中心は、法華経の本門の一品二半にあることが明かされました。
さらに大聖人は、末法流通の本尊を示す為に寿量文底の意に約して、第五重の三段を立てられています。
⑤第五重 文底下種三段
文底下種の法門より、仏教の一切を括〔くく〕って三段に分けて判釈
序分 =文底体外〔たいげ〕の辺における釈尊一代五十年の諸経、並びに十方〔じっぽう〕三世諸仏の微塵の経々
正宗分=従地涌出品第十五の動執生疑〔どうしゅう・しょうぎ〕より、分別功徳品第十七の十九行の偈〔げ〕に至るまでの一品二半(広開近顕遠の一品二半、我が内証の寿量品、すなわち文底能詮の寿量品の二千余字)
流通分=文底体内の辺における釈尊一代五十年の諸経、並びに十方三世諸仏の微塵の経々(流通の正体は、文底所詮の下種本因妙の妙法蓮華経)
この段では、末法の一切衆生が観心・成仏すべき本尊として、仏は、名字・凡身〔みょうじ・ぼんしん〕の下種の仏を示し、法は、文底下種の妙法蓮華経であることを明かされます。
ここで示された文底・内証〔ないしょう〕の寿量品たる「一品二半〔いっぽん・にはん〕」は、第四重の本門脱益三段の正宗分たる「一品二半」(脱益)とは、名前は、同じであっても、その配立〔はいりゅう〕と意義、内容は、異〔こと〕なります。
脱益の一品二半は、「涌出品」の略開近顕遠〔かいごん・けんのん〕からの一品二半であるのに対して、内証の寿量品たる一品二半は、「涌出品」の動執生疑〔どうしゅう・しょうぎ〕からの広開近顕遠の一品二半なのです。
また、脱益の一品二半が久遠本果を説き、仏の因位〔いんい〕の修行と果徳と所住の国土とに約して、事の一念三千を説いたのに対し、内証の寿量品の一品二半は、能〔よ〕く久遠元初の本因名字の妙法蓮華経を説き詮〔あらわ〕すのです。
この南無妙法蓮華経こそが、「神力品」で上行〔じょうぎょう〕菩薩に付嘱された末法流通の法体〔ほったい〕なのです。
末法流通の観心の本尊の実体とは、外用〔げゆう〕上行菩薩・内証〔ないしょう〕の久遠元初・自受用報身・如来の再誕・日蓮大聖人によって顕された人法一箇・独一本門戒壇の大御本尊であるのです。
第三章 三重秘伝
第26世・日寛〔にちかん〕上人は、「再往〔さいおう〕・別の三段」について、六巻抄の三重秘伝抄によって「当流深秘の大事なり、故に文少なしと雖も義意豊富なり」と述べられています。
それは、開目抄(上)の「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまへり。竜樹天親は知って、しかもいまだひろめたまはず、但我が天台智者のみこれをいだ〔懐〕けり」(御書526頁)を「標・釈・結の三段」に分けられて、
標「一念三千の法門」
釈「但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまへり」
①第一の法門 権実相対「但法華経」
②第二の法門 本迹相対「本門寿量品」
③第三の法門 種脱相対「文底秘沈」
結「竜樹天親は知って、しかもいまだひろめたまはず、但我が天台智者のみこれをいだ〔懐〕けり」
とされ「義に十門を開く」と述べられて、
第一に一念三千の法門は聞き難きを示し「而るに今宗祖の大悲に依って一念三千の法門を聞き、若し能く歓喜して讃めて乃〔すなわ〕ち一言をも発するに至る則〔とき〕は、已に一切の三世の仏を供養するに為る」と御教示され、
第二に文相の大旨を示し「彼の天台の第一第二は通じて当流の第一に属す、彼の第三の教相は即ち当流の第二に属するなり、故に彼の三種の教相を以て若し当流に望む則〔とき〕は二種の教相と成るなり。妙楽云く「前の両意は迹門に約し後の一意は本門に約す」と是れなり、更に種脱相対の一種を加えて、以て第三と為す故に日蓮が法門と云うなり」と御教示され、
第三に一念三千の数量を示し「法華経を謗〔そし〕る心強きを悪業深重と号して地獄界と名づくるなり。故に知りぬ、一念に三千を具すること明きらかなり」と御教示され、
第四に一念に三千を具する相貎〔そうみょう〕を示し、「一は如是に約して数量を明す所謂〔いわゆる〕百界・三百世間・三千如是なり、二に世間に約して数量を明す所謂百界・千如是・三千世間なり、開合異ると雖も同じく一念三千なり云云」と御教示され、
第五に権実相対して一念三千を明かすことを示し「一代経の中には此の経計り一念三千の珠を懐〔いだ〕けり、余経の理は玉ににたる黄石なり沙〔すな〕をしぼるに油なく、石女〔うまづめ〕に子のなきがごとし、諸経は智者猶〔なお〕・仏にならず、此の経は愚人も仏因を種〔う〕ゆべし」と御教示され、
第六に本迹相対して一念三千を明かすことを示し「百界千如は有情界に限り一念三千は情・非情に亙〔わた〕る」と御教示され、
第七に種脱相対して一念三千を明かすことを示し「唯密の正法なり秘すべし秘すべし一代応仏の域を引かえたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千・迹の上の本門寿量ぞと得意せしむることを脱益の文の上と申すなり、文底とは久遠実成の名字の妙法を余行に渡さず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是れなり」と御教示され、
第八に事理の一念三千を示し「応に知るべし、一代の諸経は但是れ四重なり所謂爾前・迹門・本門・文底なり、此の四重に就いて三重の秘伝有るなり、(中略)学者若し此の旨を得ば釈尊一代五十年の勝劣・蓮祖の諸抄四十巻の元意・掌中の菓〔このみ〕の如く了々分明ならん」と御教示されています。
①第一の法門 権実相対
爾前には未だ一念三千を明さず故に当分と名づく、
迹門には即一念三千を明す故に跨節と名づく、
②第二の法門 本迹相対
迹門に一念三千を明すと雖も未だ発迹顕本せざれば是れ真の一念三千に非ざる、故に当分と名づく、
正しく本門には真の十界互具・百界千如・一念三千を明す故に跨節と名づく、
③第三の法門 種脱相対
脱益の本門は文上に真の一念三千を明すと雖も猶是れ理上の法相・迹中の本なる故に通じて理の一念三千に属する故に当分と名づけ、
但文底下種・独一本門・事の一念三千を以て跨節と名づく、
第九に正像未弘の所以〔ゆえん〕を示し、「一には自身堪〔た〕えざる故に、二には所被〔しょひ〕の機無き故に、三には仏より譲〔ゆず〕り与えられざる故に、四には時来らざる故なり」と御教示され、
第十に末法流布の大白法〔だいびゃっぽう〕なることを示さんと述べられています。
第四章 小乗大乗分別抄の大意
日蓮大聖人は、本抄において「五重相対」の大小相対だけではなく、諸経の内容の勝劣浅深を大乗・小乗の尺度をもって、五段階に判じられています。
前述のように「開目抄」においては、「五重相対」、「観心本尊抄」については「五重三段」が説かれ、末法においては、日蓮大聖人が説かれた文底下種の三大秘法の南無妙法蓮華経こそ真実の大乗であり、それ以外のあらゆる教説は、ことごとく小乗であり、人々を不幸にする邪教、未得道の教え、真実を覆い隠した教えとなるのです。
釈迦の説いた一代聖教においては、開目抄に「一切経の中に此の寿量品ましまさずば、天に日月の無く、国に大王の無く、山河に珠の無く、人に神〔たましい〕のなからんがごとく」(御書553頁)とあるように、法華経の寿量品において久遠実成の仏が明かされたことにより、三世の諸仏もその釈尊の分身であることが明らかとなったのです。
まさにこれは、一代の聖教の根本なのです。
しかし、末法の御本仏・日蓮大聖人の仏法においては、久遠実成をさらにさかのぼる久遠元初こそ、仏法の本源であり、三大秘法抄に「秘せさせ給ひし処の、実相証得の当初〔そんかみ〕修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(御書1593頁)と示される本門の本尊と戒壇と題目の三大秘法が法界根源の大教であり、法華経が諸仏出世の一大事とされる理由は、この三大秘法を秘沈しているからなのです。
このように本抄の始めに「夫〔それ〕小大定めなし」とある小乗と大乗の相違は、比較相対する相手によって定まり、諸経に対して、二乗作仏と久遠実成の二箇の大事が説かれている法華経こそ、真の大乗経であるのですが、日寛〔にちかん〕上人が三重秘伝抄で「而るに迹門に於ては未だ久遠下種を明さず。豈・本無に非ずや、而るを二乗作仏と云うは寧ろ今有に非ずや」と述べられているように法華経・迹門で二乗作仏が説かれたといっても、成仏の種子が明かされていないので、本無今有であり、有名無実となるのです。
まして、二乗作仏も久遠実成も明かされていない爾前〔にぜん〕の諸経においては、成仏といっても、名のみで実義が無いことは明らかなのです。
さらに天台大師は、法華文句の中で正法・像法時代の衆生を「本已〔ほんい〕有善(本〔もと〕已〔すで〕に善有り)」と呼び、末法の衆生を過去に、釈迦牟尼仏の仏法とまったく縁がない、歴劫〔りゃっこう〕修行も経ず、全く善根を積んでいない「本未有善(本未だ善有らず)」の衆生としています。
これに対し日寛上人は、依義判文抄で「正像二千年に猶過去下種・在世結縁の者有り、今既に末法に入る過去下種・在世結縁の者漸々に衰微し熟脱の二機皆悉く尽きぬ(中略)故に末法の衆生は皆是れ本未有善にして最初下種の直機なり」と述べられ、末法の衆生は、三大秘法の大御本尊によってのみ即身成仏する衆生であると御教示されています。
本抄において日蓮大聖人は、小乗の輩〔やから〕について「慈悲魔と申す魔、身に入って」(御書710頁)と述べられていますが、慈悲魔とは、首楞厳経〔しゅりょうごんきょう〕に出てくる言葉で、慈悲に乗じて小善に執着させ、大善に背かせる魔を言います。
日蓮大聖人御在世の鎌倉時代においても、極楽寺・良観のように、慈善事業などの小善を行い、その姿は、いかにも慈悲心に溢れる生き仏のように見せかけてはいますが、その実、末法の御本仏である日蓮大聖人を迫害する、元凶であったのです。
また、現代においても、いかにも世界平和を願う慈悲心に溢れるような姿を見せる創価学会ですが、その実態は、一切衆生・皆成仏道を願われる第67世・日顕〔にっけん〕上人、第68世・日如猊下〔にちにょ・げいか〕を悪し様に罵〔ののし〕る、まさに「慈悲魔」そのものであり、三大秘法の大御本尊を否定する法華経・勧持品二十行の偈で説かれるところの三類の強敵〔さんるいのごうてき〕なのです。