日蓮正宗法華講開信寺支部より

日蓮正宗への帰依をお勧めします。


ようこそ開信寺へ


人生の目的とは、なにか、最も幸福な人生とは、どのような人生を指すのか、この難問に明確な答えを指し示すことが、正しい宗教の役割ではないでしょうか。
私達、日蓮正宗講員が信じる末法の御本仏、日蓮大聖人は、貞応元年(西暦1222年)、今から八百年前に安房国〔あわのくに〕、現在の千葉県小湊〔こみなと〕で御生まれになりました。
十二歳で、なぜ釈迦牟尼仏の説いた仏教が、かくも多くの宗派に分かれているのかと疑問を持たれ、何が真実の仏の教えであるのかを知る為に日本第一の智者となし給へと願われました。そして、その願いを叶えるために比叡山延暦寺などに遊学され、釈迦牟尼仏の経文すべてを読まれて、法華経こそ、すべての教えの中で最高であり、すでに釈迦滅後二千年を経た末法においては、法華経の文の底に秘された未だ唱えられたことがない前代未聞の題目を唱える以外に民衆を救う方法がないことを悟られたのです。
そして建長五年(西暦1253年)に故郷の清澄寺において、初めて、その題目を唱えられ、法華経こそ釈迦牟尼仏の真実の教えで有り、経文に照らして、念仏は、無間地獄の業であり、禅宗は、天魔の所為であり、真言は、亡国の悪法であり、律宗は、国賊であり、それらの邪宗を信じ、法華経をないがしろにしている故に三災七難が競い起こると指摘されたのです。
それを聞いた地頭の東条景信は、自らが信じる宗派を否定された為に激怒し、その為に日蓮大聖人は、清澄寺を追われたのです。
それ以降、この題目の布教のための苦難の人生を歩まれたのです。
それと言うのも当時の状況は、釈迦が説いたとおりに天災が続き、飢饉、疫病などによって数多くの人々が苦難に喘いでいたからなのです。
大聖人は、この原因が正法である法華経を誹謗し、仏説に背き、邪宗教を人々が信じている所以〔ゆえん〕であると経文で確信され、この苦難に喘ぐ人々を救い助けるには、法華経の題目を人々に唱えさせる以外にないと説かれたのです。
しかし、それを聞いた人々の怒りは、凄まじく、そのために命さえ狙われ、さらには、その事を著わして幕府に提出した立正安国論のために、ついに弘長元年(西暦1261年)伊豆への流罪となってしまったのです。
二年後に伊豆流罪を赦免された大聖人に、立正安国論で予言された他国〔たこく〕侵逼難〔しんぴつなん〕が蒙古国の国書となって現実の問題となって来たのです。
そんな世情が騒然とする中で、文永八年(西暦1271年)に大事件が起こりました。
六月十八日、大旱魃に際して極楽寺良観が雨乞いの祈祷を行ったのですが、その時に日蓮大聖人が仏法に照らして邪宗、邪義の極楽寺良観が雨を降らせることは出来ない。もし、七日の内に雨が降れば、日蓮が念仏無間の主張を捨てて、良観上人の弟子と成ろうと宣言され、それがために良観は、必死になって祈雨を行いましたが、結局のところ、雨は、降らなかったのです。
それに恨みを持った良観は、幕府を動かして、鎌倉の竜の口において日蓮大聖人を斬首しようとしたのですが、不思議な事に、まさに斬られようとしたその瞬間に大きな光が空に現れ大聖人を殺すことが出来なかったのです。
それでも幕府は、大聖人を極寒の佐渡に流罪に及んだのです。
本来なら、そこで凍え死ぬか、飢えて死ぬところを、人本尊〔にいほんぞん〕開顕の書である開目抄、法本尊〔ほうほんぞん〕開顕の書である観心本尊抄など数多くの重要な法門を著作され、まさに御自身が法華経勧持品の二十行の偈に書かれているところの末法の法華経の行者で有り、また、法華経如来神力品にある結要付嘱〔けっちょうふぞく〕の文によって顕されたところの末法の御本仏であることを示されたのです。
その間にも、立正安国論で予言された自界叛逆難〔じかいほんぎゃくなん〕である北条一族の争いの北条時輔の乱、いわゆる二月騒動が起こり、さらには、他国〔たこく〕侵逼難〔しんぴつなん〕の蒙古来襲が迫って来たのです。それらの国難にたまりかねた幕府の平左衛門尉頼綱〔へいのさえもんのじょうよりつな〕は、文永十一年(西暦1274年)に大聖人を赦免し、鎌倉に呼び戻すと直に会って、手の平を返したような慇懃〔いんぎん〕な態度で、蒙古来襲の時期を訊ねたのです。その場で今年の内には、必定であると答えられ、三度目の諌暁〔かんぎょう〕をされましたが、それが認められず、鎌倉を去り、弟子の育成のために身延へ入られたのです。
そして大聖人の言葉通り、いよいよ蒙古軍が同年十月に、壱岐、対馬、博多へと襲来してきたのです。そのような他国との戦争のさなかにおいて、日蓮大聖人は、富士熱原の一般信徒が死罪に及ぶ弾圧の中、法華経の題目を捨てないことに時を感じられて、弘安二年(西暦1279年)に御本懐である三大秘法の大御本尊を顕されたのです。それが日蓮正宗大石寺に建立されているところの法華経の文底〔もんてい〕独一〔どくいつ〕本門〔ほんもん〕の大御本尊様なのです。
このように尊い末法の御本仏としての人生を歩まれた日蓮大聖人は、弘安五年(西暦1282年)、すべてを日興上人に血脈〔けちみゃく〕相承〔そうじょう〕されて御入滅されたのです。
これこそ、私たちが敬うべき尊い人生であり、また、その日蓮大聖人が残された御本懐である大御本尊様に報恩、感謝する人生こそ、人間として当然のことではないでしょうか。私たちは、この大御本尊様を日蓮大聖人と拝し奉〔たてまつ〕り、日如猊下とともに南無妙法蓮華経と唱えるところに、人間として生まれて悔いのない一生を送る事が出来るのです。


立宗会


4月28日開信寺にて「立宗会」が催されました。 初夏を思わせるような暑さで、室内は、扇風機がまわっていました。 読経、唱題の後、御住職より、立宗会の意義についてお話がありました。 日蓮大聖人は、幼少より、大変、賢い方で、16歳の時に生まれ故郷の安房国(千葉県)の清澄寺(せいちょうじ)において、道善房を師として出家得度され、是生房〔ぜしょうぼう〕蓮長〔れんちょう〕と名乗られました。 12歳の頃には、清澄寺に入られ、得度する為の修行をされておられたようです。 大聖人様は、御自身のことを「栴陀羅〔せんだら〕が子」と言われていますが、「今では、魚を獲って食べるのは普通ですが、この(鎌倉)時代には非常に忌み嫌われる最下層の身分で、その子供が寺に上がると云う事は、大変、異例な事であったと思われます」と御住職は話されました。 出家された後も、鶴岡八幡宮や南都薬師寺、東寺、仁和寺、叡山、摂津天王寺等で一切経を学ばれるのみならず、藤原為家に歌道及び書道を学ばれています。 そして十数年の遊学の後、清澄寺に戻られました。 「聖人御難事」に「去ぬる建長五年四月二十八日に安房国長狭郡〔ながさのこおり〕の内 、東条の郷、今は都なり。天照太神の御〔み〕くりや〔厨〕、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみ〔御〕くりや〔厨〕、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午〔うま〕の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年なり。」(御書1396頁)と記されています。 清澄寺に戻られた日蓮大聖人は、その山上の嵩(かさ)ケ森に立たれ、朝日に向かい「南無妙法蓮華経」と唱えられたと言われています。 この「南無妙法蓮華経」は、釈迦牟尼仏の法華経ではなく、誰も唱えたことの無い久遠元初本因下種、三大秘法の第三の題目なのです。 この時より、是生房蓮長と言う名を捨てられ、日蓮と名乗られます。 長い間の遊学から、帰られた日蓮大聖人の話を聞こうと、地頭の東条景信〔かげのぶ〕をはじめ、多くの人が午の刻(正午)に清澄寺諸坊の持仏堂に集まっていました。そこで日蓮大聖人は、宗旨建立にあたり「阿弥陀仏は無間の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗持斎等は国賊」と世の中の不幸の原因が世間で持て囃〔はや〕されている宗教にあると破折されたのです。それを聞いていた東条景信は激怒し、長年に渡り、憎しみを懐き七年後には、武装した多数の部下を率〔ひき〕い、大聖人を小松原で襲うという暴挙に及んだのです。法華経には「而も此の経は如来の現在すら猶〔なお〕怨嫉〔おんしつ〕多し、況んや滅度〔めつど〕の後をや」「法華経の行者を罵詈毀辱〔めりきにく〕せしむべき時なり」とある様に、この時、日蓮大聖人の弟子である工藤義隆などが大聖人を御守りして討ち死にされています。 大聖人、御自身も額に怪我を負われ、腕を折られながらも、逃げおおせる事が出来たのです。 しかし、日蓮大聖人の御一生は、如説修行抄に 「恐らくは天台・伝教も法華経の故に日蓮が如く大難に値ひ給ひし事なし。彼は只悪口〔あっく〕怨嫉〔おんしつ〕計〔ばか〕りなり。是は両度の御勘気、遠国の流罪、竜口の頸の座、頭〔こうべ〕の疵〔きず〕等、其の外悪口せられ、弟子等を流罪せられ、籠に入れられ、檀那の所領を取られ、御内を出だされし。是等の大難には竜樹・天台・伝教も争〔いか〕でか及び給ふべき。されば如説修行の法華経の行者には三類の強敵の杖〔つえ〕定んで有るべしと知り給へ。」 (御書673頁)と書かれているように苦難の連続でありました。 この宗旨建立は、日蓮大聖人が法華経の行者としての御化導の端緒〔たんしょ〕であり、御本仏、日蓮大聖人が末法において、妙法を弘通される初めであると言う深義の上から、総本山大石寺においては、御法主上人の大導師のもと御影堂において、3月28日に、立宗内証宣示報恩会を、4月28日に立宗会を奉修し、日蓮大聖人の大慈大悲に対し奉り、御報恩謝徳、申し上げているのです。日蓮大聖人は、「善知識に会う」ことが最も大事であると言われています。善知識とは、本門戒壇の大御本尊のことであり、その大御本尊を堅固に守られてこられた日蓮正宗に巡り合うことが出来たことに深く感謝致しました。


法華講連合会・福岡西地方部 第14回 総会


4月23日(日)13時30分より「福岡西地方部・第14回総会」が久留米シティプラザにて開催されました。
ホール内では、マスク着用の上、座席を一つずつ空けて座るという新型コロナウィルス対策が引きつづき行われました。
二人の女性の司会者による開会の言葉に続き、小・中学生による華やかな鼓笛隊の演奏があり、九州各寺の御尊師様をお迎えして、総会が始まりました。
立正寺支部の方の体験発表は、父親の死相に衝撃を受け、母親は念仏、真言宗に救いを求めたのに統合失調症になってしまい、自身は世間の宗教に不信感を募らせて、すっかり宗教嫌いになってしまったそうです。せっかく結婚をして子供も出来、家族を持てたのに仕事や自分の楽しみに逃げ、妻も子供も家を出てしまい、自分一人になってしまったことを機に、立正寺にて折伏をうけ、入信されました。入信後、自分でも折伏を行うと必ず相手の方に悪口を言われてしまうそうです。それでも「愚人に褒められるは一生の恥」という御書の一文を思い出して、ただ日蓮大聖人の顕〔あらわ〕された大御本尊のみが正しいと云うことを話し続け、友人を入信させることができたそうです。
次に、霑妙寺支部の活動報告、福岡西地方部の決意発表がありました。
そして、法華講・連合会の関野委員長より祝辞を賜りました。
福岡西布教区・宗務支院長、岩城永学御尊士よりも御祝辞を賜り、そのお話の中で諸法実相抄(御書668ページ)「行学の二道をはげみ候べし。行学た(絶)へなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あれば一文一句なりともかたらせ給ふべし。」という一文を引かれましたが、日蓮大聖人の御心と異体同心の信心を行うことの大事さをお話いただいたのだと思います。
今世間を騒がしている宗教とは言えない団体の盲信・狂信に陥ることのない「依法不依人」の御金言を忘れずに、日蓮大聖人の御書を学び、一人でも伝えていきたいと思いました。その後には、福岡西地方部長より御挨拶があり、最後に舞台上で少年部が“みんなで唱題”というボードを掲げ、鼓笛隊の演奏で「広布の青嵐」を皆で合唱し、閉会となりました。


慶祝記念登山


3月28日、開信寺の御住職と講員のみなさん、総勢20名で慶祝記念登山に行ってきました。
当日は、御天気も良く桜が満開でした。そのような中で御開扉を賜り、本門戒壇の大御本尊様にお目通りすることができました。御本尊様には、まず、その事を感謝申し上げ、開信寺の折伏と法統相続と皆様の健康を御祈念させていただきました。
実は、この登山に参加するのは、ほんとうに容易ではなかったし、最後まで波乱の連続でした。それでも、このように御本尊様に守っていただいて登山に参加でき、罪障消滅をさせていただいたのですから、その功徳を折伏という形で世間の人にお返しすることが使命であり、また、大御本尊様への報恩感謝であるとも思います。
P.S.
富士山の存在を忘れるくらい、桜がきれいでした。
また、このメンバーで、また、他の講員の皆さんとも一緒に行きたいです。
すごく楽しい慶祝記念登山でした。


Information

法華講だより(令和5年6月号)

1. 寺院参詣に、折伏行に精進しましょう。
コロナウィルスも5類に移行され、いよいよ本来の仏道修行に精進すべき時期を迎えました。寺院参詣に、折伏行に精進致しましょう。
2. 5月度御講拝読御書「諸法実相抄」の要旨を掲載します。
「いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとを〔通〕り、日蓮が一門とな〔成〕りとをし給ふべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだ〔定〕まりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。経に云はく『我久遠より来〔このかた〕是等の衆を教化す』とは是なり。末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。」(御書666頁)
*本抄は、文永10年5月17日、佐渡・一の谷の配所に於いて、大聖人の弟子となった元天台の学僧・最蓮房日浄に授与された指南書であり、天台大師の「諸法実相論」を、本門の立場から会通された返書であります。
法華講員として名を連ねた以上、誰もが地涌の菩薩の一員であり、正法の「一文一句」を語る人材であります。その尊い使命を自覚して、精進して参りましょう。
3. 「お経日(6月1日)13時・19時」
先祖供養の為、お塔婆を建立いたしましょう。
4. 「広布唱題会(6月4日)9時~10時」
全国寺院一斉の折伏成就御祈念の唱題会です。
終了後、グループにて折伏活動を致します。進んで御参加願います。
5. 「御報恩御講(6月11日)13時」
御報恩参詣を通じて人材育成を。「御報恩御講」には必ず参詣し、法話を聴聞し、発心を重ね、更なる信行を磨きましょう。
6. 「広布推進会(6月14日)、本佛寺」=参加定数7名
大勢御参加願います。
7. 「講費(月千円)」
講費は、大切な講活動費です。未納の方は、宜しく納金願います。


6月度行事表
【〒819-0166 福岡市西区横浜1-46-6】
日蓮正宗開信寺(092-806-2611・FAX092-806-7851)

1日
(唱)
13:00
19:00
御経日
寺院
清掃
2日
(唱)

3日
(唱)

4日
(唱)
09:00
広布
唱題会
折伏
活動日
5日
(唱)
6日
(唱)
7日
(唱)
8日
(唱)
9日
(唱)
10日
(唱)
11日
(唱)
13:00
御講
役員会
12日
(唱)
13日
(唱)
14日
(唱)
18:45
広布
推進会
本佛寺
15日
(唱)
16日
(唱)
17日
(唱)
18日
(唱)
19日
(唱)
20日
(唱)
11:00
折伏
活動日
21日
(唱)
22日
(唱)
23日
(唱)
24日
(唱)
25日
(唱)
26日
(唱)
27日
(唱)
28日
(唱)
29日
(唱)
30日
(唱)
7月
1日
(唱)
13:00
19:00
御経日
寺院
清掃
2日
(唱)
09:00
広布
唱題会
3日
(唱)
4日
(唱)
5日
(唱)
6日
(唱)
7日
(唱)
8日
(唱)


「唱題会(唱)」=夏時間(6月~10月)毎日10時~11時
(全ての境涯を開く道は、唱題行にあり。宜しくご参加下さい。)
「御経日(6月1日)」
 御塔婆を建立し、先祖供養を致しましょう。
「広布唱題会(6月4日)」9時~10時
 広布祈念の全国寺院一斉の唱題行です。
「御報恩御講(6月11日)」13時
 御報恩の為、宜しくご参詣願います。
「広布推進会(6月14日)本佛寺」参加定数7名


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御書研鑚の集い・御書に学ぶ信心 生死一大事血脈抄
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2023年04月24日
2023年04月24日
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交通アクセス
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筑肥線九大学研都市駅降りて徒歩15分程度
地図


主な年中行事のご紹介


年間行事

● 元旦勤行        1月1日  
● 節分会         2月3日  
● 日興上人法要(興師会) 2月7日  
● 大聖人お誕生法要    2月16日 
● 彼岸会         春分の日  
● 立宗会         4月28日 
● 盂蘭盆会        8月15日 
● 彼岸会         秋分の日  
● 日蓮大聖人御会式    10月
● 日目上人法要(目師会) 11月15日
● 法華講開信寺支部登山別途年間予定による

毎月の行事

● 御経日毎月1日
● 御講毎月第2日曜日
● 塔婆供養・諸祈念願毎日

日々の実践

● 朝晩の勤行
● 唱題
● 御書研鑚
● 折伏・弘教

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