御講への参詣
日蓮大聖人への報恩感謝
日蓮正宗の寺院では、毎月、御本仏日蓮大聖人の御命日(十三日)にちなんで「御講」が行われています。
御講とは、僧俗一同が日蓮大聖人に報恩感謝申し上げる法要で献膳(けんぜん)、読経、唱題ののち、
僧侶により法話が行われます。
日蓮大聖人は、御書の中に御講参詣の功徳を述べられています。
1、「三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成(じょう)ぜん」(御書268)
三宝への御報恩により成仏の徳を積みます。
2、「御参詣には、無始(むし)の罪障(ざいしょう)も定(さだ)めて今生一世(こんじょういっせい)に消滅」
(御書1502)
御参詣により罪障消滅の徳を積みます。
3、「供養して、此(こ)の経の法門を聴聞(ちょうもん)する事あらば、我(われ)大(おおい)なる利益功徳を得べし」
(御書1047)
御供養・聴聞により大なる徳を積みます。
このように御講は、功徳善根(ぜんこん)を積む大切な法会式です。
御講参詣の意義について
私達の生きている意味とは、なんなのでしょうか。
また、なぜ生きていかなくては、ならないのでしょうか。
それは、私達が仏法を後世に伝えていく為であると言うのは、言い過ぎでしょうか。
たとえ、どんなに素晴らしい人生を送ったとしても、それが人々の為にならないのであれば、なんの意味もありません。たとえ栄耀栄華で一時代を築くことが出来たとしても、いずれは、それも泡沫の夢のように消え去ってしまう事は、いままでの歴史が証明しているではありませんか。
ならば、どんな人生が最高の価値ある人生といえるのでしょうか。
日蓮大聖人は、人々をこの本門戒壇の大御本尊様に導くことこそ真の偉大な人生、そして使命であると言われています。
その為には、まず、周りの人々を御講に誘って共々に日蓮大聖人様に御報恩の誠を尽くさなくてはならないでしょう。
なぜならば、日蓮大聖人様こそ仏法の為、そして人類の為、さらには、後世の一切衆生の為に苦難の人生を全うされた仏様だからです。
それによって今も私達がこうやって正しい信心に励むことが出来るわけです。
その事にまず報恩感謝しなければ、それは、まったく仏法とは言えません。
大聖人は、御書の開目抄に「仏弟子は必ず四恩をしつて知恩報恩をいたすべし(御書530)」と、また四恩抄に「仏法を習う身には必ず四恩を報ずべきに候か(御書267)」とあるように一に一切衆生の恩、二に父母の恩、三に国主の恩、四に三宝の四恩を知って報恩していかなければ仏弟子ではないと教えられています。
さらに四恩抄には、「仏の寿命、百二十まで世にましますべかりしが八十にして入滅し、残る所の四十年の寿命を留め置きて我等に与え給ふ恩をば四大海の水を硯の水とし一切の草木を焼て墨となして一切のけだものの毛を筆とし十方世界の大地を紙と定めて注し置くとも争(いかで)か仏の恩を報じ奉るべき、法の恩を申さば法は諸仏の師なり諸仏の貴き事は法に依る、されば仏恩を報ぜんと思はん人は法の恩を報ずべし、次に僧の恩をいはば仏宝法宝は必ず僧によりて住す、譬えば薪なければ火無く大地無ければ草木生ずべからず、仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず、故に大集経に云く五箇の五百歳の後に無智無戒なる沙門を失ありと云つて是を悩すは此の人仏法の大燈明を滅せんと思えと説かれたり、然れば僧の恩を報じ難し、されば三宝の恩を報じ給うべし、古の聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等・此等は皆我が身を鬼のうちかひとなし身の血髄をうり臂をたき頭を捨て給いき、然るに末代の凡夫・三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん(御書268)」とその中でも、仏宝、法宝、僧宝の三宝への恩が最も大切である事を教えらているのです。
日寛上人は、当流行事抄において「正しく是れ末法出現の三宝如何。久遠元初の仏法豈異人ならんや、即ち是れ蓮祖大聖人なり、久遠元初の法宝とは、即ち是れ本門の大本尊是れなり、久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり」と仏宝とは、日連大聖人であり法宝とは、本門戒壇の大御本尊であり、僧宝とは、日興上人であることを明確に示されています。
その三宝を心から敬い、そして報恩感謝して御講に参加して行くことが、つまりは、仏法を永遠に伝え、さらには私達が最高に価値ある人生を歩む事につながっていくと思うのですが、いかがでしょうか。