御書研鑚の集い 御書研鑽資料
下山御消息 1 背景と大意
下山御消息(御書1137頁)
この下山御消息は、念仏の強信者である甲斐国下山郷〔しもやまごう〕(山梨県南巨摩郡身延町下山)の地頭、下山兵庫五郎光基〔しもやまひょうごごろうみつもと〕宛に、建治三年(西暦1277年)六月に日蓮大聖人が、門下の因幡房〔いなばぼう〕日永〔にちえい)の為に代筆されたものです。
下山光基の寺である平泉寺に住む日永は、日興上人を通じて大聖人に帰依し、法華経、如来寿量品の自我偈を読誦するようになりました。しかし念仏の信者であった下山光基の怒りを買い、平泉寺を追放された為に大聖人が本抄を執筆されたものと考えられます。
本抄では、あくまでも因幡房日永が身延の草庵で日蓮大聖人の説法を聞いた内容を紹介するという体裁を整えながらも、日蓮大聖人が主師親の三徳を備えた教主釈尊より大事なる行者、つまり末法の御本仏で有る事をお示しになっております。また、宗教の五綱の理解と大小兼行の戒め、正像末の弘通の次第と末法における上行菩薩の出現、極楽寺良観の祈雨の経過、弘法による比叡山の密教化、さらには、真言に依る祈祷と国家滅亡の危機などが述べられており、いわば念仏の強信者の下山光基への仏教初心者への指南書、諫言の書となっています。そう云う事で日興上人も最も重要な御書十編、つまり十大部として選定されたのではないでしょうか。
このように本抄では、仏法流布の歴史をたどり、法華経最勝を確認し、さらには、法華経に説かれた通りの三類の強敵による迫害を受け、その死身弘法の姿を顕された日蓮大聖人こそ、末法の法華経の行者であり、教主釈尊より大事なる行者、つまりは、久遠元初の御本仏である事を明かされております。また、その日蓮大聖人に敵対する、律、念仏、真言こそが、諸悪の根源であり、その為に前代未聞の大災害、国家滅亡の大事件が迫っている現状を指摘されているのです。
十大部の中では、珍しく、御真筆については、全国20ヵ所に、その断片が分散所蔵されており、写本で伝わっている全体の二割にも満たない状態です。しかしながら、現在、正安二年(西暦1300年)に日向と決別して日興上人に帰伏した寂日房日澄の写本が大石寺と重須本門寺に所蔵されています。
御執筆の時期、建治三年(西暦1277年)六月は、蒙古襲来から三年後で、再度の来襲が、いつあるかわからないという不穏な時代であり、本抄には、その差し迫った状況が色濃く顕れています。
さて本抄の冒頭では、因幡房日永が念仏を止めた理由が述べられ、それが本抄執筆の三年前、文永十一年(西暦1274年)の夏、身延に入山された日蓮大聖人の法門を聴聞したことによると説明されています。ここで、すでに身延においても日蓮大聖人の法門を聴聞する事がすでに難しくなっていた事がわかります。それが阿弥陀経、読誦を止めるきっかけとなり、その後、そこで聴聞した法門の内容をそのまま書いて下山光基に伝えると云う形式で話が進んで行きます。
その内容については、まず法華経と阿弥陀経などの諸経とを比べたときに、その勝劣が天地雲泥であり、法華経を修行するにあたって、大小、権実、顕密を理解し、更に弘通すべき時と衆生の機根とを考えねばならない事が示されています。しかし今の日本では、人々は、阿弥陀経を重視し法華経を軽視しているばかりか、すでに大乗の国となった日本で、まったく意味のない小乗を修行しているような有様である事が述べられています。
像法時代に日本へ天台法華宗の章疏をもたらした鑑真は、当時の衆生の機根が未熟であったので、天台法華宗を弘めることはせず、小乗の戒壇を建立し、その後、伝教大師が法華第一を明らかに示し、六宗の高僧に対して帰伏状を出させ法華経が諸経の中でも最も勝れている歴史的事実を、ここで挙げられています。
さらに、正像末の弘通の次第と末法においては上行菩薩が出現し法華経本門を弘通すべき時にあたっており、本抄の別名を法華本門抄という所以〔ゆえん〕もここにあります。その瑞相として、諸宗の人師などは、経文の浅深に迷い、仏の付嘱の道理を忘れて、人々の機根も考えずに勝手に宗派をたてており、それらは、日本において天台法華宗の流布を前提として衆生の機根を調える役目をもっているに過ぎないのです。だからこそ像法時代の末に伝教大師が出現し、比叡山に法華経円頓の戒壇を建立したのです。
そうであるのに、鎌倉の律師たちは、公家や武家を欺〔あざむ〕き、自らが国師であると思っている天下第一の欺瞞〔ぎまん〕者と云うべき存在で極楽寺の良観こそ、経文に示された、まさにその悪比丘であり、彼に欺〔あざむ〕かれた日本国の人々は、その経文通りに、現世では亡国、後世では、無間地獄の苦悩に沈むと忠告されています。ところが極楽寺良観は、国主への讒言によって日蓮大聖人を亡き者にしようと企て、誰一人として日蓮大聖人の諫言を用いようとしなかったのです。極楽寺良観の本質は、法華経勘持品に説かれる第三の強敵、すなわち僭聖増上慢であると見定められた日蓮大聖人は、良観が幕府により祈雨を命ぜられた事実を伝え聞き、使者を遣わして祈雨の勝負を申し入れ、良観は、これを自信満々で引き受けたのです。ところが当初の期限であった七日間を十四日間に変えて祈っても、雨は一滴も降らず、かえって暴風が起き、勝負は誰の眼にも明らかとなったのです。しかるに良観は、潔く敗北を認めて山林に隠れるどころか、臆面もなく弟子、檀那を誑〔たぶら〕かし、日蓮大聖人を再度、陥〔おとしい〕れんと画策したのです。このような現実を通して、仏説と当時の日本の現状を比較して、第三の強敵のうち僭聖増上慢である極楽寺良観がいたからこそ、日蓮大聖人が法華経の行者である事が証明され、法華経勧持品と涅槃経の経文が虚妄でない事がわかったのです。このように経文が真実であるならば、良観に帰依して日蓮を迫害する国主は、経文通りに、現世には亡国、後世には無間地獄は、もはや疑いがないではないかと三度、警告され、経文の予言通りの諸天による治罰が日本史上始まって以来の未曾有の大事件、蒙古襲来として現実になったのです。
さらに、弘法大師という天下第一の自讃毀他の大噓つきが、伝教大師入滅後に公家の人々を騙〔だま〕して、真言宗を立て、この真言の誑惑によって比叡山、第三代座主の慈覚や第五代の智証は、真言が法華経に優れているとして、伝教大師の正義を捨ててしまい、その為に王法の世界も下剋上の世となってしまったのです。後白河法皇の時代になって、座主明雲によって法華の三部経読誦が真言の三部経に取って代わり、比叡山天台宗とは、名ばかりで真言密教の寺と化し、これが決定的な亡国の前兆〔さきがけ〕となったのです。
次に、末法に入ると、この真言に加え、禅、念仏の悪法が並び起こって、承久の乱の際、後鳥羽院は、真言によって幕府討伐の祈祷を行ったのですが、かえって幕府の北条氏によって自らが流罪になってしまったのです。これは、日本国の民衆が真言に加えて禅宗、念仏宗の悪法を用いた為に、このような前代未聞の下剋上を招いたのです。やがて真言の邪法が関東に下って鎌倉にも根を張り、法華経への帰依も完全に廃れて、そこで未曾有の天変地夭が起こったのです。仏典により、その原因を見極められた日蓮大聖人は、それを立正安国論に託して北条時頼に提出されたのですが、幕府は、それを無視したばかりでなく、逆恨みした念仏者によって草庵を襲撃され、更には幕府によって伊豆へ流罪されるに至ったという経過を述べられています。
このように経文通りであるならば、日蓮大聖人こそ日本国の一切衆生の父母であり、師匠であり、主君の使いであることは明らかであり、その三徳兼備の日蓮大聖人を迫害する幕府は、わざわざ経文通りの災いを招いている事になるのです。ようやく伊豆流罪は赦免になったものの、また、竜の口で頸の座に臨まれ、一分の失もないのに佐渡へ流罪となったのです。大聖人に対する流罪、死罪の処罰は、幕府が制定した貞永式目中の起請文にすら背くものであるのに、身命を賭した大聖人の諌言を問い質すこともなくまったく理解しようとしないどころか頸を斬ろうとするなど、このような幕府の日蓮大聖人を迫害したその大謗法の重罪、許されるべくもなく、現世には亡国、後生には無間地獄を免れないと警告されているのです。佐渡流罪より赦免された直後に平左衛門尉と対面した際、日蓮大聖人は蒙古が今年中に必ず攻めて来ることは必定と予言され、三度目の諌言をされましたが、幕府が、これを用いなかったので、「三度の諌めを用いざれば去れ」という故事に習って身延へ入られたと述べられています。
このように三徳具備の仏に背く念仏者の謗法は、法華経譬喩品の経文通りに、無間地獄の原因となるのです。日本国の人々は、たとえ法華経を持ち釈尊を崇重しようとも、真言、禅、念仏による謗法を断じない限り、無間地獄を免れ難く、しかも法華経の行者たる日蓮大聖人を蔑み、慢心を起こしている故に、法華経の敵となり、諸天の大怨敵となって、今や国が滅びようとしているのです。いかに蒙古軍への防備に努めたとしても、真言などによっていくら、祈祷をしても、教主釈尊よりも更に大事な法華経の行者たる日蓮大聖人を迫害したその大謗法の重罪から免れる事は出来ないのです。
ここから因幡房の元の文章に戻り、道理にかなった日蓮大聖人の法門に対して、真実の報恩をする為には、一時的には、背くように見えても正法正義を貫〔つらぬ〕くことが大事であり、日蓮大聖人を賎しんで、その諫言を用いられないならば、必ずや後悔される事になるとの因幡房の諌言で本抄を結ばれています。