御書研鑚の集い 御書研鑚資料
原殿御返事 背景と大意
本抄は、正応元年(西暦1288年)12月16日、日興上人が身延山の久遠寺において43歳の時に御述作されたものであり、身延の地から原殿に与えられた御手紙です。
題名の原殿については、おそらく波木井家の一族で、原の御牧〔みまき〕あたりに住んでいた人と考えられていますが、詳細は、不明です。
ただ、本抄に「君達〔きんだち〕」とあることから、おそらく波木井実長〔はぎりさねなが〕の子息の一人と考えるのが妥当と思われます。
波木井実長の子息には、次郎、弥三郎、三郎、弥六郎の4人がいたと推測されており、その中で、本抄の御執筆された歳に「君」と呼ばれる年齢は、弥六郎以外にいないことから、原殿は、弥六郎である可能性もありますが、いずれも推測の域を出ません。
ただ、内容においても、原殿の日興上人への信奉を正義〔しょうぎ〕と呼ばれ、そのことによって波木井実長も地獄に堕ちることはないと励まされていることから、やはり、波木井実長の家族である可能性は、高いと思われます。
本抄の最初に波木井実長の心変わりに触れられ、次いで鎌倉における日蓮大聖人門下の謗法を明確にされて、自らが住む身延の地頭、波木井実長の謗法を見て見ぬ振りを出来ないことから、日興上人が教戒しているにも関わらず、大聖人の跡を継ぐ日興上人の言葉に耳を貸さず、学頭の日向〔にこう〕の言葉を信じて逆らい、ついに身延を離山せざるをえなくなった心境を述べられ、正法護持への決意をされて終えられています。
なお、本抄の御真筆は、現存しませんが、要法寺の日辰作、祖師伝に出典を明らかにせずに、全文の、ほぼ、すべてが引用されています。
まず、原殿から届けられた手紙への御礼をされた後、「抑〔そもそも〕此の事の根源は」と最初から、学頭である日向〔にこう〕の「白蓮〔びゃくれん〕阿闍梨〔あじゃり〕(日興上人)外典読みに片方を読みて至極を知らざる者」との言葉からであることを指摘され、結局は、地頭である波木井実長の謗法の実態は、学頭である日向の世欲的な欲望の心が強く、世間の権力にへつらう卑しい心から、始まっているのです。
また、地頭の波木井氏も、以前から世間で広く信仰されていた浄土宗を信仰しており、鎌倉の日昭や日朗、さらには身延に戻ってきた日向の話から、念仏信仰への執着が残っており、必ずしも、それを厳格に禁ずる必要がないのではないかと考えはじめていたことがわかります。
さらには、世間で当たり前のように行われている神社参詣や釈迦仏像の建立、謗法への布施などを厳格に禁じられる日興上人に嫌悪を感じ、次第に京の軟風〔なんぷう〕に犯されて世間の評判に強く拘〔こだわ〕る日向の優し気な言葉に従うようになっていったのです。
その結果、相〔あい〕反〔はん〕する主張に対し、どちらが正しいかは「日蓮阿闍梨は入滅候、誰に値ひてか実否を定むべく候」と日興上人に尋ねたあげく、結局は「我は民部阿闍梨を師匠にしたるなり」と述べているのです。
その日向は、日興上人の御指南を無視して大師講の折に「天長地久・御願円満・左右大臣文武百官各願成就」と朝廷および幕府の天地長久を祈り、大臣や文武百官の所願の成就を祈った、国家の安泰を祈る啓白文を読み上げたのです。
大師講というのは、大聖人御在世中から行われていた天台大師の命日の法要のことですが、法要後に学頭が法華経や摩訶止観を講義するというのが習わしでした。
その中のことです。
これは、日興上人が再三にわたって、学頭である日向に大師講において、そのような自分勝手な祈りを行ってはならないと注意したにも関わらず、どうして国の恩を日興上人は、考えないのであろうかなどと反論し、制止を振り切って国家安泰の祈りを強行したのです。
また、大国〔だいこく〕阿闍梨、日朗が、大聖人の墓所から持ち去った釈尊立像に代わる釈尊立像を地頭の波木井氏に造るように民部日向が、そそのかし、これに対して、日興上人は、日朗が持ち去った立仏像が、たとえ大聖人の随身仏であったとしても、今さら、それを作ったとして、末法には、何の意味もないとされ、本来、安置すべき本尊を戒壇に安置できないのであれば、子孫に、それができる者が出るまで待つべきであり、それまでは、大聖人が文字に顕された紙幅〔しふく〕の曼荼羅〔まんだら〕本尊〔ほんぞん〕を安置すべきであると仰せになっています。
このように日向が主張した釈迦仏像を造ることを制止され、日興上人が大聖人御真筆の文字曼荼羅を本尊とすることを正意とされたのは、当然であり、また、今になって、大聖人御出世の本懐である南無妙法蓮華経の教主の木造を壊すような真似をするのかと地頭である波木井実長に厳しく言ったと述べられています。
しかし、この日興上人の言葉を波木井実長は、地頭の自分を軽視されたと受け止めたようで、それに対し、日興上人は、このような勇気が出てきたのは、日蓮大聖人が日興の身に入り替っているので、地頭へ諂〔へつら〕うこともなく、経文通りに、また大聖人の仰せの通りに諫〔いさ〕めることが出来たと述べられています。
さらには、日興上人は、日向は、諸岡入道の為に絵師に曼荼羅を作らせて、一日一夜の説法を行って曼荼羅の開眼供養をした後、布施をもらい、酒宴の席で泥酔して、奇声を上げたりして、僧にあるまじき行為を働き、師である日蓮大聖人を恥かしめたと記〔しる〕されています。
このような態度から、最初こそ日興上人を日蓮大聖人のように慕っていた地頭の波木井実長も次第に日向の姿に感化され、本来が念仏者が持つ優柔不断で世間に迎合しやすい態度が仇となって、狡知〔こうち〕に長〔た〕けた日向に誑〔たぶら〕かされ、すっかり、邪宗邪義が蔓延〔はびこ〕る世間に迎合するようになってしまったのです。
その結果、自らの領地である南部郷の福士に塔が作られた際に供養をしたり、念仏の僧が九品〔くほん〕往生〔おうじょう〕の為として道場を建立した際に、その一助として、木を領地の山林から寄進したりし始めたのです。
これらは、明らかに謗法であり、それを日興上人が言葉を尽くして諫められたことは、間違いないのですが、世間の評判や価値観を基準として、逆に日興上人を教条的な思想の持ち主と思い、一切衆生悉有仏性〔しつうぶっしょう〕の仏の教えから離れた外道義であると言い始めたのです。
そのような中で日興上人は、自らが教化された波木井実長を改心させられないでいることに「面目なさ、本意なさ」と仰せられ、逆に「君達は何れも正義を御存知候へば悦び入り候」と原殿に対しては、日蓮大聖人への信心を持〔たも〕っていることを称賛されるとともに「打ち還し案じ候へば、いづくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候はん事こそ詮にて候へ」と述べられているように、日蓮大聖人の仏法を正しく受け継ぎ、世に広めることが大事であって、身延の地にこだわるべきではないと述べられています。
事実、その後の歴史をたどれば、身延の久遠寺は、謗法の巣となり、新たに日興上人を迎えた上野郷の地頭、南条時光の手によって建立された大石寺は、現在、日蓮大聖人の仏法を唯一正しく伝えている日蓮正宗の総本山として興隆しているのです。