御書研鑚の集い 御書研鑚資料
日女御前御返事(御本尊相貌抄) 背景と大意
日女御前御返事、別名・御本尊相貌抄は、御真筆、写本ともに確認できませんが、明治37年(西暦1904年)の責任者・日明編、小川孝栄・訂、出版者・祖書普及期成会の「日蓮上人御遺文」には、「外二十三ノ十二」から「外二十三ノ十五」として四頁に渡って、その全編が「頼元陳情」「盂蘭盆御書」などと共に掲載されています。
この責任者の日明〔にちみょう〕は、智英〔ちえい〕・日明と名乗り、西暦1743年から西暦1814年にかけて存命の、尾張国の妙勝寺や永法院・檀林に関わりを持つ身延一致派の僧侶で、諸国を巡って日蓮大聖人の遺文を集め、編纂〔へんさん〕に努めて「新撰御書」五十巻を編集し、その校正の途中で病に倒れたとされています。
また、小川孝栄は、現在の神奈川県藤沢に医師の子として生まれ、幼名を泰二郎、通称を孝栄と称し、江戸で医師を開業、古本屋でたまたま日蓮大聖人遺文「録内御書」を一読して在家の日蓮大聖人研究者となり、隠居して泰堂〔たいどう〕と称しました。
慶応元年(1865年)の「高祖遺文録」30巻は、智英・日明が収集・書写した「新撰祖書」を底本として、江戸時代後期の文化十一年(西暦1814年)から明治十一年(西暦1878年)にかけて編纂・訂正した日蓮大聖人の遺文集です。
明治20年4月出版の「高祖遺文禄・巻之三」では、編集人に沙門・日明、原版・山梨縣下・身延山・久遠寺蔵版、同弘通所・東京深川淨心寺となっています。
折しも江戸の目黒に永瀬清十郎という者がおり、第四十八世・日量〔にちりょう〕上人の指導により富士の正義に帰伏し宗学を、充分に身につけるようになりました。
文政五年頃から、この清十郎は、しばしば尾張に入り、小牧村の岩田利蔵を教化したのですが、この利蔵は、二十二、三歳の時から、この一致派の日明に随身し、御書の勉強を重ねていたのです。
ある日、日明が「私は、壮年より御書を拝見したが、法門が甚深の為、その意味を理解していない。結局、日興〔にっこう〕上人の眼を借りて、これを照らさなければいけない」と言っていたので、利蔵は、富士門流に心を寄せていましたが、入信するまでには、至〔いた〕らなかったのです。
そこへ清十郎が尾張に入ったのを機に、富士に改派したのです。
この利蔵は、入信後、直ちに大石寺に登山し、数百冊の書籍を書写したと言われています。
ちなみに、この「日蓮上人御遺文」の「日女御前御返事」には、「建治三年八月」「松野六郎左衛門後家尼」となっています。
この事について、第六十七世・日顕上人は、平成六年八月二十四日の第43回全国教師講習会の総本山大講堂において「建治年間の御本尊には、すべて善徳仏と十方分身の諸仏が示されているのですが、(中略)ところが、建治三年の御書とされている日女御前御返事の御文においては、それが示されておりません。この御書のように、善徳仏〔ぜんとくぶつ〕、十方分身諸仏が御本尊の御当体からなくなるのは弘安以降なのです。この大講堂の御本尊は、千葉県、房州の万年救護〔きゅうご〕の御本尊のお形木〔かたぎ〕ですから文永年間です。したがって、善徳仏、十方分身諸仏が示されております。ところが、弘安に入ると、それがぴったりとなくなります。これが一つであります。もう一つは、悪逆の達多・愚癡の竜女〔りゅうにょ〕一座をはりと、提婆達多と竜女が示されていることです。特に竜女は、現在、大聖人様の御真筆とされている百三十余幅の御本尊のなかでも、ただ一幅にしか示されていないのです。その御本尊は、不思議なことに弘安二年二月の日目上人授与の御本尊なのです。この一幅だけが、竜王女として、竜女が御本尊のなかに示されております。それから、提婆達多が示されるのも、文永年間に一幅あるだけで、あとは先程の弘安二年の日目上人授与の御本尊に至るまで示されないのです。それ以降は、ほとんど提婆達多をお示しになります。そういう点からは、この悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはりという具体的な例証は、弘安二年の日目上人授与の御本尊のみなのです。また、日女御前御返事が建治三年の御書であるという所信についても、実は根拠はないのです。御真蹟がない御書については、おそらくこの頃であろうというようなあいまいな形で所伝ができ、特別な理由がない限りは、それがずっと伝承されているものなのです。したがって、的確な理由がない所伝ならば、種々の検討の結果に正しい系年が判明することもあり、そのような意味から、今度の平成新編御書には、系年の異動がたくさんあるわけです。また、日蓮花押等の御花押の形からも系年が変更になった場合もあります。そのほか、その理由は複雑かつ様々で一概には言えませんが、昔の所伝や御書全集所載の系年には、納得できないものがたくさんあり、この日女御前御返事は、思い切って弘安に移した次第であります」と述べられております。
さらに、これに捕捉されて、大村寿顕・教学部長は、日女御前御返事の系年について、日女御前御返事の系年を従来の建治三年八月二十三日から弘安二年に変更した理由について、次の二点を挙げられました。
すなわち、一点は、同抄に悪逆の達多・愚癡の竜女云云と、提婆達多と竜女が示されておりますが、現存する大聖人の百三十二幅の御本尊中、提婆達多が示されるのは、文永十一年七月二十五日の御本尊の一幅を除いて、弘安二年二月の日目上人授与の御本尊以後、弘安五年に至る弘安年中の御本尊に限定されているということであります。
また、もう一点は、竜女が示されている御本尊は弘安二年二月の日目上人授与の御本尊のみであるということです。
以上を弘安二年に変更する理由といたしましたが、さらにもう一点、建治年中の御本尊には、「善徳仏」と「十方分身仏」が勧請〔かんじょう〕されておりますが、弘安元年以降の御本尊からは、全く見ることができないということです。
すなわち、御本尊の相貌〔そうみょう〕について、建治二年に確定されている報恩抄には、「日本乃至一閻浮提〔いちえんぶだい〕一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂〔いわゆる〕宝塔の内の釈迦・多宝、外〔そのほか〕の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士〔きょうじ〕となるべし」(御書1036頁)とあります。ここに「外の諸仏」とあるのは、建治年中の御本尊の相貌と同じく、十方分身の諸仏を示されたものです。ところが日女御前御返事における御本尊の相貌を教示されたところには、「されば首題の五字は中央にかゝり、四大天王は宝塔の四方に坐し、釈迦・多宝・本化〔ほんげ〕の四菩薩肩を並べ、普賢〔ふげん〕・文殊〔もんじゅ〕等、舎利弗〔しゃりほつ〕・目連〔もくれん〕等座を屈し、日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅〔あしゅら〕・其の外〔ほか〕不動・愛染〔あいぜん〕は南北の二方に陣を取り、悪逆の達多〔だった〕・愚癡〔ぐち〕の竜女一座をはり云云」(御書1387頁)とあるように、「善徳仏」や「十方分身仏」を表示する部分は全く見ることができません。
このことは、日女御前御返事が建治年中の御書ではなく、弘安元年以降の御書だからであると思われます。
したがって、これも日女御前御返事を弘安二年にした大きな理由でありますと述べられ、補足されています。
さらに日女御前は、先ほどのように「日蓮上人御遺文」の「日女御前御返事」では「松野六郎左衛門後家尼」とあるように、窪の持妙尼、つまり松野殿後家尼の女であるとも(境妙庵目録)、また、下総の平賀忠治の女で池上右衛門大夫宗仲の室であるとも(祖書証議論)伝えられ、いずれが正しいかは、明らかではありません。
御書の内容から推察すると、ある程度の年配で、かなり地位もあり、裕福な女性であったと思われます。
また、学識も深く教養もあり、しかも信心強盛な女性であったと思われます。
本抄の最初にある「抑〔そもそも〕此の御本尊は在世五十年の中には八年、八年の間にも涌出品〔ゆじゅっぽん〕より嘱累品〔ぞくるいほん〕まで八品に顕はれ給ふなり」(御書1387頁)の八品とは、法華経本門十四品のうち、従地涌出品第十五から嘱累品第二十二に至るまでの八品のことであり、涌出品には、滅後の弘通を付嘱すべき地涌の菩薩を召し出だし、寿量品には、付嘱する本尊を説き顕わし、分別功徳品には、この本尊に対してよく一念の信解を生ずる功徳を明かしています。
随喜功徳品には、この法を聞いて五十展転〔てんでん〕する功徳を明らかにし、法師功徳品には、この法の五種の妙行の大利益を明かし、不軽品には、末法に弘通する方軌を示し、神力品には、別してこの本尊をまさしく、地涌の菩薩に付嘱することが説かれています。
そして嘱累品においては、総じて迹化の菩薩等も含めて付嘱がなされるのです。
このように寿量品で説き顕わされた本尊の付嘱が八品にわたり、余品にわたらない故に「八品」と言われているのです。
観心本尊抄文段において日寛上人は、「今この本尊は八品所顕と為んや、寿量所顕と為んや」との問いに対し、「寿量所顕」であり、「八品所顕」ではないと明確に述べられています。
つまり、この日蓮大聖人が顕される大曼荼羅〔まんだら〕本尊は、法華経の八品に説かれた文上の本尊ではなく、如来寿量品の文底に秘し隠された文底の南無妙法蓮華経なのです。
それ故にその御本尊の相貌〔そうみょう〕は、観心本尊抄に「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字」(御書654頁)とあるように、本抄の「首題の五字は中央にかゝり」の「五字」とは、「南無妙法蓮華経」のことであり、日蓮大聖人が御図顕された御本尊の中央には、この本門の題目が懸けられているのです。
また「此の御本尊全く余所〔よそ〕に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如〔くしき・しんのう・しんにょ〕の都とは申すなり。十界具足とは十界一界もか〔欠〕けず一界にあるなり。之に依って曼陀羅とは申すなり」(御書1388頁)の文の中の「我等衆生」とは、南条殿御返事に「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。されば日蓮が胸の間は諸仏入定〔にゅうじょう〕の処なり、舌の上は転法輪の所、喉〔のんど〕は誕生の処、口中〔こうちゅう〕は正覚〔しょうがく〕の砌〔みぎり〕なるべし。かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊しと申すは是なり」(御書1569頁)とあるように「日蓮大聖人の肉団の胸中」のことなのです。
つまり、その意味するところは「法華経を持〔たも〕ち、南無妙法蓮華経と唱える日蓮の胸中の肉団に、この御本尊があるのであり、まったく余所〔よそ〕に、それを求〔もと〕めてはならない。これを九識心王真如〔くしき・しんのう・しんにょ〕の都〔みやこ〕と言い、これによって大聖人が十界具足の曼陀羅を書き顕わすのである」との甚深の御教示なのです。
その日蓮大聖人の書き顕わされた十界・曼陀羅・本尊に向かって日蓮大聖人と共に、または、大聖人より血脈相承〔けちみゃく・そうじょう〕を受けた代々の上人猊下と共に題目を唱えることによって、はじめて「我等衆生」と成り得るのです。
しかし、創価学会などは、この文を「本来、御本尊は、妙法を唱える人自身の胸中に存するものであり、大聖人の御心に適う信心の一念があれば、たとえ御本尊を直接拝せなくとも、仏界涌現の功徳は厳然と顕れる」(聖教新聞 平成五年九月八日・取意)などと解釈していますが、この「法華経を持〔たも〕ちて」とは、末法においては、弘安二年の大御本尊を信じることであり、過去には、創価学会もそのように説明をしていたのです。
現在の創価学会の「本来、御本尊は、妙法を唱える人の胸中に存在するもの」と言う解説は、邪教、中山門流の「己心本尊論」と同じものであり、「信心の一念があれば、たとえ御本尊を直接拝せなくても、仏界が涌現する」と言うのは、日蓮宗の本尊よりも、題目を中心とする邪義に通じるものです。
日達上人は「胸中の肉団に御本尊がましますという言葉を取って、大曼荼羅・本尊は、要らない。自分自身の御本尊を拝めばよいのだというような説を立てている人もあります。(中略)自分自身が御本尊だなどと考える時は、すでに増上慢に陥〔おちい〕って地獄の苦を受けるということになる」と仰せになり、また「我々は、御本尊の明鏡に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか。そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、勝手に自分自身を拝んで成仏すると言うならば、大聖人は、何の為に御本尊を御図顕なさったのか。戒壇の御本尊を大聖人の御当体として残されたのでありましょうか」と厳しく、その誤りを指摘されています。
この御指南からも「御本尊は、我々の胸中の肉団にあるから、大御本尊を拝まなくてもよい」という言い分が間違っていることは明らかなのです。
この弘安二年の戒壇の大御本尊を信じてこそ「只〔ただ〕我等衆生」と成るのであり、この大御本尊を「此の御本尊全〔まった〕く余所〔よそ〕に求〔もと〕むる事なかれ」と述べられているのです。
であるからこそ、本抄において「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり。以信得入〔いしん・とくにゅう〕とは是なり」(御書1388頁)と、この御本尊を日蓮大聖人の肉団の胸中に御住いの南無妙法蓮華経であると信じることの重要性を強調され、間違った創価学会の本尊観などの悪知識に依らず、日蓮大聖人の弟子・檀那〔だんな〕として「正直捨方便」「不受余経一偈〔ふじゅ・よきょう・いちげ〕」と純粋に、この御本尊を日蓮大聖人と信じて南無妙法蓮華経と唱え、この御本尊の宝塔の中に入ることが最も大事なことであると仰せなのです。
最後に、この御本尊を受け持〔たも〕って、南無妙法蓮華経と唱えることが、伝教大師が中国に渡り、相伝されたところの五種・頓修〔とんしゅう〕の妙行であり、日蓮大聖人の弟子・檀那〔だんな〕にとっての信心の肝要〔かんよう〕とは、このこと以外に求めては、ならないと御教示されて本抄を結ばれています。