日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


四信五品抄 1 背景と大意


四信五品抄(御書1111頁)

この御書は、建治三年(西暦1277年)四月初旬に日蓮大聖人が身延で五十六歳のときに下総中山(現在の千葉県市川市)の富木常忍に与えられました。別名を「末代法華行者位並用心事」と云います。
御真筆は中山法華経寺(千葉県市川市中山二丁目)に国宝の日蓮大聖人御真筆の「観心本尊抄」、「立正安国論」とともに現存しています。
富木常忍は、姓を「富城」あるいは「土木」とも書き、名前を「五郎左衛門尉胤継〔たねつぐ〕」と称しました。下総国若宮に館を構えていた守護千葉氏の被官で日蓮大聖人が松葉ヶ谷の法難に遭われた際には、太田乗明とともに自邸近くの八幡荘〔やわたのしょう〕谷中郷に日蓮大聖人を御迎えし保護しました。その後、日蓮大聖人の為に自邸に法華堂を造営し檀越〔だんのつ〕の中心者として外護に励むとともに文官であった為、多くの紙筆を提供して御執筆を助けました。中山法華経寺に多くの遺文があるのはその為と言われています。その為、入信は、建長六年(西暦1254年)頃と云われています。
日蓮大聖人の御入滅後、常修院日常と改め、自邸の法華堂を法華寺と改称し、自ら開山となり、八十歳で亡くなったと伝えられています。その後、変遷を経て同地に現在の日蓮宗中山法華経寺として存立していますが、境内に鬼子母神を祭り、真言宗同様の荒行で事故事件を起こすなど完全に邪教と化しています。
この中山法華経寺に現存している書状によると建治三年(西暦1277年)三月二十三日に富木常忍は、弁阿闍梨日昭を通して日蓮大聖人に法華経を修行する上での疑問点を幾つかお伺いしました。内容は、肉や五辛(調味料)を食べた後、すぐに読経唱題してもよいか、身を清める事なく御本尊様に向かってもよいかなど、極めて日常的な質問でしたが、これに対し本抄で日蓮大聖人は、仏法の基本に照らして法華経の行者の修行のあり方を御教示されました。
末法の修行の方法については、法華経の流通分こそ明鏡とも云える最も頼りとなる規範であり、その流通分には、法華経迹門の法師品などの五品と法華経本門の分別功徳品の後半から法華経の終わりまでの十一品半の合わせて十六品半があるのです。その中でも分別功徳品に説かれている四信五品は、法華経を修行する本筋で有り、この中の釈迦在世の四信の初めの一念信解と釈迦滅後の五品の第一の初随喜の二つは、いずれも百界千如、一念三千を収めた宝箱であり、三世諸仏が出現する門であるとされています。天台大師、妙楽大師は、この二つの修行の階位について、六即の中の上から三番目の相似即、四番目の勧行即、または、さらに低位の五番目である名字即の三説を述べられていますが、日蓮大聖人は、法華経寿量品の失心、不失心の者は、名字即の事であり、涅槃経の若信、若不信の文も一念信解の初随喜の名字即の事であって、低位の名字即が正しいとされています。さらに法華経の修行には、必ず必要とされる戒、定、慧の三学についても、五品のうち、初品、第二品、第三品においては、慧に重きを置いて、もし、慧がないのであれば、以信代慧によって慧を信に代えるのであるとされています。不信は、一闡提、謗法の原因であり、信は、智慧の要因であり、名字即の階位であるのです。また、その信を智慧に代える題目は、すべてが包含されており、妙法蓮華経の五字は、経文の題名ではなく、その意義でもなく、ただ法華経全体の真意であるとされ、「初心の行者は其の心を知らざれども、而も之を行ずるに自然に意に当たるなり。」と御教示されています。結局、日蓮大聖人の弟子として、仏教に対して何の理解力もなく意味も解らずに南無妙法蓮華経と唱える修行の階位は、自然に八十万億劫の間、仏に供養した大菩薩となり、妙楽大師は、この者を「若し悩乱する者は頭七分に破れ供養すること有らん者は福十号に過ぐ」と述べており、経文には、その人を悪く言うような事があれば、もし、それが事実であっても事実でなくても、この悪口を言う人は、生きているうちに不治の病、また、いろいろな重病に陥るであろうと、これらの者を軽蔑したり悪く言う者の罪科を説かれています。
さらには、この法華経の経文を否定すれば、それは、釈迦如来、多宝如来、十方諸仏の大怨敵となり、天照太神、正八幡大菩薩などの守護神は、力を失い、梵天、帝釈、四天王は、既に国を去って国は滅びてしまうのです。
末法の御本仏、日蓮大聖人を信じ、三大秘法の御本尊様に題目を唱える事こそ、真の戒、定、慧の三学であり、信を智慧に代える真の以信代慧であり、天台、伝教をも超える真の智者なのです。


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