日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 十法界事 現代語訳 御書研鑚資料


1. 数量を示して問題を提起する


【十法界事 正元元年 三八歳】
十法界事 正元元年 三八歳御作

【二乗三界を出でざれば】
天台宗に於いては、二乗が三界(欲界、色界、無色界)の六道を出離しなければ、

【即ち十法界の数量を失う云云。】
二乗界そのものがないので十法界の数が欠けてしまうと云っています。

2. 第一問である十界互具について答える


【問ふ、】
この事について日蓮が対立点を明らかにする為に幾つかの質問をしたいと思います。

【十界互具を知らざる者、】
それでは、そもそも十界互具の法門を知らない者が、

【六道流転〔るてん〕の分段〔ぶんだん〕の生死を出離〔しゅつり〕して】
三界六道を輪廻する衆生の生死を出離して、

【変易〔へんにゃく〕の土に】
菩薩、二乗が仏果を目指して修行する実報土、方便土に

【生ずべきや。】
生まれることが出来るのでしょうか。

【答ふ、】
そのことについて天台宗として御答えしますが、

【二乗は既に見思〔けんじ〕を断じ】
すでに二乗は三界六道に生ずる原因である見思惑を断じており、

【三界の生因無し。】
三界六道に生まれる原因がありません。

【底〔なに〕に由ってか界内の土に生ずることを得ん。】
ですから、どうして三界の六道世界に生まれることができましょうか。

【是の故に二乗は永く六道に生ぜず。】
それゆえに二乗は、永遠に六道に生まれることはありません。

【故に玄の第二に云はく】
ゆえに法華玄義の第二の巻に

【「夫〔それ〕変易に生ずるに則ち三種有り。】
「菩薩の実報土、二乗の方便土である変易の国土に生まれる者に、三種類がある。

【三蔵の二乗、通教の三乗、】
三蔵教(小乗教)の二乗と通教(方等時、般若時)の三乗(菩薩、二乗)と

【別教の】
別教(華厳時、方等時、般若時)の五十二位のうち、十住、十行、

【三十心」已上。】
十回向の位まで進んだ菩薩である三十心の菩薩の三種類である」とあります。

【此くの如き等の人は皆通惑〔つうわく〕を断じ、】
これらの人々は皆、三乗に共通の惑である見思惑を断じ尽くして、

【変易の土に生ずることを得て、】
爾前経においても二乗、菩薩は六界を出離し、変易の国土に生まれることができ、

【界内分段の不浄の国土に生ぜず。】
三界六道、分段の不浄の国土には、生まれないのです。

3. 第二問で心生による出離を破折する


【難じて】
日蓮は、十界互具の法門を知らず三界六道を出離する事は出来ないと思いますが、

【云はく、】
もう一度、その事について質問致します。

【小乗の教は但〔ただ〕是〔これ〕心生の六道を談じて】
小乗教では、ただ心から生じる六道、つまり「心生六道」を論じているだけなので

【是心具の六界を談ずるに非ず。】
心に具する六界のことを云っているのではありません。

【是の故に二乗は六界を顕はさず、】
それゆえに、これらの二乗は、心具六界を顕わしてはいないのです。

【心具を談ぜず、】
つまりは、心に六界が具することを明らかにしていないのです。

【云何〔いかん〕ぞ但六界の見思を断じて】
したがって、どうして、ただ六界にある見思惑を断じて

【六道を出づべきや。】
六道を出離することができるのでしょうか。

【故に寿量品に云へる一切世間天人阿修羅〔あしゅら〕とは、】
ゆえに法華経如来寿量品第十六にいう「一切世間天人及阿修羅」とは、

【爾前迹門両教の二乗三教の菩薩】
法華経迹門、爾前経の両教の二乗、蔵教、通教、別教の三教の菩薩、

【並びに五時の円人を】
ならびに五時の法華時の中の迹門の円満完全な教えである円教を信奉する人を、

【皆天人・修羅と云ふ。】
すべて天、人、修羅と表現したのです。

【豈〔あに〕に】
したがって、これらの爾前経、法華経迹門の人々は、

【未断見思の人と云ふに非ずや。】
全く見思惑を断じていない人というべきなのです。

4. 第二問の返答として爾前にも利益が有ることを主張する


【答ふ、十界互具とは法華の】
再度、天台宗として御答えしますが、十界互具とは、

【淵底〔えんでい〕、此の宗の沖微〔ちゅうび〕なり。】
法華経の奥底であり、天台宗の奥義なのです。

【四十余年の諸経の中には之を秘して伝へず。】
法華経以前の四十余年の諸経の中には、これを秘して伝えていないのです。

【但し四十余年の諸の経教の中に無数の凡夫見思を断じて】
しかし、四十余年の種々の経教の中でも無数の凡夫が見思惑を断じて、

【無漏〔むろ〕の果を得、】
無漏(煩悩の汚れの無いこと)の阿羅漢果を獲得し、

【能〔よ〕く二種の】
有余(煩悩は断じ尽したが、まだ肉体が残っている)涅槃と、

【涅槃の】
無余(肉体も無に帰して灰身滅智した)涅槃の二種類の涅槃の

【無為〔むい〕を証し、】
無為(生滅変化を超えた常住絶対の真実)を証得し、

【塵数〔じんじゅ〕の菩薩通別の惑を断じ、】
多数の菩薩が通惑(見思惑)、別惑(塵沙惑、無明惑)を断じ尽くして、

【頓〔とみ〕に二種の生死の縛〔ばく〕を超ゆ。】
速やかに分段と変易の二種類の生死の呪縛を超えたのです。

【無量義経の中に四十余年の諸経を挙げて、】
無量義経説法品第二の中に、法華経以前の四十余年の諸経を挙げて、

【未顕真実と説くと雖も】
「未だ真実を顕さず」と説いてはおりますが、

【而も猶爾前三乗の益〔やく〕を許す。】
爾前経においても三乗(菩薩、二乗)の当面の利益を許しているのです。

【法華の中に於て正直捨方便と説くと雖も】
法華経方便品第二の中において「正直に方便を捨てて」と説いてはいますが、

【尚〔なお〕】
それでも、なお法華経譬喩品第三に

【見諸菩薩授記作仏と説く。】
「諸の菩薩の授記作仏を見しかども」と説いているのです。

【此くの如き等の文爾前の説に於て】
これらの文章は、爾前経の説においても

【当分の益を】
衆生が六道を離脱して二乗や菩薩になっていく事の出来ると云う当面の利益を

【許すに非ずや。】
許しているのではないでしょうか。

5.第二問の返答で十界互具と久遠実成への反論


【但し爾前の諸経に二事を説かず、】
ただし、爾前の諸経には二つの事が説かれていないのです。

【謂はく、実の円仏無く】
つまり、真実の十界円融(十界互具一念三千)の仏がなく、

【又久遠実成を説かず。】
また久遠実成を説いていないのです。

【故に等覚の菩薩に至るまで】
ゆえに等覚の菩薩(菩薩の修行の段階で五十二位のうちの第五十一位)までも

【近成〔ごんじょう〕を執する思ひ有り。】
始成正覚に執着する思いがあるのです。

【此の一辺に於て天人と同じく能迷〔のうめい〕の門を挙げ、】
この一点において、菩薩、二乗も天人と同じく六道の迷いの門に入っているとし、

【生死煩悩一時に断壊〔だんね〕することを証せず。】
生死、煩悩を一時に断破することができないのであり、

【故に唯未顕真実と説けり。】
そうであるからこそ「未顕真実」と説いているのです。

【六界の互具を明さゞるが故に出づべからずとは】
六界の互具を明かさないゆえに三界六道を出離できないなどとは、

【此の難甚だ不可なり。】
まったく、おかしな話で爾前経であっても三界六道の出離はできるのです。

【六界互具せば即ち十界互具すべし。】
六界が互具すれば、おのずと十界が互具することになります。

【何となれば、権果〔ごんか〕の心生とは】
なぜならば、爾前権教の場合、凡夫の心から六道輪廻の果が生ずるのであり、

【六凡の差別なり。】
そこには当然のことながら六凡(六界)の区別が存在するのです。

【心生を観ずるに】
このように心生の六界を観ずるときに、

【何ぞ四聖の高下】
なぜ心生の四聖の高低(仏界、菩薩界、縁覚界、声聞界)が

【無からんや。】
顕われないなどと云う事があるでしょうか。

6. 第三問で断常二見の小乗、大乗を破折する


【第三重の難に云はく、】
日蓮は、まったく、そうではないと思いますが、次の質問を致します。

【第三重の難に云はく、】
日蓮は、まったく、そうではないと思いますが、次の質問を致します。

【所立〔しょりゅう〕の義誠に道理有るに似たり。】
今、あなたが言われていることは、まことに道理があるようにみえますが、

【委〔くわ〕しく一代聖教〔しょうぎょう〕の前後を検するに、】
詳しく釈迦牟尼仏の一代聖教の前後を考察すると

【法華本門並びに観心の智慧を起こさゞれば】
法華経本門並びに観心の智慧を起こさなければ

【円仏と成らず。】
円仏(一念三千の仏)とならないとあります。

【故に実の凡夫にして権果だも得ず。】
ゆえに実際には、ただの凡夫であって権教(爾前経)の果さえも得られないのです。

【所以〔ゆえ〕に彼の外道五天竺に出でて四顛倒〔てんどう〕を立つ。】
それゆえにインドの外道が常楽我浄の有為の四顛倒を立てたのに対して、

【如来出世して四顛倒を破せんが為に】
釈迦如来が出現して、この四顛倒を破すために

【苦空等を説く。】
苦、空、無常、無我を説いたのですが、

【此則ち外道の迷情を破せんが為なり。】
これは、外道の迷いを破折するためであったのです。

【是の故に外道の我見を破して無我に住するは】
それゆえに外道の我見を破折して無我に住することは、

【火を捨てゝ以て水に随ふが如し。堅く無我に執して見思を断じ】
火を捨てて水に従うようなものなのです。堅く無我に執着して見思惑を断じ、

【六道を出づると謂〔おも〕へり。此迷ひの根本なり。】
それによって六道を出離すると思っているのです。これが迷いの根本なのです。

【故に色心〔しきしん〕倶滅〔ぐめつ〕の】
ゆえに色(肉体・物質)心(精神・観念)をともに滅するという

【見に住す。】
間違った見方に陥るのです。

【大集等の経々に断常〔だんじょう〕の二見と】
大集経などの経々に断見、常見の二見は、ともに間違いであると

【説くは是なり。】
説いたのは、この為なのです。

【例せば有漏〔うろ〕外道の自らは得道なりと念〔おも〕へども】
例えば、仏法外の外道が自ら得道したと思っても

【無漏智〔むろち〕に望むれば未だ三界を出でざるが如し。】
仏の智慧から見ると未だ三界を出離していないようなものなのです。

【仏教に値〔あ〕はずして三界を出づるといはゞ】
仏教に会うことなく三界を出離しようとするのは、

【是の処〔ことわり〕有ること無し。】
まったく根拠のないことなのです。

【小乗の二乗も亦復〔またまた〕是くの如し。】
小乗教の二乗も、またまた同じことなのです。

【鹿苑施小〔ろくおんせしょう〕の時には】
この二乗は、釈尊が鹿野苑で小乗教を説いた時には、

【外道の我〔が〕を離れて無我の見に住す。】
外道の我を離れて無我の見解を得たのです。

【此の情を改めずして四十余年、】
しかし、この迷いの心を改めないで、四十余年間、

【草庵〔そうあん〕に止宿〔ししゅく〕するの思ひには】
この草庵にとどまって無我の思いから、

【暫〔しばら〕くも離るゝ時無し。】
少しも離れる時はなかったのです。

【又大乗の菩薩に於て心生の十界を談ずと雖も】
また大乗教の菩薩においても、心生の十界を説いておりますが、

【而も心具の十界を論ぜず。】
それでも心具の十界を論じないのです。

【又或時は九界の色心を断尽して仏界の一理に進む。】
また、ある時は九界の衆生の色心を断じ尽して仏界の一理に進もうと思うのです。

【是の故に自ら念はく、】
であるからこそ自ら、このように思っているのです。

【三惑を断尽して】
三惑(見思惑・塵沙惑・無明惑)を断じ尽して

【変易〔へんにゃく〕の生を離れ寂光に生るべしと。然るに九界を滅すれば】
変易の生を離れた寂光に生まれるだろうと。しかし、九界を滅すると考えれば、

【是則ち断見なり。】
これは、自らの命は死んだら終わりとする断見となるのです。

【進んで仏界に昇れば】
逆に進んで仏界に昇ると考えれば、

【即ち常見と為す。】
これは、自らの命は不変で死なないとする常見となるのです。

【九界の色心の常住を滅すと欲〔おも〕ふは】
このように九界の色心の常住を滅しようと願うのは、

【豈〔あに〕九法界に迷惑するに非ずや。】
九法界に迷い惑うものではないでしょうか。

7. 第三問で経釈を挙げて質問を裏付ける


【又妙楽大師云はく】
また妙楽大師は、止観〔しかん〕輔行伝〔ぶぎょうでん〕弘決〔ぐけつ〕巻五に

【「但し心を観ずと言はゞ則ち理に称〔かな〕はず」文。】
「ただし小乗で心を観ずるというのは、実理にかなっていない」と言っています。

【此の釈の意は、小乗の観心は】
この文章の意味は、小乗教においても心を観察する事を行うが

【小乗の理に】
心に諸法を具していると云う事を説いていないので、

【称はざるのみ。】
この観心では小乗の理にすら合致しないと云う意味なのです。

【又天台の文句〔もんぐ〕第九に云はく】
また天台大師の法華文句の第九に

【「七方便並びに究竟〔くきょう〕の】
「七方便(蔵教の二乗、通教の三乗、別教の三十心の菩薩、円教の十信の菩薩)は

【滅に非ず」已上。】
いずれも究極の悟りに到達していない」とあるのです。

【此の釈は是爾前の前三教の菩薩は】
この文章は、爾前の蔵教、通教、別教の三教の菩薩も

【実には不成仏と云へるなり。】
実際には成仏していないという意味なのです。

【但し未顕真実と説くと雖も】
ただし、無量義経説法品第二に「未だ真実を顕さず」と説きながら

【三乗の得道を許し、正直捨方便と説くと雖も】
三乗の得道を許し、法華経方便品第二に「正直に方便を捨てて」と説きながら

【而も見諸菩薩授記作仏と云ふは、】
法華経譬喩品第三に「諸の菩薩の授記作仏を見しかども」とあるのは、

【天台宗に於て三種の教相】
天台宗において三種の教相(根性の融不融の相、化導の始終不始終の相、

【有り。】
師弟の遠近不遠近の相)があるのです。

【第二の化導の始終の時、過去の世に於て】
その第二の化導の始終の時、過去、三千塵点劫の

【法華結縁〔けちえん〕の輩有り。】
大通智勝仏の世に法華経に結縁の衆生がおりました。

【爾前の中に於て】
その衆生に対し、爾前経の中で、

【且く法華の為に三乗当分の得道を許す。】
しばらく法華経に導く為に三乗の当分の得道を許したのであって、

【所謂種〔しゅ〕熟〔じゅく〕脱〔だつ〕の中の熟益〔じゅくやく〕の位なり。】
いわゆる種、熟、脱の三益の中の熟益の位であり、

【是は尚迹門の説なり。】
これは、なお迹門の説なのです。

【本門観心の時は是れ実義に非ず。】
法華経本門の観心の時は、これは実義ではなくなるのです。

【一往許すのみ。】
一往、三乗の当分の得道を許しただけなのです。

【其の実義を論ずれば如来久遠の本に迷ひ、】
その実義を論ずると爾前迹門では如来の久遠実成の本地に迷い、

【一念三千を知らざれば】
法華本門の事の一念三千を知らないので、

【永く六道の流転〔るてん〕を出づべからず。】
永遠に六道の流転を出離することはできないのです。

【故に釈に云はく「円乗の外を名づけて】
ゆえに天台の釈に「法華本門の法理以外の教えはことごとく

【外道と為す」文。又「諸善男子楽於〔ぎょうお〕】
外道と為す」とあるのです。また法華経如来寿量品第十六に「諸の善男子、

【小法徳薄垢重者」と説く。】
法華本門の事の一念三千以外の小法を願う徳が薄く垢の重い者」と説いてあります。

【若〔も〕し爾〔しか〕れば経釈共に】
もし、そうであれば経文とその解説書は、ともに

【道理必然なり。】
爾前経では、六道の流転を出離できないという道理はあたりまえのことなのです。

8. 第三問の返答で再び爾前の三乗の得益を説く


【答ふ、執難〔しゅうなん〕有りと雖も】
再度、天台宗の立場として御答えしますが、

【其の義不可なり。】
自分の意見に執着して、いくら質問を繰り返してもその意味はありません。

【所以〔ゆえん〕は如来の説教は機に備はりて】
その理由は、釈迦如来の説教は、機根に応じて説かれたものであり、

【虚〔むな〕しからず。】
なんであれ虚偽ではないからです。

【是を以て頓〔とん〕等の】
これをもって釈迦の一代聖教を天台大師が分類した中において

【四教、蔵〔ぞう〕等の四教は】
頓教、漸教、秘密教、不定の化儀の四教、蔵教、通教、別教、円教の化法の四教は、

【八機の為に設〔もう〕くる所にして】
それぞれ八種類の機根を持つ衆生の為に説いたものであって、

【得益無きに非ず。故に無量義経には】
得益がないわけではないからです。ゆえに無量義経説法品第二には

【「是の故に衆生の得道差別〔しゃべつ〕あり」と説く。】
「このゆえに衆生の得道には差別がある」と説いているのです。

【誠に知んぬ、】
まさにこのことを理解しなさい。

【「終〔つい〕に無上菩提を成ずることを得ず」と説くと雖も】
無量義経説法品第二に「ついに無上菩提を成ずることを得ない」と説いてあっても、

【而も三法四果の益無きに非ず。】
三法、四果の利益がないわけではなく、

【但是速疾頓成〔そくしつとんじょう〕と】
ただ、これは速疾頓成(直ちに成道すること)と

【歴劫〔りゃっこう〕迂回〔うえ〕との】
歴劫迂回(歴劫修行という長い期間を経て成道すること)との

【異なりなるのみ。是一向に得道無きに非ざるなり。】
違いがあるのみであって、爾前経に一向に得道がないと云うことではないのです。

【是の故に或は三明〔さんみょう〕】
それゆえに三明(仏、阿羅漢が有する三種類の神通力)、

【六通も有り、】
六通(仏、三乗が有する六種類の神通力)もあり、

【或は普現〔ふげん〕色身の菩薩も有り、】
あるいは、ことごとく色身を現す菩薩もいるのです。

【縦〔たと〕ひ一心三観を修して以て同体の三惑を断ぜざれども】
たとえ一心三観を修行して、本体が同一である三惑を断じなくても、

【既に析智〔しゃくち〕を以て見思を断ず。】
既に析空観の智慧をもって見思惑を断じているのであり、

【何ぞ二十五有を出でざらん。】
どうして三界二十五有を出離しないということがあるでしょうか。

【是の故に解釈〔げしゃく〕に云はく】
それゆえに、天台大師の法華文句に

【「若し衆生に遇って小乗を修せしめば我則ち慳貪〔けんどん〕に堕せん。】
「もし衆生にあって小乗を修行させると我は慳貪の罪に堕ちる。

【此の事不可なりと為す。祇〔ただ〕二十五有を出づ」已上。】
このことは不可であるとしても、ただ二十五有を出離する」とあるのです。

【当に知るべし、】
まさに知りなさい。

【此の事不可と説くと雖も而も出界〔しゅっかい〕有り。】
このことを不可と説いていますが、しかしながら三界からの出離はあるのです。

【但是不思議の空〔くう〕を観ぜざるが】
ただ、これは不思議の空を観じないので、

【故に不思議の空智を顕はさずと雖も】
それゆえに不思議の空智を顕はさないのですが、

【何ぞ小分の空解を起さゞらん。】
どうして少分の空解を起こさないことがあるでしょうか。

【若〔も〕し空智を以て見思を断ぜずと云はゞ】
もし空智をもって見思惑を断じないというのなら、

【開善の無声聞の義に同ずるに】
中国の開善寺の智蔵法師の説く実の声聞は、

【非ずや。】
いないとの義に同じになるではないですか。

【況〔いわ〕んや今経は正直捨権純円一実の説なり。】
まして今の法華経は、正直に権を捨てて、もっぱら一実の円教を説く経文なのです。

【諸の爾前の声聞の得益を挙げて】
ですが、爾前の諸経の声聞の得益を挙げて、

【「諸漏〔しょろ〕已に尽きて復〔また〕煩悩無し」と説き、】
法華経方便品第二に「諸の漏がすでに尽きて、もはや煩悩がない」と説き、

【又「実に阿羅漢〔あらかん〕を得、】
また同品に「実に阿羅漢を得て、

【此の法を信ぜず是の処〔ことわり〕有ること無し」と云ひ、】
この法を信じない。これは道理のあることではない」と云い、

【又「三百由旬〔ゆじゅん〕を過ぎて】
また化城喩品第七に「三百由旬を過ぎて

【一城を化作〔けさ〕す」と説く。】
一城を方便力で作った」と説いているのです。

【若し諸の声聞全く凡夫に同ぜば】
もし多くの声聞たちが全く凡夫と同じならば、

【五百由旬一歩も】
五百由旬を一歩も修行しなかったことになり

【行くべからず。】
「三百由旬を過ぎて」と説くはずがないではないですか。

【又云はく】
また同品に、釈迦滅度の後の声聞は、

【「自ら所得の功徳に於て滅度の想ひを生じて当に涅槃に入るべし。】
「自ら得たところの功徳において滅度の思いを生じて、まさに涅槃に入るであろう。

【我余国に於て作仏して更に異名〔いみょう〕有らん。】
我(釈尊)は滅度の後、他の国において作仏して、更に異なった名になるであろう。

【是の人滅度の想ひを生じて涅槃に入ると雖も】
この人(声聞)は滅度の思いを生じて涅槃に入るといっても、

【而も彼の土に於て仏の智慧を求めて】
しかも彼の国土において仏の智慧を求めて、

【是の経を聞くことを得ん」已上。】
この法華経を聞くことを得るであろう」とあります。

【此の文既に証果〔しょうか〕の羅漢】
この文章は、既に証果の阿羅漢が

【法華の座に来たらずして無余〔むよ〕涅槃〔ねはん〕に入り】
法華経の会座に来ないで無余涅槃に入り、

【方便土に生じて法華を説くを聞くと見えたり。】
方便土に生じて法華経の説法を聞くと述べたものです。

【若し爾〔しか〕らば既に方便土に生じて】
もし、そうであるならば既に方便土に生じているから、

【何ぞ見思を断ぜざらん。】
見思惑を断じているはずではないですか。

【是の故に天台妙楽も】
それゆえに天台大師は法華文句に、妙楽大師も法華文句記に

【「彼土得聞〔ひどとくもん〕」と釈す。】
「彼の方便土で法華経を聞く」と釈しているのです。

【又爾前の菩薩に於て】
また爾前の菩薩について、法華経従地涌出品第十五に

【「始めて我が身を見、我が所説を聞いて】
「初めて我(釈尊)が身を見、我が所説を聞いて、

【即ち皆信受し如来慧に入りにき」と説く。】
すべて信受し如来の智慧に入った」と説いているのです。

【故に知んぬ、爾前の諸の菩薩三惑を断除して仏慧〔ぶって〕に入ることを。】
ゆえに爾前の諸の菩薩が三惑を断じて仏の智慧に入ったことが分かるのです。

【故に解釈に云はく】
ゆえに天台大師の法華玄義に

【「初後の仏慧円頓〔えんどん〕の義斉〔ひと〕し」已上。】
「初めの華厳の仏慧と後の法華の仏慧と、円頓の義は等しい」とあるのです。

【或は云はく】
あるいは妙楽大師の法華玄義釈籤に

【「故に始終を挙ぐるに】
「故に初めの華厳と終わりの法華を挙げているが、

【意仏慧に在り」と。】
本意は仏の智慧にある」とあるのです。

【若し此等の説相経釈共に非義ならば】
もし、これらの所説の意義、経文や解釈ともに間違っているならば、

【正直捨権の説・】
法華経方便品第二の「正直に権を捨てる」との説明や、

【唯以一大事の文・】
また「唯一大事の因縁を以って」との文章、

【妙法華経皆是真実の証誠〔しょうじょう〕】
見宝塔品第十一の「妙法華経、皆是れ真実である」との証明、

【皆以て無益なり。】
これらはすべて無意味となるのです。

【皆是真実の言は豈〔あに〕一部八巻に亘〔わた〕るに非ずや。】
「皆是れ真実である」の言葉は、一部八巻二十八品、すべてにわたるのです。

【釈迦多宝】
もし、それが間違いならば釈迦仏や多宝如来、

【十方分身の舌相〔ぜっそう〕至梵天〔しぼんてん〕の神力・】
十方分身の諸仏が真実を証明するために舌を梵天に至らせる相を示した神通力や、

【三世諸仏の誠諦不虚〔じょうたいふこ〕の証誠】
また三世の諸仏が説いたこれらのことが虚偽でないという証明は、

【空〔むな〕しく泡沫〔ほうまつ〕に同ぜん。】
むなしく泡沫と同じになってしまうのです。

【但し小乗の断常の二見に至っては】
ただ、小乗の断常の二見に至っては、

【且く大乗に対して小乗を以て外道に同ず。】
しばらく大乗に対して小乗をもって外道に同じとしているのであって、

【小益無きに非ざるなり。】
小乗に小益がないことは、ないのです。

【又「七方便並びに究竟の滅〔めつ〕に非ず」の釈、】
また法華文句巻九の「七方便はいずれも究竟の寂滅ではない」との解説、

【或は復〔また〕「但し心を観ずと言はゞ】
あるいは止観輔行伝弘決の「ただし小乗でも心を観ずるが、

【則ち理に称〔かな〕はず」とは、】
実理にかなっていない」との解釈は、

【又是円実の大益に対して七方便の益を下して】
また法華真実の円教の大利益に対して、七方便の利益を比較したものであり、

【並に非究竟滅・即不称理と釈するなり。】
「究竟の寂滅ではない」「実理にかなっていない」としているだけなのです。

9. 第四問で本門観心により一切経を判ず


【第四重の難に云はく、】
日蓮は、第四の質問を行います。

【法華本門の観心の意を以て一代聖教を按〔あん〕ずるに】
法華経本門寿量品文底の観心の南無妙法蓮華経をもって一代聖教を考察してみると、

【菴羅果〔あんらか〕を取って掌中〔しょうちゅう〕に捧〔ささ〕ぐるが如し。】
マンゴーの果実を取って眺めるように一目瞭然となるのです。

【所以〔ゆえん〕は何〔いか〕ん。】
その所以は、四重の興廃〔こうはい〕であり、

【迹門の大教起これば爾前の大教亡じ、】
迹門の大教が起これば爾前の大教が亡じ、

【本門の大教起これば迹門爾前亡じ、】
本門の大教が起これば迹門、爾前の大教が亡じ、

【観心の大教起れば】
観心の大教(南無妙法蓮華経)が起これば

【本迹爾前共に亡ず。此は是如来所説の聖教、】
本迹爾前の大教は、ともに亡ずるのであって、これは釈迦如来の所説の聖教は、

【従浅〔じゅうせん〕至深〔しじん〕して】
浅きより深きに至って、

【次第に迷ひを】
次第に衆生の迷いを法華経本門寿量品文底の観心の南無妙法蓮華経へと

【転〔てん〕ずるなり。】
転じていくのです。

10. 第四問で爾前の利益が方便であることを明かす


【然れども如来の説は一人の為にせず。】
しかし、釈迦如来の説法は、少数の人だけの為に説かれたものではありません。

【此の大道を説きて迷情除かざれば】
この観心の大道を説いて迷いを除かなければ、

【生死出で難し。若し爾前の中に】
多くの人は、生死流転から出離することはできないのです。確かに、爾前のなかに

【八教有りとは】
蔵教、通教、円教、別教、頓教、漸教、秘密教、不定教の八教があります。

【頓〔とん〕は則ち華厳、漸〔ぜん〕は則ち三味、】
化儀の四教のうち、頓教は華厳経、漸教は阿含経、方等経、般若経、

【秘密と不定〔ふじょう〕とは前四味〔しみ〕に亘〔わた〕る。】
秘密教と不定教とは、華厳経、阿含経、方等経、般若経にわたっています。

【蔵は則ち阿含方等に亘る、】
化法の四教のうち蔵教は阿含経、方等経にわたります。

【通は是方等般若、円別は是則ち前四味の中に】
通教は方等経と般若経、円教、別教は前四味のなかの

【鹿苑〔ろくおん〕の説を除く。】
鹿苑の説(阿含経)を除きます。

【此くの如く八機各々不同なれば教説も亦異なるなり。】
このように八教の機根が、おのおの不同なので仏の教説もまた異なるのです。

【四教の教主亦〔また〕是〔これ〕不同なれば】
蔵教、通教、別教、円教の教主もまた不同なので、

【当教の機根〔きこん〕余仏〔よぶつ〕を知らず。】
その教えの機根の衆生は、他の仏を知らないのです。

【故に解釈に云はく「各々仏独〔ひと〕り】
ゆえに天台大師は摩訶止観に「おのおの衆生はそれぞれの教主の仏が、独り

【其の前に在〔いま〕すと見る」已上。】
その前におわすと見る」と解説しているのです。

【人天の五戒】
人天は、不殺生戒、不偸盗戒、不邪婬戒、不妄語戒、不飲酒戒の五戒、

【十善・】
不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不貪欲、不瞋恚、

【二乗の四諦】
不邪見の十善、二乗は、苦諦、集諦、滅諦、道諦の四聖諦と

【十二・】
無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の十二因縁、

【菩薩の六度】
菩薩は、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六波羅蜜を修行し、

【三祇〔さんぎ〕百劫】
蔵教の菩薩は、三阿僧祇劫、百大劫という膨大な時間の修行、

【或は動逾塵劫〔どうゆじんこう〕】
あるいは通教の菩薩は、「動もすれば塵劫をこゆ」という膨大な時間の修行、

【或は無量阿僧祇劫〔あそうぎこう〕・】
あるいは別教の菩薩は、無量阿僧祇劫という膨大な時間の修行、

【円教の菩薩の初発心時便成正覚〔べんじょうしょうがく〕。】
円教の菩薩については華厳経に「初発心の時、すなわち正覚を成ず」とあるのです。

【明らかに知んぬ、】
これらのことを、よくよく理解すべきです。

【機根別なるが故に説教も亦別なり。】
すなわち衆生の機根が別々であるゆえに仏が説く教えもまた別々なのです。

【教別なるが故に行も亦別なり。】
説く教えが別々であるゆえに、それに伴う修行もまた別々であるのです。

【行別なるが故に得果も別なり。】
修行が別であるゆえに得られる利益も別々なのです。

【此即ち各別の得益にして】
これは、衆生の機根に応じて説かれた諸経の別々の利益であって、

【不同なり。】
それぞれが不同なのです。

11. 第四問で迹門により爾前の利益を判断する


【然るに今法華方便品に】
しかし、今、法華経方便品第二には

【「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」と説きたまふ。】
「衆生をして仏知見を開かしめんと欲する」と説かれているのです。

【爾の時八機並びに悪趣〔あくしゅ〕の衆生悉く皆同じく釈迦如来と成り、】
そのときに於いて、八教の機根の人々や四悪趣の衆生は、すべて釈迦如来となり、

【互ひに五眼〔ごげん〕を具し、一界に十界を具し、】
お互いに肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼を具し、一界に十界を具し、

【十界に百界を具せり。】
十界に百界を具しているのです。

【是の時爾前の諸経を思惟〔しゆい〕するに諸経の諸仏は自界の二乗を、】
このとき、爾前の諸経を考えると諸経の諸仏は、自界に二乗を具さず、

【二乗は又菩薩界を具せず。三界の人天の如きは成仏の望み絶えて】
二乗もまた菩薩界を具さないのです。三界の人天は、成仏の望みが絶えて、

【二乗菩薩の断惑〔だんなく〕即ち是自身の断惑なりと知らず、】
菩薩、二乗の断惑がそのまま自身の断惑であることを知らないのです。

【三乗四乗の智慧は】
四聖や三乗の智慧は、

【四悪趣を脱〔のが〕るゝに似たりと雖も】
地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣を離脱することに似ていますが、

【互ひに界々を】
爾前経では、お互いに一界一界を隔てているゆえに

【隔〔へだ〕て】
真に四悪趣を離脱できないのです。

【而〔しか〕も皆是一体なり。】
しかし、法華経では、お互いに一界一界を具えて一体なのです。

【昔の経は二乗は但自界の見思を断除すと思ひて】
爾前の昔の経では、二乗はただ自界の見思惑を断除すると思って、

【六界の見思を断ずることを知らず。菩薩も亦是くの如し】
六界の見思惑を断ずることを知らないのです。菩薩もまた同じなのです。

【自界の三惑を断尽せんと欲すと雖も】
自界の三惑を断じようとしますが、

【六界・二乗の三惑を断ずることを知らず。】
六界、二乗の三惑を断ずることを知らないのです。

【真実に証する時、】
真実に三惑を断ずることを証明するときは、

【一衆生即十衆生、十衆生即一衆生なり。若し六界の見思を断ぜざれば】
一衆生即十衆生、十衆生即一衆生なのです。もし六界の見思惑を断じなかったなら、

【二乗の見思を断ずべからず。】
二乗の見思惑を断ずることができないのです。

【是くの如く説くと雖も迹門は】
このように説いていますが、法華経迹門は、

【但九界の情を改め十界互具を明かす。】
ただ九界が各別であるとの迷いを改め十界互具の理を明かしているのです。

【故に即ち円仏と成るなり。】
ゆえに十界円融の仏となるのです。

【爾前当分の益を嫌ふこと無きが故に】
迹門では、爾前経の当分の利益を嫌うことがないゆえに

【「三界の諸漏〔しょろ〕已に尽き、三百由旬〔ゆじゅん〕を過ぎて、】
「諸の漏がすでに尽き」(方便品第二)「三百由旬を過ぎて」(化城喩品第七)

【始めて我が身を見る」と説けり。】
「初めて我(釈尊)が身を見る」(従地涌出品第十五)と説いたのです。

【又爾前入滅の二乗は実には見思を断ぜず。】
また爾前経で滅に入った二乗は、実には見思惑を断じていないのです。

【故に六界を出でずと雖も迹門は二乗作仏の本懐なり。】
ゆえに六界を出離しないのですが、迹門は二乗作仏が本懐であるのです。

【故に「彼の土に於て】
ゆえに「他の国において仏の智慧を求めて、

【是の経を聞くことを得」と説く。】
この法華経を聞くことを得る」(化城喩品第七)と説いたのです。

【既に「彼の土に聞くことを得」と云ふ。】
既に法華経で初めて「他の国土において聞くことを得る」と云うのです。

【故に知んぬ、爾前の諸経には方便土無し。】
ゆえに爾前の諸経には方便土はないと知るのです。

【故に実には実報〔じっぽう〕並びに常寂光無し。】
ゆえに爾前経に実には実報土も常寂光土もないのです。

【菩薩の成仏を明かす。故に実報寂光を仮立〔けりゅう〕す。】
菩薩の成仏を明かすゆえに実報土、常寂光土を仮に立てたのです。

【然れども菩薩に二乗を具す。】
しかし、菩薩に二乗を具するから、

【二乗成仏せずんば菩薩も成仏すべからざるなり。】
二乗が成仏しなければ、菩薩も成仏することができないのです。

【衆生無辺誓願度も満ぜず。二乗の沈空尽滅〔じんめつ〕は】
衆生無辺誓願度も満足しないのです。二乗が空理に沈み、身智を滅し尽くすことは、

【即ち是菩薩の沈空尽滅なり。】
そのまま菩薩が空理に沈み、身智を滅し尽くすことになるのです。

【凡夫六道を出でざれば二乗も六道を出づべからず。】
凡夫が六道を出離しなければ、二乗も六道を出離し方便土に生れないのです。

【尚〔なお〕下劣の方便土を明かさず。】
劣った方便土さえ明かさないのですから、

【況んや勝れたる実報寂光を明かさんや。】
ましてや、優れた実報土や寂光土を明かすことはないのです。

【実に見思を断ぜば何ぞ方便を明かさゞらん。】
真実に見思惑を断ずれば、どうして方便土を明かさないことがあるでしょうか。

【菩薩実に実報寂光に至らば】
菩薩が爾前経で実に実報土、常寂光土に至るなら、

【何ぞ方便土に至ること無からん。】
どうして二乗が方便土に至らないことがあるでしょうか。

【但〔ただ〕断無明と云ふが故に仮に実報寂光を立つと雖も、】
ただ菩薩が無明を断つというゆえに、仮に実報土、常寂光土を立てますが、

【而も上の二土無きが故に】
しかも上の実報土、常寂光土が実にはないゆえに、

【同居〔どうこ〕の中に於て】
衆生と聖人が同じ国土に生じる凡聖同居土の中において、

【影現〔ようげん〕の実報寂光を仮立す。】
影の姿として現れた実報土、常寂光土を仮に立てただけなのです。

【然るに此の三百由旬は】
ですから、二乗が三百由旬を過ぎたといっても、

【実には三界を出づること無し。】
実には三界を出離していないのです。

12. 第四問で迹門の始覚の十界互具を破折する


【迹門には但〔ただ〕是始覚の十界互具を説きて】
迹門には、ただ始成正覚の十界互具を説いただけで

【未だ必ずしも本覚本有〔ほんぬ〕の十界互具を明かさず。】
未だ本覚本有の十界互具を明かしていません。

【故に所化の大衆・能化の円仏】
ゆえに教化される大衆も、教化する円仏も、

【皆是れ悉く始覚なり、】
すべて今世に始めて覚るという立場であり、

【若し爾らば本無今有〔ほんむこんぬ〕の】
もし、そうであるならば本当の原因が無く今現在が有ると云う

【失〔とが〕何ぞ免るゝことを得んや。当に知るべし、】
問題をどうして免れることができましょうか。まさに知りなさい。

【四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり。】
四教の四仏が円仏になると云うのは、一往の立場で迹門で説いたものなのです。

【是の故に無始の本仏を知らず。】
それゆえに迹門では、無始の本仏を知ることはないのです。

【故に無始無終の義欠けて具足せず。】
ゆえに無始無終の意義が欠けて具足していません。

【又無始色心常住の義無し。】
また無始の色心常住の意義もありません。

【但し「是法住法位」と】
ただ迹門の方便品第二の「是の法は法位に住して世間の相は常住なり」と

【説くことは、】
説いているのは、

【未来常住にして是過去常〔かこじょう〕に非ざるなり。】
これは、未来へ向けての常住であって、これは過去からの常住ではないのです。

【本有の十界互具を顕はさゞれば本有の大乗菩薩界無きなり。】
本有の十界互具を顕さないゆえに本有の大乗の菩薩界もないのです。

【故に知んぬ、】
ゆえに天台宗の者は、知るべきなのです。

【迹門の二乗は未だ見思を断ぜず、】
迹門の二乗は、未だ見思惑を断じておらず、

【迹門の菩薩は未だ無明〔むみょう〕を断ぜず、】
迹門の菩薩は、未だ無明惑を断じておらず、

【六道の凡夫は本有の六界に住せざれば】
六道の凡夫は、本有の六界に住さないので、

【有名無実〔うみょうむじつ〕なり。】
名のみ有って実がないということをです。

13. 第四問で爾前迹門の断惑の非実を説く


【故に涌出品〔ゆじゅつぽん〕に至って】
ゆえに法華経従地涌出品第十五に至って

【爾前迹門の断無明の菩薩を】
爾前迹門において無明惑を断じたとする菩薩に対して、

【「五十小劫〔しょうこう〕半日の如しと】
「地涌の菩薩が仏を賛嘆した五十小劫の永い間を半日のようであると

【謂〔おも〕へり」と説く。】
思わせた」と説いたのです。

【是則ち寿量品の久遠円仏の非長非短不二の義に】
これは、如来寿量品第十六で開顕された久遠実成の仏の寿命を時間の長短では

【迷ふが故なり。】
捉えることが出来ないからなのです。

【爾前迹門の断惑とは外道の有漏断〔うろだん〕の退〔たい〕すれば】
爾前迹門の断惑とは、外道の有漏断が修行から退くと

【起こるが如し。】
再びすぐに起こるようなものなのです。

【未だ久遠を知らざるを以て而も惑者の本と為すなり。】
未だ久遠の円仏を知らないことをもって、心に迷いをもつ者の根本とするのです。

【故に四十一品断の】
ゆえに見思惑、塵沙惑、等覚の四十一位の一位一位に無明惑を断じた

【弥勒、本門立行〔りゅうぎょう〕の発起〔ほっき〕・影響〔ようごう〕・】
弥勒菩薩でさえ、本門において立派に修行をおこなう発起、影響、

【当機〔とうき〕・結縁〔けちえん〕の地涌千界の衆を知らず。】
当機、結縁の四衆の地涌の菩薩を知らなかったのです。

【既に一分の無始の無明を断じて】
弥勒等の菩薩が既に一分の無始の無明を断じて、

【而も十界の一分の無始の法性〔ほっしょう〕を得たり、】
十界の一分の無始の法性を得ていれば、

【何ぞ等覚の菩薩を知らざらん。】
発起、影響の等覚の菩薩を知らないはずがないのです。

【設〔たと〕ひ等覚の菩薩を知らざれども】
たとえ等覚の菩薩を知らなくても、

【争〔いか〕でか当機結縁の衆を知らざらん。】
どうして当機、結縁の菩薩を知らないことがあるでしょうか。

【「乃〔いま〕し一人をも】
法華経従地涌出品第十五の「我れは此の衆の中に於いて一人をも

【識〔し〕らず」の文は】
識らず」との文章は、

【最も未断三惑の故か。】
まぎれもなく弥勒等の菩薩が未だ三惑を断じていないゆえではないでしょうか。

【是を以て本門に至り則ち爾前迹門に於て随他意〔ずいたい〕の釈を加へ、】
これをもって、本門において爾前迹門の教えを随他意の法門としたのです。

【又天人修羅に摂し】
また爾前迹門の菩薩を天、人、修羅のなかに収め、

【「貪著〔とんじゃく〕五欲、】
本門寿量品第十六に「五欲に貪著し」

【妄見網中、為凡夫顛倒」と説く。】
「妄見の網の中に入った」「凡夫が顛倒するをもって」と説き、

【釈の文には「我坐道場、】
法華文句の文章では「昔、我は道場に坐して観念したが

【不得一法」と云ふ。】
一法の真実をも得られなかった」と説かれたのです。

【蔵通両仏の見思〔けんじ〕断も、】
蔵教、通教の両仏が見思惑を断じたということも、

【別円二仏の無明断も、】
別教、円教の二仏が無明惑を断じたということも、

【並びに皆見思無明を断ぜず。】
このように、いずれも実際には見思惑も無明惑も断じていないのです。

【故に随他意と云ふ。】
ゆえに随他意と云うのであり、

【所化の衆生三惑を断ずと謂へるは是れ実の断に非ず。】
所化の衆生が三惑を断じているといっても全く真実の断惑ではないのです。

14. 第四問で第三の答えの間違いをただす


【答への文に】
第三の答えの文章において、爾前経では

【開善〔かいぜん〕の】
二乗は三界を出離できないとの日蓮の主張に対して中国梁代の開善寺の智蔵法師が

【無声聞〔むしょうもん〕の義に同ずとは】
法華の会座には声聞はいないと云った意味と同じであるといって非難していますが、

【汝も亦光宅〔こうたく〕の有〔う〕声聞の】
それでは、あなたもまた中国南北朝代の光宅寺の法雲が法華の会座に声聞が

【義に同ずるか。】
いたという意見と同じなのですか。

【天台は有無〔うむ〕共に】
天台大師は、開善寺の智蔵が立てた無声聞説とともに光宅寺の法雲の有声聞説も

【破すなり。開善は爾前に於て無声聞を判じ、】
破折しているのです。開善寺智蔵は、爾前において無声聞と判断し、

【光宅は法華に於て有声聞を判ず。】
光宅寺の法雲は法華において有声聞と判断しております。

【故に有無共に難〔なん〕有り。】
ゆえに有無ともに問題があるのです。

【天台は爾前には則ち有り、今経には則ち無し。】
天台大師は、爾前経には声聞はおり、法華経には声聞はいないと云っているのです。

【所化の執情には則ち有り、】
教化される衆生の迷いによると声聞はおり、

【長者の見には則ち無し。此くの如きの破文】
仏の見識によると、いないと云っているのです。このような破折の文章は、

【皆是爾前迹門相対の釈にて】
皆、爾前経と法華経迹門との相違の上からの解釈であって、

【有無共に今の難に】
有無ともに法華経本門から望むと爾前経では二乗は

【非ざるなり。】
三界を出離できないとの主張には問題はないのです。

【但し「七方便並びに】
天台大師の法華文句巻九の「七方便(爾前)の衆生は

【究竟〔くきょう〕の滅〔めつ〕に非ず」】
究極の悟りではない」という意味であり、

【又「但し心を観ずと云はゞ】
また妙楽大師の止観輔行伝弘決巻五の「ただし小乗でも心を観ずるが

【則ち理に称〔かな〕はず」との釈は、】
実理にかなっていない」との解釈については、

【円益に対し当分の益を下して】
法華経の円益に対し爾前経では二乗は当分の利益が小さいことを指して

【「並〔びょう〕非究竟滅」】
天台大師の法華文句巻九の「並に究竟の滅に非ず」

【「即不称理」と】
妙楽大師の止観輔行伝弘決巻五の「但し心を観ずと言わば則ち理に称わず」と

【云ふなりといはゞ、】
言ったと答えておられますが、

【金錍〔こんべい〕論の「偏に清浄の真如を指す、】
妙楽大師の金錍論の「ひたすら清浄の真如のみに執着するなら、

【尚小の真を失へり、】
なお小乗の真如(空理)をも失ってしまう。

【仏性安〔いずく〕んぞ在らん」と云ふ釈をば】
仏性はいったいどこにあるのか」という言葉を

【云何〔いかん〕が会すべき。】
どのように理解すべきなのでしょうか。

【但し此の「尚小の真を失へり」の釈は】
ただし、この「なお小乗の真如をも失ってしまう」との解釈は、

【常には出だすべからず、最も秘蔵すべし。】
普通は出してはいけないのです。このことは、最も秘蔵しておくべき事柄なのです。

15. 第四問で迹門の未顕真実を明かす


【但し妙法蓮華経皆是真実の文を以て】
ただし、法華経見宝塔品第十一の「妙法蓮華経、皆是れ真実なり」の経文をもって、

【迹門に於て爾前の得道を許すが故に爾前得道の義有りといふは、】
迹門において爾前の得道を許すゆえに爾前得道の意義があると云われておりますが、

【此は是迹門を爾前に対して真実と説くか。】
これは迹門を爾前経に対して真実と説いたものなのです。

【而も未だ久遠実成を顕はさず、】
しかも、迹門では未だ久遠実成を顕していないから、

【是則ち彼の未顕真実の分域なり。】
迹門は、小乗と同じ未顕真実の中にはいるのです。

【所以〔ゆえ〕に無量義経に大荘厳〔しょうごん〕等の】
ゆえに無量義経で大荘厳菩薩などの

【菩薩の四十余年の得益を挙ぐるを、】
菩薩が四十余年の得益を挙げたのに対して、

【仏の答ふるに未顕真実の言〔みこと〕を以てす。】
釈迦牟尼仏が答えられて、未だ真実を顕さずとの言葉をもってされたのです。

【又涌出品の中に弥勒疑って云はく】
また法華経従地涌出品第十五のなかで弥勒菩薩が疑って

【「如来太子たりし時釈の宮を出でて】
「釈迦如来が悉多太子であったときに釈迦族の居城を出で

【伽耶城〔がやじょう〕を去ること遠からず、】
伽耶城から遠くないところで悟りを開き、

【乃至四十余年を過ぐ」已上。】
それから四十余年が過ぎた」と言ったのですが、

【仏答へて云はく】
それに釈迦牟尼仏が答えて如来寿量品第十六で

【「一切世間の天人及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏は】
「一切世間の天人及び阿修羅は皆、現在の釈迦牟尼仏が

【釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からずして】
釈迦族の居城を出でて、伽耶城を去ること遠からず、

【三菩提を得たりと謂〔おも〕へり、】
道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たと思っている。

【我実に成仏してより】
しかし、我は実に成仏してより

【以来〔このかた〕】
以来、無量無辺百千万億那由陀劫である」と答えています。

【我実成仏とは寿量品已前を】
「我実に成仏して」とは寿量品以前を

【未顕真実と云ふに非ずや。」已上。】
「未だ真実を顕さず」ということと同じではないでしょうか。

【是の故に記の九に云はく「昔七方便より誠諦〔じょうたい〕に至るまでは】
それゆえに法華文句記の巻九に「昔の七方便より真実の悟りに至るまでの修行の果を

【七方便の権と言ふは且く昔の権に寄す。】
七方便の権というのは、しばらく爾前権教に寄せたものであり、

【若し果門に対すれば】
もし果位本門に対すれば已説の

【権実倶に是随他意なり」已上。】
権(爾前経)と実(迹門)はともに随他意である」とあります。

【此の釈は明らかに知んぬ、迹門をも】
この解釈は、迹門もまた衆生の機根に応じて説かれた

【尚随他意と云ふなり。】
随他意の方便の教えであると言っているのです。

16. 第四問で法華本門で三世常住と顕れるを示す


【寿量品の皆実不虚を天台釈して云はく】
如来寿量品第十六の「皆実にして虚しからず」の文を、

【「円頓の衆生に約すれば迹本二門に於て】
天台大師は法華文句に「円頓の衆生に約すれば迹門、本門の二門において、

【一実一虚〔こ〕なり」已上。記の九に云はく】
本円は一実、迹円は一虚である」と解説したのです。妙楽大師の法華文句記の巻九に

【「故に知んぬ、迹の実は本に於て猶虚なり」已上。】
「故に迹門の実は本門においてはなお虚であることが分かる」とあります。

【迹門既に虚なること論に及ぶべからず。】
迹門は既に虚であることは論ずるに及ばないでしょう。

【但し皆是真実とは、若し本門に望むれば迹は】
ただし見宝塔品第十一の「皆是れ真実である」とは、もし本門に望むれば迹門は

【是虚なりと雖も一座の内に於て虚実を論ず、】
虚であるが、法華経一座の内において虚実を論ずるならば、

【故に本迹両門倶に真実と言ふなり。】
ゆえに本迹の両門は、ともに一往真実といったのです。

【例せば迹門法説の時、】
例えば、迹門の三周(法説周・譬説周・因縁周)の説法のうちの法説周の時も

【譬説〔ひせつ〕・因縁の二周も】
譬説周、因縁周の二周であっても、

【此の一座に於て聞知〔もんち〕せざること無し、】
この一座において聞き知らないということはないのです。

【故に名づけて顕と為すが如し。記の九に云はく】
ゆえに顕と名づけるようなものなのです。法華文句記の巻九に

【「若し方便教は二門倶に虚なり。】
「もし、方便教は因門果門の二門ともに虚である。

【因門開し竟〔お〕はりて果門に望むれば則ち一実一虚なり。】
法華経の因門を開き終わって果門に望むれば、一実(果門)一虚(因門)である。

【本門顕はれ竟〔お〕はれば則ち二種倶に実なり」已上。】
本門が顕れ終われば因果の二門ともに実である」とあるのです。

【此の釈の意は、本門未だ顕はれざる以前は】
この釈の意味は、本門が未だ顕れない以前は、

【本門に対すれば尚迹門を以て名づけて虚と為す、】
本門に対すれば、なお迹門を虚と名づけ、

【若し本門顕はれ已〔お〕はりぬれば迹門の仏因は即ち本門の仏果なるが故に、】
もし本門が顕れてしまえば、迹門の仏因は本門の仏果となる故に、

【天月・水月本有の法と成りて】
天月(本門)、水月(迹門)は本有の法となって、

【本迹倶に三世常住と顕るゝなり。】
本迹ともに三世常住と顕れるのです。

【一切衆生の始覚を名づけて迹門の円因と言ひ、】
一切衆生の始覚を名づけて迹門の円因と言い、

【一切衆生の本覚を名づけて本門の円果と為す。】
一切衆生の本覚を名づけて本門の円果となすのです。

【修一円因】
妙楽大師が法華玄義釈籤に「一の円因を修して

【感一円果とは是なり。】
一の円果を感ずる」と説明されているのは、このことなのです。

【是くの如く法門を談ずるの時、】
このように法門を議論するとき、

【迹門爾前は若し本門顕はれざれば六道を出でず、】
迹門、爾前教は、もし法華経本門が顕わされなければ、三界六道の出離もなく、

【何ぞ九界を出でんや。】
九界の衆生の成仏もないのです。


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