日蓮正宗法華講 開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


教行証御書 背景と大意


別名を「報日進書」「与三位房書」とされているように、本抄は、鎌倉の三位房〔さんみぼう〕日行に対し与えられたものです。
御真筆は現存しません。
三位房日行については、詳細は伝わっていませんが、三位公・三位殿とも言われ、生没年は不明ですが、下総国(千葉県)の出身で、早くから日蓮大聖人の弟子となったと思われます。
この三位房は、大聖人に比叡山の留学を命じられるなど、若い頃から、法論や説法については、優れていましたが、その一面、虚栄心が強く、世間に迎合するような姿勢があったことが御書によって解ります。
比叡山に留学中、文永六年(西暦1269年)、公卿〔くぎょう〕に招待され、その持仏堂で説法をして大いに面目〔めんぼく〕を施したと鎌倉の大聖人に報告してきた時、大聖人は「法門申さるべき様の事」で、その虚栄心と世間に迎合する姿勢を「日蓮をいやしみてかけるか」(御書430頁)と誡〔いまし〕められています。
さらに文永八年(西暦1271年)五月の「十章抄」では、三位房が天台の法門に馴染んで、大聖人の法門から外れることのないよう「摩訶止観」を読む基本姿勢についての注意をされています。
この教行証御書が著わされた建治三年(西暦1277年)三月二十一日、大聖人、五十六歳の前にも、建治二年三月の光日房御書の「三位房〔さんみぼう〕・佐渡公〔さどこう〕等」(御書964頁)、同じく建治二年十二月の松野殿御返事の「三位房〔さんみぼう〕は下劣の者なれども」(御書1047頁)、建治三年三月の六郎次郎殿御返事の「明日三位房をつか〔遣〕はすべく候」(御書1103頁)と光日房、松野殿、六郎次郎殿の元に訪れています。
さらに直後の建治三年六月の頼基陳状では、「三位房の云はく」(御書1128頁)とあるように、建治三年(西暦1277年)六月九日に鎌倉の桑ケ谷〔くわがやつ〕で説法をしていた天台僧・竜象房〔りゅうぞうぼう〕と問答をし、破折した様子が述べられています。
それでは、居合わせた聴衆が大いに歓喜し、三位房に説法を請うほどだったと述べられています。
同じく建治三年七月の四条金吾殿御返事の「三位房〔さんみぼう〕をつかはすべく候に」(御書1162頁)と建治二年から建治三年にかけて、大聖人の名代〔みょうだい〕として活躍したことがわかります。
しかし、大聖人が心配されたように、御指南に背くことが重なり、結局、弘安二年(西暦1279年)に起きた熱原〔あつはら〕の法難の頃に退転し、弘安二年九月の四条金吾殿御返事の「三位房が事」(御書1392頁)、弘安二年十月の聖人御難事の「三位房が事は大不思議の事ども候ひしかども、とのばら〔殿原〕のをも〔思〕いには智慧ある者をそね〔嫉〕ませ給ふかと、ぐち〔愚癡〕の人をも〔思〕いなんとをも〔思〕いて物も申さで候ひしが、はらぐろ〔腹黒〕となりて大づちをあたりて候ぞ。なかなかさんざん〔散々〕とだにも申せしかば、たすかるへんもや候ひなん。あまりにふしぎさに申さざりしなり。又かく申せばをこ〔癡〕人どもは死もう〔亡〕の事を仰せ候と申すべし。鏡のために申す。又此の事は彼等の人々も内々はを〔怖〕ぢをそ〔畏〕れ候らむとをぼへ候ぞ」(御書1398頁)とあるように不慮の死を遂げたと思われます。
執筆の時期については、本抄には、ただ「三月二十一日」の日付だけがあり、以前には、文永12年(西暦1275年)、建治3年(西暦1277年)、弘安元年(西暦1278年)などの諸説がありましたが、いずれも本抄の公場対決に備えて三位房の質問に対し、諸宗派との問答の心構え、破折の仕方などが詳細に述べられていることにより、その公場対決のあった年から、現在では、建治三年(御書1277年)とされています。
本抄が著作される二年前、建治元年(西暦1275年)十二月二十六日、天台・真言兼学の僧、強仁〔ごうにん〕より、身延の大聖人のもとへ一通の書状が届き、大聖人は、このことにすぐに強仁状御返事を認〔したた〕められ、「貴坊本意を遂げんと欲せば、公家と関東とに奏聞〔そうもん〕を経て露点〔ろてん〕を申し下し是非を糾明〔きゅうめい〕せば、上一人咲〔え〕みを含み、下万民疑ひを散ぜんか」(御書916頁)と、公家や幕府との前での法論を望まれました。
建治二年正月の「清澄寺大衆中」では、法論の為の経巻や、論釈の収集をされていることがうかがわれます。
しかしながら、強仁房との公場での法論対決は、うやむやになってしまいました。
それでも門下一同の公場対決への期待は、高まり、この年の三月、三位房日行より法論に対しての質問があったのです。
大聖人は、その諸宗破折の要点、方法を御教示され、あわせて、法論の態度などを御指南されました。
その後、この対決は、鎌倉・桑ヶ谷〔くわがやつ〕での天台僧・竜象房〔りゅうぞうぼう〕と三位房との法論となって実現し、三位房は、これを見事に破折して、竜象房は、その日のうちに姿を消したと伝えられています。
また、本抄の題目である「教行証」とは、教法(修行する内容)と行法(修行の方法)と証法(修行した結果)のことで、三法〔さんぽう〕とも言います。
法華玄義第二巻下には「或は教行証(中略)俱に融ずる者は則ち妙なり」とあり、教行証が具〔そな〕わる法こそ妙法であると解説されており、法華玄義第五巻には「乗に三種あり、教・行・証を謂〔い〕う」と述べられています。
また、この「教行証」については、顕仏未来記に「小乗経を以て之を勘ふるに、正法千年は教行証の三つ具〔つぶさ〕に之を備ふ、像法千年には教行のみ有って証無し。末法には教のみ有って行証なし等云云。(中略)小乗には教のみ有って行証なく、大乗には教行のみ有って冥顕〔みょうけん〕の証之無し。」(御書676頁)と述べられて、釈迦牟尼仏の教法は、衆生の機根に応じて説かれているので小乗教の場合は、末法の衆生には、教のみあって、行と証はなく、大乗教については、像法時代には、教行証があり、末法には、教行のみで証がなくなると述べられています。
日寛上人は、日蓮大聖人の仏法における教・行・証について、当体義抄文段に「相伝に云く、開目抄と観心抄と当抄とを次の如く教・行・証に配するなり」と述べられ、開目抄、観心本尊抄、当体義抄に、大聖人の仏法における教・行・証が明かされていることを示されています。
開目抄では、「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまへり」(御書526頁)「教の重」となり、観心本尊抄では、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然〔じねん〕に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(御書653頁)と述べられ「行の重」となり、当体義抄では、「倶体倶用〔くたい・くゆう〕の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(御書694頁)と述べられ、「証の重」となるのです。
この深義について御義口伝に法華経の如来寿量品の「是好良薬・今留在此・汝可取服」の文を挙げられ「御義口伝に云はく、是好良薬とは、或は経教、或は舎利なり。さて末法にては南無妙法蓮華経なり。是とは即ち五重玄義なり。好とは三世の諸仏の好〔この〕み物は題目の五字なり、今留とは末法なり、此とは一閻浮提の中には日本国なり、汝とは末法の一切衆生なり、取とは法華経を受持する時の儀式なり、服とは唱へ奉る事なり。服するにより無作の三身なり、始成正覚の病患〔びょうげん〕差〔い〕ゆるなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは是なり」(御書1769頁)と述べられ、また、観心本尊抄には「是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教〔みょう・たい・しゅう・よう・きょう〕の南無妙法蓮華経是〔これ〕なり」(御書658頁)と御教示されています。 これは、末法の御本仏である日蓮大聖人が出現され、教行証が、すべて具〔そな〕わった法華経・本門寿量品文底の南無妙法蓮華経の妙法をもって、一切衆生に下種されるとの意味なのです。
大聖人の仏法においては、教とは、寿量文底下種の南無妙法蓮華経であり、行とは、その御本尊を受持して自行化他の信行に励むことであり、証とは、即身成仏の大利益をいうのです。
このように本抄に「今末法に入っては教のみ有って行証無く在世結縁〔けちえん〕の者一人も無く。権実の二機悉〔ことごと〕く失〔う〕せり。此の時は濁悪たる当世の逆謗の二人に、初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為〔な〕す」(御書1103頁)とあるように末法の衆生には、釈尊との結縁はなく、この本未有善〔ほんみ・うぜん〕の一切衆生の心田に初めて寿量文底下種の南無妙法蓮華経を下種する時なのです。
また日蓮大聖人の深秘の法門は、妄〔みだ〕りに語ってはならないとの御指南です。
日蓮大聖人の甚深〔じんじん〕の法門を無闇〔むやみ〕やたらと語っては、「三世諸仏の御罰〔ばち〕を蒙〔こう〕むる」と注意されています。
その理由は、これは、公場対決で顕わすべきものであって、それを理解できない者が相手や場所を選ばず毎日のように、私的な問答をすれば、必ず法を下げることになると戒〔いまし〕められているのです。
そうであるからこそ、日蓮大聖人の深秘の法門と言い日蓮が己証の法門と常に言っていると述べられています。
さらに「日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず」(御書1109頁)とあるように、末法の御本仏・日蓮大聖人を師と仰ぎ、三大秘法を信仰できる身の福運を歓び、勇んで確信溢れる折伏をしなければ、ならないと仰せであります。
折伏は、あくまでも、間違った考えから人々を救う慈悲の行為ですから、悪口を言われたり、いわれなき中傷を受けることもありますが、あくまでも冷静に節度をもって対応しなければなりません。
しかしながら、人々に迎合し世間体〔てい〕を重んじて、大聖人の教えに背くようでは、最後には、自らの虚栄心の為に師敵対し、正法から退転した三位房と同様になってしまいます。
あくまでも「公場にして理運の法門申し候へばとて、雑言・強言・自讃気なる体、人目に見すべからず、浅猿〔あさまし〕き事なるべし。弥〔いよいよ〕身口意を調へ謹んで主人に向かふべし、主人に向かふべし」(御書1110頁)と述べられ、たとえ公〔おおやけ〕の場で、道理に適った法門を主張できたからといって、相手を悪く言ったり、強い言葉を吐いたり、自慢気な様子を人に見せては、なりません。それは、恥ずかしいことです。態度や、言葉や、内容にも注意を払い、謹んで相手に向かわなければなりませんと御指南されています。
このように折伏は、決して相手に辱〔はず〕かしめを与えたり、貶〔おとし〕めたりするものではありません。
折伏は、あくまでも、誠意をもって相手を思いやるところから、相手の考えを破折しなければならないのです。


ページのトップへ戻る