日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


阿仏房御消息文 01 阿仏房について

阿仏房について

文永8年(西暦1271年)、鎌倉は、大旱魃〔かんばつ〕にみまわれ、幕府は、6月18日から7月4日まで、極楽寺良観に雨乞いの祈禱〔きとう〕をさせましたが、日蓮大聖人は、これを機会に「七日の内に雨を降らせることが出来たならば、自らの念仏は、無間地獄と云う法門を捨てて、良観上人の弟子となろう、もし、雨が降らなければ、持戒の僧を装っている御房が大嘘つきであることは、あきらかである。是を以て勝負しよう。」と極楽寺良観に告げられたのです。
それを聞いて、良観は、七日のうちに雨を降らそうと必死になり、それこそ弟子百二十余人が頭から湯気を出し、声を天に響かせ、念仏、請雨経、法華経、八斎戒〔はっさいかい〕など種々の方法で祈ったのですが、七日の内に露ほどの雨も降らず、それに面目を失った良観は、平左衛門尉頼綱に讒言〔ざんげん〕をなし、その為に9月10日に、日蓮大聖人は、評定所において頼綱に尋問を受けました。
さらに、その二日後、再度、頼綱に法華経に帰依するように諫められた大聖人の認〔したた〕められた一昨日御書に激怒し、その日の夕刻、数百の兵を率いて松葉ヶ谷の草庵を襲い日蓮大聖人を捕まえたのです。
その際、頼綱と一緒に大聖人を襲った少輔房〔しょうぼう〕が、大聖人が懐〔ふところ〕に入れていた経巻で、大聖人の頭を三度に及んで打ちすえたのです。
不思議にも、この法華経第五の巻には、末法において法華経を弘通するならば刀杖〔とうじょう〕の難にあうことが説かれている勧持品が収められていました。
その法華経第五の巻で勧持品に説かれている通りのことが現実となったのです。
その後、日蓮大聖人は、松葉ヶ谷の草庵から、重罪人のように鎌倉の街中を引き回され、深夜、処刑のために竜口〔たつのくち〕の刑場へと護送されたのです。
その途中、日蓮大聖人は、鶴岡〔つるがおか〕八幡宮の前で、馬を下りられ、八幡大菩薩に対して、すぐに法華経の行者を守護するとの誓いを守るよう諫められました。
その後、大聖人は、竜口〔たつのくち〕の刑場で頸〔くび〕の座に着かれましたが、刀を大聖人に振り下ろそうとした瞬間、江ノ島の方角より月のような光り物が現れ、太刀取りは、強烈な光に目が眩み、恐怖におののいて動けず、結局、大聖人を斬首することは、できませんでした。
この竜口〔たつのくち〕の法難の後、日蓮大聖人は、依智の本間邸に一月近く拘留され、10月10日、佐渡流罪のために依智を出発され、越後国寺泊〔てらどまり〕を経て、11月1日、佐渡の塚原の三味堂〔さんまいどう〕へと入られました。
塚原三味堂は、佐渡の守護代、本間六郎左衛門〔ろくろうざえもん〕重連〔しげつら〕の館の後方にあり、死人を葬〔ほうむ〕る場所に立つ、仏も安置されていない一間四面〔いっけんしめん〕の荒れ果てた堂で、日蓮大聖人は、この三味堂の様子について、種々御振舞御書に「上はいた〔板〕ま〔間〕あはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所にしきがは〔敷皮〕打ちしき蓑〔みの〕うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹〔ゆきあられ〕・雷電〔いなずま〕ひまなし、昼は日の光もさゝせ給はず、心細かるべきすまゐなり。(御書1062頁)」と屋根板は、隙間だらけで、四方の壁は朽ち、雪が堂内に降りつもるありさまで、敷き皮をもちい、蓑〔みの〕を着て、昼夜を過ごしました。
夜は、雪、雹〔あられ〕、稲妻〔いなずま〕が絶えず、昼は日の光も射〔さ〕すことのない住まいであったことが記されています。
翌年の文永9年1月16日と17日の二日間、日蓮大聖人は、本間重連〔しげつら〕の立会いのもとに諸宗の僧侶など数百人を相手に問答され、それを完膚〔かんぷ〕なきまでに打ち破られました。
その姿に本間重連は、感服し、さらに、そこで、大聖人から、近いうちに鎌倉で戦〔いくさ〕が起こるので、重連〔しげつら〕に早く鎌倉へ行くようにと促され、その予言が北条一門の同士討ちの二月騒動として現実となりました。
この予言の的中により、重連〔しげつら〕は、大聖人に畏敬の念を懐〔いだ〕き帰依しました。
その為、日蓮大聖人は、夏には、塚原三味堂から、よりましな一谷〔いちのさわ〕の地に移られましたが、この佐渡流罪中に、阿仏房、千日尼夫妻、国府入道〔こうにゅうどう〕夫妻、中興入道〔なかおきにゅうどう〕、最蓮房などが大聖人に帰依し、文字通り、命を賭して外護の任にあたったのです。
また、この佐渡流罪中、日蓮大聖人こそが末法の法華経の行者、すなわち主師親の三徳を具えた御本仏であることを明かされた人本尊開顕の書、開目抄(御書523頁)を文永9年2月に塚原三味堂において著され、また、一切衆生のために寿量文底下種の本尊を顕わされることを明かされた法本尊開顕の書、観心本尊抄(御書644頁)を文永10年4月25日に一谷〔いちのさわ〕において著されました。
ここで大聖人に帰依した阿仏房に関しては、承久の乱の時に佐渡に流された順徳上皇の供の武士で、藤原氏の末裔〔まつえい〕であったという伝承や、他に元々から佐渡に居た人であったという説もあり、その素性は、定かでは、ありません。
しかし、非常に熱心な念仏の信者であったことは、阿仏房という名前からして間違いないでしょう。
しかし、大聖人より念仏を破折されてからは、長年にわたって信仰してきた念仏を捨てて、厳しい監視下にある流人の日蓮大聖人に帰依しました。
この姿から、正しいことを曲げない実直な性格であり、老齢にもかかわらず、佐渡の地から、文字通り、海、山を越えて、身延の大聖人のもとへ三回も参詣をされるほどの誠実な人柄であったことが偲〔しの〕ばれます。
日蓮大聖人は、文永11年3月、約2年5ヶ月に及ぶ佐渡流罪を赦免〔しゃめん〕され、鎌倉に帰られることになりましたが、それは、阿仏房、千日尼夫妻や国府入道〔こうにゅうどう〕、中興〔なかおき〕入道、一谷〔いちのさわ〕入道などの佐渡在住の弟子や檀那との別れを意味しており、大聖人も、佐渡の人々との別れについて、国府尼御前御書に「彼の国に有る時は人め〔目〕ををそれて夜中に食ををくり、或時は国のせ〔責〕めをもはゞ〔憚〕からず、身にもかわ〔代〕らんとせし人々なり。さればつら〔辛〕かりし国なれども、そ〔剃〕りたるかみ〔髪〕をうしろ〔後〕へひかれ、すゝ〔進〕むあし〔足〕もかへりしぞかし。(御書740頁)」と、その御心を述べられています。
その後、阿仏房、国府入道、中興〔なかおき〕入道などが絶海の佐渡より、波濤〔はとう〕を超え、千里の道を歩み、山深い身延の日蓮大聖人の元へ、訪れられました。
国府入道殿と、国府尼御前については、わずかに二編の御書でしか知る事が出来ませんが、しかし、この二編の御書からは、阿仏房夫妻と親しい佐渡の国府の住人で、流罪中、大聖人への外護を尽くした方であることが判り、また、夫の入道は、子がおらず、身延山へ二度、はるばる参詣されたことがわかります。
中興〔なかおき〕入道は、父、次郎入道が大聖人が佐渡に入られた際に、その姿に触れて帰依し、それによって一家の信仰が、はじまったようです。
その後、父の次郎入道は、亡くなられましたが、子の中興入道は、大聖人が赦免の後に、はるばる海山を越えて身延に参詣され、阿仏房に次ぐ、佐渡の中心的信徒であったと思われます。
「中興政所女房御返事(御書977頁)」は、御真筆が現存し、また、佐渡市に中興〔なかおく〕という地名が残っています。
一谷〔いちのさわ〕入道は、大聖人が佐渡流罪中に居られた一谷〔いちのさわ〕の名主〔なぬし〕であったと思われますが、大聖人の振る舞いを見て次第に敬意を寄せ、何かと大聖人を擁護するようになったものと思われます。
しかし、亡くなるまで念仏を捨てる事が出来ず、鎌倉から佐渡へ大聖人を訪ねてこられた女性の日妙聖人の帰りの資金を大聖人が一谷入道に口添えし用立ててもらったことから、法華経十巻を渡す約束をされましたが、いざ渡す時になって、未だ念仏の信仰を続けている一谷入道が「入道地獄に堕〔お〕つるならば還って日蓮が失〔とが〕になるべし。(御書829頁)」と思いとどまり、「入道よりもうば〔姥〕にてありし者は内々心よせなりしかば、是を持ち給へ(御書830頁)」と一谷入道よりも祖母の方が大聖人に心を寄せていたので、祖母に法華経十巻を渡すことにしたことが述べられています。
さらに一谷入道女房に対し、佐渡流罪赦免以降、佐渡に残った学乗房に「此の法華経をば学乗房〔がくじょうぼう〕に常に開かさせ給ふべし。人如何に云ふとも、念仏者・真言師・持斎〔じさい〕なんどにばし開かさせ給ふべからず。(御書830頁)」と述べて、念仏を捨て法華経に帰依するよう強く促〔うな〕がされています。
その後、阿仏房は、弘安2年3月21日に佐渡において91歳で、その生涯を終えました。
大聖人は、千日尼御返事で「故阿仏房〔あぶつぼう〕の聖霊は今いづくむにかをはすらんと人は疑ふとも、法華経の明鏡をもって其の影をうかべて候へば、霊鷲山〔りょうじゅせん〕の山の中に多宝仏の宝塔の内に、東む〔向〕きにをはすと日蓮は見まいらせて候。(御書1475頁)」と述べられ、さらに故阿仏房讃歎御書に「故阿仏房は一心欲見仏の者なり。(御書1358頁)」と、亡くなった阿仏房が末法の御本仏、日蓮大聖人に一目なりとも御目にかかろうとする「一心欲見仏」の人であったと最大の賛辞を与えられています。
また、この千日尼御返事で「宝塔の内」と述べられているように、宝塔の意味を質問した阿仏房、千日尼夫妻に対して、文永12年の阿仏房御書で「末法に入って法華経を持つ男女〔なんにょ〕のすがたより外には宝塔なきなり。若し然れば貴賎上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなふるものは、我が身宝塔にして、我が身又多宝如来なり。妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目宝塔なり、宝塔又南無妙法蓮華経なり。今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり。此の五大は題目の五字なり。然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此より外の才覚無益〔むやく〕なり。(御書792頁)」と宝塔とは、男女を問わず、法華経の行者の一身の当体であると示され、そうであるならば、上下貴賎を選ばず、南無妙法蓮華経と唱える者は、そのまま、その身が宝塔であり、それゆえに阿仏房は、そのまま宝塔であり、宝塔は、そのまま阿仏房であり、これ以外の考えは、意味がありませんと述べられています。
また、ここで「妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目宝塔なり、宝塔又南無妙法蓮華経なり。」 と述べられている通り、この宝塔が、妙法の大曼荼羅であることを示され、であるからこそ、この御書の冒頭に「抑〔そもそも〕宝塔の御供養の物、(中略)たしかにうけとり候ひ畢んぬ。(御書792頁)」と宝塔への御供養の品を確かに受け取りましたと述べられ、さらに「経に云はく『法華経を説くこと有らん処は、我が此の宝塔其の前に涌現す』とはこれなり。あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづ〔譲〕る事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり。(御書793頁)」と日蓮大聖人の出世の本懐が、この宝塔の本尊にあることを顕わされ、最後に「宝塔をば夫婦ひそかにをがませ給へ。(御書793頁)」と述べられて、この宝塔である本尊を拝むように促〔うなが〕されて、この御書を終えられています。
また、阿仏房の妻の千日尼はもとより、阿仏房の跡を継いで、法華経の行者となった子の藤九郎守綱について、千日尼御返事において「一向法華経の行者となりて、去年は七月二日、父の舎利〔しゃり〕を頸〔くび〕に懸〔か〕け、一千里の山海を経て甲州波木井身延山に登りて法華経の道場に此をおさめ、今年は又七月一日身延山に登りて慈父のはかを拝見す。子にすぎたる財なし、子にすぎたる財なし。(御書1478頁)」と述べられ、また阿仏房の曽孫〔ひまご〕に当たる如寂房日満も、幼少より富士の日興上人のもとに参じて行学に励み、北陸七ヵ国の門下の別当に任じられています。
このように大聖人をひたすら御慕い申し上げ、身命を投げて外護し、さらに身延へ参詣した阿仏房の信仰の姿は、まことに信徒の模範であり、古来、登山の精神は、阿仏房に学べと謳〔うた〕われています。
そうであればこそ、現在においても阿仏房を範として数多くの人々が、御法主上人猊下を御慕い申しあげ、戒壇の大御本尊様へ「一心欲見仏」の純真な心をもって総本山大石寺に参詣しているのです。


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