御書研鑚の集い 御書研鑽資料
本門戒体抄 第一章 大乗戒と小乗戒
【本門戒体抄 弘安二年 五八歳】 本門戒体抄 弘安2年 58歳御作 【大乗戒並びに小乗戒の事。】 大乗戒ならびに小乗戒の事。 【凡〔およ〕そ二百五十戒を受くれば大僧の名を得るなり。】 およそ二百五十戒を受ければ、高僧と呼ばれるようになります。 【受戒は辺国は五人、中国は十人なり。】 その受戒については、辺境の国では、五人、中国では、十人で行います。 【十人とは三師七証なり。】 その十人とは、三師七証のことです。 【三師とは和尚と阿闍梨〔あじゃり〕と教授となり。】 三師とは、和尚と阿闍梨〔あじゃり〕と教授であり、 【十人共に五徳を具す。】 十人共に五徳を具〔そな〕えています。 【二百五十戒を別解脱戒と云ひ、亦は具足戒とも云ふなり。】 二百五十戒を別解脱戒と言い、または、具足戒とも言います。 【小乗の五戒を受くるを優婆塞〔うばそく〕・優婆夷〔うばい〕と云ふなり。】 小乗の五戒を受けることを優婆塞〔うばそく〕、優婆夷〔うばい〕と言います。 【八斎戒も亦是くの如し。五戒を受くるに必ず二師有り。】 八斎戒も、また、これと同じです。五戒を受けるには、必ず二師がいます。 【二師とは和尚と阿闍梨となり。八斎戒も亦是くの如し。】 二師とは、和尚と阿闍梨です。八斎戒もまた、同じです。 【小乗戒は経巻有りと雖〔いえど〕も師資相承無き者には戒を授けざるなり。】 小乗戒は、経巻が有ると言っても、師資相承が無き者には、戒を授けないのです。 【菩薩の前にしても仏の前に非ざれば戒を授けざるなり。】 菩薩の前であっても仏の前でなければ戒を授けないのです。 【大乗戒の事。(師は必ず五徳を具する僧なり。常には一師二師なり。】 大乗戒の事。(師は必ず五徳を具える僧なり。常には一師二師なり。 【一師とは名目梵網経に出づ。二師とは和尚と阿闍梨となり。)】 一師とは、名目梵網経に出づ。二師とは、和尚と阿闍梨となり。) 【具〔つぶさ〕に十重禁戒〔きんかい〕を受くるを大僧と名づくるなり。】 具体的に十重禁戒〔きんかい〕を受けることを大僧と名づけるのです。 【亦具足戒とも云ふなり。】 また、具足戒とも言います。 【一戒二戒を受くるをば具足戒とは云はざるなり。】 しかし、一戒、二戒を受けることを具足戒とは、言いません。 【日本国には伝教大師より始めて一向大乗戒を立つるなり。】 日本では、伝教大師によって、初めて一向大乗戒が立ったのです。 【伝教已前〔いぜん〕には通受戒なり。】 伝教以前では、それは、通受戒なのです。 【通受戒とは、小乗戒を受けては威儀を正し、】 通受戒とは、小乗戒を受けて、威儀を正し、 【大乗戒を受けては成仏を期〔ご〕するなり。】 大乗戒を受けて、成仏を期するのです。 【大小乗の戒を兼ね受くるを通受戒と云ふ。】 大小乗の戒を兼ね受けることを通受戒と言うのです。 【日本国には小乗の別解脱戒の弘まることは】 日本において小乗の別解脱戒が弘まったのは、 【鑑真〔がんじん〕和尚の時より始まれり。】 鑑真〔がんじん〕和尚の時より始まったのです。 【鑑真已前は沙弥〔しゃみ〕戒なり。】 鑑真〔がんじん〕以前では、沙弥〔しゃみ〕戒なのです。 【千里の内に五徳を具せし僧無くんば自誓受戒す。】 千里の内に五徳を具える僧がいないのであれば、自ら誓って受戒するのです。 【自誓受戒とは道場に座して一日二日乃至一年二年】 自ら誓う受戒とは、道場に座って一日二日乃至一年二年の間、 【罪障を懺悔〔ざんげ〕す。】 罪障を懺悔〔ざんげ〕するのです。 【普賢〔ふげん〕文殊〔もんじゅ〕等来たりて告げて、】 普賢〔ふげん〕菩薩や文殊〔もんじゅ〕菩薩などが来られて、 【毘尼薩毘尼薩〔びにさびにさ〕と云はん時自誓受戒すべし。】 毘尼薩毘尼薩〔びにさびにさ〕と言った時に自誓受戒するのです。 【即ち大僧と名づく。毘尼薩毘尼薩とは滅罪滅罪と云ふ事なり。】 これは、高僧のことなのです。毘尼薩毘尼薩とは、滅罪、滅罪と言うことなのです。 【若し五徳を具する僧有れば、好相を見ざれども受戒するなり。】 もし五徳を具える僧がいれば、容姿が悪くとも受戒できるのです。 【十重禁戒を破る者も懺悔すれば之〔これ〕を授く。】 十重禁戒を破る者も、懺悔さえすれば、これを授けることができるのです。 【四十八軽〔きょう〕も亦復〔またまた〕是くの如し。】 四十八軽〔きょう〕も、また、この通りであるのです。 【五逆七逆は論なり。経文分明ならず、授けざるは道理なり。】 五逆七逆は、論であり、経文に分明ならず、授けないのは、道理なのです。 【仏は則ち盧舎那〔るしゃな〕仏・二十余の菩薩・羅什〔らじゅう〕三蔵・】 仏は、則ち毘盧遮那〔びるしゃな〕仏、二十余の菩薩、羅什〔らじゅう〕三蔵、 【南岳・天台乃至道邃〔どうずい〕・伝教大師等なり。】 南岳大師、天台大師、妙楽大師の弟子、道邃〔どうずい〕和尚、伝教大師なのです。 【達磨〔だるま〕・不空は天竺より此の戒を受けたり。】 達磨〔だるま〕や不空は、インドにおいて、この戒を受けています。 【已上常人の義なり。】 以上は、常人の義です。 【日蓮云はく、彼は梵網〔ぼんもう〕の意か。】 日蓮は、このように考えますが、これは、梵網〔ぼんもう〕の意味でしょうか。 【伝教大師の顕戒論に云はく「大乗戒に二有り。一には梵網経の大乗。】 伝教大師の顕戒論に「大乗戒に二有り。一には梵網経の大乗。 【二には普賢〔ふげん〕経の大乗なり。普賢経は一向自誓受戒なり」と。】 二には普賢〔ふげん〕経の大乗なり。普賢経は一向自誓受戒なり」と述べています。 【常人は梵網千里の外の自誓受戒と】 常人は、梵網経下巻に千里内に授戒の師が無ければ、自誓受戒せよとあるのと 【普賢経の自誓受戒と之同じと思へるなり。】 普賢経の自誓受戒を同じと思っています。 【日蓮云はく、水火の相違なり。所以〔ゆえん〕は何〔いか〕ん。】 日蓮は、これには、水火の相違があると思います。なぜかと言うと、 【伝教大師の顕戒論に二義有り。】 伝教大師の顕戒論に二義があって、 【一には梵網経の十重戒、四十八軽戒の大僧戒。】 一には、梵網経の十重戒、四十八軽戒の大僧戒であり、 【二には普賢経の大僧戒なり。】 二には、普賢経の大僧戒なのです。 【梵網経の十重禁・四十八軽戒を以て眷属〔けんぞく〕戒と為〔な〕すなり。】 梵網経の十重禁、四十八軽戒をもって眷属〔けんぞく〕戒とするのです。 【法華経・普賢経の戒を以て大王戒と為すなり。】 法華経、普賢経の戒をもって大王戒とするのです。 【小乗の二百五十戒等は民戒、梵網経の戒は臣戒、】 小乗の二百五十戒等は、民戒、梵網経の戒は、臣戒であり、 【法華経普賢経の戒は大王戒なり云云。】 法華経、普賢経の戒は、大王戒なのです。 【普賢経の戒師は、千里の外にも千里の内にも、五徳有るも五徳無きも、】 普賢経の戒師は、千里の外にも千里の内にも、五徳有るも五徳無きも、 【等覚已下の生身〔しょうじん〕の四依の菩薩等を以て】 等覚以下の生身〔しょうじん〕の四依の菩薩などをもって、 【全く伝受戒師に用ふべからず。受戒には必ず三師一証一伴なり。】 全く伝受戒師にしては、ならないのです。受戒は、必ず三師一証一伴の 【已上五人なり。】 以上五人でなければならないのです。 【三師とは一は生身の和尚は霊山〔りょうぜん〕浄土の釈迦牟尼如来なり。】 三師とは、一は、生身の和尚は、霊山〔りょうぜん〕浄土の釈迦牟尼如来なのです。 【響きの音に応ずるが如く、清水に月の移るが如く、】 響きの音に応ずるが如く、清水に月の移るが如く、 【法華経の戒を自誓受戒する時必ず来たり給ふなり。】 法華経の戒を自誓受戒する時には、必ず来られるのです。 【然れば則ち何ぞ生身の釈迦牟尼如来を捨てゝ】 そうであれば、どうして生身の釈迦牟尼如来を捨てて、 【更に等覚の元品〔がんぽん〕未断〔みだん〕の四依等を用ひんや。】 等覚の元品〔がんぽん〕未断〔みだん〕の四依の菩薩などを用いるのでしょうか。 【若し円教の四依有らば伝戒の為に之〔これ〕を請ずべし、】 もし、円教の四依であるならば、伝戒の為にこれを招請し、 【伝受戒の為には之を用ふべからず。】 伝受戒の為には、これを用いてはならないのです。