日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


戒体即身成仏義・戒法門・色心二法抄・本門戒体抄 背景と大意


仏道を修行する者が必ず学ばなければならないものに三学があります。
それは、戒〔かい〕、定〔じょう〕、慧〔え〕のことで、戒とは、禁戒のことで身、口、意の三業において、悪を止〔とど〕め非を防〔ふせ〕いで善を修する防非〔ぼうひ〕止悪〔しあく〕のことです。
次に、定とは、禅定〔ぜんじょう〕のことで、心を定め雑念をはらい、安定した境地に立つことです。
最後の慧とは、智慧のことで、煩悩を断じて真理を顕すことです。
この戒、定、慧の三学は、律、経、論の三蔵に説かれています。
最終的には、この戒、定、慧の三学は、虚空不動戒を本門の戒壇とし、虚空不動定を本門の本尊とし、虚空不動慧を本門の題目として、法華経寿量品の文底に秘沈された三大秘法となるのです。
この戒、定、慧の三学の中の戒とは、古代インドで使われていたサンスクリット語の「尸羅〔しら〕」の訳で、同じくサンスクリット語で「毘奈耶〔びなや〕」と訳されている三蔵の中の律とは、意味が違います。
本来、戒とは、自ら誓う自発的なものであり、受戒は、何ものかによって強制されるものではありません。
それに対して律とは、もともとのサンスクリット語の意味では、除去のことで、教団の規則に違反した者を破門して排除するものであったのです。
しかし、仏教が、社会や権力と一体と成るにつれ、戒と律は、中国、日本において、長い間に同一視されて、戒律と漢訳され、組織を維持する為の規律と捉〔とら〕えられてしまいました。
その戒のもともとのサンスクリット語の尸羅〔しら〕の意味には、清涼〔せいりょう〕という意味があり、戒を受持すれば、自ずから非を防ぎ、悪を憎み、善を好んで、煩悩業苦から離れる故に清涼を得ることができるとされていました。
このため、インドの竜樹菩薩の菩提資糧論には、戒に清涼、安穏、安静、浄潔、讃歎などの徳があり、戒を受持することで煩悩の熱を離れて清涼安穏となり、行者の威儀を飾り、大衆の讃歎を得ることができると説かれています。

また、戒には、大きく分けて、小乗戒と大乗戒の二つがあります。
小乗戒には、戒の基本である不殺生戒、不偸〔ちゅう〕盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒〔おんじゅ〕戒の五戒や、在家の男女が特定の一日のみ行う八斎〔はっさい〕戒や出家者が行う具足戒があり、その具足戒には、男の僧侶である比丘に二百五十戒、女の僧侶である比丘尼に三百四十八戒があり、この三百四十八戒は、およその数をとって五百戒と言います。
小乗教は、この小乗戒を行者個人が守ることを基本としており、あくまでも解脱を得るのは、行者個人だけに限るのです。
従って、行者には、細かい階級差別があって、それは、まるで古代インドにおけるカースト制度のようであり、それが現世利益や享楽主義、刹那主義から離れるために苦、空、無常、無我を理解することが目的であったとしても、非常に低級の劣った教えであり、さらには、その小乗戒を守ることが目的化してしまえば、もはや仏教でもなくなってしまう怖れが十分にあったのです。
次に大乗戒とは、三聚浄〔さんじゅじょう〕戒や十重禁戒、四十八軽戒〔きょうかい〕などがあります。
総じて、これらは、細かな戒律を守ることを求めておらず、したがって、それらを守らなかった場合の処罰の規定を設けることがなく、一切衆生を成仏に導く菩薩戒が重要視されています。
つまり、仏法僧の三宝を謗〔そし〕ることを禁じる不謗三宝戒の十重禁戒を重視し、この戒めを守り、一切の悪を防ぐ摂律儀〔しょうりつぎ〕戒とし、自他の為に一切の善法を行い回向する摂善法戒、一切の衆生を教化し、一切衆生救済の為に力を尽くす摂衆生戒の三聚浄戒に代表される菩薩戒をもって、大乗戒とするのです。
しかし、これもまた時代が進むにつれて形骸化し、組織に従属することによって、菩薩戒を得たことにするように変わっていきます。
その為に天台大師、妙楽大師など多くの大乗の高僧は、小乗戒を受持しており、これは、大乗においても組織を運営する上において、規律を重んじた結果なのです。
しかし、釈迦牟尼仏が入滅して後、像法時代の正師である伝教大師は、戒の正意として「法華経の一乗戒」こそ最上の戒であると説きました。
一乗戒の内容については、法華経法師品の「三如来室衣座〔しつえざ〕の戒」や法華経安楽行品の「四安楽行の戒」、同じく普賢菩薩勧発品の「四法成就の戒」などがありますが、その中心は、法華経見宝塔品の「此の経は持〔たも〕ち難し、若し暫くも持〔たも〕つ者は、我即ち歓喜す、諸仏も亦然〔しか〕なり、是の如きの人は、諸仏の歎〔ほ〕めたもう所なり、是れ則ち勇猛なり、是れ則ち精進なり、是れ戒を持〔たも〕ち、頭陀〔ずだ〕を行ずる者と名づく、則ち為れ疾〔と〕く、無上の仏道を得たるなり、能く来世に於て、此の経を読み持〔たも〕たんは、是れ真の仏子、淳善の地に住するなり」との文章にあります。
このように、この法華経を受持することが困難な仏滅後に法華経を受持する者は、諸仏に讃嘆され、持戒の者として成仏を遂げることができると説かれているのです。
この意義からすれば、戒の根本は、法華経を受持する一行にあることになります。
末法の御本仏である日蓮大聖人は、本門戒体抄において、「迹門の戒は爾前大小の諸戒には勝ると雖〔いえど〕も而〔しか〕も本門戒には及ばざるなり」(御書1440頁)と、法華経迹門の戒を含む、あらゆる戒を否定し、本門の十重禁戒を持〔たも〕つべきであることを説かれました。
本門の十重禁戒とは、不殺生戒を例に挙げれば、爾前の仏は、二乗、悪人等に成仏を許さず、殺生の罪があり、このため爾前のあらゆる仏法を捨て、法華経寿量品における久遠の不殺生戒を持〔たも〕たなければならないというものです。
これと同様に、爾前の仏は、不妄語戒など、十重禁戒のすべてを破る罪があり、末法では、それらの仏と教法を捨て、法華経本門の大法を受持すべきであると説かれています。

このように仏教を行ずる者は、必ず戒を受け、持戒の誓いを立てました。
この戒を受け、誓いを立てる側を受戒と言い、授ける側を授戒と言います。
さらに過去には、授戒する場所を戒場と言いましたが、授戒の作法が整えられる中で、結界を示す壇が作られ、そこを戒壇と呼ぶようになりました。
その授戒の目的として、南山律宗の祖である中国の道宣は、四分律行事抄で戒法、戒体、戒行、戒相という戒の四科を説きました。
この戒法とは、仏が制定された戒の法、戒の内容のことで、戒体とは、戒を受ける時、自然に命に具わる防非止悪の徳のある法体であり、戒行とは、戒を受けた者が戒の内容に従って持戒し、身口意の三業で実践修行することであり、戒相とは、持戒の行者が威儀を成じ、徳が顕われる相のことで、授戒の儀式は、この戒の四科のうち、行者の身に戒体という防非止悪の徳のある法体を宿し、持戒の誓いを深く命に刻むために行うのです。
この授戒の作法については、小乗、大乗の違いによって授戒の儀式も様々なのです。
日本においては、授戒の儀式は、南山律宗の鑑真〔がんじん〕和尚〔わじょう〕が渡来し、東大寺に戒壇を築いて授戒を行ったことを始まりとし、その後、下野薬師寺(栃木県)と筑紫観世音寺(福岡県)にも戒壇が築かれました。
これらの戒壇は、基本的に僧侶に対して、小乗具足戒である比丘の二百五十戒、比丘尼の五百戒を授戒するために築かれたものでした。
具足戒の授戒の作法は、三師七証の十人を基本とします。
三師とは、戒を授ける直接の師である戒和尚〔かいわじょう〕、戒壇で戒和尚や受戒者の名前を読み上げ、三師七証の皆に授戒の賛否を三回問う白四羯磨〔びゃくしこんま〕を行う羯磨〔こんま〕阿闍梨〔あじゃり〕、授戒の威儀、作法を教える教授〔きょうじゅ〕阿闍梨〔あじゃり〕の三人のことで、七証とは、それを見届ける七人の証人のことです。
なお、地方にある東〔とう〕戒壇の下野薬師寺と西〔さい〕戒壇の筑紫観世音寺では、五師で授戒の作法を行ったとされています。
さらに羯磨〔こんま〕とは、業のことでサンスクリット語のカルマの訳ですが、南山律宗では、「こんま」と言い、天台宗、真言宗では、「かつま」と呼びます。
戒とは、いかに逃れようとしても逃れられない業と一体のものであって、ひとたび、戒を受ければ、それが戒体として具わるのです。
このように奈良時代以降においては、僧侶になるためには、小乗具足戒を受け、僧綱〔そうごう〕という組織に入ることが義務づけられました。
比叡山の天台法華宗の僧侶も、この小乗具足戒を受け、その後に比叡山に戻ることになっていましたが、これに対し伝教大師は、実大乗たる法華経の行者が小乗戒を受けることを不服として、大乗戒壇の建立を天皇に奏上して裁可を求めました。
しかし、奈良の各宗派の反対に遭い、伝教大師の在世には、実現しませんでした。
それでも、この伝教大師の滅後七日目に嵯峨天皇より勅許〔ちょっきょ〕が下り、伝教大師の大乗戒壇建立が決定し、弟子の義真により、円頓大乗戒の授戒が行われるようになりました。
その授戒の作法では、戒和尚として釈尊、羯磨〔かつま〕阿闍梨〔あじゃり〕として文殊師利菩薩、教授阿闍梨として弥勒菩薩、諸証として十方の諸仏とし、現前の師を伝戒の師として戒を受けるのです。

また小乗戒の戒体は、今生一生限りで失われることから尽形寿〔じんぎょうじゅ〕戒、また、一生を終えれば、壊れて価値がなくなってしまうことから、素焼きの粗末な器に譬えて瓦器戒とも言います。
それに対して、大乗戒の戒体は、金銀で出来た器のように、生まれ変わり、戒を破って形が損なわれたとしても、金銀の価値が残ることから金銀戒とも言われます。
しかし、日蓮大聖人は、像法以前の一切の諸戒を束ねて、「爾前迹門の諸戒は今一分の功徳なし」(御書1110頁)と教示されています。
末法においては、日蓮大聖人の下種仏法の意義に基づき下種本門戒を受戒し、実践しなければならないのです。
さらに日蓮大聖人は、教行証御書に「此の法華経の本門の肝心妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為〔せ〕り。此の五字の内に豈〔あに〕万戒の功徳を納めざらんや。但し此の具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれど破れず。是を金剛〔こんごう〕宝器戒〔ほうきかい〕とや申しけんなんど立つべし。三世の諸仏は此の戒を持って、法身〔ほっしん〕・報身〔ほうしん〕・応身〔おうじん〕なんど何〔いず〕れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(御書1109頁)と述べられ、本門寿量品の肝心である妙法蓮華経には、三世諸仏のあらゆる修行の功徳、すべての戒の功徳が納められており、妙法蓮華経を受持することこそが末法において、ただひとつの戒であり、その戒体は、もっとも硬い金剛で出来た宝の器の戒と述べられています。
この教行証御書に説かれる「法華経の本門の肝心妙法蓮華経」とは、大石寺奉安堂の本門戒壇の大御本尊であり、この本門戒壇の大御本尊を受持することが、末法唯一の戒となるのです。
この本門の戒壇、本門の本尊、本門の題目の三大秘法の大御本尊の受持に、戒定慧の三学の万行、万善、万戒の功徳をすべて納めるので、その他の戒は、不要であると同時に、それを受持することが、そのまま持戒となる受持即持戒を説かれたのです。
そして、その戒体は、御書に「妙法の功徳は一得〔とく〕永不失〔ようふしつ〕なれば朽失せざる功徳なり」(御書1850頁)とあるように一得〔いっとく〕永不失の金剛宝器戒であり、一度、これを受持すれば、決して壊れることがなく必ず、その人を即身成仏に導く功徳があるのです。
私たちが戒を持〔たも〕つということは、本門戒壇の大御本尊を信じ、御本尊の御前で題目を唱えることに他ならないのです。
日蓮正宗第六十五世、日淳上人は、題目が宇宙法界に遍満〔へんまん〕する法であり、それを日蓮大聖人が大曼荼羅として書き顕したとする考えに対して、以下のような文章で完全に否定されています。

世間では、大聖人の教えは、題目にあらせられると思って題目を主として、御本尊をゆるがせにする者が多いのであります。
多いどころではなく、皆、左様に考えておりますが、これがために大聖人の教えをはき違えるのであります。
元来、かような考えは、南無妙法蓮華経は、法であるとのみ考えるからでありまして、宇宙に遍満〔へんまん〕する妙法の理が題目であるとするからであります。
これは大変な誤りで、南無妙法蓮華経は、仏身であります。
すなわち、法報応、三身具足〔ぐそく〕の当体であらせられ、報身中に具〔ぐ〕し給うのであります。
妙法の理は、天地の間にありましても、それは、理性であります。
実際には、仏の御智慧のうちにのみ厳然として具〔そな〕わり給うのであります。
(日淳上人全集982頁の主旨)
近頃、雨後〔うご〕の筍〔たけのこ〕のように新興宗教ができますが、その中に南無妙法蓮華経と題目を唱えるものが相当ありますが、それらは、大概、御題目を唱えますが、御本尊をそっちのけに考えて居ます。
実にひどいのは、訳のわからぬ霊牌〔れいはい〕を祀〔まつ〕って御題目を唱えておるが事茲〔ことここ〕に至〔いた〕っては、唖然〔あぜん〕として口も塞〔ふさ〕がりません。
これらは、皆、御本尊を忘れるが故に如何に珍妙な行体に堕するかの標本であります。
元来、かような脱線は、新興宗教許りではなく、自ら日蓮宗と称する身延派をはじめ、一般、既成、日蓮宗がこの過誤〔かご〕を犯しておるのであります。
これは、何処から起るかと申せば、御題目を唱えることが根本だという考えから起るのであります。
それ故、御題目を唱えるところが戒壇であるとか、一にも二にも我が身が本尊なりといって日蓮大聖人を傍〔かたわ〕らに拝〔はい〕しのけて、自分が本尊の中央に座り込んだり、あるいは、「今日蓮」などと言って、訳のわからぬ事を言って他人を煙に巻いたり、はては、また本尊に窮して、むやみやたらと大曼茶羅を担ぎ出して、これ大聖人の御本尊の第一なりと勝手な理屈をつけたりするのであります。
これらは、皆、天魔がその身に入って、なさしめる所業でありますが、過因〔かいん〕は、御題目が根本であるというところにあります。
返す返すも、境よく智を発し、智また行を導くと仰せられた御言葉を銘記すべきであります。
申すまでもなく、大聖人がこの世に御出ましなされたのは、末法のため、最も尊い、最も正しい、御本尊を建立〔こんりゅう〕遊ばされて、我等、凡夫に御授〔さず〕けされることであります。
それは、弘安二年の戒壇の御本尊で本宗、総本山大石寺に蔵〔ぞう〕し奉〔たてまつ〕るのであります。
この御本尊において、初めて題目の信行、戒壇の受持が具〔そな〕わるのであります。
(日淳上人全集987頁の主旨)

このように日蓮正宗、総本山大石寺の弘安二年の御本尊によって、初めて戒壇の受持が具〔そな〕わるので、それ故に、現在における授戒の儀式は、日蓮正宗寺院の御宝前において執り行われます。
そこでは、御本尊に具わる法即人の宗祖日蓮大聖人を戒師とし、末寺の住職を伝戒師として儀式が行われます。
授戒文は、一に法華本門の正法正師の正義の受持、二に法華本門の三大秘法の受持、三に法華本門の不妄語戒の受持を誓う内容となっています。
この中の法華本門の不妄語戒とは、大聖人が本門戒体抄に説かれた「法華寿量品の久遠の不妄語戒」(御書1441頁)であり、十重禁戒の一つです。
一般的に不妄語戒とは、妄語(嘘)を言ってはならないという戒ですが、本門戒体抄では、爾前の仏が二乗作仏を説かず、法華経本門寿量品における真実を隠し、衆生に三世常住の生命と、真の成仏を明かさないので十重禁戒を犯す罪があると説かれています。
つまり「法華本門の不妄語戒」とは、方便である爾前迹門の仏と法を捨てて、真実の仏法である法華本門の大法を受持するという意味です。
本宗入信の授戒文に「法華本門の不妄語戒」の名称を挙げるのは、本門戒体抄に説かれる法華本門の十重禁戒の内の一つを挙げて、十重禁戒のすべてを授ける意味なのです。
また、伝戒師たる末寺住職と受戒者が、共に「持〔たも〕ち奉るべし」と称〔とな〕えるのは、末寺住職は、持〔たも〕つべきであるとの意、受戒者は、持〔たも〕っていきますと誓いを立てる意になります。
この御授戒で、下種本門戒を受けることにより、金剛宝器戒という最高の戒体を命に宿し、真の仏子として妙法受持の一歩を踏み出すことになるのです。
また、せっかく、この尊い金剛宝器戒を受持しながら、退転してしまう者もいますが、これらの者も、この戒体によって四悪道に堕ち、無間地獄の苦しみによって、必ず懺悔、滅罪の道を歩むことは、間違いないのです。
このように、日蓮正宗の授戒によって、この三大秘法の大御本尊に縁するならば、必ず、その偉大な力用によって、即身成仏することができるのです。


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