御書研鑚の集い 御書研鑽資料
法華取要抄 1 背景と大意
法華取要抄(御書731頁)
法華取要抄は、日蓮大聖人が身延入山後に最初に著された御書なのですが、それは、本抄が日蓮大聖人の御内証たる末法の御本仏として、法華経文底の妙法を三大秘法として開示され、一閻浮提総与の大御本尊を御建立され出世の本懐を遂げられる内容が含まれており、いよいよ令法久住へ向けての御教示がなされているからなのです。
しかし、その時代の日本の世相と云えば、まさに蒙古襲来が現実となり、日蓮大聖人を佐渡流罪にした張本人である平左衛門尉頼綱でさえ態度を改めて、その時期を尋ねるほどの緊迫した状態であったのです。しかし、そんな状態でありながら鎌倉幕府は、日蓮大聖人の三度目の諫言にも耳をかさずに、相も変わらずの法華誹謗の謗法を繰り返していたのです。それを見極められた日蓮大聖人は、未来の弘教の為に故事に習って身延に身を引かれ、しばらく地頭の波木井実長の館に逗留され、そこで入山七日目に本抄を書き著されたのです。
本抄の御真筆は、中山法華経寺に現存し、原文は漢文であり、紙二十四枚からなっています。ただし、御真蹟そのものには、御述作の年月日や対告衆の名前は、記されてはいません。本抄を与えられた富木常忍は、大聖人滅後に、自分の所有していた御書、写本の目録を作成していますが、そこに観心本尊抄と共に法華取要抄の名が並記されています。また日興上人、富士一跡門徒存知の事において十大部を定められていますが「一、取要抄一巻。」(御書1871頁)と本抄を列挙され「已上三巻は因幡国富城荘〔ときのしょう〕の本主今は常忍、下総国〔しもうさのくに〕五郎入道日常に賜ふ、正本は彼の在所に在るか。」(御書同頁)と注釈されており、富木常忍が所蔵していた現存の御真筆が本抄の正本であった事が明確になっています。また写本として日興上人、日目上人によるものが現存していて、特に日興上人の写本には「文永十一年(西暦1274年)」と本抄御述作の年代が記されています。以上のように法華取要抄の御真筆には、御述作の年月日は記されていませんが日興上人による法華取要抄の写本には明確に「文永十一年」と記されているので「文永11年5月24日」の説が最も有力となっています。
この富木常忍は、下総国葛飾郡八幡荘若宮の住人で、元々は下総の人ではなく前述の富士一跡門徒存知の事に「因幡国富城荘の本主」とあるように鳥取県の出身であり、常忍の父が建長二年(西暦1250年)の頃に常忍と共に下総の若宮に居住したと思われます。富木常忍は、下総国守護千葉頼胤〔ちばよりたね〕の有能な事務官僚として重要な立場にあり、当時の知識階層に属していて日蓮大聖人から多くの重要な御書を賜り、さらには、間接的ではあっても幕府との事務的業務にも携わっていたので千葉家関係の鎌倉屋敷を通じて、定期的にそれを鎌倉在住の門下に伝達する立場にもあったものと思われます。富木常忍が下総の檀那だけではなく、全檀越の要〔かなめ〕の存在に成り得たのは、このような社会的な立場が基盤となっていたものと思われるのです。以上のように、富木常忍は、初期から一貫して日蓮大聖人の外護の任にあたっており、数々の重要御書を頂いている門下の中心人物であったのです。身延入山直後に本抄が著され、法華経の肝要が三大秘法であり、それが日蓮大聖人によって建立され、一閻浮提に広宣流布される事が著されたのですが、常に日蓮大聖人御自身の御内証を御化導される時には、必ずと云ってよいほど、真っ先に富木常忍に内示されていたのは、このような事情によるものと思われるのです。
題名の法華取要抄は、日寛上人の取要抄文段に「法華取要抄とは法華の二字は一代経の中に爾前を簡〔えら〕び、取要の両字は法華経の中に広略を簡ぶ。謂〔いわ〕く、一代経の中には但〔ただ〕法華経、法華経の中には但肝要〔かんよう〕を取る、故に法華取要抄と名づくるなり。」とあるように題号の「法華取要抄」の「法華」の二字には、釈迦一代聖教の中から方便権教である爾前経を捨てて、法華経を選び取るとの意味が込められており、また「取要」の二字には、法華経の広略を捨てて、ただ法華経を選び取るとの意味が込められているのです。この意味については、日寛上人は、同じく取要抄文段において「如来要を取って付嘱したまう旨を述ぶる」と「蓮祖要を取って弘通したまう相を述ぶる」の二つが含まれているが、「両意を含むと雖も、今正しく題意は第二に在り。」と述べられ、正意は後者にあると仰せになっています。釈迦牟尼仏から上行菩薩に付嘱したまう文底下種の法華経が傍意であり、本意は、日蓮大聖人御自身が法華経の肝要である三大秘法を建立し、それを弘通されるを正意とされているのです。つまり、末法において日蓮大聖人が初めて弘通される三大秘法とは、法華経の広略を捨てて肝要を取ったものである事を示されているのです。この肝要とは、久遠元初において仏が未だ名字凡夫の位であった時に覚られた「久遠名字の妙法」であり、これが成仏の本因なのであって、この妙法は、寿量品の「我本行菩薩道」の文底に秘沈されているが故に「寿量文底」と云い、また、法華経そして一切経の肝要の法体であるが故に御書では「肝要」と表記され、他にも「肝心」「惣要」「最要」「要法」「要津」「秘要」と著わされており、この寿量文底の妙法を末法流布の法体として開顕された実体が「三大秘法の大御本尊」なのです。故に文段で日寛上人は、諸御書に仰せの「寿量の文底」「寿量の肝心」「三箇の秘法」などは、すべて「久遠名字の妙法」のことであると述べられた上で「これ則ち正中の正、妙中の妙、要中の要なり。故に当流の意は、久遠名字の妙法を肝要と名づくるなり」と結論されているのです。さらに「題号は只〔ただ〕これ久遠名字の妙法の朽木〔くちき〕書〔がき〕なり。」と述べられ、さらに本因妙抄の「迹門の妙法蓮華経の題号は、本門に似たりと雖も義理天地を隔〔へだ〕つ、成仏も亦水火の不同なり。久遠名字の妙法蓮華経の朽木〔くちき〕書きなる故を顕はさんが為に一と釈すなり。」(御書1681頁)との文を引用されています。「朽木書」とは、炭で描く下書きの事であり、「題号の妙法蓮華経」は、日蓮大聖人が弘められる寿量文底の「久遠名字の妙法」の為に釈尊が残した下書きであり、「久遠名字の妙法」を「要」とすれば、「題号」は、「略」、「妙法蓮華経」は「広」とされているのです。また「久遠名字の妙法」を「要」とすれば、「妙法蓮華経」は「略」、一切経を「広」ともされるのです。いずれにしても末法流布の「三大秘法の大御本尊」こそ、すべての価値の根源であり、仏教の根本であるのです。
聖愚問答抄では「所謂〔いわゆる〕諸仏の誠諦得道の最要は只是妙法蓮華経の五字なり、檀王の宝位を退き、竜女が蛇身を改めしも只此の五字の致す所なり。夫〔それ〕以〔おもんみ〕れば今の経は受持の多少をば一偈一句と宣べ、修行の時刻をば一念随喜と定めたり。凡〔およ〕そ八万法蔵の広きも一部八巻の多きも、只是五字を説かんためなり。」(御書405頁)とあり、「妙法蓮華経の五字」の「要」に対して「八万法蔵」が「広」とされており、この場合、法華経八巻が「略」にあたると思われます。
また、観心本尊抄では、五重三段のうち文底下種三段が明かされるにあたり「過去大通仏の法華経より乃至〔ないし〕現在の華厳経、乃至迹門十四品・涅槃経等の一代五十余年の諸経・十方三世諸仏の微塵〔みじん〕の経々は皆寿量の序分なり。」(御書655頁)とあり、この御書によれば、釈尊の一代聖教のみならず、大通智勝仏の法華経も、また三世十方の諸仏が説いた微塵の経々も、そのすべてを「寿量文底の妙法」の「要」に対する「広」とする事が出来るのです。また、寺泊御書では「一部八巻・二十八品、天竺の御経は一須臾に布〔し〕くと承る。定めて数品有るべし。今漢土・日本の二十八品は、略の中の要なり。」(御書486頁)、法華題目抄では、「一部八巻二十八品を受持読誦し、随喜護持等するは広なり。方便品寿量品等を受持し乃至護持するは略なり。但〔ただ〕一四句偈〔げ〕乃至題目計りを唱へとなうる者を護持するは要なり。広略要の中には題目は要の内なり。」(御書355頁)とあり、寺泊御書では法華経二十八品を「略」「要」とされ、法華題目抄では「一部八巻二十八品」を「広」とされており、「略」を方便品、寿量品、「要」を法華経の題目とされているのです。日寛上人も本抄文段において「当に知るべし、三世十方の微塵の経々、無量の功徳は、皆悉くこの要法に帰するなり」と仰せであり、三世十方の諸仏は、すべて「妙法蓮華経の五字」の「要」法によって得道し、その「三世十方の微塵の経々」は、「広」、法華経の無量の功徳の功徳は、「略」とされているのです。
また本抄冒頭の「日蓮之を述ぶ」の意義として、日寛上人は「蓮祖もまた爾なり。皆久遠名字の妙法、搭中付嘱の要法を伝う。豈先王の古を伝うるに非ずや。故に日蓮之を述ぶというなり」と述べられており、「久遠名字の妙法を伝う」「搭中付嘱の要法を伝う」「豈先王の古を伝う」の三つを挙げられています。「久遠名字の妙法」とは、前述の通り久遠元初において仏が未だ名字凡夫の位であった時に覚られた肝要であり、「搭中付嘱の要法」とは、法華経において教主釈尊から上行菩薩に付嘱されたところの要法であり、「豈先王の古」とは、過去の三世諸仏の成仏の因である妙法蓮華経の五字であるところの三大秘法の大御本尊を伝える為に「日蓮之を述ぶ」と云われているとされています。つまりこの文の「之」とは、「三大秘法の大御本尊を伝える」という意義があり、「久遠名字の妙法を伝う」とは、三大秘法の大御本尊を建立し、「搭中付嘱の要法を伝う」とは、その三大秘法の大御本尊を血脈相承し、「豈先王の古を伝う」とは、その三大秘法の大御本尊を広宣流布して、すべての衆生を仏にすると云う意味なのです。
これらの主題の元に本文の最初にインド、中国から日本に渡った仏教経典の中で各宗派が勝手にこれが正しいと主張しているが、いったい何を信じればよいのかとの疑問から本抄は展開していきます。そこで日蓮大聖人は、法華経法師品第十の次の文で「我が所説の経典、無量千万億にして已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も難信難解なり」とあり、この文の直後に「此の経は是れ諸仏の秘要の蔵なり」と説かれている事実を挙げられています。これについて天台大師の法華文句巻八上では「已に説き」とは爾前経、「今説き」とは法華経と無量義経、「当に説かん」とは法華経の後に説かれた涅槃経であり、これらの諸経よりも法華経の方が「難信難解」とされて、つまり「已に説き今説き当に説かん」とは、法華経以外のすべての教典を指すのです。そして法華経こそ、三世諸仏の「秘要の蔵」とされている故に最も難信難解である法華経が一切経に対して最も優れているとされたのです。
さらに妙法蓮華経巻第三の冒頭、法華経化城喩品第七に「無量無辺不可思議阿僧祇劫と云う過去に爾の時に大通智勝如来と云う仏が有った。其の国を好成と名づけ、劫を大相と名づく。彼の仏の滅度より已来、甚だ大いに久遠なり。譬えば三千大千世界の所有の地種を、仮使人有りて、磨り以って墨と為し、東方千の国土を過ぎて、乃ち一点を下さん。大〔おおい〕さ微塵の如し。又千の国土を過ぎて、復一点を下さん。是の如く展転して地種の墨を尽くさんが如き、汝等が意に於いて云何。是の人の経る所の国土の、若しは点せると点せざるとを、尽く抹して塵と為して、一塵を一劫とせん。彼の仏の滅度より己来、復是の数に過ぎたること、無量無辺百千万億阿僧祇劫なり。我如来の知見力を以っての故に、彼の久遠を観ること猶今日の如し。」とあり、インドに生まれた釈迦牟尼仏は、このような膨大な過去にすでに大通智勝仏の十六番目の王子として法華経に出会っていた事を明かしているのです。
また法華経如来寿量品第十六には、「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり。譬えば、五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使人有って、抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて是の微塵を尽さんが如き、諸の善男子、意に於いて云何。是の諸の世界は、思惟し校計して、其の数を知ることを得べしや不や。弥勒菩薩等、倶に仏に白して言さく、世尊、是の諸の世界は、無量無辺にして、算数の知る所に非ず。亦心力の及ぶ所に非ず。一切の声聞、辟支仏、無漏智を以っても、思惟して其の限数を知ること能わじ。我等阿惟越致地に住すれども、是の事の中に於いては、亦達せざる所なり。世尊、是の如き諸の世界無量無辺なり。爾の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、諸の善男子、今当に分明に、汝等に宣語すべし。是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を尽く以って塵と為して、一塵を一劫とせん。我成仏してより已来、復此に過ぎたること百千万億那由佗阿僧祇劫なり。是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す。」とあるようにインドで悟りを開いたと誰しもが思っていた釈迦牟尼仏は、前述を否定して、上記のような膨大な過去において、すでに成仏していた事を明かしたのです。この二つの過去の内、前述を「三千塵点劫」と云い後述を「五百塵点劫」と云います。「三千塵点劫」では、大通智勝仏の元では、多くの他国の諸仏も娑婆世界の釈迦牟尼仏もまたその国土の多くの衆生もこの過去においては、横並びであった事を譬喩をもって教えていますが、この「五百塵点劫」においては、釈迦牟尼仏は、すでにそれよりも長大な過去において、すでに仏であった事を始めて明かしたのです。つまり本抄において、「教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は、我等が本師教主釈尊の所従なり、天月の万水に浮ぶ是なり。」と述べられ、爾前経の諸仏と久遠実成の教主釈尊との関係によって、法華経を諸経の「要」と位置づけられたのです。その事を考えれば、法華経迹門で説かれた多宝如来も「此の多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり」と述べられて、その多宝如来の左右の脇士である華厳経の毘廬遮那仏や大日経・金剛頂経の大日如来が久遠実成の教主釈尊に劣っている事は歴然なのです。さらには、三千塵点劫の過去において釈尊の法華経の講義を聞いたとされる有縁の「菩薩」がインドで成仏した釈迦牟尼仏の娑婆世界における弟子であるとの説を覆して、本抄において「此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来教主釈尊の愛子なり」と述べられ、娑婆世界のインドにおける衆生は、すべてが五百塵点劫より已来教主釈尊の愛弟子である事を示されたのです。このように久遠実成の釈尊とは、爾前、迹門の一切の仏が帰一する根源の仏であることを御教示されたのです。
次に法華経湧出品の上行菩薩を始めとする地涌の菩薩の出現によって久遠実成をほぼ顕した「略開近顕遠」と上述の法華経如来寿量品の五百塵点劫の釈迦牟尼仏の成道を顕した「広開近顕遠」について、
本抄で言及されています。日蓮大聖人はまず、法華経迹門の正宗分が誰のために説かれたのかという点について論じられて、正宗分を方便品第二から人記品第九まで順番通りに読めば在世の衆生の為に説かれている事になり、また、流通分を安楽行品第十四から勧持品第十三、提婆達多品第十二、宝搭品第十一、法師品第十と逆の順番で読めば、これらが釈迦滅後の衆生の為のものであることがわかるとされているのです。さらにその釈迦滅後の衆生の為の中でも末法の日蓮大聖人こそが正意であると明かされ、その理由として勧持品の二十行の偈の「三類の強敵」や法師品の「猶多怨嫉況滅度後」、宝搭品の「六難九易」「令法久住」、提婆達多品の「悪人成仏」「女人成仏」などが全てそれを示しているとされ、
また「逆次」に読むと云う意義は、「法華経本門」から「法華経迹門」を読む事でもあり、それは、本門の末法の弘通の為に要法の付嘱を受けた上行菩薩の立場から読めば、迹門流通分の滅後弘通の様相は、すべて上行菩薩の事であると御教示されているのです。
次に本抄では、広開近顕遠の意義について話が進む事になりますが、天台大師によれば、従地湧出品第十五の前半を本門の「序分」とし、この品で釈尊が「略開近顕遠」を説き、「動執生疑」までの後半の半品と、「広開近顕遠」が説かれる如来寿量品第十六の一品と分別功徳品第十七の前半までを本門の「正宗分」として、これを「一品二半」と呼ぶのですが、この法華取要抄においては、天台大師とは違う日蓮大聖人の立場が明かされています。つまり天台大師の場合は、湧出品の「略開近顕遠」は、一品二半に含まれるのですが、日蓮大聖人は、これを含めずに「動執生疑」以降を一品二半とされているのです。つまり、「略開近顕遠」は、これまで化導されてきた在世の衆生の為であり、「動執生疑」以降の一品二半が滅後の衆生の為であるとされたのです。 このように大聖人が天台大師とは異なる解釈を示されているのは、釈迦滅後の末法の日蓮大聖人こそが法華経で説かれるところの釈迦如来を含める諸仏の教主であり、三世諸仏の「要」である寿量文底の「久遠名字の妙法」を持〔たも〕たれている方であるからなのです。それ故に天台大師の「後の五百歳遠く妙道に沾わん」、伝教大師の「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り」の言葉によって、「末法流布の三大秘法」への言葉であるとされているのです。その「末法流布の三大秘法」を本抄では、「如来滅後二千余年に竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや」と尋ねられ、この質問に対して「本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。」と答えられ、ここに寿量品文底の妙法は、三大秘法である事が開顕されたのです。
それでは、なぜ、正法時代、像法時代にこれが明かされなかったのかとの質問に対して「正像に之を弘通せば小乗・権大乗・迹門の法門一時に滅尽すべきなり。」と答えられ、正法時代には、「広」、像法時代には「略」、そして末法の「三大秘法の大御本尊」を容易には信じない逆縁の衆生の為に「要」が
時に適う仏教である事を示されているのです。それ故に「末法に於ては大小・権実・顕密、共に教のみ有って得道無し。一閻浮提皆謗法と為り了んぬ。逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限る。例せば不軽品の如し。我が門弟は順縁、日本国は逆縁なり。」とあるのです。過去において、仏教にとっていかに時代が大事かを示される為に、それを間違えた玄奘三蔵に対し、広を捨てて略を好んだ羅什三蔵の正しさを挙げられた上で「日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり。」とありますが、これは、「広」「略」であっても、その意義は、すべて、日蓮大聖人御自身の「三大秘法の大御本尊」の事なのですが、末法に流布すべき上行菩薩に付嘱された法華経が要法であるからこそ、日蓮大聖人は、その上行菩薩の再誕として末法の衆生の機根み合わせて要法を選び取られたからなのです。それ故に「仏既に宝塔に入って二仏座を並べ、分身来集し地涌を召し出だし、肝要を取って末代に当て五字を授与せんこと当世異義有る可からず。」と述べられているのです。
最後に現在のすべての天変地夭が三大秘法の大御本尊が流布されるべき前兆であると示され「我が門弟之を見て法華経を信用せよ。」と述べられた上で、「是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か。」と三大秘法が一閻浮提に広宣流布される事を述べられて本抄を結ばれています。