日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


戒体即身成仏義 第二章 権大乗経の戒体


【第二に権大乗経の戒体とは、諸経に多しと云へども、】
第二の権大乗経の戒体は、多く経文に説かれていますが、

【梵網〔ぼんもう〕経・瓔珞〔ようらく〕経を以て本と為す。】
梵網〔ぼんもう〕経と瓔珞〔ようらく〕経を基本とするのです。

【梵網経は華厳経の結経〔けっきょう〕、】
梵網〔ぼんもう〕経は、華厳経の結経〔けっきょう〕であり、

【瓔珞経は方等部浄土の三部経等の結経なり。】
瓔珞〔ようらく〕経は、大乗経の浄土三部経の結経です。

【されば法華已前の戒体をば此の二経を以て知るべし。】
そういうことで、法華以前の戒体は、この二経によって知る事が出来るのです。

【梵網経の題目に云はく「梵網経盧舎那〔るしゃな〕仏説〔ぶっせつ〕】
梵網〔ぼんもう〕経の題目に「梵網経盧舎那〔るしゃな〕仏説〔ぶっせつ〕

【菩薩〔ぼさつ〕心地戒品〔しんじかいほん〕」文。】
菩薩〔ぼさつ〕心地戒品〔しんじかいほん〕」とあり、

【此の題目を以て人天二乗を嫌ひ、】
この題目によって菩薩界以外の人界、天界、声聞、縁覚を嫌って、

【仏因仏果の戒体を説かずと知るべきなり。】
菩薩以外の仏因、仏果の戒体を説いていないことを理解すべきです。

【されば天台の御釈〔おんしゃく〕に云はく「所被〔しょひ〕の人は】
そう言う事で、天台大師の解釈では、「正法によって仏果を得る人は、

【唯大士の為にして二乗の為にせず」と。】
ただ、大菩提心を起こした菩薩の為であり二乗の為に非ず」とあり、

【又云はく「既に別に部の外に菩薩戒経と称す」文。】
また「既に別に一部の外に菩薩戒経と称す」とあります。

【又云はく「三教の中に於ては】
また「頓教〔とんきょう〕、漸教〔ぜんきょう〕、円教の三教の中に於ては、

【即ち是頓〔とん〕教なり、仏性常住一乗の妙旨を明かす」文。】
即ち、これ頓教なり、仏性、常住、一乗の妙旨を明かす」とあります。

【三教と申すは頓教は華厳教、】
この中の三教を説明すると、一の頓教〔とんきょう〕は、華厳、

【漸〔ぜん〕教は阿含・方等・般若、】
二の漸教〔ぜんきょう〕は、阿含、方等、般若、

【円教は法華・涅槃なり。】
三の円教は、法華、涅槃のことなのです。

【一乗と申すは未開会〔みかいえ〕の一乗なり。】
また、この一乗と言うのは、未開会〔みかいえ〕の一乗なのです。

【法華の意を以て嫌はん時は、】
法華の円教の意義によって、これを破折する時は、無量義経説法品に、

【宣説〔せんぜつ〕菩薩〔ぼさつ〕歴劫〔りゃっこう〕修行〔しゅぎょう〕と】
菩薩の歴劫〔りゃっこう〕修行を宣説〔せんぜつ〕すとあり、

【下すべきなり。】
これは、漸教〔ぜんきょう〕のことであると指摘し、排除すべきなのです。

【又梵網経に云はく「一切発心の菩薩も亦誦〔じゅ〕すべし】
また、梵網〔ぼんもう〕経に「一切の初発心の菩薩も、また、誦〔じゅ〕すべし

【(十信之に当たる)】
(法華玄義四巻下の大乗菩薩の位、五十二位の一から十までの十信にあたる)、

【十発趣(十住)十長養(十行)】
五十二位の十一から二十の十発趣(十住)、二十一から三十の十長養(十行)、

【十金剛(十向)」と。】
五十二位の三十一から四十にあたる十金剛(十向)」と述べています。

【又云はく「十地仏性常住妙果」已上、四十一位又は五十二位。】
また、さらに「十地仏性常住妙果」とあります。これは、四十一位から五十二位。

【此の経と華厳経には四十一位又五十二位の論之有り。】
このように、この経文と華厳経には、四十一位から五十二位の論が有ります。

【此の経を権大乗と云ふ事は、十重禁戒〔じゅうじゅうきんかい〕・】
この経文を権大乗と言う事は、十重禁戒〔じゅうじゅうきんかい〕、

【四十八軽戒〔しじゅうはちきょうかい〕を】
四十八軽戒〔しじゅうはちきょうかい〕を、

【七衆同じく受くる故に】
成人と未成年の僧や尼僧、尼僧見習い、男性信者、女性信者は、同じく受ける故に

【小乗経には非ず。又疑ふべき処は】
大乗経であり、小乗経では、ないのです。また、疑うべきは、

【華厳梵網の二経には別円二教を説く。】
華厳、梵網〔ぼんもう〕の二経に別教、円教の二教を説いていることです。

【別教の方は法華に異なるべし、円教の方は同じかるべし。】
別教の方は、法華に異なり、円教の方は、法華と同じなのです。

【されば華厳経には「初発心の時便〔すなわ〕ち正覚を成ず」と。】
そうであれば、華厳経には「初発心の時、すなわち正覚を成ず」と説かれ、

【梵網経には「衆生は仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る。】
梵網〔ぼんもう〕経には「衆生は、仏戒を受ければ、即ち諸仏の位に入る。

【位〔くらい〕大覚に同じうし已〔お〕はらば、】
位〔くらい〕大覚に同じにして、おわれば、

【真に是〔これ〕諸仏の子〔みこ〕なり」文。】
真に、これ諸仏の御子〔みこ〕なり」と説かれているのです。

【答へて云はく、法華已前の円の戒体を受けて、】
それは、法華以前の円の戒体を受けて、

【其の上に生身〔しょうじん〕得忍〔とくにん〕を発得〔ほっとく〕するなり。】
その上で生身〔しょうじん〕得忍〔とくにん〕を体得するのです。

【或は法華已前の円の戒体は別教の摂属〔しょうぞく〕なり。】
あるいは、法華以前の円の戒体は、別教の中に取り込まれたものなのです。

【法華の戒体は受不受を云はず。】
法華の戒体は、受、不受を言いません。

【開会すれば戒体を発得する事復〔また〕是くの如し。】
開会すれば、戒体を体得する事は、また、このようであるのです。

【此の経の十重禁戒とは、】
この梵網〔ぼんもう〕経の十重禁戒〔じゅうじゅうきんかい〕とは、

【第一不殺生戒・第二不偸盗〔ちゅうとう〕戒・】
第一、不殺生戒、第二、不偸盗〔ちゅうとう〕戒、

【第三不邪淫戒・第四不妄語戒・第五不酤酒戒〔ふこしゅかい〕・】
第三、不邪淫戒、第四、不妄語戒、第五、不酤酒戒〔ふこしゅかい〕、

【第六不説四衆過罪戒〔ふせつししゅかざいかい〕・】
第六、不説四衆過罪戒〔ふせつししゅかざいかい〕、

【第七不自讃毀他戒〔ふじさんきたかい〕・第八不慳貪戒〔ふけんどんかい〕・】
第七、不自讃毀他戒〔ふじさんきたかい〕、第八、不慳貪戒〔ふけんどんかい〕、

【第九不瞋恚戒〔ふしんにかい〕・】
第九、不瞋恚戒〔ふしんにかい〕、

【第十不謗三宝戒〔ふほうさんぽうかい〕なり。】
第十、不謗三宝戒〔ふほうさんぽうかい〕なのです。

【又瓔珞経の戒は、】
また、瓔珞〔ようらく〕経の戒は、

【題目に菩薩〔ぼさつ〕瓔珞本業経〔ようらくほんごうきょう〕と云へり。】
題目に菩薩〔ぼさつ〕瓔珞本業経〔ようらくほんごうきょう〕とあります。

【此の経も梵網経の如く菩薩戒なり。】
この経文も、また梵網〔ぼんもう〕経と同じく菩薩戒なのです。

【此の経に五十二位を説く。】
この経文に五十二位が説かれています。

【経に云はく「若しは退き若しは進むとは十住以前の一切の凡夫、】
経文に「もしは、退き、もしは、進むとは、十住以前の一切の凡夫、

【若しは一劫二劫乃至十劫、十信を修行して】
もしは、一劫、二劫、または、十劫、十信を修行して

【十住に入ることを得」云云。】
十住に入ることを得〔え〕」とあります。

【又云はく「十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚」云云。】
また、「十住、十行、十廻向、十地、等覚、妙覚」とあります。

【此の経は一々の位に多劫を歴て仏果を成ず。】
この経文は、一々の位に多劫を経〔へ〕て仏果を成じます。

【菩薩は十信の位にして仏果の為に十無尽戒〔じゅうむじんかい〕を持つ、】
菩薩は、十信の位で、仏果を得る為に十無尽〔じゅうむじん〕戒を持〔たも〕ち、

【二乗と成らん為に非ず。故に住前十信の位にして退すれば悪道に堕つ。】
二乗に成る為ではなく、それ故に住前十信の位で退転すれば、悪道に堕ちるのです。

【又人天に生じて生を尽くせども戒体は失はず、】
また、人界、天界に生じて、一生が終わっても、その戒体は、消滅せず、

【無量劫を歴〔へ〕て仏果に至るまで、壊れずして金剛の如くにて有るなり。】
無量劫を経ても、仏果に至るまで壊れずにダイヤモンドのように存在するのです。

【此の経に云はく「凡聖の戒は尽〔ことごと〕く心を体となす。】
この経文に「凡聖の戒は、ことごとく心を体と為す。

【是の故に心亦尽〔つ〕くれば戒も亦尽く。】
この故に心、また、尽〔つ〕くれば、戒も、また尽く。

【菩薩戒は受法のみ有りて而も捨法無く、犯有れども失せず、】
菩薩戒は、受法のみ有りて、しかも捨法なく、犯、有れども失せず、

【未来際〔みらいさい〕を尽くす」と。】
未来際〔みらいさい〕を尽くす」と説かれています。

【又云はく「心無尽なる故に戒も亦無尽なり」文。】
また、「心、無尽なる故に、戒も、また無尽なり」とあります。

【又云はく「仏子無尽戒を受け已〔お〕はれば、】
また「仏子、無尽戒を受けおわれば、

【其の受くる者四魔を過度〔かど〕し三界の苦を越え、】
その受ける者、四魔を過度〔かど〕し、三界の苦を越え、

【生より生に至るまで此の戒を失はず、】
生より生に至るまで、この戒体を失わず、

【常に行人に随ひ乃至成仏す」文。】
常に行人に随い、成仏す」と説かれています。

【天台大師云はく「三蔵は寿を尽くし、菩薩は菩提に至る。】
天台大師は「三蔵は、長寿を得て、菩薩は、菩提に至る。

【爾の時に即ち廃す」文。】
その時に即ち廃す」と解釈されています。

【此の文は小乗戒は凡夫・聖人・二乗の戒共に尽形寿の戒、】
この文章は、小乗戒は、凡夫、聖人、二乗の戒、尽形寿〔じんぎょうじゅ〕戒、

【菩薩戒は凡夫より仏果に至るまで、その中間に無量無辺劫を歴れども、】
菩薩戒は、凡夫より仏果に至るまで、その中間に無量無辺劫を経〔へ〕れども、

【戒体は失せずと云ふ文なり。】
戒体は、消滅しないと言う文章なのです。

【されば此の戒は持って犯すれども、】
そうであれば、この戒体は、たとえ、授持したのちに、それを犯したとしても、

【猶二乗・外道に勝れたり。】
なお、二乗、外道に優れているのです。

【故に経に云はく「有〔たも〕ちて犯する者は、】
それ故に経文には「戒体を持〔たも〕って、それを破って犯す者は、

【無くして犯さゞるに勝れたり、】
戒体を持〔たも〕たず、それを破らない者よりも優れており、

【有つは犯するも菩薩と名づけ、】
戒体を持〔たも〕つ者は、それを、たとえ破って犯しても菩薩と名づけ、

【無きは犯さゞるも】
戒体を持〔たも〕たない者は、

【外道と名づく」文。】
犯してなくても外道と名づける」と説かれているのです。

【此の文の意は、外道は菩薩戒を持たざれば】
この文章の意味は、外道は、菩薩戒を持〔たも〕たないので、

【戒を犯さゞれども菩薩とは名づけず、】
戒体を破って犯さないけれども、菩薩とは、名づけず、

【菩薩は戒を破犯すれども仏果の種子は破失せざるなり。】
菩薩は、戒体を破って犯すけれども、仏果の種子は、消滅しないのです。

【此の梵網・瓔珞の二経は心を戒体と為す様なれども、】
この梵網、瓔珞の二経は、心を戒体と為す様であるけれども、

【実には色処を戒体と為すなり。】
実際には、色処を戒体と為すのです。

【小乗には身口を本体と為し、大乗には心を本体と為すと申すは】
小乗では、身口を戒の本体とし、大乗では、心を戒の本体とすると言うのは、

【一往の事なり、実には身口の表を以て戒体を発す。】
一往の事の義なのです。実際には、身口の表を以て、戒体を起こすのです。

【戒体は色法なり、故に大論に云はく「戒は是〔これ〕色法なり」文。】
戒体は、色法であり、それ故に大論には「戒は、これ色法なり」とあるのです。

【故に天台の梵網経疏〔しょ〕に「正しく戒体を出だす。】
それ故に天台大師の梵網経疏〔しょ〕に「正しく戒体を出す。

【第二に体を出だすとは、初めに戒体とは起こさずんば而已〔やみ〕なん。】
第二に体を出すとは、初めに戒体とは、起こさなければ、而已〔やみ〕なん。

【起こさば即ち性〔しょう〕なる無作〔むさ〕の仮色〔けしき〕なり」文。】
起こせば、即ち、性〔しょう〕なる無作の仮色〔けしき〕なり」とあります。

【「起こさずんば而已なん」とは、】
「起こさなければ、而已〔やみ〕なん」とは、

【表なければ戒体発せずと云ふなり。】
表がなければ、戒体が起こらないと言う意味です。

【「起こさば即ち性なる無作の仮色なり」とは、】
「起こせば、即ち、性〔しょう〕なる無作〔むさ〕の仮色〔けしき〕なり」とは、

【戒体は色法と云ふ文なり。】
戒体は、色法と言う意味です。

【近来〔きんらい〕唐土〔とうど〕の人師〔にんし〕、】
近ごろの中国、唐土の人師は、

【梵網・法華の戒体の不同を弁〔わきま〕へず、】
梵網〔ぼんもう〕と法華の戒体の違いを理解せず、

【雑乱〔ぞうらん〕して天台の戒体を談じ失へり。】
それを混同して理解し、天台大師の戒体を議論して、その意義を失ったのです。

【瓔珞経の十無尽戒とは、第一不殺生戒・第二不偸盗戒・第三不邪淫戒・】
瓔珞〔ようらく〕経の十無尽戒とは、第一不殺生戒、第二不偸盗戒、第三不邪淫戒、

【第四不妄語戒・第五不酤酒戒・第六不説四衆過罪戒・第七不慳貪戒・】
第四不妄語戒、第五不酤酒戒、第六不説四衆過罪戒、第七不慳貪戒、

【第八不瞋恚戒・第九不自讃毀他〔きた〕戒・第十不謗三宝戒なり。】
第八不瞋恚戒、第九不自讃毀他〔きた〕戒、第十不謗三宝戒です。

【梵網・瓔珞の十重禁戒・】
梵網〔ぼんもう〕、瓔珞〔ようらく〕の十重禁戒〔じゅうじゅうきんかい〕、

【十無尽戒も初めに五戒を連ねたり。大小乗の戒は五戒を本と為す。】
十無尽戒も最初に五戒を挙げており、大小乗の戒は、五戒を基本とするのです。

【故に涅槃経〔ねはんぎょう〕には具足根本業清浄戒とは】
それ故に涅槃経〔ねはんぎょう〕には、具足根本業清浄戒とあり、

【是五戒の名なり。】
これは、五戒の別名なのです。

【一切の戒を持つとも、五戒無ければ諸戒具足すること無し、】
一切の戒を持つとも、五戒が無ければ、諸戒を具足することはないのです。

【五戒を持てば諸戒を持たざれども、】
五戒を持〔たも〕てば、諸戒を持〔たも〕たなくても、

【諸戒を持つに為りぬ、】
諸戒を持〔たも〕つことになるのです。

【諸戒を持つとも五戒を持たざれば諸戒も持たれず、】
諸戒を持〔たも〕っても、五戒を持〔たも〕たなければ、諸戒も持〔たも〕たれず、

【故に五戒を具足根本業清浄戒と云ふ。】
それ故に、五戒を具足根本業清浄戒と言うのです。

【されば天台の釈に云はく「五戒は既に是菩薩戒の根本なり」と。】
されば天台大師の解釈に「五戒は、まさに、これ菩薩戒の根本なり」とあるのです。

【諸戒の模様を知らんと思はゞ、能く能く之を習ふべし。】
諸戒を知ろうと思えば、よくよく、これを理解すべきです。


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