御書研鑚の集い 御書研鑽資料
戒体即身成仏義 第四章 法華の戒体
【法華経の悟りと申すは易行の中の易行なり。】
法華経の悟りと言うものは、簡単な修行の中でも、最も簡単な修行なのです。
【只五戒の身を押へて仏因と云ふ事なり。】
ただ、五戒の身を持〔たも〕つことをもって仏因とするのです。
【五戒の我が体は即身成仏とも云はるゝなり。】
また、その五戒の我が身体をもって即身成仏とも言うのです。
【小乗の意、権大乗のおきて〔掟〕は、表にて無表を発す。】
小乗経の儀式や権大乗経の禁止事項は、表にて無表を起こすのに対して、
【此の法華経は三世の戒体なり。】
この法華経は、過去、現在、未来の三世の現実の世界の戒体であるのです。
【已酬〔いしゅう〕・未酬〔みしゅう〕倶に仏因と説いて、】
この戒体は、戒を守っても、また、戒を破っても、ともに仏因と説いており、
【三悪道の衆生も戒体を発得す。】
たとえ三悪道の衆生であっても、戒体を体得することが出来るのです。
【竜女が三十二相の戒体を以て知んぬべし。】
法華経提婆達多品の竜女の三十二相の戒体によって、それを理解してください。
【況んや人・天・二乗・菩薩をや。】
ましてや、人、天、二乗、菩薩においては、この戒体で即身成仏が可能なのです。
【法華経一部に列なれる九界の衆生は、皆即身成仏にてこれ有りしなり。】
法華経一部に列なる九界の衆生は、皆、この戒体によって即身成仏したのです。
【止観に云はく「中道の戒は戒として備はらざることなし、是を具足と名づく。】
摩訶止観に「中道の戒は、戒として具わざることなし、これを具足と名づく。
【中道戒を持つなり」云云。中道の戒とは法華の戒体なり。】
中道戒を持つなり」とあります。中道の戒とは、法華の戒体のことなのです。
【無戒不備とは、律儀〔りつぎ〕・定〔じょう〕・道〔どう〕の戒なり。】
無戒不備とは、律儀〔りつぎ〕、定〔じょう〕、道〔どう〕の戒のことです。
【此の五戒を十界具足の五戒と知る時、我が身に十界を具足す。】
この五戒を十界具足の五戒と知る時、我が身に十界が具〔そな〕わるのです。
【我が身に十界を具すと意得る時「欲令衆生仏之知見」と説いて、】
我が身に十界が具わると理解する時に「欲令衆生仏之知見」と説いて、
【自身に一分の行無くして即身成仏するなり。】
自身に一分の行が無くても、そのままで即身成仏するのです。
【尽形寿の五戒の身を改めずして仏身となる時は、】
こうして寿命が尽き、身が滅びても、五戒の身を改めずに仏身となり、その時には、
【依報の国土も又押へて寂光土なり。】
依報の国土も、また、そのままで寂光土となるのです。
【妙楽の釈に云はく「豈伽耶〔がや〕を離れて別に常寂を求めんや、】
妙楽大師の解釈に「釈迦が成道した伽耶〔がや〕を離れて別に常寂を求めようか、
【寂光の外に別に娑婆あるに非ず」文。】
寂光の外に、別に娑婆あるに非ず」とあります。
【法華已前の経に説ける十方の浄穢土は、只仮設の事に成りぬ。】
法華以前の経文に説いた十方の浄土、穢土は、ただの仮設のことがらなのです。
【又妙楽大師の釈に云はく】
また、妙楽大師の解釈に
【「国土浄穢の差品〔しゃほん〕を見ず」云云。】
「国土、浄穢〔じょうえ〕の差品〔しゃほん〕を見ず」とあります。
【又云はく「衆生自ら仏の依正の中に於て殊見〔しゅけん〕を生じて苦楽昇沈す。】
また「衆生自ら仏の依正の中に於て、殊見〔しゅけん〕を生じて苦楽、昇沈す。
【浄穢宛然〔おんねん〕として成壊斯〔ここ〕に在り」文。】
浄穢〔じょうえ〕、宛然〔おんねん〕として成壊、ここに在り」とあります。
【法華の覚りを得る時、我等が色心生滅の身即不生不滅なり。】
法華の覚りを得る時、我等の身や心は、生滅する身のままで不生不滅なのです。
【国土も爾〔しか〕の如し。】
自分の周りの国土も、また同じ不生不滅なのです。
【此の国土の牛馬六畜も皆仏なり、草木日月も皆聖衆なり。】
この国土の牛馬などの家畜も、皆、仏であり、草木、日月も、皆、聖衆なのです。
【経に云はく「是の法は法位に住して世間の相常住なり」文。】
経文に「この法は、法位に住して世間の相、常住なり」とあります。
【此の経を意得る者は持戒・破戒・無戒、】
この経文を心得る者は、持戒の者、破戒の者、無戒の者、
【皆開会の戒体を発得〔ほっとく〕するなり。経に云はく「是を戒を持ち、】
皆、開会の戒体を体得するのです。経文に「これを戒を持〔たも〕ち、
【頭陀を行ずる者と名づく」云云。】
衣食住を節制する十二項目の頭陀の修行をする者と名づく」とあります。
【法華経の悟りと申すは、】
このように、法華経の悟りと言うのは、
【此の国土と我等が身と釈迦如来の御〔おん〕舎利〔しゃり〕と一つと知るなり。】
この国土と我等が身と釈迦如来の舎利〔しゃり〕が一つであると知ることなのです。
【経に云はく「三千大千世界を観るに乃至芥子の如き許〔ばか〕りも、】
経文に「三千大千世界を観るに、乃至、芥子の如き許〔ばか〕りも、
【これ菩薩にして身命を捨てたまふ処に非ざること有ること無し」文。】
これ菩薩にして、身命を捨てたまう処に非ざること、有ること無し」とあります。
【此の三千大千世界は、】
この三千大千世界は、菩薩が成仏する為に身命を捨てる所であり、
【皆釈迦如来の菩薩にておはしまし候ひける時の御舎利なり。】
皆、釈迦如来が過去に菩薩であった時の舎利であるのです。
【我等も此の世界の五味をなめて設けたる身なれば、】
我等も、この世界の火、水、木、金、土の五味が寄り合って出来た身であれば、
【又我等も釈迦菩薩の舎利なり。】
また、我等も釈迦菩薩の舎利なのです。
【故に経に云はく「今此の三界は皆是我が有なり。】
それ故に法華経の譬喩品に「今、この三界は、皆、これ我が有なり。
【其の中の衆生は悉く是吾が子なり」等云云。】
その中の衆生は、ことごとく、これ我が子なり」などとあります。
【法華経を知ると申すは、此の文を知るべきなり。】
法華経を知るには、この文章を知るべきなのです。
【「我が有」と申す有は、其れ真言宗に非ざれば知り難し。】
「我が有」の中の有とは、真言宗の疑義を理解しなければ、知り難いのです。
【但し天台は真性軌〔しんしょうき〕と釈し給へり。】
ただし、天台大師は、それを法華玄義五巻下で三軌の中の真性軌とされています。
【舎利と申すは天竺の語、此の土には身と云ふ。】
舎利と言うのは、インドの言葉であり、我が国では、身と言います。
【我等衆生も則ち釈迦如来の御舎利なり。】
つまりは、我々、衆生も、釈迦如来の身と同じなのです。
【されば多宝の塔と申すは我等が身、】
そうであれば、多宝の塔と言うのは、我等が身であり、
【二仏と申すは自身の法身なり。】
二仏と言うのは、自身の法身、法華玄義六巻上にある毘盧遮那仏の意味なのです。
【真実には人天の善根を】
真実には、人天の善根を三軌の中の真性軌とし、戒の法体として、
【仏因と申すは、人天の身が釈迦如来の舎利なるが故なり。】
そのことを仏因であると言うのは、人天の身が釈迦如来の舎利である故なのです。
【法華経を是の体〔てい〕に意得〔う〕る則〔とき〕んば真言の初門なり。】
法華経を、この法体と理解するとき、それが真言の基礎となります。
【此の国土・我等が身を釈迦菩薩成仏の時、其の菩薩の身を替へずして】
この国土、我々の身を、釈迦菩薩が成仏の時、その菩薩の身を変えずして
【成仏し給へば、此の国土・我等が身を捨てずして、】
成仏するならば、この国土、我等が身を捨てずして、
【寂光浄土・毘盧遮那仏にて有るなり。】
この国土は、寂光浄土であり、我が身は、法身の毘盧遮那仏なのです。
【十界具足の釈迦如来の御舎利と知るべし。】
十界具足(互具)の釈迦如来の舎利であると知るべきです。
【此をこそ大日経の入〔にゅう〕漫荼羅〔まんだら〕具縁〔ぐえん〕品には】
これが、大日経の入〔にゅう〕漫荼羅〔まんだら〕具縁〔ぐえん〕品に、
【慥〔たし〕かに説かれたるなり。】
たしかに説かれているのです。
【真言の戒体は人之〔これ〕を見て】
真言の戒体は、真言宗の人々が、この大日経の文章を見て、
【師に依らずして相承を失ふべし。】
正しい師に依らなかったので、法体の血脈相承を失ってしまったのです。
【故に別に記して一具〔いちぐ〕に載せず。】
それ故に、この法体を別に記して、顕教には、一緒に載せていないのです。
【但標章〔ひょうしょう〕に載する事は】
ただ、密教の標章〔ひょうしょう〕である曼荼羅に載せている事は、
【人をして顕教より】
人々に、顕教の経文の法華経より
【密教の勝るゝことを知らしめんが為なり。】
密教である法華の戒体が優れていることを知らしめんが為なのです。