日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


戒体即身成仏義 第三章 法華開会の戒体


【第三に法華開会の戒体とは、仏因仏果の戒体なり。】
第三に法華開会〔かいえ〕の戒体とは、仏因仏果の戒体なのです。

【唐土の天台宗の末学、戒体を論ずるに、或は理心〔りしん〕を戒体と云ひ、】
中国の天台宗の未熟な学者は、戒体を論じても、心理学を戒体と言ったり、

【或は色法を戒体と論ずれども、】
また、あるいは、色法を戒体と論じていますが、

【未だ梵網・法華の戒体の差別に委〔くわ〕しからず。】
未だ菩薩の戒を説く梵網〔ぼんもう〕と法華の戒体の違いが理解できないのです。

【法華経一部八巻二十八品・六万九千三百八十四字、一々の文字、】
法華経一部、八巻、二十八品、六万九千三百八十四文字のひとつひとつが、

【開会の法門実相常住の無作の妙色に非ずといふこと莫〔な〕し。】
開会の法門、実相、常住の無作の妙が色に非ずと言うことはないのです。

【此の法華経は三乗・五乗・七方便・】
この法華経は、三乗、五乗、七方便、

【九法界の衆生を皆毘盧遮那〔びるしゃな〕の仏因と開会す。】
九法界の衆生を、すべて毘盧遮那〔びるしゃな〕の仏因と開会するのです。

【三乗は声聞・縁覚・菩薩、五乗は三乗に人天を加へたり。】
三乗は、声聞、縁覚、菩薩、五乗は、三乗に人界と天界を加えたものです。

【七方便は蔵通の二乗四人、】
七方便とは、法華経薬草喩品にある中草と大草である蔵教、通教の二乗、四人と

【三蔵教の菩薩・通教の菩薩・別教の菩薩三人、已上七人。】
三蔵教の菩薩、通教の菩薩、別教の菩薩、三人の以上の七人のことです。

【九法界は始め地獄より終はり菩薩界に至るまで、】
九法界は、始め、地獄より、終わり菩薩界に至るまでであり、

【此等の衆生の身を押さへて仏因と開会するなり。】
これらの衆生の身体を仏になる因と開会するのです。

【其の故は、此等の衆生の身は皆戒体なり。】
その故は、これらの衆生の身は、皆、戒体なのです。

【但し疑はしき事は、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四道は】
ただ、疑わしき事は、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪道は、

【戒を破りたる身なり、全く戒体無し。】
戒を破りたる身であり、全く戒体が無いのです。

【人・天・声聞・縁覚の身は尽形寿の戒に酬〔むく〕いたり。】
人、天、声聞、縁覚の身は、寿命を終えると失われる小乗の戒に報いており、

【既に一業引一生の戒体、】
これは、一生の間で罪をつぐなえるという俱舎論17巻の戒体であり、

【因は是善悪、果は是無記の身なり。】
その因となるものは、善悪であり、その果は、善でも悪でもない身なのです。

【其の因既に去りぬ。】
その因は、すでに無くなっており、

【何なる善根か有りて法華の戒体と成るべきや。】
いかなる善根が法華の戒体と成るべきなのでしょうか。

【菩薩は又無量劫を歴て成仏すべしと誓願して発得せし戒体なり。】
菩薩は、また無量劫を経て成仏すると誓願して、獲得した戒体なのです。

【「須臾〔しゅゆ〕】
法華経法師品の「須臾〔しゅゆ〕も之を聞けば

【聞之即得究竟〔もんしそくとくくきょう〕」の戒体と】
即ち阿耨多羅三藐三菩提を究竟する事を得ん」と説かれている戒体とは、

【成るべからず。此等の大なる疑ひ有るなり。】
成っていないのです。このような重大な疑問が残るのです。

【然るを法華経の意を以て之を知れば、】
しかしながら、法華経の意義を以って、これを知れば、

【十界〔じっかい〕共に五戒なり。】
十界〔じっかい〕共に五戒なのです。

【其の故は、五戒破れたるを四悪趣と云ふ、五戒失せたるに非ず。】
その故は、五戒が破れることを四悪趣と言い、五戒が消滅したわけではないのです。

【譬へば家を造ってこぼち〔毀〕置きぬれば材木と云ふ物なり、】
譬へば、家を造って解体すれば、ただの材木となり、

【数の失せたるに非ず、】
その木材の数が失われたわけでは、ありませんが、

【然れども人の住むべき様無し、】
しかし、その木材に人が住むことは、ありません。

【還って家と成れば又人住むべし。】
しかし、また、それが組み合わされて家に成れば、また人が住むのです。

【されば四悪趣も五戒の形は失せず。】
そうであれば、四悪趣も五戒の形は、失われず、

【魚鳥も頭有り、四支有るなり。】
魚、鳥も頭が有り、四つの足も有るのです。

【魚のひれ〔鰭〕四つ有り、即ち四支なり。】
魚のひれは、四つあり、即ち、四つの足です。

【鳥は羽と足とあり、是も四支なり。】
鳥は、羽と足とあり、これも四つの足なのです。

【牛馬も四足あり、二つの前の足は即ち手なり。】
牛馬も四つの足があり、二つの前の足は、即ち、手なのです。

【破戒の故に四足と成りてすぐにたゝざるなり。】
破戒の故に四つの足と成りて、すぐには、立てないのです。

【足の多くある者も、四足の多く成りたるにて有るなり。】
他に足が多くあるものも、結局は、戒を破って四足の多く成ったものなのです。

【蠕蛇〔やまかがち〕の足なく腹ばひ行くも、】
ミミズや蛇が足がなく、腹ばいで蠢〔うごめ〕くのも、

【四足にて歩むべきことはりなれども、】
四足で歩むべき理〔ことはり〕では、あっても、

【破戒の故に足無くして歩むにて有るなり。】
破戒の故に、足無くして歩むことになったのです。

【畜生道此くの如し。餓鬼道は多くは人に似たり。】
畜生道は、このようなものなのです。餓鬼道においては、多くは、人に似ています。

【地獄は本の人身なり。】
また地獄は、元のままの人身なのです。

【苦を重く受けん為に本身を失はずして化生するなり。】
苦悩を重く受ける為に、元の身体を失わずに生きているのです。

【大覚世尊も五戒を持ち給へる故に浄飯王宮に生まれ給へり。】
大覚世尊も五戒を持〔たも〕っている故に、浄飯王宮に生まれたのです。

【諸の法身の大士、善財〔ぜんざい〕童子〔どうじ〕・文殊師利・舎利弗・】
諸の法身の大士、善財〔ぜんざい〕童子〔どうじ〕、文殊師利、舎利弗、

【目連も皆天竺の婆羅門の家に生まれて】
目連も、皆、天竺の婆羅門〔ばらもん〕の家に生まれて、

【仏の化儀を助けんとて、皆人の形にて御座〔おわ〕しましき。】
仏の化儀〔けぎ〕を助けようとして、皆、人の姿のままなのです。

【梵天・帝釈の天衆たるも、竜神・修羅の悪道の身も、】
梵天、帝釈の天の衆生も、竜神、修羅の悪道の身も、

【法華経の座にしては皆人身たりき。】
法華経の座にいる者は、皆、人の身なのです。

【此等は十界に亘りて五戒が有りければこそ、人身にては有らめ。】
これらは、十界に亘〔わた〕って、五戒が有るからこそ、人の身なのです。

【諸経の座にては四悪趣の衆生、】
諸経の座においては、四悪趣の衆生、

【仏の御前にて人身たりし事は不審なりし事なり。】
仏の前では、人の身である事は、実におかしな事なのです。

【舎利弗を始めとして千二百の阿羅漢・梵王・帝釈・阿闍世王等の諸王、】
舎利弗を始めとして千二百の阿羅漢、梵天王、帝釈天、阿闍世王などの諸王、

【韋提希〔いだいけ〕等の諸の女人、皆「衆生をして仏知見を開かしめ】
韋提希〔いだいけ〕などの多くの女性が、皆、「衆生をして、仏知見を開かしめ

【清浄〔しょうじょう〕なることを得せしめんと欲す」と開会せし事は、】
清浄なることを得せしめんと欲す」と経文に説かれて、開会した事で、

【五戒を以て得たる六根・六境・六識を改めずして、押さへて】
五戒によって得たところの六根、六境、六識を改めることなく、そのままで、

【仏因と開会するなり。竜女が即身成仏は】
仏因と開会〔かいえ〕するのです。竜女の即身成仏は、

【畜生蛇道の身を改めずして、三十二相の即身成仏なり。】
畜生である蛇の身を変えずに素晴らしい仏の身となる即身成仏のことなのです。

【畜生の破戒にて表色なき身も、三十二相の無表色の戒体を発得するは、】
畜生の破戒で表色がない身も、三十二相の無表色の戒体を得るのは、

【三悪道の身即ち五戒たる故なり。】
三悪道の身が、そのまま五戒である故なのです。

【されば妙楽大師の釈には五戒を十界に亘〔わた〕し給へり】
そうであればこそ、妙楽大師の解釈書で、五戒を十界全体に及ばせ、

【「別して論ずれば、然りと雖も通〔つう〕の意知るべし。】
「別して論ずれば、しかりといえども通〔つう〕の意、知るべし。

【余色〔よしき〕・余塵〔よじん〕・余界〔よかい〕も亦爾り。】
余色〔よしき〕、余塵〔よじん〕、余界〔よかい〕も、また、しかり。

【是の故に須〔すべから〕く仁譲〔にんじょう〕等の五を明かすべし」云云。】
この故にすべからく慈悲や謙譲などの五を明かすべし」とあります。

【余色とは九界〔くかい〕の身、】
余色とは、九界〔くかい〕の身、

【余塵とは九界の依報〔えほう〕の国土、余界とは九界なり。】
余塵とは、九界の依報〔えほう〕の国土、余界とは九界なのです。

【此の文は人間界を本として、五常・五戒を余界へ亘すなり。】
この文章は、人間界を元として、五常、五戒を余界へ及ぼしているのです。

【但し持たざる五戒は、如何に三悪道には有りけるぞと云ふに、】
ただし、受持していないのに、なぜ五戒が三悪道の者にあるかと言うと、

【三悪道の衆生も人間に生まれたりし時、】
三悪道の衆生も、人間に生まれた時、

【五戒を持ちて其の五戒の報を得ずして】
五戒を持〔たも〕って、その五戒の報〔むくい〕を得ずして、

【三途〔さんず〕に堕ちたる衆生もあり。】
地獄、餓鬼、畜生に堕ちる衆生もいるからなのです。

【此の善根をば未酬〔みしゅう〕の善根と云ふ。】
この善根を、未酬〔みしゅう〕の善根と言います。

【又既に人間に生まれたる事もあり、是をば已酬〔いしゅう〕の善根と云ふ。】
また、すでに人間に生まれる事もあり、これを已酬〔いしゅう〕の善根と言います。

【又無始の色心有り。此等の善根を押さへて】
また、無始の色心も有ります。これらの善根を、

【正〔しょう〕・了〔りょう〕・縁〔えん〕の】
正因仏性(中諦)、了因仏性(空諦)、縁因仏性(仮諦)の

【三仏性〔さんぶっしょう〕と開会する時、】
三因仏性〔さんぶっしょう〕(三諦)と開会〔かいえ〕する時、

【我が身に善根有りと思はざるに、此の身を押さへて】
我が身に善根有りと思いもよらずに、この身を、

【「欲令〔よくりょう〕衆生〔しゅじょう〕開〔かい〕仏知見〔ぶっちけん〕】
「欲令〔よくりょう〕衆生〔しゅじょう〕開〔かい〕仏知見〔ぶっちけん〕】

【使得〔しとく〕清浄故〔しょうじょうこ〕」と説かるゝは、】
使得〔しとく〕清浄故〔しょうじょうこ〕」と説かれているのは、

【人天の果報に住する五戒十善も、権乗〔ごんじょう〕に趣ける二乗も菩薩も】
人天の果報に住する五戒十善も、権乗〔ごんじょう〕に趣ける二乗も菩薩も

【「皆已に仏道を成ず、汝等行ぜし所は是菩薩道」と】
「皆、すでに仏道を成ず、汝ら行じる所は、これ菩薩道」と

【説かれたるなり。】
説かれているからなのです。

【されば天台の御釈に云はく「昔は方便未だ開せざれば果報に住すと謂へり。】
されば天台大師の解釈に「昔は、方便未だ開せざれば、果報に住すと言えり。

【今方便の行、即ち是〔これ〕縁因仏性と開するに、】
今、方便の行、即ちこれ縁因仏性と開するに、

【能く菩提に趣かしむ」云云。妙楽大師は「権乗の道に趣向せし者も、】
よく菩提に趣かしむ」と言われています。妙楽大師は「権乗の道に趣向せし者も、

【一実の観・一大の弘願を以て之を体し之を導く」云云。】
一実の観、一大の弘願を以って、これを体し、これを導く」と言われています。。

【是くの如く意得る時、九界の衆生の身を仏因と習へば、五戒即仏因なり。】
是くの如く意得る時、九界の衆生の身を仏因と習へば、五戒は、即、仏因なのです。

【法華已前の経には此くの如き説なき故に、】
法華以前の経文には、このような説がないので、

【凡夫・聖人の得道は名のみ有りて実無きなり。されば此の経に云はく】
凡夫、聖人の得道は、名前のみで実態は、なく、そうであれば、この経文には

【「但虚妄〔こもう〕を離るゝを名づけて解脱〔げだつ〕と為す。】
「ただ虚妄〔こもう〕を離れることを名づけて、解脱〔げだつ〕となす。

【その実は未だ一切の解脱を得ず」文。】
その実際は、未〔いま〕だ一切の解脱〔げだつ〕を得ず」とあるのです。

【愚かなる学者は、法華已前には二乗計り色心を滅する故に得道を成ぜず、】
愚かな学者は、法華以前には、二乗だけが、色心を滅するので得道せず、

【菩薩・凡夫は得道を成ずべしと思へり。】
その他の菩薩、凡夫は、得道すると思っているのです。

【爾らざる事なり、十界互具する故に妙法なり、】
しかし、そうではなく、十界互具する故に妙法であり、

【さるにては十界に亘って二乗・菩薩・凡夫を具足せり。】
そうであれば、十界すべてにおいて、二乗、菩薩、凡夫を具えているのです。

【故に二乗に成仏せずと云はゞ、凡夫・菩薩も成仏せずと云ふ事なり。】
それ故に二乗が成仏しないとすれば、凡夫、菩薩も成仏しない事になります。

【法華の意は、一界の成仏は十界の成仏なり。】
法華の意〔こころ〕は、一界の成仏は、十界全体の成仏となるのです。

【法華已前には仏も実仏に非ず、九界を隔てし仏なる故に。】
法華以前には、仏も九界を隔てた仏であるので、現実の仏ではなく、

【何に況んや九界をや。然るに法華の意は、】
ましてや九界においては、そうであるのです。然るに法華の意〔こころ〕は、

【凡夫も実には仏なり、十界互具の凡夫なる故に。】
凡夫も十界互具の凡夫である故に実際には、仏であり、

【何に況んや仏界をや。】
ましてや仏界においては、そうなのです。

【されば天台大師は一代聖教を十五遍御覧有りき。】
そうであればこそ、天台大師は、一代聖教を十五回も、そのことを確認したのです。

【陳・隋二代の国師として造り給ひし文は、天竺〔てんじく〕・唐土・日本に、】
陳、隋の二代の国師として著作した、その文章は、インド、中国、日本に、

【玄義〔げんぎ〕・文句〔もんぐ〕・止観〔しかん〕の三十巻はもてなされたり。】
玄義〔げんぎ〕、文句〔もんぐ〕、止観〔しかん〕の三十巻としてもたらされ、

【御師は六根清浄の人南岳大師なり。】
その天台大師の師は、六根清浄の人である南岳大師です。

【此の人の御釈の意一偏〔ひとえ〕に此にあり。】
この人の解釈書の本意は、ひとえに、ここにあるのです。

【此の人を人師と申してさ〔下〕ぐるならば、経文分明なり。】
この人の言葉を人師と思って、軽く扱うのは、経文に明確に違反しています。

【無量義経に云はく「四十余年未だ真実を顕はさず」云云。】
無量義経に「四十余年、未だ真実を顕はさず」と説かれており、

【法華已前は虚妄方便の説なり。】
法華以前は、虚構、妄言の方便の教えなのです。

【法華已前にして一人も成仏し、浄土にも往生してあらば、】
法華以前にして、一人であっても成仏し、浄土に往生しているのであれば、

【真実の説にてこそあらめ。又云はく「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぎて、】
真実の説なのですが、「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぎて、

【終に無上菩提を成ずることを得ず」文。】
ついに無上菩提を成ずることを得ず」と説かれているのです。

【法華経には「正直に方便を捨てゝ但無上道を説く」云云。】
法華経には「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説く」とあり、

【法華已前の経は不正直の経、方便の経。】
このように法華以前の経文は、間違った経文であり、方便の教えなのです。

【法華経は正直の経、真実の経なり。】
法華経は、正直の経文、真実の教えなのです。

【法華已前に衆生の得道があらばこそ、行じ易き観経に付きて往生し、】
法華以前で衆生の得道があればこそ、修行しやすい観無量寿経によって往生し、

【大事なる法華経は行じ難ければ行ぜじと云はめ。】
素晴らしい法華経は、修行し難〔がた〕いので行じないと言うのですが、

【但釈迦如来の御教の様に意得べし、】
ただ、釈迦如来の教えの通りに考えるべきです。

【観経等は此の法華経へ教へ入れん方便の経なり。】
観無量寿経などの諸経は、ただ、この法華経へ導く為の方便の経文なのです。

【浄土に往生して成仏を知るべしと説くは、】
浄土に生まれ変わり、成仏をしなさいと説くのは、

【権教の配立〔はいりゅう〕、観経の権説なり。】
権教の範疇〔はんちゅう〕であり、観無量寿経の権〔かり〕の教えなのです。

【真実には此の土にて我が身を仏因と知って往生すべきなり。】
真実には、この娑婆世界において、我が身を仏因と知って往生すべきなのです。

【此の道理を知らずして、浄土宗の日本の学者、】
この道理を知らずに浄土宗の日本の学者が、

【我が色心より外の仏国土を求めさする事は、】
我が色心より外の仏国土を求めさせる事は、

【小乗経にもはづれ大乗にも似ず。】
小乗経の教えにも外れ、ましてや大乗経でもないのです。

【師は魔師、弟子は魔民、】
師は、魔師、弟子は、魔民であり、

【一切衆生の其の教を信ずるは三途の主なり。】
一切衆生が、この教えを信じるのは、三悪道の主だからなのです。

【法華経は理深解微〔りじんげみ〕にして我が機に非ず、】
法華経は、理論が深く解り難いので自分の理解力に合わず、

【毀〔そし〕らばこそ罪にてはあらめと云ふ。】
謗〔そし〕れば、罪になるが、謗っては、いないとうそぶいているのです。

【是は毀るよりも法華経を失ふにて、】
これは、謗〔そし〕るよりも、罪が深く、法華経を失って、

【一人も成仏すまじき様にて有るなり。】
そのことによって一人として、成仏できないようになるのです。

【設ひ毀るとも、人に此の経を教へ知らせて、】
たとえ謗〔そし〕るとも、人に、この法華経を教え、

【此の経をもてなさば、如何〔なに〕かは苦しかるべき。】
この経を持〔たも〕たせれば、どうして問題になるでしょうか。

【毀らずして此の経を行ずる事を止めんこそ、】
謗〔そし〕らずに、この法華経を行じる事を止めさせてこそ、

【弥〔いよいよ〕怖ろしき事にては候へ。此を経文に説かれたり。】
ほんとうに怖ろしい事になるのではないでしょうか。この事は、経文に

【「若し人信ぜずして此の経を毀謗〔きぼう〕せば、】
「もし、人、信ぜずして、この経を毀謗〔きぼう〕せば、

【則ち一切世間の仏種を断ぜん。】
すなわち一切世間の仏種を断じる。

【或は復顰蹙〔ひんじゅく〕して疑惑を懐かん、】
あるいは、また顰蹙〔ひんじゅく〕して疑惑を懐く、

【其の人命終して阿鼻獄に入らん。】
その人、命終して、阿鼻獄に入る。

【地獄より出でて当に畜生に堕すべし、若しは狗〔いぬ〕・野干〔やかん〕、】
地獄より出て、まさに畜生に堕す、もしは、犬、野干〔やかん〕、

【或は驢〔ろ〕の中に生まれて身常に重きを負ふ。】
あるいは、驢馬〔ろば〕に生まれて身体に常に重きを負ふ。

【此に於て死し已〔お〕はって更に蟒身〔もうしん〕を受けん。】
ここにおいて死に終わって、さらに大蛇の身を受ける。

【常に地獄に処すること園観に遊ぶが如く、】
常に地獄に処すことは、庭で遊ぶ姿に似て、餓鬼、畜生、修羅などの

【余の悪道に在ること己が舎宅の如くならん」文。】
その他の悪道にある事は、自分の家のようである」と説かれています。

【此の文を各〔おのおの〕御覧有るべし。】
この文章を各自が、しっかりと見て理解すべきです。

【「若し人信ぜず」と説くは】
「もし人、信ぜずして」と説いているのは、

【末代の機に協〔かな〕はずと云ふ者の事なり。】
末法の衆生の理解力に合わないと言う者の事なのです。

【「此の経を毀謗せば」の毀はやぶると云ふ事なり。】
「この経を毀謗〔きぼう〕せば」の「毀」は、破ると言う意味です。

【法華経の一日経を皆停止して】
法華経を大勢で一日で書写してしまうことを、皆、止めてしまい、

【称名〔しょうみょう〕の行を成し、法華経の如法経を】
念仏を唱えることを行じ、法華経を書写したものを

【浄土の三部経に引き違〔たが〕へたる、是を毀と云ふなり。】
浄土の三部経に変えてしまうことを、これを「毀」と言うのです。

【権経を以て実経を失ふは、子が親の頸を切りたるが如し。】
権経によって実経を失うのは、子が親の頸〔くび〕を切るようなものなのです。

【又観経の意にも違ひ、法華経の意にも違ふ。】
それは、観無量寿経の真意でもなく、また、法華経の考えとも違うのです。

【謗と云ふは但口を以て誹〔そし〕り、】
謗と言うのは、ただ、口を以って誹〔そし〕り、

【心を以て謗〔そし〕るのみ謗には非ず。】
心を以って謗〔そし〕るだけでは、謗にはなりません。

【法華経流布の国に生まれて、信ぜず行ぜざるも即ち謗なり。】
法華経流布の国に生まれて、信ぜず、行じないことも謗となります。

【「則ち一切世間の仏種を断ず」と説くは、】
「則ち一切世間の仏種を断ず」と説かれているのは、

【法華経は末代の機に協はずと云ひて、】
法華経は、末法の衆生の理解力に合わないと言って、

【一切衆生の成仏すべき道を閉づるなり。】
一切衆生の成仏すべき道を閉じることなのです。

【「或は復顰蹙〔ひんじゅく〕」と云へるは、法華経を行ずるを見て、】
「あるいは、また、顰蹙〔ひんじゅく〕」と言うのは、法華経を行じる者を見て、

【唇〔くちびる〕をすくめて、なにともなき事をする者かな、】
声をひそめて、何と無駄な事をする者か、

【祖父が大〔だい〕なる足の履〔くつ〕、】
祖父の大きな足の履物〔はきもの〕を、

【小さき孫の足に協はざるが如くなんど云ふ者なり。】
小さな孫の足に合わないなどと言って陰口をたたく者のことなのです。

【「而も疑惑を懐く」とは、末代に法華経なんどを行ずるは】
「しかも疑惑を懐く」とは、この末法の時代に法華経などを行じることは、

【実とは覚えず、時に協はざる者をなんど云ふ人なり。】
まともとも思えず、時に合わない者などと言う人のことなのです。

【此の比〔ごろ〕の在家の人毎に、未だ聞かざる先に】
近頃、在家の人々が未だ話さえしてもいないのに、

【天台・真言は我が機に協はずと云へるは、】
天台や真言は、我が理解力に合わないと否定する者は、

【只天魔の人にそ〔添〕ひて生まれて思はするなり。】
ただ天魔の人に従って生まれたものと思われるのです。

【妙楽大師の釈に云はく「故に知んぬ、】
妙楽大師の解釈に「故に知りなさい、

【心〔こころ〕宝所〔ほうしょ〕に趣くこと無くんば、】
心宝所〔ほうしょ〕に趣くこと無くんば、

【化城の路〔みち〕一歩も成ぜす」文。法華経の宝所を知らざる者は、】
化城の路〔みち〕一歩も成ぜす」とあります。法華経の宝所を知らない者は、

【同居の浄土・方便土の浄土へも至るまじきなり。】
衆生の凡聖同居土の浄土、二乗の方便有余土の浄土へも至ることがないのです。

【又云はく「縦〔たと〕ひ宿善有ること恒河沙〔ごうがしゃ〕の如くなるも、】
また「たとえ宿善あること恒河沙〔ごうがしゃ〕の如くなるも、

【終〔つい〕に自ら菩提を成ずるの理なし」文。】
ついに自ら菩提を成ずるの理なし」とあります。

【称名〔しょうみょう〕・読経・造像・起塔・五戒・十善・色無色の禅定、】
念仏、読経、造像、起塔、五戒、十善、色無色の禅定、

【無量無辺の善根有りとも、法華開会の菩提心を起こさざらん者は、】
無量無辺の善根があっても、法華開会の菩提心を起こさない者は、

【六道〔ろくどう〕四生〔ししょう〕をば全く出でまじきなり。】
六道〔ろくどう〕四生〔ししょう〕を、まったく出ることは、叶わないのです。


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