御書研鑚の集い 御書研鑽資料
色心不二抄 第三章 色心の二法
【但し生と云ひけるは来たる日月を云ひ、】
ただし、生と言うのは、来たる日月を言い、
【死と云ひけるは過ぎ行く日月を以てす。】
死と言うのは、過ぎ行く日月を以って死と言うのです。
【然りと雖も天も改まらず、地も改まらず。】
そうであっても、天も変わらず、地も変わらないのです。
【東西南北中央の五方、日月五星も替はること無し。】
東、西、南、北、中央の五方、日月、五星も変わる事はないのです。
【然るに天地冥合〔みょうごう〕して】
そうであるので、天地、冥合〔みょうごう〕して
【有情〔うじょう〕非情の五色〔ごしき〕とあらはるゝ処を生と云ひ、】
有情〔うじょう〕非情〔ひじょう〕が五色〔ごしき〕と顕れる処を生と言い、
【五色の色還って本有〔ほんぬ〕無相の理に帰する処を死とは云ふなり。】
五色の色が還って本有〔ほんぬ〕無相の理に帰する処を死と言うのです。
【都〔すべ〕て一代聖教顕密の旨殊〔こと〕なりといへども、】
すべて、一代聖教の顕密の理論が違うと言っても、
【生死の二法、色心の二法是〔これ〕大事にてあるなり。】
生死の二法、色心の二法、これが大事なことなのです。
【此の生死、六道・四生・二十五有〔う〕に廻〔めぐ〕りて】
この生死、六道、四生〔しょう〕、二十五有〔う〕を巡〔めぐ〕り廻〔めぐ〕って
【輪廻〔りんね〕今に絶えず。】
輪廻〔りんね〕は、今まで絶えることなく、
【然るに仏は此の生死を離るゝを以て仏と云ふ。】
それにも関わらず、仏は、この生死を離れる事で仏と言うのです。
【此の生死に遷〔うつ〕り迷ふを以て凡夫と云ふなり。】
この生死に遷〔うつ〕り迷ふことをもって、凡夫と言うのです。
【此の生死を能く能く意得べきなり。】
この生死を、よくよく心得るべきです。
【止観の五に云はく「無明〔むみょう〕の癡惑〔ちわく〕は】
摩訶止観の第五巻に「無明〔むみょう〕の癡惑〔ちわく〕は、
【本〔もと〕是〔これ〕法性〔ほっしょう〕なり。】
もとは、これ、法性〔ほっしょう〕なり。
【癡迷を以ての故に法性変じて無明と作〔な〕り、】
癡迷〔ちめい〕を以っての故に、法性が変じて無明となり、
【諸の顚倒〔てんどう〕善不善等を起こす。】
諸の転倒〔てんどう〕が、善、不善などを起こす。
【寒さ来たりて水を結び、変じて堅氷〔けんぴょう〕と作るが如く、】
寒さが来て水を結び、変じて堅氷〔けんぴょう〕となるが如く、
【又眠り来たりて心を変じ、種々の夢有るが如し。】
また眠りが来て、心を変じ、種々の夢を見るが如し。
【今〔いま〕当〔まさ〕に諸の顚倒は】
今〔いま〕当〔まさ〕に諸の転倒〔てんどう〕は、
【即ち是法性にして、一ならず異ならずと体すべし。】
すなわち、これは、法性であって、一ならず異ならずと体すべし。
【顚倒起滅すと雖も旋火輪〔せんかりん〕の如し。】
転倒が起滅すといえども、火を廻して出来る輪のようなものである。
【顚倒の起滅を信ぜず、唯、此の心但是法性なりと信ぜよ。】
転倒の起滅を信ぜず、ただ、この心、ただ、これ法性と信ぜよ。
【起は是法性の起、滅は是法性の滅なり。】
起は、これ法性の起、滅は、これ法性の滅なり。
【其れを体するに、実に起滅せざるを妄〔みだ〕りに起滅すと謂〔おも〕へり。】
それを体するに、実際に起滅せざるを妄〔みだ〕りに起滅すると思えり。
【只妄想を指すに悉く是法性なり。】
ただ、妄想を指すに、ことごとく、これ法性なり。
【法性を以て法性に繋〔か〕け、法性を以て法性を念ず。】
法性を以って法性に繋〔か〕け、法性を以って法性を念ず。
【常に是〔これ〕法性にして法性ならざる時無し。】
常に、これ法性にして、法性ならざる時は、無し。
【体達すること既に成ずれば妄想を得ず、亦法性を得ず。】
体達〔たいだつ〕すること既に成じれば、妄想を得ず、また法性を得ず。
【源に還〔かえ〕り本に反〔かえ〕れば法界倶に寂なり。】
源に還〔かえ〕り、本に反〔かえ〕れば、法界倶に寂なり。
【是を名づけて止と為す」云云。】
これを名付けて止と為す」と述べられています。
【明らかに知んぬ、此の釈の意は】
明らかに知るべきです。この解釈の意味は、
【無始輪廻の生死の法は悟りの境界なりと釈せり。】
無始、輪廻の生死の法は、悟りの境界であると解釈されているのです。
【法性の故に生死ありけるなり。】
法性の故に生死があるのです。
【故に弘決の一に云はく「理性有るを以ての故に、故に生死有り、】
それ故に弘決の第一巻に「理性有るを以ての故に、故に生死有り、
【生死は理を用ゆ。生死は即ち是理なりと知らず。】
生死は、理を用ゆ。生死は、即ち是、理なりと知らず。
【故に日に用ひて知らざると名づく」云云。】
故に、日に用いて知らざると名づく」と述べられています。
【此の釈の意は我等がいと〔厭〕ひ悲しめる生死は、】
この解釈の意味は、私たちが嫌い悲しむ生死は、
【法身常住の妙理にて有りけるなり。此の旨を能〔よ〕く能く悟るべし。】
法身、常住の妙理であるのです。この考えをよくよく理解すべきです。
【譬へば我等が生死と云へるは過ぎ行く日月に付いて生死は有るなり。】
譬へば、私たちが生死と言うのは、過ぎ行く日月に付いて、生死があるのです。
【されば此の日月は生死の本体にて有るなり。】
そうであるならば、この日月は、生死の本体であるのです。
【此の日月に付いて、東西をも弁〔わきま〕へ、昨日今日をも分別し、】
この日月に付いて、東西を弁〔わきま〕え、昨日、今日も分別し、
【又十二時をも分かち、三十日を一月とし、十二月を一年とする事も、】
また十二時を分かち、三十日を一月とし、十二月を一年とする事も、
【世間の事に於て前後をも乱さず、理〔ことわり〕をも失はず、】
世間の事において、前後を乱さず、理〔ことわり〕も失わず、
【月日の過ぎ去るに付いて、残の命幾〔いくばく〕ならずと云ふ事をも知るなり。】
月日が過ぎ去って、残りの命が幾〔いくばく〕もないと言う事も知るのです。
【明らかに知んぬ、】
明らかに知るべきです。
【十界の衆生の依正二報の生死は唯此〔こ〕の日月よりを〔起〕こるなり。】
十界の衆生の依正二報の生死は、ただ、この日月より起こるのです。
【又是金胎〔こんたい〕両部の全体本迹二門の実理なり。】
また、これは、金剛界、胎蔵界の両曼荼羅の全体、本迹二門の実理なのです。
【此の実理の故に生死は有りけるなり。】
この実理の故に生死は、あるのです。
【此の日月の本体の故に有りける生死なるが故に、弘決の一に】
この日月の本体の故にある生死である故に、弘決の第一巻に
【「仏なる故に生死あり」と釈し給ふなり。】
「仏なる故に生死あり」と解釈されているのです。
【止観に云はく「起は是法性の起、滅は是法性の滅」と釈し給ひしも】
摩訶止観に「起は、これ法性の起、滅は、これ法性の滅」と解釈されているのも
【唯〔ただ〕此の意なるべし。】
ただ、この意味なのです。
【故に一年十二月は十二因縁〔いんねん〕の生死なり。】
それ故に一年12ヶ月は、十二因縁〔いんねん〕の生死なのです。
【正月の生の位より十二月の老死滅の位に至る。】
正月の生の位より、12月の老、死滅の位に至るのです。
【又此の滅の位より生の種〔たね〕をついで、十界の因果三世に改まらずして、】
また、この滅の位より生の種をついで、十界の因果は、三世において変わらず、
【十界の生死は過ぎ行く日月にて有るなり。又我等衆生の身のみならず、】
十界の生死は、過ぎ行く日月であるのです。また、私たち衆生の身だけではなく、
【草木も皆此の日月の明〔あ〕け暮〔く〕れ】
草木も、すべて、この日月に明〔あ〕け暮〔く〕れて、
【生死にうつされて、我等と倶に生々死々するなり。】
生死となって、私たちと一緒に生々、死々するのです。
【譬へば生ずるは心法なり、滅するは色法〔しきほう〕なり。】
譬えば、生じるのは、心法であり、滅するのは、色法〔しきほう〕なのです。
【色心〔しきしん〕の二法が不二なりと云ふは、】
色心〔しきしん〕の二法が不二であると言う事は、
【譬へばもみ〔籾〕を種におろすに、もみ〔籾〕は去年の菓なれば心法なり。】
譬えば、籾米〔もみごめ〕を種とすると、その種は、去年の米なので心法なのです。
【此の心法を今年種に下ろすに此の種子苗と成る。】
この心法を今年、種として植えれば、この種は、苗と成るのです。
【心、色と成るが故に心法の形見えず、但色法のみなり。】
このように、心が色と成るが故に心法の形が見えず、ただ色法と見えるのです。
【然りと雖も此の色法の全体は心法なる故に、】
たとえ、そうであったとしても、この色法の全体は、心法である故に、
【日月の過ぎ行くに随って生長するなり、故に色心不二なり。】
日月の過ぎ行くに随って生長して、それ故に色心不二となるのです。
【色心不二なりといへども、又而二〔にに〕なり。】
このように色心が不二であると言っても、また、二であるのです。
【此の色法の苗の中より、秋に至りて又本〔もと〕の心法を生ずるなり、】
この色法の苗の中より、秋となって、また、本〔もと〕の心法を生じるのです。
【故に不二にして而二なり。】
それ故に色心は、不二〔ふに〕にして、而二〔にに〕なのです。