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唱法華題目抄 2 法華経の功徳
【唱法華題目抄 文応元年五月二八日 三九歳】
唱法華題目抄 文応元年五月二八日 三九歳御作
【有る人予に問うて云はく、】
ある人が私に質問して次のように言いました。
【世間の道俗させる法華経の文義〔もんぎ〕を弁〔わきま〕へずとも、】
世間の出家、在家の人が法華経の文字の意味を理解出来なくても、
【一部・一巻・四要品・】
法華経の一部、一巻、方便品、安楽行品、如来寿量品、観世音菩薩普門品や、
【自我偈・一句等を受持し、】
自我偈の一句を受持し、
【或は自らもよ〔読〕みか〔書〕き、若しは人をしてもよみかゝせ、】
それらを自らも読み書写し、他の人にも読ませ書写させ、
【或は我とよみかゝざれども経に向かひ奉り、】
または、自らは、読んだり書いたりはしなくても法華経に向かって、
【合掌礼拝をなし、香華〔こうげ〕を供養し、或は上の如く行ずる事なき人も、】
合掌、礼拝をし、御香や華を供養し、または、このような事が出来ない人でも、
【他の行ずるを見てわづかに随喜の心をを〔起〕こし】
他人がこのようなことを行うのを見て少しでも喜び、
【国中に此の経の弘まれる事を悦ばん。】
さらに国中に法華経が弘まる事を嬉しく思ったのです。
【是〔これ〕体〔てい〕の僅〔わず〕かの事によりて世間の罪にも引かれず、】
このような小さな事によって世間の犯罪にも引き込まれず、
【彼の功徳に引かれて小乗の初果〔しょか〕の聖人の】
法華経の功徳によって小乗教の見惑を断じ尽くした聖人のように、
【度々人天に生まれて、】
生まれる度に人界や天界に生まれて、
【而も悪道に堕ちざるがごとく、常に人天の生をうけ、】
しかも人界、天界に生を受けても常に悪道にも堕ちる事もなく、
【終〔つい〕に法華経を心得るものと成って十方浄土にも往生し、】
ついには、法華経を心得る身となって十方の浄土に往生し、
【又此の土に於ても即身成仏する事有るべきや、】
また、この娑婆世界においても、即身成仏すると云う事があるでしょうか。
【委細に之を聞かん。】
この事を詳しく聞きたいものです。
【答へて云はく、させる文義を弁へたる身にはあらざれども、】
それについては、それほど法華経の文章の内容を理解している身ではありませんが、
【法華経・涅槃経並びに天台・妙楽の釈の心をもて推〔お〕し量るに、】
法華経と涅槃経、そして天台大師、妙楽大師の解釈の意味を推し量ると、
【かりそめにも法華経を信じて聊〔いささか〕も謗〔ぼう〕を生ぜざらん人は、】
法華経を信じて、いささかも謗法を犯さない人は、
【余の悪にひかれて悪道に堕つべしとはおぼえず。】
法華誹謗の謗法以外の罪によって悪道に堕ちるとは思われません。
【但し悪知識と申してわづかに権教を知れる人、智者の由〔よし〕をして】
ただし、悪知識と云って、少しだけ権教を知っている人が智者らしく見せかけて、
【法華経を我等が機に叶〔かな〕ひ難き由を】
法華経は、私たちの理解力では合わないという主張を、
【和〔やわ〕らげ申さんを誠〔まこと〕と思ひて、】
言葉和らかに述べているのを聞いて、それをもっともと思い、
【法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へ移りはてゝ、】
今まで法華経を随喜していた心を捨てて、法華経以外の教えに移ってしまい、
【一生さて法華経へ帰り入らざらん人は、悪道に堕〔お〕つべき事も有りなん。】
一生そのまま法華経に帰って来ない人は、悪道に堕ちる事もあるのです。
【仰せに付いて疑はしき事侍〔はべ〕り。実〔まこと〕にてや侍るらん、】
あなたの言われた事は、実に疑わしく本当の事とも思えません。
【法華経に説かれて候とて智者の語らせ給ひしは、】
法華経に説かれている内容の中に、念仏宗の人々が云うのには、
【昔三千塵点劫〔じんでんごう〕の当初〔そのかみ〕大通智勝仏と申す仏います。】
過去、三千塵点劫のその前に大通智勝仏と云う仏がいました。
【其の仏の凡夫にていましける時十六人の王子をはします。】
その仏が未だ凡夫の王であった時に十六人の王子がいて、
【彼の父の王仏にならせ給ひて、一代聖教〔しょうぎょう〕を説き給ひき。】
その父親である王が出家して仏となり一代聖教を説いたのです。
【十六人の王子も亦出家して其の仏の御弟子〔みでし〕とならせ給ひけり。】
十六人の王子も、また、それぞれに出家して、その父である仏の弟子となりました。
【大通智勝仏法華経を説き畢〔おわ〕らせ給ひて定に入らせ給ひしかば、】
その大通智勝仏が法華経を説き終わって瞑想に入られたので、
【十六人の王子の沙弥〔しゃみ〕其の前にして】
出家の僧侶となっていた十六人の王子は、瞑想に入った大通智勝仏の前で、
【かはるがはる法華経を講じ給ひけり。】
代わる代わる法華経を講義したのです。
【其の所説を聴聞〔ちょうもん〕せし人幾千万といふ事をしらず、】
その王子たちの話を聞いた人々は、幾千万人もいたのですが、
【当座に悟りをえ〔得〕し人は不退の位に入りにき。】
その話を聞いてその場で理解出来た人は、すぐに不退転の位になったのですが、
【又法華経をおろか〔疎略〕に心得る結縁〔けちえん〕の衆もあり、】
この時に法華経を少ししか理解出来ずに縁だけを結んだ人々もいましたが、
【其の人々当座中間に】
その人々は、法華経の話を聞いたこの時も、また現在の釈迦在世前の期間も、
【不退の位に入らずして三千塵点劫をへたり。】
不退の位に入る事なく三千塵点劫を経てしまったのです。
【其の間又つぶさに】
その人々は、この三千塵点劫を経る間に、
【六道四生に輪回〔りんね〕し、】
地獄から人、天の六道を卵生、胎生、湿生、化生の四生の姿で輪廻し、
【今日釈迦如来の法華経を説き給ふに不退の位に入る。】
今日現在において釈迦如来が法華経を説くのを聞いて不退の位へと入ったのです。
【所謂〔いわゆる〕舎利弗〔しゃりほつ〕・目連〔もくれん〕・】
それが現在の舎利弗、目連、
【迦葉〔かしょう〕・阿難〔あなん〕等是なり。猶々信心薄き者は、】
迦葉、阿難などであり、その人々よりも、さらに信心が薄い人々は、
【当時も覚〔さと〕らずして】
釈迦在世でも理解する事が出来ず、
【未来無数劫〔むしゅこう〕を経〔ふ〕べきか。】
さらに未来、無数劫を経なければ理解出来ないのでしょうか、
【知らず、我等も大通智勝仏の十六人の】
それは、わかりませんが、私たちも過去に大通智勝仏の十六人の王子に
【結縁の衆にもあるらん。】
縁した者なのでしょうか。
【此の結縁の衆をば天台〔てんだい〕・妙楽〔みょうらく〕は】
この大通智勝仏の結縁の人々を、天台大師、妙楽大師は、
【名字〔みょうじ〕・観行〔かんぎょう〕の位に】
菩薩の修行過程である六即の位の下から二番目と三番目の名字即と観行即の位に、
【かな〔叶〕ひたる人なりと定め給へり。】
あてはまる人々と定めているのです。
【名字・観行の位は一念三千の義理を弁〔わきま〕へ、】
その名字即や観行即の位にあてはまる人々と云うのは、一念三千の道理を理解し、
【十法成乗の観を凝〔こ〕らし、能〔よ〕く能く義理を弁へたる人なり。】
天台宗の修行を実践して法華経の真意を十分に理解している人達なのです。
【一念随喜五十展転〔てんでん〕と申すも、】
また随喜功徳品に説かれる五十展転の最後の五十番目の一念随喜の人と云うのも、
【天台・妙楽の釈のごときは】
天台大師、妙楽大師の解釈によれば、
【皆観行五品の初随喜〔しょずいき〕の位と定め給へり。】
観行即の五品のうちの最初の初随喜品に当たると定めているのです。
【博地〔はくじ〕の凡夫の事にはあらず。】
このように、まったく普通の凡夫ではないのです。
【然るに我等は末代の一字一句等の結縁の衆、】
ところが私たちは、末法において法華経の一字一句に縁しただけの衆生であり、
【一分の義理をも知らざらんは、】
少しも法華経の真意を理解出来ない者であるので、
【豈〔あに〕無量の世界の塵点劫〔じんでんごう〕を経〔へ〕ざらんや。】
どうして無量の世界の塵点劫を経ないで、それを理解する事など出来ましょうか。
【是偏〔ひとえ〕に理深解微〔りじんげみ〕の故に、】
それは、ひとえに理深解微の故であって、この文章のように、
【教は至って深く、機は実に浅きがいたす処なり。】
法華経の教えは、非常に深く、私たちの理解力があまりにも浅い為なのです。
【只〔ただ〕弥陀の名号を唱へて、】
末法の凡夫である私たちは、ただ阿弥陀仏の名前を唱えて、
【順次生〔じゅんじしょう〕に西方〔さいほう〕極楽世界に往生し、】
生を受けるたびに西方極楽世界に往生し、
【永く不退の無生忍〔むしょうにん〕を得て、】
阿弥陀如来の西方極楽世界で永久に退転する事がない無生忍を得て、
【阿弥陀如来・観音・勢至〔せいし〕等の法華経を説き給はん時、】
阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩などが法華経を説かれる時に、
【聞いて悟りを得んには如〔し〕かじ。】
それを聞いて法華経の真意を理解するしか方法はないのです。
【然るに弥陀の本願は有智無智・】
阿弥陀仏の本願によると智慧の有無や、
【善人悪人・持戒破戒等をも択〔えら〕ばず。】
善人であるか悪人であるか、戒律を守っているか破っているかを問わず、
【只〔ただ〕一念に唱ふれば臨終に】
ただ一度だけでも阿弥陀仏の名前を唱えれば臨終の時には、
【必ず弥陀如来本願の故に来迎〔らいごう〕し給ふ。】
必ず阿弥陀仏がその本願の故に迎えに来てもらえるのです。
【是を以て思ふに、此の土にして】
この事を考えれば、この娑婆世界において、
【法華経の結縁を捨て浄土に往生せんとをも〔思〕ふは、】
法華経の結縁を捨てて、浄土に往生しようと思うのは、
【億千世界の塵点を経ずして疾〔と〕く法華経を悟らんがためなり。】
億千世界の塵点と云う膨大な時間を経る事なく、はやく法華経を悟る為なのです。
【法華経の根機〔こんき〕にあたはざる人の、】
法華経への理解力がない人が、
【此の穢土〔えど〕にて法華経にいとまをいれて一向に念仏を申さゞるは、】
この穢土で法華経の理解に時間をかけて少しも念仏を唱えないのでは、
【法華経の証は取り難く、極楽の業は定まらず、】
法華経への理解は得難く、また西方極楽浄土へ往生する宿業も定まらず、
【中間〔ちゅうげん〕になりて】
結局は、中途半端となって、
【中々法華経をおろそかにする人にてやおはしますらんと】
返って法華経を疎かにしている人となるのではないでしょうか。
【申し侍〔はべ〕るは如何に。】
このように念仏の智者が主張しているのですが、いかがでしょうか。
【其の上只今承り候へば、僅〔わず〕かに法華経の結縁計〔ばか〕りならば、】
その上、ただいま聞いた話では、少しばかり法華経に結縁しただけであれば、
【三悪道に堕〔お〕ちざる計りにてこそ候へ、】
その功徳は、三悪道に堕ちないと云うだけの話で、
【六道の生死を出づるにはあらず。】
六道の生死から出られると云う事では、ありません。
【念仏の法門はなにと義理を知らざれども、】
これに対し、念仏の法門では、その道理を知らなくても、
【弥陀の名号を唱へ奉れば浄土に往生する由を申すは、】
弥陀の名前さえ唱えれば、浄土に往生出来ると述べており、
【遥〔はる〕かに法華経よりも弥陀の名号はいみじくこそ聞こえ侍れ。】
これでは、法華経よりも弥陀の名前の方が、遙かに素晴らしく聞こえます。
【答へて云はく、誠に仰せめでたき上、】
それについては、あなたが主張される内容は、誠に立派な内容であり、
【智者の御物語にて侍るなれば、】
その上、念仏宗の智者の主張でもあるので、その通りであるとも思われますが、
【さこそと存じ候へども、】
この念仏宗の智者が主張される通りであるならば、
【但し若し御物語の如く侍〔はべ〕らば、すこし不審なる事侍り、】
少し不審な点があります。
【大通結縁の者をあらあらう〔打〕ちあてがひ申すには、】
大通結縁の者を大まかに六即に当てはめて、
【名字・観行の者とは釈せられて侍れども、】
下から二番目と三番目の名字即と観行即の者であると解釈されていますが、
【正〔まさ〕しく名字即の位の者と定められ侍る上、】
天台大師や妙楽大師は、正確には名字即の位の者であると定められているのです。
【退大〔たいだい〕取小〔しゅしょう〕の者とて】
退大取小の者と云って、
【法華経をすてゝ権教にうつり、後には悪道に堕ちたりと見えたる上、】
法華経を捨てて権教に移り、その後には、悪道に堕ちる者と云う事ですから、
【正しく法華経を誹謗〔ひぼう〕して之を捨てし者なり。】
まさしく法華経を誹謗して、法華経を捨てた謗法の者なのです。
【設〔たと〕ひ義理を知るやう〔様〕なる者なりとも、謗法の人にあらん上は、】
たとえ法華経の真意を知っているような者であっても、謗法の人である以上は、
【三千塵点〔じんでん〕・無量塵点も経〔ふ〕べく侍るか。】
三千塵点劫、さらには無量塵点劫を経なければ、法華経を理解は出来ないでしょう。
【五十展転〔てんでん〕一念随喜の人々を】
また五十展転一念随喜の人々を
【観行初随喜の位の者と釈せられたるは、】
観行五品の初随喜の位であると解釈されているのは、
【末代の我等が随喜等は】
末法の私たちが法華経を聞いて随喜する事が、
【彼の随喜の中には入るべからずと仰せ候か。】
五十展転一念随喜の人々の随喜の中には、入らないと言われているのでしょうか。
【是を天台・妙楽初随喜の位と釈せられたりと申さるゝほどにては、】
これを天台、妙楽は、初随喜の位と解釈していると、あなたは言われていますが、
【又名字即と釈せられて侍る釈はすてらるべきか。】
それは、天台、妙楽が名字即の位と解釈しているのを捨てると云う意味でしょうか。
【所詮〔しょせん〕仰せの御義を委〔くわ〕しく案〔あん〕ずれば、】
結局、あなたが主張する教義を詳しく調べてみれば、
【をそれにては候へども、謗法の一分にやあらんずらん。】
恐縮ですが、法華経誹謗の謗法にあたるのではないでしょうか。
【其の故は法華経を我等末代の機に】
その理由として法華経を私たち末法の衆生の理解力には、
【叶ひ難き由を仰せ候は、末代の一切衆生は穢土〔えど〕にして】
適さないと云われているのは、末法の一切衆生は、この穢土において、
【法華経を行じて詮〔せん〕無き事なりと仰せらるゝにや。】
法華経を修行しても無益であると言っている事と同じになるからなのです。
【若しさやう〔左様〕に侍らば、】
もしそうであるならば、
【末代の一切衆生の中に此の御詞〔ことば〕を聞いて、】
末法の一切衆生の中には、あなたの、その言葉を聞いて、
【既に法華経を信ずる者も打ち捨て、】
法華経を信じていた者も、それを捨ててしまい、
【未だ行ぜざる者も行ぜんと思ふべからず。】
これから法華経を行おうとする者も、そう思わなくなってしまうからです。
【随喜の心も留〔とど〕め侍らば】
このように法華経による随喜の心を押し留める行為は、
【謗法の分にやあるべかるらん。】
それは、謗法にあたるのでは、ないでしょうか。
【若〔も〕し謗法の者に一切衆生なるならば、いかに念仏を申させ給ふとも、】
もし、一切衆生が謗法の者になるのであれば、いかに念仏を称えようとも、
【御往生は不定〔ふじょう〕にこそ侍らんずらめ。】
往生は、出来ないのです。
【又弥陀の名号を唱へ、極楽世界に往生をとぐべきよしを仰せられ侍るは】
また、阿弥陀仏の名前を唱えれば、西方極楽浄土に往生できると云われているのは、
【何〔いか〕なる経論を証拠として此の心はつき給ひけるやらん。】
どのような経論を証拠として、こうした考えを主張されているのでしょうか、
【正〔まさ〕しくつよき証文候か。】
確かな証拠となる経文があるのでしょうか。
【若しなくば其の義たのもしからず。】
もし無ければ、念仏往生の主張は、信頼出来るものではないでしょう。
【前に申し候ひつるがごとく法華経を信じ侍るは、】
先程も言ったように法華経を信じる人は、
【させる解〔げ〕なけれども三悪道には堕〔お〕つべからず候。】
それほどの理解力がなくても三悪道に堕ちる事は、ないのです。
【六道を出づる事は】
念仏者の主張通りであるならば、法華経では、六道を出る事については、
【一分のさとりなからん人は有り難く侍るか。】
理解力が足りない人には、難しいと云う事でしょうか。
【但し悪知識に値ひて法華経随喜の心を云ひやぶられて候はんは】
ただし、悪知識によって法華経随喜の心を壊された人は、
【力及ばざるか。】
三悪道に堕ちないと云う法華経の力さえ及ばないのです。