御書研鑚の集い 御書研鑽資料
唱法華題目抄 10 弾呵の心をもって説くべき
【問うて云はく、一経の内に相違の候なる事こそ、】
それでは、同一の経文の中で、このような相違がある事は、
【よ〔余〕に心得がたく侍〔はべ〕れば、くはしく承り候はん。】
実に理解し難いので、その理由を詳しく教えて欲しいものです。
【答へて云はく、方便品等には機をかゞみて此の経を説くべしと見え、】
それは、方便品には、理解力と照らし合わせて、この経を説きなさいとあり、
【不軽品には謗ずとも唯強ひて之を説くべしと見え侍り。】
不軽品には、たとえ誹謗されたとしても、ただ強いてこれを説きなさいとあります。
【一経の前後水火の如し。然るを天台大師会〔え〕して云はく】
一経の前と後では水と火で、この事を天台大師は、このように述べています。
【「本已〔すで〕に善有り、釈迦は小を以て之を将護〔しょうご〕し、】
「本と已に善がある。釈迦は小をもってこれを将護し、
【本未だ善有らず、不軽は大を以て之を強毒〔ごうどく〕す」文。】
本にいまだ善がないならば、不軽は大をもってこれを強毒する」
【文の心は本〔もと〕善根ありて今生〔こんじょう〕の内に】
文章の意味は、本来、善根があって、今の世の内に
【得解〔とくげ〕すべき者の為には直〔ただち〕に法華経を説くべし。】
覚りを得る者の為には、直ぐに法華経を説くべきなのです。
【然るに其の中に猶聞いて謗ずべき機あらば】
しかし、その中で、なお聞いても誹謗する程度の理解力であるならば、
【暫〔しばら〕く権経をもてこしらへて後に法華経を説くべし。】
しばらく権経で理解力を調えてから、その後に法華経を説くべきなのです。
【本〔もと〕大の善根もなく、今も法華経を信ずべからず、】
本来、大きな善根もなく今も法華経を信じていないので、
【なにとなくとも悪道に堕〔お〕ちぬべき故に、】
何もしなくても悪道に堕ちるので、
【但押して法華経を説いて之を謗ぜしめて】
ただ無理にでも法華経を説いてこれを誹謗させて
【逆縁ともなせと会する文なり。此の釈の如きは、】
逆縁としなさいと云う文章なのです。この解釈の通りであれば、
【末代には善無き者は多く善有る者は少なし。】
末法の時代には、善の無い者が多く、善の有る者は、少ない為に、
【故に悪道に堕〔だ〕せん事疑ひ無し。】
悪道に堕ちる事は、疑い無いのです。
【同じくは法華経を強ひて説き聞かせて毒鼓〔どっく〕の縁と成すべきか。】
同様に法華経を強いて説き聞かせて、毒鼓の縁とするべきなのです。
【然れば法華経を説いて謗縁〔ぼうえん〕を結ぶべき時節なる事】
したがって法華経を説いて誹謗される事によって縁を結ぶべき時であって、
【諍〔あらそ〕ひ無き者をや。】
その事を論争する必要はないでしょう。
【又法華経の方便品に五千の上慢〔じょうまん〕あり、】
また法華経の方便品に五千人の増上慢の者がいると説かれています。
【略開三顕一を聞いて広開三顕一の時、】
「略開三顕一」を聞いて「広開三顕一」の時、
【仏の御力をもて座をたゝしめ給ふ。】
仏の御力を以て、その場から立ち去らせた後に、
【後に涅槃経並びに四依の辺にして今生に悟りを得せしめ給ふと、】
涅槃経並びに四依の辺で、現世において覚りを得させられたとあるのです。
【諸法無行経に、喜根〔きこん〕菩薩、勝意〔しょうい〕比丘に向かって】
諸法無行経には、喜根菩薩が勝意比丘に向って
【大乗の法門を強ひて説きき〔聞〕かせ謗ぜさせしと、】
大乗の法門を強いて説き聞かせて誹謗させたとあります。
【此の二つの相違をば天台大師会して云はく】
この二つの相違を天台大師は、解説して述べています。
【「如来は悲を以ての故に発遣〔ほっけん〕し、】
「如来は慈悲をもっての故に追い出し、
【喜根は慈を以ての故に強説〔ごうせつ〕す」文。】
喜根は、慈悲を以ての故に強説した」のです。
【文の心は仏は悲の故に後のたのしみをば閣〔さしお〕きて、】
文章の意味は、仏は慈悲の故に後の成仏の楽しみをさしおいて、
【当時法華経を謗じて地獄にをちて苦にあうべきを悲しみ給ひて、】
その時に法華経を誹謗して地獄に堕ちて苦悩に会うであろう事を悲しまれて、
【座をたゝしめ給ひき。譬へば母の子に病あると知れども、】
座を立たせたのです。たとえば、母が子供に病いがある事を知っていても、
【当時の苦を悲しみて左右なく灸〔やいと〕を加へざるが如し、】
現在の苦しみを悲しんで灸をしないようなものなのです。
【喜根菩薩は慈の故に当時の苦をばかへりみず、】
喜根菩薩は、慈悲の故に現在の苦しみを顧みず、
【後の楽を思ひて強ひて之を説き聞かしむ。】
後の楽を思って、強いてこれを説いて聞かせたのです。
【譬へば父は慈の故に子に病あるを見て、当時の苦をかへりみず、】
たとえば、母が子に病のあることを知っているので、今の苦しみを悲しんで、
【後を思ふ故に灸を加ふるが如し。】
ためらわずに灸をすえるようなものなのです。
【又仏在世には仏法華経を秘し給ひしかば、】
また仏が在世の時には、仏は法華経を秘密にされたので、
【四十余年の間は等覚・不退の菩薩、名をしらず。】
四十年余りの間、等覚や不退の菩薩の名を知らなかったのです。
【其の上寿量品は法華経八箇年の内にも名を秘し給ひて】
その上、寿量品は、法華経を説かれた八年の間でも名前を秘密にされ、
【最後にきかしめ給ひき。末代の凡夫には左右なく】
最後にその名前を聞かされたのです。末法の時代の凡夫には、とにかく、
【如何がき〔聞〕かしむべきとおぼ〔覚〕ゆる処を、】
どのように、この名前を聞かせたらよいかと考えられたところ、
【妙楽大師釈して云はく「仏世〔ぶっせ〕は当機の故に簡〔えら〕ぶ、】
妙楽大師が解説して云うには「仏の在世には当機の故にえらぶ。
【末代は結縁〔けちえん〕の故に聞かしむ」と釈し給へり。】
末代は結縁の故に聞かせる」と述べられているのです。
【文の心は仏在世には仏一期の間、】
文章の意味は、仏の在世中には、仏の一生の間、
【多くの人不退の位にのぼりぬべき故に法華経の名義を出だして謗ぜしめず、】
多くの人が不退の位に登ったので、法華経の名義を出して誹謗させずに、
【機をこしらへて之を説く。】
理解力を調えてこれを説いたのです。
【仏滅後には当機の衆は少なく結縁の衆多きが故に、】
仏滅後には、当時の理解力の大衆は少なく、結縁の大衆が多かったので、
【多分に就〔つ〕いて左右なく法華経を説くべしと云ふ文なり。】
多数に就いてためらう事なく法華経を説くべきであると云う解釈なのです。
【是〔これ〕体〔てい〕の多くの品あり。】
このように数々の品があるのです。
【又末代の師は多くは機を知らず。】
また末法の師の多くは、衆生の理解力を知らないのです。
【機を知らざらんには強ひて但実教を説くべきか。】
理解力を知らないのであれば、強いてただ実教を説くべきなのです。
【されば天台大師の釈に云はく】
したがって天台大師の解釈にこのようにあります。
【「等しく是見ざらんは、但大を説くに咎〔とが〕無し」文。】
「等しくこれを見なければ、ただ法華経を説いても罪は無い」
【文の心は機をも知らざれば大を説くに失〔とが〕なしと云ふ文なり。】
文章の意味は、理解力を知らなければ法華経を説いても罪はないと云う事なのです。
【又時の機を見て説法する方もあり。】
また時の理解力を見て説法する方法もあります。
【皆国中の諸人権経を信じて実経を謗じ強〔あなが〕ちに用ひざれば、】
国中のすべての人々が権経を信じて実経を誹謗し用いないならば、
【弾呵〔だんか〕の心をもて説くべきか。時に依って用否あるべし。】
弾呵の心をもって説くべきなのです。時によって用いるか否かなのです。