日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


唱法華題目抄 9 妙法は能開なり


【問うて云はく、只〔ただ〕題目計りを唱ふる功徳如何〔いかん〕。】
それでは、ただ、ひたすら題目を唱える功徳とは、どのようなものでしょうか。

【答へて云はく、釈迦如来、法華経を説かんとおぼしめして】
それは、釈迦如来は、法華経を説こうと考えて、

【世に出でましまししかども、】
この世に出現されたのですが、

【四十余年の程は法華経の御名を秘しおぼしめして、】
四十年余りの間は、法華経の名前を隠そうと考えられました。

【御年三十の比〔ころ〕より七十余に至るまで法華経の方便をまうけ、】
三十歳の頃より七十余歳に至るまでは、法華経の方便である爾前経を説かれて、

【七十二にして始めて題目を呼び出ださせ給へば、】
七十二歳で初めて法華経の題目を呼び出されました。

【諸経の題目に是を比ぶべからず、】
したがって爾前経の題目とこれを比べてはいけないのです。

【其の上、法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は】
その上、法華経の肝心である方便品、寿量品の一念三千、久遠実成の法門は、

【妙法の二字におさまれり。】
この題目の妙法の二字に収まっているのです。

【天台大師玄義〔げんぎ〕十巻を造り給ふ。】
天台大師は、法華玄義十巻を著わされ、

【第一の巻には略して妙法蓮華経の五字の意を宣べ給ふ、】
第一の巻には、略して妙法蓮華経の五字の意義を述べられました。

【第二の巻より七の巻に至るまでは又広く妙の一字を宣べ、】
第二の巻より七の巻に至るまでは、また広く妙の一字を述べられました。

【八の巻より九の巻に至るまでは法蓮華の三字を釈し、】
八の巻より九の巻に至るまでは、法蓮華の三字を解説され、

【第十の巻には経の一字を宣べ給へり。】
第十の巻で経の一字を述べられました。

【経の一字に華厳・阿含・方等・般若・涅槃経を収めたり。】
経の一字に華厳、阿含、方等、般若、涅槃経のすべてを収めているのです。

【妙法の二字は玄義の心は百界千如・心仏衆生の法門なり。】
妙法の二字は、法華玄義では、百界千如、心仏衆生の法門であり、

【止観〔しかん〕十巻の心は一念三千・百界千如・三千世間・】
摩訶止観十巻では、一念三千、百界千如、三千世間、

【心仏衆生三無差別と立て給ふ。】
心仏衆生、三無差別と立てられたのです。

【一切の諸仏・菩薩。十界の因果・十方の草木瓦礫〔がりゃく〕等】
一切の諸仏、菩薩、十界の因果、十方の草木、瓦礫などで、

【妙法の二字にあらずと云ふ事なし。華厳・阿含等の四十余年の経々、】
妙法の二字でないと云うものはないのです。華厳、阿含などの四十年余りの経々、

【小乗経の題目には大乗経の功徳を収めず、】
小乗経の題目には、大乗経の功徳は収められていないのです。

【又大乗経にも往生を説く経の題目には成仏の功徳を収めず、】
往生を説く大乗経であっても、その題目には、成仏の功徳を収めていないのです。

【又王にては有れども王中の王にて無き経も有り。】
王であるけれども、王の中の王でない経文もあり、

【仏も又経に随って他仏の功徳をおさめず、】
仏もまた経文に随って、他仏の功徳を収めていないのです。

【平等意趣をもって他仏自仏とをな〔同〕じといひ、】
平等の見地に立って一切衆生に説法したとき、他仏と自仏は同じであると説き、

【或は法身〔ほっしん〕平等をもて】
仏の身は、いかなる姿を示すとも、すべて平等であり無差別であると説くとき、

【自仏他仏同じといふ。】
自仏と他仏は同じであると説いています。

【実には一仏に一切仏の功徳をおさめず、】
しかし、実際には、一仏に一切仏の功徳を収めていないのです。

【今法華経は四十余年の諸経を一経に収めて、】
今、法華経は、四十年余りに説かれた諸経を一経に収めて、

【十方世界の三身円満の諸仏をあつめて、釈迦一仏の分身の諸仏と談ずる故に、】
十方世界の三身、円満の諸仏を集めて、すべて釈迦一仏の分身の諸仏と説くので、

【一仏一切仏にして妙法の二字に諸仏皆収まれり。】
一仏とは、すべての仏であり、妙法の二字に仏はすべて収まるのです。

【故に妙法蓮華経の五字を唱ふる功徳莫大〔ばくだい〕なり。】
故に妙法蓮華経の五字を唱える功徳は、莫大であるのです。

【諸仏諸経の題目は法華経の所開〔しょかい〕なり、】
諸仏、諸経の題目は、法華経の所開であり、

【妙法は能開〔のうかい〕なりとしりて法華経の題目を唱ふべし。】
妙法は、能開であると知って、この法華経の題目を唱えるべきなのです。

【問うて云はく、此の法門を承けて又智者に尋ね申し候へば、】
それでは、この法門を聞いて、また念仏の智者に質問したところ、

【法華経のいみじき事は左右に及ばず候。】
「法華経のありがたい事をとやかく言うつもりはない。

【但し器量ならん人は唯我が身計〔ばか〕りは然るべし。】
ただ、法華経にふさわしい理解力のある者は、自分自身だけであるのです。

【末代の凡夫に向かって、たゞちに機をも知らず、】
末法の時代の多くの凡夫に向かって、その理解力も知らないのに、

【爾前の教を云ひうとめ、】
爾前の教えを説明して遠ざけ、

【法華経を行ぜよと申すは、としごろの念仏なんどをば打ち捨て、】
法華経を修行しなさいというのは、いままでの念仏を打ち捨てて、

【又法華経には未だ功も入れず、】
また法華経には、いまだ理解力がない為に入る事も出来ずに、

【有にも無にもつかぬやう〔様〕にてあらんずらん。】
どっちつかずになるようなものではないでしょうか。

【又機もしらず、法華経を説かせ給はゞ、信ずる者は左右に及ばず、】
また理解力も知らずに法華経を説いたならば、信じる者は、非難しないであろうが、

【若し謗ずる者あらば定めて地獄に堕〔お〕ち候はんずらん。】
もし誹謗する者があれば、必ず地獄に堕ちるであろう。

【其の上、仏も四十余年の間、法華経を説き給はざる事は】
その上、仏が四十年余りの間、法華経を説かれなかった事は、

【「若但〔にゃくたん〕讃仏〔さんぶつ〕乗〔じょう〕】
「もし、ただ仏乗を讃めるならば

【衆生〔しゅじょう〕没在苦〔もつざいく〕」の故なりと。】
衆生は苦に没在す」という理由からなのです。

【在世の機すら猶〔なお〕然なり。】
釈尊が在世であった時の衆生の理解力でさえ、この通りであるから、

【何に況んや末代の凡夫をや。】
末法の時代の凡夫は、なおさらなのです。

【されば譬喩品には「仏舎利弗に告げて言〔のたま〕はく、】
したがって、譬喩品には「仏が舎利弗に告げられた。

【無智の人の中に此の経を説くことなかれ」云云。】
無智の人の中においてこの経を説いてはならない」と説かれているのです。

【此等の道理を申すは如何が候べき。】
これらの道理を、どう考えるべきでしょうか。

【答へて云はく、智者の御物語と仰せ承り候へば、】
それに答えると、念仏の智者の話は、

【所詮〔しょせん〕末代の凡夫には機をかゞみ〔鑑〕て説け、】
所詮、末法の時代の凡夫には、理解力を考えてから説くべきであり、

【左右なく説いて人に謗ぜさする事なかれとこそ候なれ。】
何も考えずに説いて人に誹謗させる事がないようにと云う事でしょうか。

【彼の人さやうに申され候はゞ、御返事候べきやうは、】
その人が、そのように言われたのならば、それに返答して云う事は、

【抑〔そもそも〕「若但讃仏乗乃至無智人中」等の文を出だし給はゞ、】
そもそも「若但讃仏乗・乃至無智人中」の文章を取り出したのであれば、

【又一経の内に「凡有所見・】
また経文の中に「およそ見るところがあれば、

【我深敬汝等〔がじんきょうにょとう〕」等と説いて、】
私は、深くあなたを敬う」と説いて、

【不軽〔ふきょう〕菩薩の杖木〔じょうもく〕瓦石〔がしゃく〕を】
不軽菩薩が杖や木や瓦石で、

【もってうちはられさせ給ひしをば】
打たれた事を

【顧〔かえり〕みさせ給はざりしは如何と申させ給へ。】
気にかけないのはどうしてかと尋ねるべきです。


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