日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


祈禱抄 7 第6章 修法十五壇の秘法

第6章 修法十五壇の秘法


【一字〔いちじ〕金輪法〔きんりんほう〕】
(1)一字〔いちじ〕金輪法〔きんりんほう〕を本尊として、

【(天台座主慈円僧正。伴僧十二口。】
天台座主の慈円僧正が僧12人を伴い、

【関白殿基通の御沙汰。)】
関白、衛基通〔このえもとみち〕殿の命によって真言の祈禱を行い、

【四天王〔してんのう〕法】
(2)仏法と国家の守護を誓った四天王を本尊といて、

【(成興寺の宮僧正。伴僧八口。】
天台宗成興寺の延暦寺67代座主、後白河天皇の孫、真性僧正が僧8人を伴って、

【広瀬殿に於て修明門院の御沙汰。)】
広瀬御所で順徳天皇の母である修明門院の命で密教の祈禱を行い、

【不動明王〔ふどうみょうおう〕法(成宝僧正。】
(3)不動明王を本尊として、調伏を目的に真言宗の僧、成宝僧正が

【伴僧八口。花山院禅門の御沙汰。)】
僧8人を伴い、花山院禅門、藤原忠経の命で真言密教の祈禱を行い、

【大威徳〔だいいとく〕法(観厳僧正。伴僧八口。】
(4)大威徳明王を本尊として、東大寺管長の観厳僧正が僧8人を伴い、

【七条院の御沙汰。)】
後鳥羽天皇の母、七条院の命で密教の祈禱を行い、

【転輪聖王〔てんりんじょうおう〕法】
(5)転輪聖王を本尊として国家安穏、怨敵摧破ために醍醐寺座主、

(成賢僧正。伴僧8口。同院の御沙汰。)】
成賢僧正が僧8人を伴い、後鳥羽天皇の母、七条院の命で真言の祈禱を行い、

【十壇〔じゅうだん〕大威徳法】
(6)十壇〔じゅうだん〕大威徳法で、密教の事相書に出てくる祈禱法で、

【(伴僧六口。覚朝僧正。俊性法印。永信法印。】
園城寺管長、覚朝僧正。仁和寺尊性院の僧、俊性法印。真言宗の僧、永信法印。

【豪円法印。猷円僧都。慈賢僧正。】
無動寺検校の豪円法印。園城寺管長、猷円僧都。延暦寺座主の慈賢僧正。

【賢乗僧都。仙尊僧都。行遍僧都。実覚法眼。】
賢乗僧都。仙尊僧都。仁和寺菩提院の僧、行遍僧都。実覚法眼。

【已上十人大旨本坊に於て之を修す。)】 
以上の十人がそれぞれ伴僧6人とともに、概ね、本坊でこれを行い、

【如意輪〔にょいりん〕法】
(7)如意輪観自在菩薩念誦法で、如意輪観世音菩薩を本尊として、真言の

【(妙高院僧正。伴僧八口。宜秋門院の御沙汰。)】
妙高院僧正が僧8人を伴い、後鳥羽天皇の皇后、宜秋門院の命で祈禱を行い、

【毘沙門〔びしゃもん〕法】
(8)毘沙門天を本尊として戦勝祈願のために、

【(常住院僧正。三井。伴僧六口。資賃の御沙汰。)】
三井の常住院良尊僧正が僧6人を伴い、資賃の命により祈禱を行い、

【御本尊一日之を造らせらる。調伏の行儀は】
また一日で本尊を造って調伏の祈禱が行われたのは、

【如法〔にょほう〕愛染王〔あいぜんのう〕法】
(9)如法愛染明王法で、大愛染法、東寺で愛染明王を本尊として、

【(仁和寺御室の行法。五月三日之を始めて紫宸殿に於て二七日之を修せらる。)】
御室仁和寺の行法で5月3日に始めて14日間、紫宸殿で真言の祈禱を行い、

【仏眼〔ぶつげん〕法】
(10)仏眼〔ぶつげん〕法で一切仏眼大金剛吉祥一切仏母を本尊として、

【(太政僧正。三七日之を修す。)】
大政僧正が21日の間、降伏などを祈る密教の祈禱を行い、

【六字〔ろくじ〕法】
(11)六字〔ろくじ〕法で六観音を本尊として、調伏のために

【(快雅僧都)】
延暦寺の東搭西谷、功徳院の快雅僧都が祈禱を行い、

【愛染王法】
(12)愛染明王法で愛染明王を本尊として、

【(観厳僧正七日之を修す。)】
観厳僧正が七日間、祈禱を行い、

【不動〔ふどう〕法】
(13)不動明王法で不動明王を本尊として、真言宗山階派大本山、

【(勧修寺の僧正。伴僧八口。皆僧綱。)】
勧修寺の僧正が僧綱の位にある僧8人を伴い真言密教の祈禱を行い、

【大威徳法(安芸僧正)】
(14)大威徳明王を本尊として、安芸の僧正が密教の祈禱を行い、

【金剛〔こんごう〕童子〔どうじ〕法(同人)】
(15)金剛童子を本尊として、同じく安芸の僧正が調伏のために祈禱を行い、

【已上十五壇法了〔おわ〕んぬ。】
以上で15壇の秘法は、終わりました。

【五月十五日】
5月15日に後鳥羽上皇の倒幕軍に襲撃され、

【伊賀太郎判官〔はんがん〕光季〔みつすえ〕京にして討たれ、】
鎌倉幕府の京都守護、伊賀太郎判官〔はんがん〕光季〔みつすえ〕が京で討たれ、

【同十九日鎌倉に聞こえ、】
同じく19日には、そのことが鎌倉に知れわたり、

【同二十一日大勢の軍兵上ると聞こえしかば残る所の法】
同21日、大勢の軍兵が京に攻め上ると聞こえてきたので、残りの法の修法を

【六月八日之を行なひ始めらる。】
6月8日から、始めたのです。

【尊星王〔そんじょうおう〕法)】
(16)北極星である尊星王(妙見)を本尊として、三井寺で智証大師が唐において

【(覚朝僧正)】
直接授与されたとして重視された祈禱法で園城寺管長、覚朝僧正が国家安泰を祈り、

【太元〔たいげん〕法】
(17)大元帥明王〔だいげんすいみょうおう〕を本尊として、

【(蔵有僧都)】
法琳寺管長、蔵有僧都が密教の祈禱を行い、

【五壇〔ごだん〕法】
(18)五壇〔ごだん〕法で不動など五大明王を個別に安置して、国家安穏を願い、

【(太政僧正。永信法印。全尊僧都。猷円僧都。行遍僧都。)】
大政僧正、永信法印、全尊僧都、猷円僧都、行遍僧都が密教の祈禱を行い、

【守護経〔しゅごきょう〕法】
(19)金剛界三十七尊を本尊とし、守護国界主陀羅尼経によって、国の安穏を

【(御室之を行なはせらる我が朝二度之を行なふ。)】
目的として、我が国二度目の密教三箇大法の祈禱を仁和寺御室で行いました。

【五月二十一日武蔵守〔むさしのかみ〕殿海道より上洛し】
しかし、5月21日に武蔵守、北条宣時殿が東海道から、京へ上洛し、

【甲斐源氏は山道を上る、式部殿は北陸道を上り給ふ。】
甲斐源氏の軍勢は、東山道から、式部殿は、北陸道から攻め上りました。

【六月五日大津をか〔堅〕たむる手、甲斐源氏に破られ畢んぬ。】
6月5日には、大津を守っていた京都の兵が甲斐源氏に破られ、

【同六月十三日十四日宇治橋の合戦、同十四日に京方破られ畢んぬ。】
同じく6月13日、14日の宇治橋の合戦でも、京都方が破られてしまい、

【同十五日に武蔵守殿六条へ入り給ふ。諸人入り畢んぬ。】
同15日には、武蔵守殿が京の六条に討ち入り、他の者も入って、

【七月十一日に本院は隠岐国〔おきのくに〕へ流され給ひ、】
7月11日に首謀者である後鳥羽上皇は、隠岐の国へ流され、

【中院は阿波国〔あわのくに〕へ流され給ひ、】
討幕に参加していない土御門〔つちみかど〕上皇は、自ら望んで阿波の国へ、

【第三院は佐渡国〔さどのくに〕へ流され給ふ。】
順徳天皇は、佐渡の国へ流されました。

【殿上人〔てんじょうびと〕七人誅殺〔ちゅうさつ〕せられ畢んぬ。】
さらに殿上人〔てんじょうびと〕七人が誅殺〔ちゅうさつ〕されました。

【かゝる大悪法、年を経て漸々に関東に落ち下りて、】
このような大悪法が年を経て重なるにつれ、次第に関東に流れてきて、

【諸堂の別当〔べっとう〕供僧〔くそう〕となり連々と之を行なふ。】
諸堂の管長や僧侶となり、相次いで、この大悪法が行われるようになったのです。

【本より教法の邪正勝劣をば知〔し〕ろし食〔め〕さず。】
もとより、教義や法門の邪正勝劣など理解しておらず、

【只〔ただ〕三宝をばあが〔崇〕むべき事とばかりおぼしめす故に、】
ただ、仏法僧の三宝を崇〔あが〕めさえすればよいと思って、

【自然として是を用ひきたれり。関東の国々のみならず、】
自然と、これらの大悪法を用いてきたのです。また、関東の国々だけではなく、

【叡山・東寺・園城寺〔おんじょうじ〕の座主〔ざす〕・別当、】
京の比叡山延暦寺、真言宗東寺、園城寺〔おんじょうじ〕の座主や管長も、

【皆関東の御計らひと成りぬる故に、彼の法の檀那と成り給ひぬるなり。】
すべて鎌倉幕府の支配となったので、皆、この法の檀那となってしまったのです。


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