日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


最蓮房御消息文 01 最蓮房について

最蓮房については、不明な点が多く、今日でも、憶測や想像の域を出ない話が多々あるのですが、日蓮大聖人が「大事の法門」と呼ばれている生死一大事血脈抄や草木成仏口決、さらに諸法実相抄、当体義抄、立正観抄などの重要な御書を数多く賜〔たまわ〕っています。
その御書の中で立正観抄の冒頭に日蓮大聖人御自身が「法華止観同異決」と著〔あらわ〕されているように天台宗の教義の奥義である法華経と天台大師が著した摩訶止観との同異を決すると述べられ、また、当時の天台宗で信じられていた摩訶止観は、法華経に優れており、座禅の修行は、摩訶止観に優れており、経文よりも観心の修行が優れており、顕教よりも密教が優れているなどの教義について、どのように考えるべきかを最蓮房に御教示され、さらに得受職人功徳法門抄では、天台宗の受職〔じゅしき〕潅頂〔かんじょう〕の意義について詳しく説明されるなど、当時の天台密教の邪義を破折され、天台大師、伝教大師の本来の正しい一心三観、一念三千の意味などについて重要な法門を顕されている事から、最蓮房自身が当時の天台宗の教義について相当な学識を備えている事がわかります。
最蓮房は、名を日浄〔にちじょう〕とも日栄〔にちえい〕とも、言われており、祈禱経送状に「御状に十七出家の後は妻子を帯せず」(御書642頁)とあるので、十七歳で出家して僧侶となり、また天台教学についての御指南が頂いた御書に数多くある事から、おそらくは、天台宗の学僧であったことが伺〔うかが〕えますが、これも同じ御書に「但今の御身は念仏等の権教を捨て」(御書642頁)とあるので、詳細は、不明です。
すでに大聖人流罪の前になんらかの理由で佐渡に流されていたようで、その罪名は、不明ですが、後に許されているので、刑罰による流罪と言うことは、考えにくく、おそらく、なんらかの権力争いに巻き込まれての流罪と考える方が妥当かも知れません。
開目抄には、当時の京での天台宗内の権力争いについて「寺塔を焼いて流罪せらるゝ僧侶はかず〔数〕をしらず」(御書569頁)とあるように僧侶同士の抗争による寺搭の焼き打ちなどが多くあった事がうかがわれます。
最蓮房御返事には「都よりの種々の物慥〔たし〕かに給〔た〕び候ひ畢んぬ」(御書585頁)「京都へ音信〔おとずれ〕申すべく候」(御書588頁)などの言葉があることから、最蓮房が京都の出身であることがわかります。
さらに「去ぬる二月の始めより御弟子となり」(御書585頁)との文章から、大聖人が佐渡に流された文永8年(西暦1271年)の翌年の二月には、すでに弟子となっていることがわかります。
また、本抄に「貴辺に去ぬる二月の比より大事の法門を教へ奉りぬ。結句は卯月〔うづき〕八日夜半寅〔とら〕の時に妙法の本円戒を以て受職〔じゅしょく〕潅頂〔かんじょう〕せしめ奉る者なり」(御書587頁)とあり、弟子入り間もない頃にも関わらず、僧侶として正式な大聖人の血脈を受けています。
また、生死一大事血脈抄には、「過去の宿縁追ひ来たって今度日蓮が弟子と成り給ふか。釈迦多宝こそ御存知候らめ。在々諸仏土〔ざいざいしょぶつど〕常与師倶生〔じょうよしぐしょう〕よも虚事〔そらごと〕候はじ。殊に生死一大事の血脈相承の御尋ね先代未聞の事なり貴〔とうと〕し貴し。此の文に委悉〔いしつ〕なり、能く能く心得させ給へ」(御書514頁)と久遠以来の師と弟子であると讃嘆され、さらにまた、最蓮房御返事には、「我らは、共に流人であっても、身心ともに嬉しく思えるのです。重要な法門を昼夜に思索し、成仏の理を時々、刻々に味わっているのです。このように時を過ごしているので、流罪の年月を送っていても、長く感じず、過ぎた時間も、それほど経っているようには思えません。例えば、釈迦、多宝の二仏が多宝塔の中に並んで座って、法華経の妙理を共に頷き合われたとき、五十小劫と言う長い時間が経っていたにもかかわらず、仏の神力によって諸々の大衆に半日のように思わせたと法華経、従地涌出品に説かれているのと同じなのです。この世界の初め以来、父母、主君などの迫害を受け、遠国の島に流罪された人で、私達のように喜びが身に溢れている者は、まさか、いないでしょう。それゆえ、私達が住んで、法華経を修行する場所は、いずれの場所であっても、常寂光の都となるのです。私達の弟子檀那となった人は、こうやって、一歩も歩まないのに、遠くでインドの霊鷲山を見ることができ、本有の寂光土へ昼夜のうちに往復することができるのです。言いようがないほど、嬉しいことです。」と、最蓮房と語る、ひと時の御境地を述べられています。
この最蓮房御返事の最後には「あなたの御流罪が早く許されて、都へ上られたならば、日蓮も、北条時宗殿が許さないと仰せられても、諸天などに申して、鎌倉に帰り、京都に御手紙を差し上げましょう」とあり、この文章から見ると佐渡に居た最蓮房が京都へ帰ることを待ち望んでいたと思われます。
そうであれば、最蓮房が赦免になった時、京都に向かうのは、自然と言えるでしょう。 その赦免の時期について考えてみると、その手掛かりとなるものが、立正観抄です。 文永十二年(西暦1275年)日付のある立正観抄の冒頭には、「当世〔とうせい〕天台の教法を習学するの輩」(御書766頁)とあり、立正観抄送状の冒頭には「今度の御使ひ誠に御志の程顕はれ候ひ了んぬ」(御書773頁)とあり、これは、最蓮房が使いの者を大聖人の元に送られた事に対する御言葉ですが、この使いの者が、どこから来たのかが問題なのです。
「当世〔とうせい〕天台の教法を習学するの輩」と言う文章の流れからすると、佐渡からのものとは、考え難いのでは、ないでしょうか。
この時には、すでに最蓮房は、京都にいたのではないかと推測すると最蓮房の赦免は、大聖人が赦免になった文永十一年(西暦1274年)三月以降、十二月までの間となります。
また京都に帰郷したと言う説の一つの裏付けに身延山久遠寺三世の日進に依ると思われる立正観抄の写本の奥書があります。
そこには「洛中三条京極最蓮房之本御自筆」とあり、洛中の三条京極に於いて最蓮房の本の御自筆を、ある人が書写したと言うのです。
この事から、洛中の三条京極に最蓮房に送られた立正観抄の御真筆があったとすれば、これは、最蓮房が京都に帰っていた有力な証拠になるのではないでしょうか。 また、その後、最蓮房が身延の下山に住んでいたと言う伝承については、その根拠となるものは、極めて薄弱と言わざるを得ません。
現在、日蓮宗の長栄山本國寺(山梨県南巨摩郡身延町下山)は、開山上人を最蓮房日栄としており、そこの縁由には、下山兵庫助光基公の子、因幡房は、館の一隅に寺を建て阿弥陀経を読誦していましたが、宗祖日蓮上人に信服し、ただちに弟子となり、日永の名を賜わりました。この上は、父も法華経の信仰に引き入れようと努めましたが、父の反感は募るばかりで、これを聞いた宗祖は、建治三年(西暦1277年)因幡房に代って、父の光基公に下山御消息を与えました。
一読した光基公は、疑雲たちまちに晴れて宗祖の門下に入り、法重房日芳の名を賜わりました。時あたかも佐渡において門弟となった学僧、最蓮房上人は、宗祖を慕い身延に来ており、比叡山において学友であった因幡房に再会し、その奇遇を喜び、光基父子は、上人を開山とし寺を本国寺と改めました。寺は、後に穴山梅雪の屋敷となり、寺尾に移されましたが、武田家の滅亡後、現地に戻ったとあります。
江戸時代、中期の本化別頭仏祖統紀には「甲州下山本国寺開山日栄上人伝」として「師、諱は、日栄或いは、日浄と曰う、字は、最蓮、洛陽の人、天台宗の英なり、時の不遇に遭いて、佐州(佐渡)に謫〔なが〕せらる。文永九年壬申の春、我が高祖に相見す」とあり、この当時には、すでに身延下山の本国寺の開山上人を最蓮房日栄と言うようになっていたと思われます。
一説によると本国寺は、穴山梅雪〔ばいせつ〕の屋敷跡に建てられたものであり、当初は、西林房と言っていましたが、穴山梅雪が天正十年(西暦1582年)三月の武田家滅亡の際、敵の徳川方に寝返って甲斐進攻を助け、そのうえ、その年の六月、織田信長が家臣の明智光秀に討たれた本能寺の変で、徳川家康と共にいた堺から、急ぎ国許へ帰る途中、山城の宇治田原で土民によって殺されてしまいました。
その後、穴山家は、断絶してしまいますが、この梅雪が家康に降伏するときに二人の美女を献じており、その中のひとり、甲斐武田家臣、秋山虎泰の娘が生んだ子が後に徳川家康の五男、武田信吉〔のぶよし〕と名乗り、穴山の家を継いだのです。
天正十八年(西暦1590年)、八歳の信吉は、下総の小金三万石に封〔ほう〕ぜられて、梅雪の旧臣が付嘱され、慶長七年(西暦1602年)には、水戸二十五万石に加増され、この信吉が亡くなった後も水戸家によって、穴吹の家が引き継がれて、寛永十三年(西暦1636年)と、天和三年(西暦1683年)に梅雪の五十回忌、百回忌がなされており、おそらく、この「西林房」また、天正九年の文書に「西林坊」と記されているものが、寺となった折に、西林房の寺が最蓮房の寺と誤って伝承されたのではないかと言うものです。
いずれにしても、最蓮房の生涯については、ほとんどが想像の域を出る事がなく、駿河の出身であるとか、日興上人の別名であるなど、今も、まことしやかな説が数多く論じられています。


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