日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


最蓮房御消息文 02 最蓮房御返事


【最蓮房御返事 文永九年四月一三日 五一歳】
最蓮房御返事 文永9年4月13日 51歳御作

【御札の旨委細承り候ひ畢〔おわ〕んぬ。】
御札のことを子細に承〔うけたま〕わりました。

【都よりの種々の物慥〔たし〕かに給〔た〕び候ひ畢んぬ。】
また、都よりの種々の御供養の品々を確かに頂きました。

【鎌倉に候ひし時こそ常にかゝる物は見候ひつれ。】
鎌倉に居た時には、常に、このような物を見ていましたが、

【此の島に流罪せられし後は未だ見ず候。】
佐渡に流罪されてからは、未〔いま〕だ見ておりません。

【是〔これ〕体〔てい〕の物は辺土の小島にてはよによに目出度き事に思ひ候。】
これらの品々は、辺境の小島では、いよいよ有難く思われます。

【御状に云はく、去ぬる二月の始めより御弟子となり、】
御手紙には、去る二月の始めより、日蓮大聖人の弟子となり、

【帰伏仕り候上は、自今以後は人〔ひと〕数〔かず〕ならず候とも、】
帰伏したからには、今から後〔のち〕は、人数の内にも入らないでしょうが、

【御弟子の一分と思〔おぼ〕し食〔め〕され候はゞ、】
御弟子のひとりとでも思って頂〔いただ〕ければ、

【恐悦〔きょうえつ〕に相存ずべく候云云。】
恐悦至極〔きょうえつしごく〕に存じますとありました。

【経の文には「在々諸仏の土に、常に師と倶〔とも〕に生まれん」とも、】
法華経化城喩品には「あらゆる諸仏の国土に、常に師と共に生まれる」とも、

【或は「若し法師に親近〔しんごん〕せば】
あるいは、法華経法師品には「もし法師に親しく交わるならば、

【速〔すみや〕やかに菩薩の道を得ん。是の師に随順して学せば】
速やかに菩薩の道を得るであろう。この師にしたがって学ぶならば

【恒沙〔ごうじゃ〕の仏を見たてまつることを得ん」とも云へり。】
無数の仏を見ることができるであろう」とも説かれています。

【釈には「本此の仏に従って初めて】
また、天台の解説書、法華玄義には「もと、この仏に従って初めて

【道心を発〔お〕こし、亦此の仏に従って不退地に住せん」とも、】
仏道を求める心を起こし、また、この仏に従って不退の境地に住する」ともあり、

【或は云はく「此の仏菩薩に従って結縁し、】
あるいは、妙楽大師の法華文句記には「初め、この仏、菩薩に従って結縁し、

【還って此の仏菩薩に於て成就す」とも云へり。】
還って、この仏、菩薩において成就す」とも記されています。

【此の経釈を案ずるに、過去無量劫より已来〔このかた〕】
これらの経文や解釈書を考えてみると、過去の無量劫〔むりょうこう〕の昔から、

【師弟の契約有りしか。】
あなたと私の間には、師弟の約束があったのでしょうか。

【我等末法濁世に於て生を南閻浮提〔なんえんぶだい〕大日本国にうけ、】
我らが末法濁世において生を南閻浮提の大日本国に受け、

【忝〔かたじけな〕くも諸仏出世の本懐たる南無妙法蓮華経を口に唱へ】
恐れ多くも、諸仏、出世の本懐である南無妙法蓮華経を口に唱え、

【心に信じ身に持ち手に翫〔もてあそ〕ぶ事、】
心で信じ、身に持〔たも〕ち、手で取り扱〔あつか〕うことは、

【是偏〔ひとえ〕に過去の宿習〔しゅくじゅう〕なるか。】
偏〔ひとえ〕に過去からの宿縁〔しゅくえん〕なのでしょうか。

【予〔よ〕日本の体〔てい〕を見るに、第六天の魔王智者の身に入りて、】
私が現在の日本の姿を見ると、第六天の魔王が智者の身に入って、

【正師を邪師となし善師を悪師となす。経に】
正師を邪師となし、善師を悪師としています。法華経勧持品に

【「悪鬼其〔そ〕の身に入る」とは是なり。】
「悪鬼、その身に入る」と説かれているのは、このことなのです。

【日蓮智者に非ずと雖〔いえど〕も、第六天の魔王我が身に入らんとするに、】
日蓮は、智者ではないけれども、第六天の魔王が身に入ろうとしても、

【兼〔か〕ねての用心深ければ身によせつけず。】
兼〔か〕ねてから、用心深いので身に寄せつけません。

【故に天魔力及ばずして、王臣を始めとして、】
それ故に天魔は、力が及ばず、王や臣下を始めとして、

【良観等の愚癡の法師原〔ほっしばら〕に取り付ひて日蓮をあだむなり。】
良観などの愚かな法師達に取り付いて、日蓮を憎むのです。

【然るに今時は師に於て】
しかしながら、今の時代においては、師には、

【正師・邪師・善師・悪師の不同ある事を知って、】
正師と邪師、善師と悪師の違いがあることを知って、

【邪悪の師を遠離〔おんり〕し、正善の師に親近すべきなり。】
邪悪の師を遠ざけ、正善の師に近づき親しむべきなのです。

【設〔たと〕ひ徳は四海に斉〔ひと〕しく、智慧は日月に同じくとも、】
たとえ徳は、全世界に行きわたり、智慧は、日月のように輝いていたとしても、

【法華経を誹謗するの師をば悪師・邪師と知って、】
法華経を誹謗する師は、悪師であり、邪師であることを知って、

【是に親近すべからざる者なり。】
これに近づき親しむべきではないのです。

【或経に云はく「若し誹謗の者には共に住すべからず、】
大乗大集地蔵十輪経に「もし誹謗の者がいたならば、共に住んではならない。

【若し親近し共に住せば即ち阿鼻獄に趣〔おもむ〕かん」と】
もし近づき親しんで、共に住むならば、無間地獄に堕ちる」と

【禁〔いまし〕め給ふ是なり。いかに我が身は正直にして、】
戒〔いまし〕められているのは、この事なのです。どんなに自分自身は、正直で

【世間出世の賢人の名をと〔取〕らんと存ずれども、】
俗世間、出世間の賢人〔けんじん〕の名を得ようと思っても、

【悪人に親近〔しんごん〕すれば、自然に十度に二度三度其の教へに随ひ以て】
悪人に近づき親しめば、自然に十度に、二度、三度と、その教えに従ってしまい、

【行くほどに、終〔つい〕に悪人になるなり。】
行きつく先は、ついに悪人になってしまうのです。

【釈に云はく「若し人本〔もと〕悪無きも、】
妙楽大師の止観輔行伝〔ぶぎょうでん〕弘決に「もし、人が元は、悪くなくとも、

【悪人に親近すれば後必ず悪人と成り、】
悪人に近づき親しめば、後には、必ず悪人となり、

【悪名天下に遍〔あまね〕からん」云云。】
悪名は、天下に広く行き渡る」とあります。

【所詮其の邪悪の師とは今の世の法華誹謗の法師なり。】
結局、その邪悪の師とは、今の世の法華経誹謗〔ひぼう〕の法師なのです。

【涅槃経に云はく「菩薩、悪象等に於ては心に恐怖〔くふ〕すること無かれ、】
涅槃経には「菩薩よ、悪象等に対しては、恐れの心を持つ必要はない。

【悪知識に於ては怖畏〔ふい〕の心を生ぜよ。】
悪智識に対しては、恐れの心を生じさせるべきである。

【悪象の為に殺されては三趣〔さんしゅ〕に至らず、】
悪象のために殺された時は、地獄、餓鬼、畜生の三趣に至らない。

【悪友の為に殺されては必ず三趣に至らん」と。】
悪友のために殺された時は、必ず、地獄、餓鬼、畜生に至る」とあり、

【法華経に云はく「悪世の中の比丘は邪智にして】
法華経勧持品には「悪世の中の僧は、邪智にして、

【心諂曲〔てんごく〕に」等云云。】
心が、ひねくれている」などと説かれています。

【先々〔さきざき〕申し候如く、】
このように、前々から申し上げているように、

【善無畏・金剛智・達磨〔だるま〕・慧可〔えか〕・善導・】
善無畏〔ぜんむい〕、金剛智、達磨、慧可〔えか〕、善導〔ぜんどう〕、

【法然、東寺の弘法、園城寺の智証、山門の慈覚、関東の良観等の諸師は、】
法然、東寺の弘法、園城寺の智証、比叡山の慈覚、関東の良観などの諸師は、

【今経の「正直〔しょうじき〕捨方便〔しゃほうべん〕」の金言を読み候には】
法華経方便品の「正直に方便を捨て」の釈迦牟尼仏の金言を読んで、

【「正直捨実教〔しゃじっきょう〕】
「正直に実教である法華経を捨てて、

【但説〔たんせつ〕方便教〔ほうべんきょう〕」と読み、】
ただ、方便の教えである真言、念仏、禅、律を説く」と読み変え、

【或は「於諸経中〔おしょきょうちゅう〕最在其上〔さいざいごじょう〕」の】
あるいは、「諸経の中に於いて、法華経は、最も、その上に在り」の

【経文をば「於諸経中最在其下〔ごげ〕」と、】
法華経安楽行品の文章を「諸経の中に於いて、最もその下に在り」と読み変え、

【或は「法華最第一」の経文をば】
あるいは、法華経法師品の「法華、最も第一なり」の文章を

【「法華最第二第三」と読む。】
「法華、最も第二なり、第三なり」などと読み変えているのです。

【故に此等の法師原〔ほっしばら〕を邪悪の師と申し候なり。】
それ故に、これらの法師達を邪悪の師と言うのです。

【さて正善の師と申すは、釈尊の金言の如く、】
さて、正しい師と言うのは、釈尊の金言の通り、

【諸経は方便、法華は真実と正直に読むを申すべく候なり。】
諸経は、方便であり、法華経は、真実であると正直に読む者を言うのです。

【華厳の七十七の入法界品之を見るべし云云。】
華厳経の第77巻の入法界品〔にゅうほっかいぼん〕を見るべきです。

【法華経に云はく「善知識は是〔これ〕大因縁なり。】
法華経妙荘厳王本事品には「善知識は、これは、大因縁である。

【所謂〔いわゆる〕化導して仏を見たてまつり】
いわゆる教化して、仏を見たてまつり、

【阿耨菩提〔あのくぼだい〕を発〔お〕こすことを得せしむ」等云云。】
無上の悟りを求める心を起こさせる」などと説かれています。

【仏説の如きは、正直に四味・三教・小乗・権大乗の方便の諸経、】
仏の説によれば、正直に四味、三教、小乗、権大乗の方便の諸経と、

【念仏・真言・禅・律等の諸宗並びに所依の経を捨て、】
念仏、真言、禅、律などの諸宗派、並びに、その依り所になっている経文を捨て、

【但〔ただ〕唯以一大事因縁の妙法蓮華経を説く師を】
ただ、ただ一大事因縁をもって妙法蓮華経を説く師を

【正師・善師とは申すべきなり。】
正師、善師と言うべきなのです。

【然るに日蓮末法の初めの五百年に生を日域〔にちいき〕に受け、】
しかるに日蓮が末法の初めの五百年に日本に生を受け、

【如来の記文の如く三類の強敵〔ごうてき〕を蒙〔こうむ〕り、】
如来の予言のとおり、三類の強敵による迫害を受け、

【種々の災難に相値ひて、身命を惜しまずして】
種々の災難にあっても、身命を惜しまず

【南無妙法蓮華経と唱へ候は正師か邪師か。】
南無妙法蓮華経と唱えているのは、正師なのでしょうか、邪師なのでしょうか。

【能〔よ〕く能く御思惟〔しゆい〕之有るべく候。上に挙ぐる所の諸宗の人々は】
よくよく、考えて頂きたいものです。先に挙げた諸宗派の人々は、

【我こそ法華経の意を得て法華経を修行する者よと名乗り候へども、】
自分こそ法華経の意義を心得て、法華経を修行する者であると名乗っていますが、

【予が如く弘長には伊豆国に流され、】
日蓮のように、弘長元年に伊豆の国へ流され、

【文永には佐渡島に流され、或は竜口〔たつのくち〕の頸〔くび〕の座等、】
文永八年には、佐渡の島に流され、あるいは、竜の口で頸を斬る場所に座るなどの

【此の外種々の難は数を知らず。経文の如くならば】
数々の難にあっていないのです。もし、経文の通りであるならば、

【予は正師なり善師なり。諸宗の学者は】
私こそ、正師であり、善師では、ないでしょうか。諸宗の学者は、

【悉〔ことごと〕く邪師なり悪師なりと覚〔おぼ〕し食〔め〕し候へ。】
ことごとく邪師であり、悪師であると考えてください。

【此の外善悪二師を分別する経論の文等是広く候へども、】
この他、善悪の二師を区別する経論の文章などは、数多くありますが、

【兼ねて御存知の上は申すに及ばず候。】
すでに御存知なので、申し上げるまでもありません。

【只今の御文に自今以後は日比〔ひごろ〕の邪師を捨て】
ただいまの御手紙に、今後は、いままでの邪師を捨てて、

【偏〔ひとえ〕に正師と憑〔たの〕むとの仰せは】
ひとえに日蓮を正師として、帰依していくと言われているのは、

【不審に覚へ候。】
実に不思議なことに思われます。

【我等が本師釈迦如来法華経を説かんが為に出世ましませしには、】
我らの本師である釈迦如来が、法華経を説く為に出世されたときには、

【他方の仏菩薩等来臨〔らいりん〕影響〔ようごう〕して】
他方の仏や菩薩などがやって来〔こ〕られて、

【釈尊の行化を助け給ふ。】
釈尊の振る舞いや仏教の普及を助けられたのです。

【されば釈迦・多宝・十方の諸仏等の御使ひとして来たって】
それゆえ、釈迦、多宝、十方の諸仏などの御使いが来られて、

【化を日域に示し給ふにもやあるらん。】
仏教の普及を日本に示されることもあるでしょう。

【経に云はく「我於〔がお〕余国〔よこく〕遣化人〔けんげにん〕、】
法華経法師品に「我、他の国において、仏の使いの僧を遣〔つか〕わして、

【為其集聴法衆〔いごしゅうちょうほうしゅ〕、】
それが為に聴法〔ちょうぼう〕の衆〔しゅ〕を集め、

【亦遣化〔やくけんげ〕、随順〔ずいじゅん〕不逆〔ふぎゃく〕」と。】
また、使いの僧を遣〔つか〕わして随順して逆らわず」とある通りなのです。

【此の経文に比丘と申すは貴辺の事なり。】
この経文にある僧と言うのは、あなたのことです。

【其の故は聞法信受、随順不逆、】
その故は、「法を聞いて信受し、随順して逆わず」と言うのは、

【眼前なり。争〔いか〕でか之を疑ひ奉るべきや。】
実際に眼前の事実であり、どうして、これを疑うことができるでしょうか。

【設〔たと〕ひ又「在々諸仏土、】
たとえ、また法華経化城喩品に説かれているように「在々諸仏土に、

【常与師倶生」の人なりとも、三周の声聞の如く下種の後に】
常に師と共に生まれる」と言う人でも、三周の声聞のように、下種された後に

【退大取小して五道六道に沈輪〔ちんりん〕し給ひしが、】
大乗を退転し、小乗に堕ち、五道、六道に深く沈んできたのが、

【成仏の期来至して順次に得脱せしむべきゆへにや。】
成仏の時がきて、順番に得脱されるからなのでしょうか。

【念仏・真言等の邪法・邪師を捨てゝ】
そう言う事で、念仏、真言などの邪法、邪師を捨てて、

【日蓮が弟子となり給ふらん、有り難き事なり。】
日蓮の弟子となられたのでしょうか、有難いことです。

【何れの辺に付いても、予が如く諸宗の謗法を責め】
いずれにしても、日蓮と同じように諸宗の謗法を責め、

【彼等をして捨邪帰正せしめ給ふて、】
彼らに邪法を捨てさせ、正法に帰依させてから、

【順次に三仏座を並べ常寂光土に詣〔まい〕りて、】
順番に、釈迦、多宝、十方の諸仏が座を並べられている常寂光土に行き、

【釈迦・多宝の御宝前に於て、我等無始より已来〔このかた〕師弟の】
釈迦、多宝の前で「私達は、無始以来、師弟の

【契約有りけるか、無かりけるか。又釈尊の御使ひとして来たりて】
約束があったのでしょうか、なかったのでしょうか。また、釈尊の使いとして

【化し給へるか、】
仏教の普及を手伝って頂いたのでしょうか」と尋ねたときに、

【さぞと仰せを蒙〔こうむ〕りてこそ】
「そのとおりである」との答えを受けてこそ、

【我が心にも知られ候はんずれ。】
自分自身も納得されるのでは、ないでしょうか。

【何様にもはげませ給へ、はげませ給へ。】
それが、どうであろうと、諸宗の謗法を責めることを続けてください。

【何となくとも貴辺に去ぬる二月の比より】
どうと言うことでは、ありませんが、あなたに二月の頃から

【大事の法門を教へ奉りぬ。結句は卯月〔うづき〕八日夜半寅〔とら〕の時に】
重要な法門を教えて来ましたが、その上で4月8日の夜半、午前4時ごろに

【妙法の本円戒を以て】
妙法の本円戒をもって、法華経文底に秘された事の一念三千の御本尊を受持する

【受職〔じゅしょく〕潅頂〔かんじょう〕せしめ奉る者なり。】
受職〔じゅしょく〕潅頂〔かんじょう〕の儀式をして差し上げました。

【此の受職を得るの人】
この久遠一念元初の妙法を受け頂く最極無上の受職〔じゅしょく〕を得た人は、

【争〔いか〕でか現在なりとも妙覚の仏を成ぜざらん。】
どうして現世であっても、妙覚の仏とならないことがあるでしょうか。

【若し今生妙覚ならば】
もし、今生がすでに仏果を得た果位の妙覚の菩薩であるならば、

【後生豈〔あに〕等覚等の因分ならんや。】
後生が、どうして等覚の菩薩などの現在、修行中の因位の分際であるでしょうか。

【実に無始曠劫〔こうごう〕の契約、常与師倶生の理ならば、】
実に無始の昔からの約束であり、常に師と共に生まれると言うことであれば、

【日蓮今度成仏せんに貴辺豈〔あに〕相離れて】
日蓮が、このたび成仏するのに、あなたが、どうして、それから離れて

【悪趣に堕在したまふべきや。如来の記文・】
悪道に堕ちることが、あるでしょうか。如来の記〔しる〕した経文には、

【仏意の辺に於ては世出世に就きて更に妄語無し。】
仏の本意から見るときには、世間や出世間にあっても、全く嘘は、ないのです。

【然るに法華経には「我が滅後の後に於て応〔まさ〕に】
しかし、法華経神力品には「我が滅度の後に必ず

【斯〔こ〕の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定〔けつじょう〕して】
この経を受持すべし。この人は、仏道において成仏が決まっていることは、

【疑ひ有ること無けん」と。或は「速〔すみ〕やかに】
疑い有ること無し」とあり、法華経法師品には「何の問題もなく速やかに、

【為〔こ〕れ疾〔と〕く無上仏道を得たり」等云云。】
また、すぐに無上の仏道を得たり」などと説かれているのに、

【此の記文虚〔むな〕しくして我等が成仏】
もし、この経文が事実ではなく、私達の成仏が、

【今度虚言ならば、諸仏の御舌もきれ、多宝の塔も破れ落ち、】
今度〔このたび〕、嘘であったならば、諸仏の舌も切れ、多宝の塔も崩れ落ち、

【二仏並座〔びょうざ〕は無間地獄の熱鉄の床となり、】
釈迦、多宝が並んで座っているところは、無間地獄の焼けた鉄の床となり、

【方・実・寂の三土は地・餓・畜の三道と変じ候べし。】
方便土、実報土、寂光土は、地獄、餓鬼、畜生の三悪道と変じることでしょう。

【争〔いか〕でかさる事候べきや。あらたのもしやたのもしや。】
どうして、そのような事が、あるでしょうか。成仏は、間違いないのです。

【是くの如く思ひつゞけ候へば、】
このように思い続けていると、

【我等は流人なれども身心共にうれしく候なり。】
我らは、共に流人であっても、身心ともに嬉しく思えるのです。

【大事の法門をば昼夜に沙汰し、成仏の理をば時々刻々にあぢはう。】
重要な法門を昼夜に思索し、成仏の理を時々、刻々に味わっているのです。

【是くの如く過ぎ行き候へば、年月を送れども久しからず、】
このように時を過ごしているので、流罪の年月を送っていても、長く感じず、

【過〔す〕ぐる時刻も程あらず。】
過ぎた時間も、それほど経っているようには思えません。

【例せば釈迦・多宝の二仏塔中に並座〔びょうざ〕して、】
例えば、釈迦、多宝の二仏が多宝塔の中に並んで座って、

【法華の妙理をうなづき合ひ給ひし時、】
法華経の妙理を共に頷き合われたとき、

【五十小劫仏の神力の故に】
五十小劫と言う長い時間が経っていたにもかかわらず、仏の神力によって

【諸の大衆をして半日の如しと謂〔おも〕はしむと】
諸々の大衆に半日のように思わせたと

【云ひしが如くなり。】
法華経従地涌出品に説かれているのと同じなのです。

【劫初より以来、父母・主君等の御勘気を蒙り遠国の島に流罪せらるゝの人、】
この世界の初め以来、父母、主君などの迫害を受け、遠国の島に流罪された人で、

【我等が如く悦び身に余りたる者よもあらじ。】
私達のように喜びが身に溢れている者は、まさか、いないでしょう。

【されば我等が居住して一乗を修行せんの処は】
それゆえ、私達が住んで、法華経を修行する場所は、

【何れの処にても候へ、常寂光の都たるべし。】
いずれの場所であっても、常寂光の都となるのです。

【我等が弟子檀那とならん人は】
私達の弟子檀那となった人は、こうやって、

【一歩を行かずして天竺の霊山を見、】
一歩も歩まないのに、遠くでインドの霊鷲山を見ることができ、

【本有〔ほんぬ〕の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事、】
本有の寂光土へ昼夜のうちに往復することができるのです。

【うれしとも申す計り無し、申す計り無し。】
言いようがないほど、嬉しいことです。

【余りにうれしく候へば契約一つ申し候はん。】
あまりに嬉しく思うので、約束をひとつ致しましょう。

【貴辺の御勘気疾〔と〕く疾く許させ給ひて都へ御上り候はゞ、】
あなたの御流罪が早く許されて、都へ上られたならば、

【日蓮も鎌倉殿はゆるさじとの給ひ候とも】
日蓮も、北条時宗殿が許さないと仰せられても、

【諸天等に申して鎌倉に帰り、京都へ音信〔おとずれ〕申すべく候。】
諸天などに申して、鎌倉に帰り、京都に御手紙を差し上げましょう。

【又日蓮先立ちてゆ〔許〕り候ひて鎌倉へ帰り候はゞ、】
また、日蓮が先に許されて鎌倉に帰ったならば、

【貴辺をも天に申して古京〔こきょう〕へ帰し奉るべく候。】
あなたを、諸天に申して、故郷に帰られるようにしましょう。

【恐々謹言。】
恐れながら謹んで申し上げます。

【四月十三日    日蓮花押】
4月13日   日蓮花押

【最蓮房御返事】
最蓮房御返事

【夕さりは相構へ相構へて御入り候へ。】
夕方は、よくよく用心して、こちらへ来てください。

【得受〔とくじゅ〕職人〔しょくにん〕功徳法門】
得受〔とくじゅ〕職人〔しょくにん〕功徳法門について

【委〔くわ〕しく御申し候はん。】
詳しく、申し上げましょう。


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