御書研鑚の集い 御書研鑽資料
最蓮房御消息文 06 立正観抄送状
【立正観抄送状 文永一二年二月二八日 五四歳】
立正観抄送状 文永12年2月28日 54歳御作
【今度の御使ひ誠に御志の程顕はれ候ひ了んぬ。】
このたびの御使いは、まことに御志が顕れておりました。
【又種々の御志慥〔たし〕かに給〔た〕び候ひ了んぬ。】
また、種々の御志の御供養を確かに頂戴致しました。
【抑〔そもそも〕承り候当世の天台宗等、】
さて、御手紙で、現在の天台宗などが、
【止観〔しかん〕は法華経に勝れ禅宗は止観に勝る、】
「摩訶止観は、法華経よりも優れ、禅宗は、摩訶止観よりも優れている」、
【又観心〔かんじん〕の大教興〔おこ〕る時は本迹〔ほんじゃく〕の】
また「観心の大教が興る時は、法華経の本門、迹門の
【大教を捨つと云ふ事。】
大教を捨てる」と言っていることを拝見致しました。
【先づ天台一宗に於て流々】
まず、天台宗の中にも様々な流派があり、
【各別なりと雖も、慧心〔えしん〕・】
その主張が別々であると言っても、結局、慧心〔えしん〕流、
【檀那〔だんな〕の両流を出でず候なり。】
檀那〔だんな〕流の二つの流派の域を出ることはないのです。
【慧心流の義に云はく、止観の一部は本迹二門に亘〔わた〕るなり。】
慧心〔えしん〕流の義では「摩訶止観一部は、本迹二門にわたる」と言い、
【謂〔い〕はく、止観の六に云はく】
次の文章を、その証拠としています。それは、摩訶止観の第六巻に
【「観は仏知に名づけ、止は仏見に名づく。】
「止観の観は、仏知と名づけ、止は、仏見と名づける。
【念々の中に於て止観現前す。乃至】
瞬間、瞬間の一念の中に止観が現れるのである。(中略)
【三乗の近執〔ごんしゅう〕を除く」文。】
ただし菩薩、縁覚、声聞の始成正覚に執着している者を除く」とあり、
【弘決〔ぐけつ〕の五に云はく】
止観輔行伝弘決〔しかんぶぎょうでんぐけつ〕の第五巻には
【「十法既に是〔これ〕法華の所乗〔しょじょう〕なり。】
「十法成乗〔じっぽうじょうじょう〕の観法は、まさに法華経に説かれている。
【是の故に還って法華の文を用ひて歎ず。】
この為に法華経に立ち還って、法華経の文章を用いて観法を賛嘆している。
【若し迹に約して説かば、即ち大通智勝仏〔だいつうちしょうぶつ〕の時を】
法華経迹門からみれば、大通智勝仏〔だいつうちしょうぶつ〕の時に
【指して以て積劫〔しゃっこう〕と為〔な〕し、】
何劫にも、わたる修行を積んだとし、
【寂滅〔じゃくめつ〕道場を以て妙悟と為す。】
寂滅道場で、思議し難い悟りを得て、妙の悟りと為す。
【若し本門に約せば、我〔が〕本行〔ほんぎょう〕菩薩道〔ぼさつどう〕の時を】
法華経本門からみれば、我本行〔がほんぎょう〕菩薩道の時に、
【指して以て積劫と為し、】
何劫にも、わたる修行を積んだとし、
【本成仏の時を以て妙悟と為す。】
五百塵点劫の成道の時に、思議しがたい悟りを得て、妙の悟りと為す。
【本迹二門は只〔ただ〕是〔これ〕此の十法を】
法華経の本迹二門は、ただ、この十法成乗〔じっぽうじょうじょう〕の観法を
【求悟〔くご〕す」文。】
求道の証悟とす」とあります。いずれも、本門、迹門を出るものではありません。
【始めの一文は本門に限ると見えたり。】
初めの文章では、摩訶止観は、法華経本門に限るとしており、
【次の文は正〔まさ〕しく本迹に亘ると見えたり。】
次の文章では、摩訶止観は、まさしく本門、迹門にわたるとしています。
【止観は本迹に亘ると云ふ事、】
それ故に、これらは、摩訶止観が法華経本門、迹門にわたると言う事の
【文証此〔これ〕に依るなりと云へり。】
証拠の文章であると言っているのです。
【次に檀那流には止観は迹門に限ると云ふ】
次に檀那〔だんな〕流は、摩訶止観は、迹門に限ると言っています。
【証拠は、弘決の三に云はく】
その証拠は、止観輔行伝弘決〔しかんぶぎょうでんぐけつ〕の第三巻の
【「還って教味を借りて以て妙円を顕はす。】
「法華経に立ち還って、四教や五味を借り妙円を顕すのである。(中略)
【故に知んぬ、一部の文共に円乗〔えんじょう〕の開権〔かいごん〕】
それ故に、一部の文章は、ともに円成〔えんじょう〕の権を開いて
【妙観〔みょうかん〕を成ず」文。】
妙観を成じているのを知るのである」の文章に依るのです。
【此の文に依らば、止観は法華の迹門に限ると云ふ事、】
この文章によれば、摩訶止観は、法華経の迹門に限ると言うことが、
【文に在って分明なり。】
文章によって明らかであるとしています。
【両流の異義替はれども倶〔とも〕に本迹を出でず。当世の天台宗】
慧心、檀那の二つの流派の義は、異なっていても、現在の天台宗は、
【何〔いず〕くより相承して止観は法華経に勝ると云ふや。】
どこから相承して、摩訶止観は、法華経に優れていると言うのでしょうか。
【但予が所存は止観・法華の勝劣は】
ただし、日蓮が理解しているところでは、摩訶止観と法華経の優劣は
【天地雲泥なり。若し与へて之を論ぜば】
天地雲泥〔うんでい〕であり、もし、あえて、これを論ずるのであれば、
【止観は法華迹門の分斉〔ぶんざい〕に似たり。】
摩訶止観は、法華経の迹門の分斉〔ぶんざい〕に似ているのです。
【其の故は天台大師の己証〔こしょう〕とは、十徳の中の】
それは、天台大師の己心に証得したものは、天台大師の十徳の中で言えば、
【第一は自解〔じげ〕仏乗〔ぶつじょう〕、】
十徳の第一の「自ら仏乗を解す」であり、
【第九は玄悟〔げんご〕法華〔ほっけ〕円意〔えんい〕なり。】
十徳の第九の「法華の円意〔えんい〕を玄悟〔げんご〕す」であるのです。
【霊応伝〔れいおうでん〕の第四に云はく】
天台霊応〔れいおう〕図本伝集の第四巻には
【「法華の行を受けて二七〔にしち〕日境界〔きょうがい〕す」文。】
「法華教を修行することを十四日にして、己心の境界に入った」と言い、
【止観の一に云はく「此の止観は天台智者、】
摩訶止観の第一巻には「この摩訶止観は、天台智者大師が
【己心中所行の法門を説く」文。】
己心の中に行ずる法門を説く」と言い、
【弘決の五に云はく】
止観輔行伝弘決〔しかんぶぎょうでんぐけつ〕の第五巻には
【「故に止観の正しく観法を明かすに至って、】
「ゆえに摩訶止観に正しく観法を明かすに至って、
【並びに三千を以て指南と為す。故に序の中に云はく、】
一念三千をもって指南を為す。(中略)ゆえに章安大師が序の中で
【説己心中所行〔せっこしんちゅうしょぎょう〕法門〔ほうもん〕」文。】
己心の中に行ずる法門を説く」と言っているのです。
【己心所行の法門とは一念三千・一心三観〔さんがん〕なり。】
「己心に行ずる法門」とは、一念三千、一心三観なのです。
【三諦三観の名義〔みょうぎ〕は瓔珞〔ようらく〕・仁王〔にんのう〕の】
三諦、三観の言葉や意味は、瓔珞〔ようらく〕経や仁王〔にんのう〕経の
【二経に有りと雖も、一心三観・一念三千等の己心所行の法門をば、】
二経にありますが、一心三観、一念三千などの「己心に行ずる法門」は、
【迹門の十如実相の文を依文として釈成し給ひ了んぬ。】
法華経迹門の十如実相の文章を依り処として解釈して説かれたものです。
【爰〔ここ〕に知んぬ、止観一部は迹門の分斉に似たりと云ふ事を。】
この事から摩訶止観一部は、迹門の分斉に似ていると言う事がわかるのです。
【若し奪って之を論ぜば、爾前・権大乗は即ち別教の分斉なり。】
もし奪ってこれを言えば、摩訶止観は、爾前、権大乗と同じ別教の分斉なのです。
【其の故は天台己証の止観とは道場所得の妙悟なり。】
その理由は、天台大師が己心に証得した止観とは、道場証得の悟りであり、
【所謂天台大師、大蘇〔だいそ〕の普賢〔ふげん〕道場に於て】
それは、いわゆる天台大師が大蘇〔だいそ〕山の普賢〔ふげん〕道場で
【三昧〔さんまい〕を開発〔かいほつ〕し、証を以て師に白〔もう〕す。】
三昧の境地を開いて証得した悟りを、師の南岳大師に申し上げたところ、
【師の曰く、法華の前方便〔ぜんほうべん〕】
南岳大師は「その証得した悟りは、法華経の前に説かれた方便にあたる
【陀羅尼〔だらに〕なりと。】
陀羅尼〔だらに〕である」と言われているからです。
【霊応伝の第四に云はく】
このことを、天台霊応〔れいおう〕図本伝集の第四巻には
【「智顗〔ちぎ〕、師に代はって金字経〔こんじきょう〕を講ず。】
「天台大師智顗〔ちぎ〕が南岳大師に代わって、金字の大品般若経を講じた。
【一心具足〔ぐそく〕万行の処に至って、顗〔ぎ〕、疑ひ有り。】
そのとき、一心具足万行のところに至って、智顗〔ちぎ〕に疑問があり。
【思〔し〕、為に釈して曰く、】
天台大師の師である南岳大師、慧思〔えし〕は、その疑問に対して、
【汝が疑ふ所は此乃〔すなわ〕ち大品次第の意なるのみ。】
汝〔なんじ〕の疑うところは、大品般若経の次第行の意なのである。
【未だ是〔これ〕法華円頓〔えんどん〕の旨〔むね〕にあらざるなり」文。】
未だ、これは、法華経の円頓の意味ではない」とあります。
【講ずる所の経、既に権大乗経なり。】
それは、講義した経典が、既に権大乗経の大品般若経であるからなのです。
【又「次第」と云へり、】
また「次第行の意」と言っているのですから、一心具足万行と言っても、
【故に別教なり。】
法華経の円融三観ではなく、次第三観の修行で有り、別教なのです。
【開発せし陀羅尼、又法華の前方便と云へり。】
開悟した陀羅尼は、また法華経の爾前の方便であると言っています。
【故に知んぬ、爾前帯権〔たいごん〕の経は別教の分斉なりと云ふ事を。】
それ故に、爾前の権教を帯びた別教の分斉であると言うことが明らかなのです。
【己証〔こしょう〕既に前方便の陀羅尼なり。】
己心に証得した悟りが、すでに爾前の方便の陀羅尼であり、
【止観とは「説己心中所行法門」と云ふが故に。】
摩訶止観は、「己心の中に行ずる法門を説いた」と言うのですから、
【明らかに知んぬ、法華の迹門に及ばずと云ふ事を。】
明らかに知る事ができるのです。摩訶止観は、法華経の迹門に及ばないのです。
【何〔いか〕に況んや本門をや。】
まして、法華経の本門には、及ばないのです。
【若し此の意を得ば檀那流の義尤〔もっと〕も吉〔よ〕きなり。】
もし、この意味を知れば、檀那流の教義が最も正しいのです。
【此等の趣〔おもむ〕きを以て止観は】
これらの趣旨をもって、摩訶止観は、
【法華に勝ると申す邪義をば問答有るべく候か。】
法華経より優れていると言う邪義に対して、説明されるのが正しいでしょう。
【委細の旨は別に一巻書き進〔まい〕らせ候なり。】
詳しい趣旨は、別に一巻、書き送りました。
【又日蓮相承の法門血脈、慥〔たし〕かに之を註〔ちゅう〕し奉る。】
また、日蓮の相承の法門、血脈を、確かに解き明かして差し上げました。
【恐々謹言。】
恐れながら謹んで申し上げます。
【二月二十八日 日蓮花押】
2月28日 日蓮花押
【最蓮房御返事】
最蓮房御返事