日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


最蓮房御消息文 06 十八円満抄


【十八円満抄 弘安三年一一月三日 五九歳】
十八円満抄 弘安3年11月3日 59歳御作

【日蓮之を記す】
日蓮、これを記〔しる〕す

【問うて云はく、十八円満の法門の出処〔しゅっしょ〕如何〔いかん〕。】
それでは、質問しますが、十八円満の法門は、何処から出ているのでしょうか。

【答へて云はく、源〔みなもと〕蓮の一字より起これるなり。】
それに答えると、その源〔みなもと〕は、蓮の一字から起こっているのです。

【問うて云はく、此の事所釈〔しょしゃく〕に之を見るや。】
それでは、この法門を解釈書で見たことがありますか。

【答へて云はく、伝教大師】
それは、伝教大師の修禅寺〔しゅぜんじ〕相伝口決の四巻の中の

【修禅寺〔しゅぜんじ〕相伝〔そうでん〕の日記に之在り。】
修禅寺〔しゅぜんじ〕相伝日記第二巻の中にあります。

【此の法門は当世天台宗の奥義なり。秘すべし秘すべし。】
この法門は、現在の天台宗の奥義であり、秘すべきことなのです。

【問うて云はく、十八円満の名目〔みょうもく〕如何。】
それでは、十八円満の名称とは、どのようなものなのでしょうか。

【答へて云はく、一に理性円満、二に修行円満、三に化用〔けゆう〕円満、】
それは、一に理性円満、二に修行円満、三に化用〔けゆう〕円満、

【四に果海〔かかい〕円満、五に相即〔そうそく〕円満、】
四に果海〔かかい〕円満、五に相即円満、

【六に諸教円満、七に一念円満、八に事理円満、】
六に諸教円満、七に一念円満、八に事理円満、

【九に功徳円満、十に諸位円満、十一に種子円満、十二に権実円満、】
九に功徳円満、十に諸位〔しょい〕円満、十一に種子円満、十二に権実円満、

【十三に諸相円満、十四に俗諦〔ぞくたい〕円満、】
十三に諸相円満、十四に俗諦〔ぞくたい〕円満、

【十五に内外円満、十六に観心〔かんじん〕円満、】
十五に内外〔ないげ〕円満、十六に観心円満、

【十七に寂照〔じゃくしょう〕円満、十八に不思議円満(已上)。】
十七に寂照円満、十八に不思議円満の以上十八円満です。

【問うて云はく、意如何。】
それでは、その意味は、どのようなものなのでしょうか。

【答へて云はく、此の事伝教大師の】
それは、伝教大師の修禅寺〔しゅぜんじ〕相伝日記の中の法華深義の項目に

【釈に云はく】
以下のように説明されています。

【「次に蓮の五重玄〔じゅうげん〕とは、】
「妙法蓮華経の一字一字に、名体宗用教の五重玄義があり、その蓮の名玄義の中に

【蓮をば華因成果〔けいんじょうか〕の義に名づく。】
因である諸法が果である法華経を作ると言う意味で蓮と名付けるのである。

【蓮の名は十八円満の故に】
(名) つまり、蓮の名には、十八種の円満な法華経の功徳が

【蓮と名づく。】
全て具〔そな〕わっているので、蓮と名付けるのである。

【一に理性円満、謂〔い〕はく万法悉〔ことごと〕く真如法性の実理に帰す。】
(01) 一に理性円満とは、万法は、すべてが常住、真実の法性の実理に帰し、

【実性の理に万法円満す、】
諸法実相の理に万法が全て具〔そな〕わっている故に、

【故に理性を指して蓮と為す。】
この理性を指して蓮と名付ける。

【二に修行円満、謂はく有相無相の】
(02) 二に修行円満とは、有相行の法華経読誦、無相行の

【二行を修して万法円満す、】
一心三観、一念三千の二つを修行する事によって

【故に修行を蓮と為す。】
万法が全て具〔そな〕わる故に、この修行を指して蓮と名付ける。

【三に化用円満、謂はく心性の本理に】
(03) 三に化用〔けゆう〕円満とは、如来の蔵心、自性清浄心の本来本有の真理に

【諸法の因分有り。此の因分に由って化他の用を具す、故に】
諸法の因があり、この因によって化他の働きを全て具〔そな〕わる故に

【蓮と名づく。】
その教化、指導の働きを指して蓮と名付ける。

【四に果海円満とは、諸法の自性を尋ねて】
(04) 四に果海〔かかい〕円満とは、諸法の違いである根本的な原因を尋ねて、

【悉く本性を捨て無作の三身を成す。】
ことごとく、その原因の本質を捨て、法、報、応の無作の三身即一身を成し、

【法として無作の三身に非ざること無し、故に蓮と名づく。】
法として無作の三身に非ざる事がない故に果海を指して蓮と名付ける。

【五に相即円満、謂はく煩悩の自性〔じしょう〕】
(05) 五に相即〔そうそく〕円満とは、煩悩の根本的な原因が、

【全く菩提〔ぼだい〕にして一体不二の故に】
すべて菩提〔ぼだい〕であって、このふたつが常に一体不二である故に、

【蓮と為す。】
この相即〔そうそく〕を指して蓮と名付ける。

【六に諸教円満とは諸仏の内証〔ないしょう〕の】
(06) 六に諸教円満とは、諸仏の内証の

【本蓮〔ほんれん〕に諸教を具足して】
真実の悟りである妙法蓮華経の蓮に諸教を全て具〔そな〕え、

【更に欠減〔けつげん〕無きが故に。】
全て欠ける事がない故に、その諸経を指して蓮と名付ける。

【七に一念円満、謂はく根塵〔こんじん〕相対して】
(07) 七に一念円満とは、六根が六境(六塵)に縁して六識となり、

【一念の心起こるに三千世間を】
一念の心が起き、三千世間を

【具するが故に。】
全て具〔そな〕える故に、この一念を指して蓮と名付ける。

【八に事理円満とは、一法の当体而二〔にに〕】
(08) 八に事理円満とは、一法の当体に二つの側面があり、

【不二〔ふに〕にして欠減無く】
しかも、その本質は、一であり、この一法に欠ける事なく

【具足するが故に。】
全てが具〔そな)わる故に、事の理を指して蓮と名付ける。

【九に功徳円満、謂はく妙法蓮華経に】
(09) 九に功徳円満とは、妙法蓮華経に、

【万行の功徳を具して】
全ての修行の功徳を具〔そな〕えており、

【三力の勝能〔しょうのう〕有るが故に。】
法力、仏力、信力の優れた能力がある故に、この功徳を指して蓮と名付ける。

【十に諸位円満とは、】
(10) 十に諸位〔しょい〕円満とは、

【但一心を点ずるに】
ただ一心を読み、一心を見れば仏なりと考えを転して理解できた時に、

【六即円満なるが故に。】
六即が全て具〔そな)わる故に、この六即の位を指して蓮と名付ける。

【十一に種子円満とは、一切衆生の心性に】
(11) 十一に種子円満とは、一切衆生の心性に

【本〔もと〕より成仏の種子を具す。】
本来より仏種を全て具〔そな〕えており、この仏種を指して蓮と名付ける。

【権教は種子円満無きが故に皆成仏道の旨を説かず。故に蓮の義無し。】
権教では、その種子がないので皆成仏道を説かず、蓮の義はない。

【十二に権実円満、謂はく法華実証〔じっしょう〕の時は】
(12) 十二に権実円満とは、法華経の義が実証された時には、

【実に即して而〔しか〕も権、権に即して而も実、】
実に即して権、権に即して実であり、

【権実相即して欠減無きが故に、円満の法にして】
権実相即〔そうそく〕して欠ける事がない故に全てを具〔そな〕えた法となり、

【既に三身を具するが故に、】
既に法報応の三身を全て具〔そな〕える故に、

【諸仏常に法を演説す。】
諸仏は、常に法を演説するのである。

【十三に諸相円満、謂はく一々の相の中に】
(13) 十三に諸相円満とは、一々の相の中に、下天、託胎、出胎、出家、

【皆八相を具して】
降魔、成道、転法輪、入涅槃の八相を全て具〔そな〕え、

【一切の諸法常に八相を唱ふ。】
一切の諸法は、常に、八相を示すのである。

【十四に俗諦円満、謂はく十界・百界乃至三千の本性常住不滅なり、】
(14) 十四に俗諦円満とは、十界、百界、三千の本性が常住不滅の姿なのであり、

【本位を動ぜず】
諸法が差別を持ったままの本位、

【当体即理の故に。】
真実である故に世俗の姿を指して蓮と名付けるのである。

【十五に内外円満、謂はく非情の外器〔げき〕に】
(15) 十五に内外円満とは、外界の草木や国土などの非情の世界に

【内の六情を具す。】
有情の喜怒哀楽及び愛憎の六情を全て具〔そな〕え、

【有情数〔うじょうしゅ〕の中に亦〔また〕非情を具す。】
また、有情の生物の中に、また非情の髪や爪などを具〔そな〕えているのである。

【余教は内外円満を説かず、故に草木〔そうもく〕成仏すること能〔あた〕はず。】
余教は、内外円満を説いていない故に草木成仏することが出来ず、

【草木成仏するに非ざるが故に亦蓮と名づけず。】
草木成仏でない故に蓮とは、名付けない。

【十六に観心円満とは、六塵〔じん〕】
(16) 十六に観心円満とは、色、声、香、味、触、法の六つの環境(六塵)によって

【六作〔さ〕常に観心の相にして】
六つの作用(六受)が起き、常に観心の相となって、

【更に余義〔よぎ〕に非ざるが故に。】
全く他にあらざる故に、この観心を蓮と名付ける。

【十七に寂照円満とは、文に云はく、】
(17) 十七に寂照円満とは、章安大師の摩訶止観の序の文には、

【法性〔ほっしょう〕寂然〔じゃくねん〕なるを止〔し〕と名づけ、】
法性寂然なるを止〔し〕と名〔なず〕く、

【寂にして而も常に照らすを観と名づくと。】
寂にして、しかも常に照すを観と名付くとあり、この寂照を蓮と名付ける。

【十八に不思議円満とは、謂はく細〔くわ〕しく諸法の自性を尋ぬるに、】
(18) 十八に不思議円満とは、詳しく諸法の自性を尋ねてみれば、

【非有〔ひう〕非無〔ひむ〕にして諸の情量を絶し、】
諸法が有でもなく無でもなく、すべての思慮、思索を絶して、及ぶ所ではなく、

【亦三千三観並びに寂照等の相無く、】
また、一念三千、一心三観、ならびに寂照などの相がなく、

【大分の深義】
不変真如、隨縁真如が一体であって二相の体を分かたずと言う深義が

【本来不思議なるが故に名づけて蓮と為すなり。】
本来不思議なる故に、名付けて蓮と名付ける。

【此の十八円満の義を以て委〔くわ〕しく経意を案ずるに、】
この十八円満の義をもって、詳しく経文の意味を思案してみると、

【今経の勝能並びに観心の本義良〔まこと〕に蓮の義に由る。】
法華経の卓越した働きや観心の本義は、まことに蓮の義に依るのである。

【二乗・悪人・草木等の成仏並びに久遠塵点等は、】
二乗、悪人、草木などの成仏、ならびに久遠五百塵点などは、

【蓮の徳を離れては余義有ること無し、】
蓮の徳を離れては存在しないのである。

【座主〔ざす〕の伝に云はく、玄師〔げんし〕の】
中国天台宗の第五代座主で妙楽の師、左渓玄朗〔さけいげんろう〕の

【正決を尋ぬるに十九円満を以て蓮と名づく。】
伝えに依ると、その正しいと思われる所では、十九円満を蓮と名付くとあり、

【所謂〔いわゆる〕当体円満を加ふ。当体円満とは当体の蓮華なり。】
つまり当体円満を加えており、当体円満とは、当体蓮華のことである。

【謂はく、諸法は自性清浄にして染濁を離るゝを本より蓮と名づく。】
諸法の自性が清浄にして、汚濁を離れている事を本より蓮と名付ける。

【一経の説に依るに、一切衆生の心〔むね〕の間に八葉の蓮華有り。】
ある経文によると、一切衆生の胸の間には、八葉の蓮華があるが、

【男子〔なんし〕は上に向かひ、女人は下に向かふ。】
男性は、上に向かい、女性は、下に向かう。

【成仏の期に至れば設〔たと〕ひ女人なりと雖も心の間の蓮華】
成仏の時に至れば、たとえ女性であっても、胸の間の蓮華は、

【速やかに還〔かえ〕りて上に向かふ。】
速やかに返って、上に向かう。

【然るに今の蓮、仏意に在るの時は本性清浄当体の蓮と成る。】
しかるに、今の蓮は、仏意にあるときは、本性が清浄の当体蓮華となり、

【若し機情に就〔つ〕いては此の蓮華譬喩〔ひゆ〕の蓮と成る。】
もし機情について言えば、この蓮華は、譬喩蓮華となるのである。

【次に蓮の体とは、体に於て多種有り。】
(体) 次に蓮の体とは、体については、多くの種類があり、

【一には徳体の蓮、謂はく本性の三諦〔たい〕を蓮の体と為す。】
(1) 一には、徳体の蓮であり、本性の三諦を蓮の体とする。

【二には本性の蓮体、三千の諸法本〔もと〕より已来〔このかた〕】
(2) 二には、本性の蓮体であり、三千の諸法は、最初から、それ以来、

【当体不動なるを蓮の体と為す。】
当体が不動であることを蓮の体とする。

【三には果海〔かかい〕真善〔しんぜん〕の体、】
(3) 三には、果海〔かかい〕真善〔しんぜん〕の体で、

【一切諸法は本〔もと〕是三身にして寂光土に住す。】
これは、一切諸法は、本来は、法報応の三身であって寂光土に住んでおり、

【設ひ一法なりと雖も三身を離れざる故に】
たとえ一法であっても三身を離れる事はない故に

【三身の果を以て蓮の体と為す。】
三身の果をもって蓮の体とする。

【四には大分真如〔しんにょ〕の体、謂はく不変・随縁の二種の真如を】
(4) 四には、大分真如の体とは、不変真如、随縁真如の二種の真如を

【並びに証分の真如と名づく。本迹寂照等の相を分かたず】
いずれも証分の真如と名付け、本迹、寂照などの相に分けず、

【諸法の自性不可思議なるを蓮の体と為す。】
諸法の自性が、そのまま不可思議であることを蓮の体とする。

【次に蓮の宗とは果海の上の因果なり。】
(宗) 次に蓮の宗とは、果海の上の因果の事であり、

【和尚の云はく、】
道邃〔どうずい〕座主の言うのには、

【六即の次位は妙法蓮華経の五字の中には正しく蓮の字に在り。】
六即位は、妙法蓮華経の五字の中では、正しくは、蓮の字に在り。

【蓮門の五重玄の中には正しく蓮の字より起こる。】
蓮についての五重玄の中では、まさしく蓮の字から起こる。

【所以〔ゆえん〕は何〔いかん〕。理即は本性と名づく。】
それは、なぜかと言えば、理即は、本性と名付ける。

【本性の真如・果性円満の故に理即を蓮と名づく。】
本性の真如は、果性円満の故に理即を蓮と名付け、

【果海本性の解行証〔げぎょうしょう〕の位に住するを果海の次位と名づく。】
果海本性の解行証の位に住することを果海の位と名付けている。

【智者大師、自解〔じげ〕仏乗〔ぶつじょう〕の内証〔ないしょう〕を以て】
天台智者大師は、自解〔じげ〕仏乗の内証をもって

【明らかに経旨を見たまふに蓮の義に於て六即の次位を建立したまへり。】
明らかに経の主旨を見られる時、蓮の義において六即の位を立てられた。

【故に文に云はく、此の六即の義は】
それ故に文章に、この六即の即の文字の意義は、二物相合、背面相翻、当体全是の

【一家より起これり。】
いずれかであり、それは、宗派により異なり天台宗は、当体全是の即なのである。

【然るに始覚の理に依って在纏〔ざいてん〕真如を指して】
しかるに、始覚の理を拠りどころとしている在纒〔ざいてん〕真如を指して

【理即〔りそく〕と為し、妙覚証理を出纏〔しゅってん〕真如と名づく。】
理即とし、妙覚の証理に立つのを出纒〔しゅってん〕真如と名付ける。

【正しく出纏の為に諸の万行を修するが故に、】
まさしく、煩悩の束縛〔そくばく〕を出て成仏する為に諸の全ての修行をする故に

【法性の理の上の因果なるが故に亦蓮の宗と名づく。】
法性の理の上の因果なのであり、それ故に、また蓮の宗と名付ける。

【蓮に六の勝能有り。】
この蓮には、六つの卓越した働きがある。

【一には自性〔じしょう〕清浄にして泥濁に染まらず(理即)。】
(1) 一には、自性清浄にして泥沼に染まらず。(理即にあたる)、

【二には華台実〔けだいじつ〕の三種具足して減すること無し】
(2) 二には、蓮華の花、蓮華台、蓮華の実の三つが同時に備わって欠ける事がない。

【(名字即。諸法即ち是三諦と解了するが故に。)】
(名字即にあたり、それは、諸法が三諦であると理解している故である)、

【三には初め種子より成実に至るまで】
(3) 三には、初め種子から実を成ずるまで、

【華台実の三種相続して断ぜず】
蓮華の花、蓮華台、蓮華の実の三つが続いて断ずる事がない。

【(観行即、念々相続して修し廃する無き故に。)】
(観行即にあたり、念々が相続いて修し、念々が廃することがない故である)

【四には華葉の中に在りて未熟の実〔み〕、真の実に似たり(相似即)。】
(4) 四には、華葉の中にある未熟の実が真の実に似ている。(相似即にあたる)、

【五には花開き蓮現ず(分真即)。】
(5) 五には、花が開き蓮が現ずる。(分真即にあたる。)、

【六には花落ちて蓮成ず(究竟即)。】
(6) 六には、花が落ちて蓮が成ずる。(究竟即に当たる)

【此の義を以ての故に六即の深義は源〔みなもと〕蓮の字より出でたり。】
この義をもっている故に六即の深義は、その源は、蓮の字から出ている。

【次に蓮の用とは、六即円満の徳に由って常に化用を施すが故に。】
(用) 次に蓮の用とは、六即円満の徳によって、常に化用を施す故なのである。

【次に蓮の教とは、本有〔ほんぬ〕の三身〔じん〕】
(教) 次に蓮の教とは、最初から具〔そな〕わっている無作の三身、

【果海〔かかい〕の蓮性〔れんしょう〕に住して】
広大で深遠な仏の果が因位の修行の中にあり、無作三身が衆生の生命にあり、

【常に浄法を説き八相〔はっそう〕成道〔じょうどう〕し】
常に清浄な法を説き、出世、出家、降魔、成道、説法、涅槃などの八相をなし、

【四句成利す。】
成道する時には、偈の四句を誦する。中国天台宗第七祖の修禅寺座主、

【和尚云はく証道の八相は無作三身の故に、四句の成道は】
道邃〔どうすい〕座主が言うのには、証道の八相は、無作三身の故に四句の成道は

【蓮教の処に在り。只無作三身を指して本覚の蓮と為す。此の本蓮に住して】
蓮の教の処にあり、ただ無作三身をさして本覚の蓮と言う。この本蓮に住して

【常に八相を唱へ、常に四句の成道を作〔な〕す故なり」(已上)。】
常に八相を唱え、常に四句の成道をなす故である」(以上)。

【修禅寺相伝日記之を見るに、】
このように修禅寺〔しゅぜんじ〕相伝の日記をみると、

【妙法蓮華経の五字に於て各々五重玄なり】
妙法蓮華経の五字において、それぞれに五重玄が具〔そな〕わるのです。

【(蓮の字の五重玄義此くの如し余は之を略す。)】
(蓮の字の五重玄義は、以上のとおりです。他は、これを省略します。)

【日蓮案じて云はく、此の相伝の義の如くんば】
日蓮が思案して思うのは、この修禅寺相伝の意義から考えると、

【万法の根源一心三観・一念三千・三諦〔たい〕・六即・】
万法の根源、一心三観、一念三千、三諦、六即、

【境智〔きょうち〕の円融〔えんゆう〕・本迹〔ほんじゃく〕の】
境智の円融、本迹の

【所詮〔しょせん〕、源〔みなもと〕蓮の一字より起こる者なり云云。】
最終的な源は、蓮の一字から起こっているのです。

【問うて云はく、総説の五重玄とは如何〔いかん〕。】
それでは、総説の五重玄とは、どのようなものなのでしょうか。

【答へて云はく「総説の五重玄とは】
それは、修禅寺〔しゅぜんじ〕相伝日記によれば「総説の五重玄とは、

【妙法蓮華経の五字即ち五重玄なり。妙は名〔みょう〕、法は体〔たい〕、】
妙法蓮華経の五字が、そのまま五重玄であり、すなわち、妙は、名、法は、体、

【蓮は宗〔しゅう〕、華は用〔ゆう〕、経は教〔きょう〕なり」と。】
蓮は、宗、華は、用、経は、教なり」とあります。

【又】
さらに修禅寺〔しゅぜんじ〕相伝日記には、以下のように説明されています。

【「総説の五重玄に二種有り。】
「総説の五重玄に二種類があり、

【一には仏意〔ぶっち〕の五重玄、二には機情〔きじょう〕の五重玄なり。】
一には、仏意の五重玄、二には、機情の五重玄である。

【仏意の五重玄とは、諸仏の内証に】
一の仏意の五重玄とは、諸仏の内証に

【五眼の体を具する】
仏眼、法眼、智眼、天眼、肉眼の五眼の体を具〔そな〕え、

【即ち妙法蓮華経の五字なり。】
要するに、これが妙法蓮華経の五字である。

【仏眼〔ぶつげん〕妙、法眼〔ほうげん〕法、慧眼〔えげん〕蓮、】
仏眼は、妙、法眼は、法、慧眼は、蓮、

【天眼〔てんげん〕華、肉眼〔にくげん〕経。】
天眼は、華、肉眼は、経にあたり、

【妙は不思議に名づくるが故に】
妙は、心も及ばず、語も及ばず、不可思議を妙と名付ける故に仏眼にあたり、

【真空〔しんくう〕冥寂〔みょうじゃく〕の仏眼なり。】
すべての差別をなくした不可思議な冥寂の真空の理であるが故に仏眼なのである。

【法は分別に名づく、法眼は仮なり、分別の形なり。】
法は、分別を法と名付ける故に法眼は、仮であり、分別の形なのである。

【慧眼は空なり、果体の蓮なり。】
慧眼は、空にあたり、果の体は、蓮なのである。

【華は用なる故に天眼と名づく、神通は化用なり。】
華は、用である故に天眼と名付け、神通化用の故なのである。

【経は破迷〔はめい〕の義に在り、迷を以て所対と為す、故に肉眼と名づく。】
経は、迷いを破す義があり、迷いを所対とする故に肉眼と名付ける。

【仏智の内証に五眼を具する即ち五字なり。】
仏智の内証に五眼を具え、これが、すなわち五字であり、

【五字又五重玄なり。故に仏意の五重玄と名づく。】
五字を、また五重玄と名付ける。

【亦五眼即五智なり。】
さらに五眼は、そのまま以下の密教の五智なのである。

【法界体性智〔たいしょうち〕(仏眼)、】
(1) 法界体性智、法界の体性は、地、水、火、風、空、識であると見る仏眼。

【大円鏡智〔だいえんきょうち〕(法眼)、】
(2) 大円鏡智、法界を鏡のように間違いなく映すことが出来る法眼。

【平等性智〔びょうどうしょうち〕(慧眼)、】
(3) 平等性智、諸法が実相であると一切の差別を廃して平等に観る慧眼。

【妙観察智〔みょうかんさっち〕(天眼)、】
(4) 妙観察智、機根に応じた説法をする為に衆生の機根を正しく観察する天眼。

【成所作智〔じょうしょさち〕(肉眼)なり。】
(5) 成所作智〔じょうしょさち〕、肉眼なり。

【問ふ、一家には五智を立つるや。】
それでは、天台宗では、五智を立てているのであろうか。

【答ふ、既〔すで〕に】
それは、すでに眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、

【九識〔しき〕を立つ故に五智を立つべし。】
及び、末那識、阿頼耶識、阿摩羅識の九識を立てる故に五智も立てるのである。

【前の五識は成所作智、第六識は妙観察智、】
九識のうち、最初の五識は、成所作智、第六識は、妙観察智、

【第七識は平等性智、第八識は大円鏡智、第九識は法界体性智なり。】
第七識は、平等性智、第八識は、大円鏡智、第九識は、法界体性智なのである。

【次に機情〔きじょう〕の五重玄とは、】
次に機情の五重玄とは、

【機の為に説く所の妙法蓮華経は即ち是〔これ〕機情の五重玄なり。】
衆生の為に説くところの妙法蓮華経は、これは、機情の五重玄なのである。

【首題の五字に付いて五重の一心三観有り。伝に云はく、】
首題の五字について五重の一心三観があります。伝に言うには、

【妙.不思議の一心三観天真〔てんしん〕独朗〔どくろう〕の故に不思議なり】
(1) 妙、不思議の一心三観、天真独朗の故に不思議と言う。

【法.円融の一心三観理性の円融なり総じて九箇を成ず】
(2) 法、円融の一心三観、理性円融であり、総じて九箇の一心三観となる。

【蓮.得意の一心三観果位なり】
(3) 蓮、得意の一心三観、果位である。

【華.複疎〔ふくそ〕の一心三観本覚の修行なり】
(4) 華、複疎の一心三観、本覚の修行である。

【経.易解〔いげ〕の一心三観教談なり】
(5) 経、易解の一心三観、教えを談ずることである。

【玄文の第二に此の五重を挙ぐ。】
法華玄義の第二に、この五重の一心三観が挙げられており、

【文に随って解すべし。】
その文章に従って明らかにしてみると、

【不思議の一心三観とは、智者己証〔こしょう〕の法体、】
(1) 妙である不思議の一心三観とは、天台智者大師己証の法体であり、

【理非〔りひ〕造作〔ぞうさ〕の本有〔ほんぬ〕の分なり、】
誰かによって作られた理論ではなく、もともと備わった性分である。

【三諦の名相無き中に於て強ひて名相を以て説くを】
三諦の姿の名前は、ないが、強〔し〕いて三諦の姿に名前を付けて説くことを

【不思議と名づく。】
不思議と名付ける。

【円融とは、理性法界の処に本〔もと〕より已来〔このかた〕三諦の理有り、】
(2) 法である円融の一心三観とは、理性法界のところに本来、三諦の理があり、

【互ひに円融して九箇と成る。】
それが互いに円融して九箇と成る。

【得意とは、不思議と円融との三観は】
(3) 蓮である真意の一心三観とは、不思議の一心三観と円融の一心三観とが

【凡心〔ぼんしん〕の及ぶ所に非ず、但聖智の自受用〔じじゅゆう〕の徳を以て】
凡夫の心の及ぶところではなく、ただ、聖人の自受用の徳を以って

【量知すべし、故に得意と名づく。】
初めて理解し終えることができ、それ故に、その真意を得意と名付けるのである。

【複疎〔ふくそ〕とは、無作の三諦は】
(4) 華である複疎〔ふくそ〕の一心三観とは、無作の空仮中の三諦が

【一切法に遍して本性〔ほんしょう〕常住なり、理性の円融に同じからず、】
一切法、すべて本性常住であり、理性の円融と同じではないと言う意味から、

【故に複疎と名づく。】
無作、本覚の仏から見ると重ねて粗雑であるので、複疎〔ふくそ〕と名付ける。

【易解とは、三諦円融等の義知り難き故に、】
(5) 経の易解一心三観とは、円融の三諦などの義を知り難き故に、

【且〔しばら〕く次第に附して】
しばらくの間は、その理解力に合わせて、

【其の義を分別す、故に易解と名づく。】
その義を理解させ、それ故に易解〔いげ〕と名付ける。

【此を附文〔ふもん〕の五重と名づく。】
これを附文の五重と名付けるのである。

【次に本意に依って亦五重の三観有り。】
次に本意の一心三観には、また五重の一心三観がある。

【一に三観一心(入寂門の機)、】
(1) 一に三観一心(入寂門の機根に配する)

【二に一心三観(入照門の機)、】
(2) 二に一心三観(入照門の機根に配する)

【三に住果還〔じゅうかげん〕の一心三観なり。上の機有って】
(3) 三に住果還の一心三観、非常に機根が優れた人がいて、

【知識の説を聞いて、一切の法は皆是〔これ〕仏法なりと、】
善知識の人の一切の法は、皆是れ仏法なりと説くのを聞いて、

【即ち聞いて真理を開す。入真〔にゅうしん〕已後〔いご〕、】
真理を開くのである。教法の初住位である入真の後、つまり以後の第二住位で、

【観を極〔きわ〕めんが為に一心三観を修す。】
観を極めんがために一心三観を修するのである。

【四に為果〔いか〕行因〔ぎょういん〕の一心三観、謂はく、】
(4) 四に為果行因の一心三観とは、

【果位究竟の妙果を聞いて此の果を得んが為に種々の三観を修す。】
果位究竟の妙果を聞いて、この果を得んがために種々の三観を修行するのである。

【五に付法の一心三観、五時八教等の種々の教門を聞いて】
(5) 五に付法の一心三観、五時八教などの種々の教門を聞いて

【此の教義を以て心に入れて観を修す、故に付法と名づく」と。】
この教義を心に入れて観を修行する故に、付法と名付ける」(以上)。

【山家〔さんげ〕の云はく】
さらに、また、修禅寺相伝日記の中で、天台大師が述べられたと言う言葉の中に

【(塔中の言なり)】
(天台大師が大蘇道場において釈尊から直接、授与された塔中の言葉である)

【「亦〔また〕立行相を授く。】
「また、教法に依って立てられた修行の形式を授けられ、

【三千三観の妙行を修し、】
その一念三千、一心三観の妙行を修行して、

【解行の精微〔せいび〕に由って深く自証門〔じしょうもん〕に入る。】
教義の理解の緻密〔ちみつ〕さによって、仏法を深く自ら証得した姿に入る。

【我汝が証相を領するに、法性寂然なるを止〔し〕と名づけ、】
我、汝が証相を領するに法性が寂然であることを止と名付け、

【寂にして常に照すを観と名づく」と。】
寂にして常に照らすことを観と名付ける」とあります。続けて、

【「問うて云はく、天真独朗の止観の時、】
「それでは、天真独朗の止観の時、

【一念三千・一心三観の義を立つるや。】
一念三千、一心三観の義を立てるのであろうか。

【答へて云はく、】
それは、妙楽大師の弟子である仏隴〔ぶつろう〕寺の行満〔ぎょうまん〕と

【両師の伝不同なり。】
国清〔こくせい〕寺の道邃〔どうずい〕の両師の伝える事は、同じではない。

【座主の云はく、】
行満〔ぎょうまん〕座主が言うには、

【天真独朗とは一念三千の観是〔これ〕なり。】
天真独朗とは、一念三千の観のことである。

【山家師の云はく、一念三千而も指南と為す。】
このことを妙楽大師は、一念三千を指南とする。

【一念三千とは、一心より三千を生ずるにも非ず、】
一念三千とは、一心から三千を生ずるものではなく、

【一心に三千を具するにも非ず、並立にも非ず、次第にも非ず。】
一心に三千を生ずるものでもなく、並立でもなく、次第でもなく、

【故に理非造作と名づく。】
誰かによって作られてもいないので、理非造作と名付けると言っているのである。

【和尚の云はく、】
道邃〔どうすい〕座主が言うのには、

【天真独朗に於ても亦多種有り。】
天真独朗においても、また多種あり、

【乃至迹中に明かす所の不変〔ふへん〕真如〔しんにょ〕も亦天真なり。】
(中略)迹門の中に明かすところの不変真如も、また天真独朗なのである。

【但し大師本意の天真独朗とは、】
ただし、天台大師の本意の天真独朗とは、

【三千三観の相を亡じ、一心一念の義を絶す。】
その一念三千、一心三観の相を滅し、一心一念の義を絶したところにある。

【此の時は解無く行無し。教行証の三箇の次第を経るの時、】
このときは、解もなく、行もなく、教行証の三箇の次第を経るとき、

【行門に於て一念三千の観を建立す。】
行門において一念三千の観を建立するのである。

【故に十章第七の処に於て】
それ故に摩訶止観の全十章のうち第七章のところにおいて

【始めて観法〔かんぽう〕を明かすは】
初めて一念三千の観法を明かしたのは、

【是〔これ〕因果階級の意なり】
これは、因果の上に階級を定めると言う意味なのである。

【○大師内証の伝の中に、】
天台大師の内証の伝の中には、

【第三の止観は伝転の義無しと云云。故に知んぬ、証分の止観は】
第三の止観には、伝転の義はないと言っている。それ故に証分の止観は、

【別法を伝へざるなり。】
別法を伝えているわけではないことを理解しなければならない。

【今止観の始終に録する所の諸事は】
今、摩訶止観に記されているのは、始めから終わりまで、

【皆是〔これ〕教行の所摂にして実証の分に非ず。】
すべて教行の上のことであって、実証の分では、ないのである。

【開元〔かいげん〕符州〔ふしゅう〕の】
中国開元〔かいげん〕年間に符州〔ふしゅう〕に居た中国天台宗の第五代座主、

【玄師の相伝に云はく、】
妙楽の師、左渓玄朗〔さけいげんろう〕の相伝に言われているところでは、

【言を以て之を伝ふる時は行証共に教と成る。】
言葉を以って伝えるときは、行証ともに教となり、

【心を以て之を観ずる時は教証は行の体と成る。証を以て】
心を以って、これを観ずるときは、教証は、行の体となり、証をもって、

【之を伝ふる時は教行亦不可思議なり。】
これを伝えるときは、教行も、また不可思議であると言っているのである。

【後学此の語に意を留めて更に忘失すること勿〔なか〕れ。】
後学は、この言葉に意義を留めて、決して忘れては、ならない。

【宛〔あたか〕も此の宗の本意、立教の元旨なり。】
これこそ、この天台宗の本意であり、立教のもともとの理由なのである。

【和尚の貞元の】
天台山国清寺の道邃〔どうすい〕座主より貞元二十四年六月三日に教行証の伝法を

【本義、源此より出でたるなり」と。】
授与された本義、源は、ここから出たのである。」(以上)。

【問うて云はく、天真独朗の法、】
それでは、天真独朗の法は、

【滅後に於て何れの時か流布せしむべきや。】
仏滅後においては、いずれの時に流布したらよいのでしょうか。

【答へて云はく、像法に於て弘通すべきなり。】
それは、像法の時代に流布すべきなのです。

【問うて云はく、末法に於ける流布の法の名目如何。】
それでは、末法において流布すべき名目とは、どのようなものなのでしょうか。

【答へて云はく、日蓮が己心に相承せる秘法を此の答へに顕はすべきなり。】
それは、日蓮が己心に相承した秘法を、この答えで明らかにしましょう。

【所謂〔いわゆる〕南無妙法蓮華経是なり。】
いわゆる南無妙法蓮華経のことなのです。

【問うて云はく、証文如何。】
それでは、その証文とは、どのようなものなのでしょうか。

【答へて云はく、神力品に云はく】
それは、法華経如来神力品には、

【「爾〔そ〕の時仏上行等の菩薩に告げたまはく、】
「爾の時に仏は、上行などの菩薩に告げられて、

【要を以て之を言はゞ乃至宣示顕説す」云云。】
要をもって、これを言えば(中略)明言し説き顕わす」と述べています。

【天台大師云はく「爾時仏告上行より下は】
天台大師は、法華文句の十巻の下で「爾時仏告上行」から下の文章は、

【第三結要〔けっちょう〕付嘱〔ふぞく〕なり」と。】
第三の「結要付属」を顕すと解釈をされています。

【又云はく「経中の要説・要は四事に在り」と。】
また「法華経中の要説の要は、如来神力品の四句に在り」と述べられています。

【「総じて一経を結するに】
「総じて法華経は、ただ、如来神力品の如来の一切の所有の法、自在の神力、

【唯四ならくのみ。】
秘要の蔵、甚深の事の四句に言い尽くされている。

【其の枢柄〔すうへい〕を撮〔と〕って之を授与す」と。】
その四つの根本を上行菩薩に授与す」と述べられています。

【問うて云はく、今の文は上行菩薩等に授与するの文なり。】
それでは、今の文章は、上行菩薩などに授与する文章であり、

【汝何が故ぞ己心相承の秘法と云ふや。】
どうして、あなたが己心で相承した秘法と言われるのでしょうか。

【答へて云はく、上行菩薩の弘通し給ふべき秘法を】
それは、現実に上行菩薩が弘通するべき秘法を

【日蓮先立ちて之を弘む。】
日蓮が先立って、これを弘めて、法華経の通りに大難にあっているからなのです。

【身に当たるの意に非ずや。上行菩薩の代官の一分なり。】
身に当たると言うのは、この意味であり、日蓮は、上行菩薩の代理人なのです。

【所詮末法に入っては天真独朗の法門無益なり。】
所詮〔しょせん〕、末法に入ったならば、天真独朗の法門は、無益であり、

【助行には用ふべきなり。】
ただ、日蓮の正当、正義を証明する為に用いるのであって、

【正行には唯南無妙法蓮華経なり。】
末法に於いては、ただ南無妙法蓮華経だけであるのです。

【伝教大師云はく「天台大師は釈迦に信順して】
伝教大師は、法華秀句の下巻で「天台大師は、釈迦を信じ従って

【法華宗を助けて震旦〔しんだん〕に敷揚〔ふよう〕し、】
法華宗を助けて中国に弘め、

【叡山の一家は天台に相承して】
比叡山の我が天台宗は、天台大師を相承して

【法華宗を助けて日本に弘通す」と。】
法華宗を助けて日本に弘通す」と述べています。

【今日蓮は塔中相承の南無妙法蓮華経の七字を末法の時、】
いま日蓮は、塔中〔たっちゅう〕相承の南無妙法蓮華経の七字を末法の時代に

【日本国に弘通す。】
日本に弘通しています。

【是豈〔あに〕時国相応の仏法に非ずや。】
これこそ、末法の時と謗法の国に相応〔ふさわ〕しい仏法では、ないでしょうか。

【末法に入って天真独朗の法を弘めて正行と為さん者は、】
末法に入って天真独朗の法を弘めて、それを正しい修行と思う者は、

【必ず無間大城に墜ちんこと疑ひ無し。】
必ず無間地獄に墜ちる事は、疑いないのです。

【貴辺年来の権宗を捨てゝ日蓮が弟子と成り給ふ。】
あなたは、これまでの権門、天台真言宗を捨てて、日蓮の弟子と成られた事は、

【真実、時国相応の智人なり。】
末法の時と謗法の国に相応〔ふさわ〕しい真実の智者であるのです。

【総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。】
総じて日蓮の弟子などは、日蓮と同じく正しい理論によって修行すべきなのです。

【智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。】
たとえ智者、学匠の身となっても、地獄に墜ちて何の役に立つでしょうか。

【所詮時々念々に南無妙法蓮華経と唱ふべし。】
結局は、怠〔おこた〕ることなく、いつも南無妙法蓮華経と唱えるべきなのです。

【上に挙ぐる所の法門は御存知たりと雖も】
上に挙げたところの法門は、すでに御存知の事でしょうが、

【書き進らせ候なり。十八円満等の法門能々案じ給ふべし。】
書いて差し上げましたので十八円満などの法門を、よくよく考えてみてください。

【並びに当体蓮華の相承等、日蓮が己証の法門等、】
それとともに当体蓮華の相承など、日蓮が己証の法門などは、

【前々に書き進らせしが如し。委しくは修禅寺相伝日記の如し。】
先ほど書いた通りであり、詳しい事は、修禅寺相伝日記にある通りなのです。

【天台宗の奥義之に過ぐべからざるか。】
天台宗の奥義は、これ以上のものはないのです。

【一心三観・一念三千の極理〔ごくり〕は妙法蓮華経の一言を出でず。】
つまり、一心三観、一念三千の極理は、妙法蓮華経の一言を出ないのです。

【敢〔あ〕へて忘失すること勿れ、敢へて忘失すること勿れ。】
これは、決して忘れては、ならず、また、これを決して忘れては、なりません。

【伝教大師云はく「和尚慈悲有って】
伝教大師は「道邃〔どうすい〕座主は、慈悲によって

【一心三観を一言に伝ふ」と。】
一心三観を一言で伝う」と言い、天台密教の秘法とされている

【玄旨伝に云はく「一言の妙旨なり一教の玄義なり」云云。】
玄旨檀秘抄には「一言の妙旨なり。一教の玄義なり」と言われています。

【寿量品に云はく「毎〔つね〕に自ら是の念を作さく、】
法華経、如来寿量品には、仏は「常に自〔みずか〕ら、この念を思われている。

【何を以てか衆生をして無上道に入り、速〔すみ〕やかに仏身を】
それは、何をもって衆生を無上道に入らせ、速やかに仏身を

【成就〔じょうじゅ〕することを得せしめんと」云云。】
成就することが出来るであろうか」と、このように

【毎自作是念の念とは、一念三千生仏〔しょうぶつ〕本有の一念なり。】
毎自作是念の念とは、一念三千であり、衆生と仏に本有の一念なのです。

【秘すべし秘すべし。】
これは、秘すべきであり、また、これを秘すべきなのです。

【恐々謹言。】
恐れながら謹んで申し上げます。

【弘安三年十一月三日   日蓮花押】
弘安3年11月3日   日蓮花押

【最蓮房に之を送る】
最蓮房に之を送ります。


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