日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


最蓮房御消息文 05 立正観抄


【立正観抄 文永一二年二月 五四歳】
立正観抄 文永12年2月 54歳御作

【日蓮撰】
日蓮著作

【法華止観〔しかん〕同異決】
法華経と摩訶止観の違いを比較します。

【当世〔とうせい〕天台の教法を習学するの輩、】
現在、天台の教法を習い学ぶ人々の多くは、

【多く観心〔かんじん〕修行を貴んで】
天台大師が立てた観心の修行を貴〔とうと〕んで、

【法華本迹〔ほんじゃく〕二門を捨つと見えたり。】
法華経の本門、迹門の二門を捨てているように思われます。

【今問ふ、抑〔そもそも〕観心修行と言ふは天台大師の】
今、疑問に思うのは、そもそも、この観心の修行と言うのは、天台大師が著作した

【摩訶止観の説己心中〔せっこしんちゅう〕所行法門〔しょぎょうほうもん〕の】
摩訶止観の中で「己心の中に行ずる所の法門を説く」と述べられている

【一心〔いっしん〕三観〔さんがん〕・一念三千の観に依るか、】
一心三観〔さんがん〕、一念三千の観法に依るのでしょうか。

【将又〔はたまた〕世に流布せる達磨〔だるま〕の】
それとも、世に流布されている達磨〔だるま〕大師の楞伽〔りょうが〕経や

【禅観〔ぜんかん〕に依るか。】
金剛般若経などに説かれた禅観に依るものなのでしょうか。

【若し達磨の禅観に依るといはゞ、】
もし、達磨〔だるま〕大師の、この教禅、如来禅に依ると言うのであれば、

【教禅とは未顕真実・妄語方便の禅観なり。】
未だ真実を顕しておらず、妄語、方便の禅観であるので、

【法華経妙禅の時には正直捨方便と捨てらるゝ禅なり。】
法華経の妙禅からすれば、正直捨方便と捨てられるべきものなのです。

【祖師達磨禅とは】
また、禅宗の祖師、達磨〔だるま〕大師の作った座禅の修行について言えば、

【教外〔きょうげ〕別伝〔べつでん〕の天魔の禅なり。】
教外別伝の天魔の説なのです。

【共に是無得道〔むとくどう〕・】
この教禅、如来禅と達磨〔だるま〕大師の座禅の修行は、共に無得道で

【妄語〔もうご〕の禅なり。仍〔よ〕って之を用ふべからざるなり。】
妄語の禅ですから、この禅観を用いては、ならないのです。

【若し天台の止観の一心三観に依るとならば】
もし、天台大師の摩訶止観に説かれる一心三観に依ると言うのであれば、

【止観一部の廃立〔はいりゅう〕、天台の本意に背くべからざるなり。】
摩訶止観の趣旨〔しゅし〕、天台大師の本意に背いてはなりません。

【若し止観修行の観心に依るとならば、】
ようするに摩訶止観に記されている修行の観心に依ると言うのであれば、

【法華経に背くべからず。】
法華経に背いては、ならないのです。

【止観一部は法華経に依って建立〔こんりゅう〕す。】
それは、摩訶止観一部は、法華経に依って著作されたものであり、

【一心三観の修行は妙法の不可得なるを感得せんが為なり。】
一心三観の修行は、理解し難い妙法を理解する為にあるからなのです。

【故に知んぬ、法華経を捨てゝ但観〔かん〕を正〔しょう〕とするの輩は】
それ故に法華経を捨てて、ただ摩訶止観の観法だけを正しいとする人々は、

【大謗法・大邪見・天魔の所為〔しょい〕なることを。】
大謗法、大邪見であり、天魔に操〔あやつ〕られている行為なのです。

【其の故は天台の一心三観とは、】
その故は、天台の一心三観とは、

【法華経に依って三昧〔さんまい〕開発〔かいほつ〕するを】
法華経に依って、思索に入り、悟りを開くことであり、

【己心〔こしん〕証得〔しょうとく〕の止観と云ふ故なり。】
これを「己心証得の止観」と名付けているからなのです。

【問ふ、天台大師の止観一部並びに】
それでは、天台大師の摩訶止観一部や

【一念三千・一心三観・己心証得の妙観〔みょうかん〕は、】
一念三千、一心三観、己心証得の妙観は、

【併〔しかしなが〕ら法華経に依ると云ふ証拠如何〔いかん〕。】
法華経に依って記されたという証拠は、あるのでしょうか。

【答ふ、予反詰〔ほんきつ〕して云はく、】
それに反論して言いますが、

【法華経に依らずと見えたる証文如何。】
それでは、法華経に依っていないと言う証拠の文章があるのでしょうか。

【人之を出だして云はく「此の止観は天台智者の己心中の】
ある人は、証拠の文章として「この止観は、天台智者大師が己心の中の

【所行の法門を説くなり」と。或は又「故に止観に至って正〔まさ〕しく】
所行の法門を説く」と言う文章を出し、あるいは「故に止観に至って正しく

【観法〔かんぽう〕を明かす、並びに三千を以て指南と為〔な〕す。】
観法〔かんぽう〕を明かすに、また一念三千をもって指南としたのである。

【乃〔すなわ〕ち是終窮〔しゅうぐう〕究竟〔くきょう〕の】
すなわち、これは、法華円教の中でも最終究極の

【極説〔ごくせつ〕なり。故に序の中に】
極説である。それ故に摩訶止観の序の中で、

【説己心中所行法門と云へり。】
己心の中に行じる所の法門を説くと言うのは、

【良〔まこと〕に以〔ゆえ〕有るなり」文。】
実に重要な意味があるなり」とあるではないかと言っています。

【難じて云はく、此の文は全く法華経に依らずと云ふ】
しかし、この文章は、まったく法華経に依って記されていないと言う証明の

【文に非ず。】
文章には、なっていないのです。それは、章安大師が

【既に説己心中所行法門と云ふが故なり。】
すでに「己心の中に行ずる所の法門を説く」と言っているからなのです。

【天台の所行の法門は法華経なるが故に、】
天台大師の所行の法門とは、法華経である故に、

【此の意は法華経に依ると見えたる証文なり云云。】
この意味は、法華経に依って著作していると言う証拠の文章なのです。

【但し他宗に対するの時は問答〔もんどう〕大綱〔たいこう〕を存すべきなり。】
ただし、他宗に対するときは、問答は、大綱にとどめておくべきであり、

【所謂〔いわゆる〕云ふべし、若し天台の止観、】
もし、天台大師の摩訶止観が

【法華経に依らずといはゞ速〔すみ〕やかに捨つべきなりと。】
法華経に依らないのであれば、即座に、その摩訶止観を捨てるべきです。

【其の故は天台大師兼ねて約束して云はく「修多羅〔しゅたら〕と合せば】
それは、天台大師は、兼ねてから法華玄義に「経文と合えば、

【録〔ろく〕して之を用ひよ。文無く義無きは信受すべからず」云云。】
これを記して用いよ。文無く、義無きものは、信受すべからず」とあり、

【伝教大師の秀句〔しゅうく〕下に云はく「仏説に依憑〔えひょう〕して】
伝教大師は、法華秀句に「仏説を根拠にすべきで

【口伝〔くでん〕を信ずること莫〔なか〕れ」云云。】
人師の口伝を信じては、ならない」と述べられ、

【竜樹〔りゅうじゅ〕の大論に云はく「修多羅に依るは白論〔びゃくろん〕なり】
竜樹の大智度論には「経文に依るは、白論であり、

【修多羅に依らざるは黒論〔こくろん〕なり」云云。】
修多羅〔しゅたら〕に依らざるものは、黒論である」と記され、

【教主釈尊云はく「法に依って人に依らざれ」文。】
教主釈尊は、涅槃経に「法に依って人に依らざれ」と説かれているからなのです。

【天台は法華経に依り】
天台大師は、法華経に依って、天台宗を起こし、

【竜樹を高祖〔こうそ〕ともし乍〔なが〕ら経文に違し、】
竜樹を、その祖師としていながら、法華経の経文に相違し、

【我が言を翻〔ほん〕じて外道〔げどう〕邪見の法に依って】
自らの言葉を翻〔ひるがえ〕して、外道、邪見の法によって、

【止観一部を釈する事全く有るべからざるなり。】
摩訶止観一部を著作することなど、全くあるはずがないのです。

【問ふ、正しく止観は法華経に依ると見えたる文之有りや。】
それでは、摩訶止観は、法華経に依ると言う文章は、あるのでしょうか。

【答ふ、余りに多きが故に少々之を出ださん。】
それは、余りにも多い為に、少しだけ、それを述べましょう。

【止観に云はく「漸〔ぜん〕と不定〔ふじょう〕とは置いて論ぜず。】
摩訶止観には「漸次止観と不定止観は、これを置いて論ずることはせず。

【今〔いま〕経に依って更に円頓〔えんどん〕を明かさん」云云。】
今、経文によって、更に円頓〔えんどん〕止観を明かす」とあります。

【弘決〔ぐけつ〕に云はく「法華経の旨を攅〔あつ〕めて】
妙楽大師の止観輔行伝〔ぶぎょうでん〕弘決には「法華経の要旨をあつめて

【不思議・十乗・十境・待絶〔たいぜつ〕滅絶〔めつぜつ〕・】
不思議、十乗観法、十境、待絶、滅絶、

【寂照〔じゃくしょう〕の行を成ず」文。】
寂照の行を成ずる」とあります。

【止観大意に云はく「今家の教門は竜樹を以て始祖〔しそ〕と為〔な〕す。】
妙楽大師の止観大意には「天台宗の教相門は、竜樹を始祖と為す。

【慧文〔えもん〕は但内観〔ないかん〕を列〔つら〕ぬるのみ。】
北斉〔せい〕の僧、慧文〔えもん〕は、ただ内観を修めて視聴したのである。

【南岳天台に洎〔およ〕んで復〔また〕法華三昧〔ざんまい〕に因〔よ〕って】
南岳大師、天台大師に及んで、また法華三昧に依って

【陀羅尼〔だらに〕を発し、義門〔ぎもん〕を開拓するに】
陀羅尼〔だらに〕を発し、義門を開拓するに

【観法周備〔しゅうび〕す。】
観法を、すべてにわたって備える。

【若し法華を釈するには弥須〔すべからく〕権実本迹を】
もし、法華を解釈するには、確実に権実、本迹を

【暁了〔ぎょうりょう〕して方〔まさ〕に行を立つべし。】
明らかにしなくては、ならず、まさに、それによって行を立つべし。

【此の経独り妙と称することを得〔う〕。】
この法華経のみが、妙と称することを得る。

【方に此に依って以て観道〔かんどう〕を立つべし。】
法華経によって観法を立てるべし。

【五方便及び十乗軌行〔きぎょう〕と言ふは】
五方便、及び、十乗観法と言うのは、

【即ち円頓〔えんどん〕止観は全く法華に依る。】
すなわち、円頓止観は、すべて法華経に依る。

【円頓止観は即ち法華三昧の異名〔いみょう〕なるのみ」云云。】
円頓止観は、法華三昧の異名である」とあるのです。

【文句〔もんぐ〕の記〔き〕に云はく】
妙楽大師の法華文句記〔もんぐき〕には、

【「観と経と合すれば他の宝を数ふるに非ず。】
「観法と経文とが合うならば、他の宝を数える必要はない。

【方に知んぬ、止観一部は是法華三昧の筌蹄〔せんてい〕なり。】
まさに摩訶止観一部は、法華三昧の方便であり、

【若し斯〔こ〕の意を得れば方に経旨に会〔かな〕ふ」云云。】
もし、この意を心得るならば、法華経の趣旨に叶〔かな〕っている」とあります。

【唐土の人師行満〔ぎょうまん〕の釈せる学〔がく〕天台宗法門大意に云はく】
また中国の人師である行満〔ぎょうまん〕の著した学天台宗法門大意には、

【「摩訶〔まか〕止観一部の大意は法華三昧の異名を出でず。】
「摩訶止観一部の大意は、法華三昧の異名を出ない。

【経に依って観を修す」云云。】
法華経によって観法を修行す」と述べています。

【此等の文証分明〔ふんみょう〕なり、誰か之を論ぜん。】
これらの文証の意味は、明らかであり、異論をはさむ余地はないのです。

【問ふ、天台四種の釈を作るの時、】
それでは、天台大師は、因縁釈、約教釈、本迹釈、観心釈の四つの解釈を作り、

【観心の釈に至って本迹の釈を捨つと見えたり。】
観心釈に至った時に、本迹の釈を捨てたように思われるのです。

【又法華経は漸機〔ぜんき〕の為に】
また、法華経は、教相を学んだ後、観心に入る理解力の衆生の為に

【之を説き、止観は直達の機の為に】
これを説いたものであり、摩訶止観は、直ちに得脱する理解力の衆生の為に

【之を説くと如何〔いかん〕。】
これを説いたと言います。これは、どう言う事でしょうか。

【答ふ、漸機の為に】
それは、五時八教を学び、その後に観心に入る理解力の衆生の為に

【説くは劣り頓機〔とんき〕の為に説くは】
説いたものが劣り、学ばずに、すぐに理解できる理解力の衆生の為に説いたものが

【勝るとならば、今の天台宗の意は華厳・真言等の経は】
優れていると言うのであれば、今の天台宗の意見では、華厳、真言などの経文は、

【法華経に勝れたりと云ふべきや。】
法華経よりも優れていると言うことになるのでしょうか。

【今の天台宗の浅猿〔あさまし〕さは真言は事理〔じり〕倶密〔ぐみつ〕の】
今の天台宗の愚かしさは、真言は、事理倶密の

【教なる故に法華経に勝れたりと謂〔おも〕へり。】
密教であるから、法華経よりも優れていると思っていることです。

【故に止観は法華に勝ると云へるも道理なり道理なり。】
それ故に摩訶止観が法華経より優れていると思うことも、当然の道理なのです。

【次に観心〔かんじん〕の釈の時本迹〔ほんじゃく〕を捨つと云ふ難は、】
次に観心釈のときに本迹釈を捨てると言うのは、

【法華経何〔いず〕れの文にか人師の釈を本と為して】
法華経の、いずれの文章にあるのでしょうか。いずれの人師の解釈を手本にして

【仏教を捨てよと見えたるや。】
仏教を捨てよと言うのでしょうか。

【設〔たと〕ひ天台の釈なりとも釈尊の金言に背〔そむ〕き】
たとえ天台大師の解釈であっても、釈尊の金言に背き、

【法華経に背かば全く之を用ふべからず。】
法華経に背くならば、決して、これを用いては、ならないのです。

【依法〔えほう〕不依人〔ふえにん〕の故に、】
「法に依って、人に依らざれ」と言う仏の戒〔いまし〕めがあり、

【竜樹・天台・伝教元よりの御約束なるが故なり。】
それは、竜樹、天台大師、伝教大師の最初からの約束であるからなのです。

【其の上天台の釈の意は、】
そのうえ、天台大師は、

【迹〔しゃく〕の大教起これば爾前の大教亡〔ぼう〕じ、】
法華経迹門の大教が興れば、爾前の大教が亡〔ほろ〕び、

【本〔ほん〕の大教興〔おこ〕れば迹の大教亡じ、】
法華経本門の大教が興〔おこ〕れば、法華経迹門の大教が亡〔ほろ〕び、

【観心〔かんじん〕の大教興れば本の大教亡ずと】
観心の大教が興れば、法華経本門の大教が亡〔ほろ〕ぶと

【釈するは、本体の本法をば】
解釈されている理由は、根本の法体である常住本有の法を、

【妙法不思議の一法に取り定めての上に修行を立つるの時、】
妙法不思議の一法と定めた上で、この一法を悟る為に修行を立て、

【今像法の修行は観心の修行を詮〔せん〕と為〔な〕す。】
今、像法時代は、その観心の修行を基本とするのです。

【迹を尋〔たず〕ぬれば迹広し、本を尋ぬれば本高うして】
しかし、迹門を尋ねれば、迹門は、広く、本門を尋ねれば、本門は、高く、

【極〔きわ〕むべからず。故に末学機に叶〔かな〕ひ難し。】
極める事が出来ず、また、それらの修行は、末学の機根には、難し過ぎるので、

【但己心〔こしん〕の妙法を観ぜよと云ふ釈なり。】
ただ、己心の妙法を観ぜよと言う意味なのです。

【然りと云へども妙法を捨てよとは全く釈せざるなり。】
従って、まったくもって「妙法を捨てよ」などとは、言っていないのです。

【若し妙法を捨てば何物を己心として観ずべきや。】
もし、妙法を捨てるならば、何物を己心として観じるべきなのでしょうか。

【如意〔にょい〕宝珠〔ほうじゅ〕を捨て貧窮〔びんぐ〕を取って】
如意宝珠を捨てて、貧乏に喘ぎ、

【宝と為すべきか。悲しいかな、当世〔とうせい〕天台宗の学者は】
それを宝と為すべきなのでしょうか。嘆かわしい事に現在の天台宗の学者は、

【念仏・真言・禅宗等に同意するが故に、】
念仏宗、真言宗、禅宗などに同調している為に、

【天台の教釈を習ひ失って法華経に背き大謗法の罪を得るなり。】
天台大師の教釈の習学を忘れて、法華経に背き、大謗法の罪を犯しているのです。

【若し止観を法華経に勝ると云はゞ】
もし、摩訶止観が法華経より優れていると言うのであれば、

【種々の過〔とが〕之有り。】
多くの過ちがあります。それは、以下の過ちです。

【止観は天台の】
(1) 摩訶止観は、天台大師が大蘇山〔だいそざん〕の南岳大師

【道場所得の己証〔こしょう〕なり。】
慧思〔えし〕に師事し、その普賢道場で得た独自の法華経の解釈や修行法ですが、

【法華経は釈尊の道場所得の大法なり(是一)。】
法華経は、釈尊が菩提樹の下で悟りを得た大法であるのです。

【釈尊は妙覚果満〔かまん〕の仏なり。】
(2) 釈尊は、妙覚果満の仏ですが、

【天台は住前〔じゅうぜん〕未証〔みしょう〕なれば名字〔みょうじ〕・】
天台大師は、初住位に登っていないため、名字即、

【観行〔かんぎょう〕・相似〔そうじ〕には過ぐべからず。】
観行即、相似即には、かなわないのです。

【四十二重〔じゅう〕の劣なり(是二)。】
つまり、釈尊に比べれば、四十二位も劣っているのです。

【法華経は釈尊乃至諸仏出世の本懐〔ほんがい〕なり。】
(3) 法華経は、釈尊ないし諸仏の出世の本懐なのですが、

【止観は天台出世の己証なり(是三)。】
摩訶止観は、天台大師出世の己証の法門であるのです。

【法華経は多宝の証明あり。来集の分身は】
(4) 法華経は、多宝仏の証明があり、会座〔えざ〕に来集した分身の諸仏が

【広長舌〔こうちょうぜつ〕を大梵天に付く皆是真実の】
広長舌を大梵天宮に至るまで付けた皆是真実の

【大白法〔だいびゃくほう〕なり。止観は天台の説法なり(是四)。】
大白法ですが、摩訶止観は、天台大師の説法なのです。

【是くの如き等の種々の相違之〔これ〕有れども仍〔なお〕之を略するなり。】
その他、さまざまな相違がありますが、それは、ここでは、省略します。

【又一つの問答に云はく、所被〔しょひ〕の機、上機なる故に之を勝ると云はゞ】
また、ある問答において、聴衆の理解力が上である故に優れているとありますが、

【実〔じつ〕を捨てゝ権〔ごん〕を取れ。】
それならば、実教を捨てて、権教を取るべきなのです。

【天台云はく「教弥〔いよいよ〕権なれば位弥高し」と】
天台大師は「教法が、いよいよ権教であるならば、位は、いよいよ高い」と述べ、

【釈し給ふ故なり。】
教法が権教であるなら、聴衆の理解力が高いと言っているからなのです。

【所被の機下劣なる故に劣ると云はゞ】
また、聞く者の理解力が劣っている故に教法が劣ると言うのであれば、

【権を捨てゝ実を取れ。】
権教を捨てて、実教を取るべきなのです。

【天台の釈には「教弥実なれば】
天台大師の解釈では「教法が、いよいよ実教であるならば、

【位弥下〔ひく〕し」と云ふ故なり。】
位は、いよいよ低い」とあるからなのです。

【然るに止観は上機の為に之を説き、法華は下機〔げき〕の為に之を説くと】
それに対し、摩訶止観は、上機の為に説き、法華経は、下機の為に説くと

【云はゞ、止観は法華に劣れる故に機を高く説くと聞こえたり。】
言うことは、摩訶止観は、法華経に劣る故に機根を高く説くと思われるのです。

【実にさも有るらむ。】
まったく、その通りでしょう。

【天台大師は霊山〔りょうぜん〕の聴衆、】
天台大師は、霊鷲山〔りょうじゅぜん〕の会座〔えざ〕の聴衆として、

【如来出世の本懐を宣〔の〕ベたまふと雖も、】
如来の出世の本懐を述べられたのですが、

【時至らざるが故に妙法の名字を替〔か〕へて止観と号す。】
時が至〔いた〕らなかった故に、妙法の名字を変えて止観と名付けたのです。

【迹化の衆なるが故に本化の付嘱を弘め給はず。】
迹化の衆生である故に、本化の付嘱を弘められなかったのです。

【正直の妙法を止観と説きまぎらかす。】
仏の真実を、そのままに説かれた妙法を止観と説き変えられたのです。

【故に有りのまゝの妙法ならざれば】
それ故に、有りのままの妙法ではないので、

【帯権〔たいごん〕の法に似たり。】
妙法を理解させる為に権教によって教化することに似ているのです。

【故に知んぬ、天台弘通〔ぐづう〕の所化〔しょけ〕の機は】
したがって、天台大師によって弘通され、教化される人の理解力は、

【在世帯権の円機〔えんき〕の如し。】
釈尊在世の権教によって教化され、円教を聞いて解脱したようなものであり、

【本化弘通の所化の機は法華本門の直機〔じっき〕なり。】
本化が弘通する所化の理解力は、法華本門の直機であることを知るべきです。

【止観・法華は全く体〔たい〕同じと云はん。】
摩訶止観は、法華経と全く体が同じであると言うことですら、

【尚〔なお〕人師の釈を以て仏説に同ずる】
なお、人師の解釈と仏説とが同じであると言うことであり、

【失〔とが〕甚重〔じんじゅう〕なり。】
その罪は、非常に重いのです。

【何〔いか〕に況〔いわ〕んや止観は法華経に勝ると云ふ邪義を申し出だすは、】
まして、摩訶止観は、法華経よりも優れていると言う邪義を言い出すことは、

【但是〔これ〕本化の弘経〔ぐきょう〕と迹化の弘通と、像法と末法と、】
ただ、これ、本化の弘経と迹化の弘通の違い、像法と末法の違い、

【迹門の付嘱と本門の付嘱とを末法の行者に云ひ顕はせんが為の】
迹門の付嘱と本門の付嘱の違いを、末法の行者に明らかにさせる為の

【仏天の御計〔はか〕らひなり。】
仏天の御計〔はか〕らいであり、まったくの大謗法なのです。

【爰〔ここ〕に知んぬ、当世の天台宗の中に此の義を云ふ人は】
それ故、現在の天台宗の中で、このような邪義を言う人は、

【祖師〔そし〕天台の為には不知恩の人なり。】
師の天台大師にとっては、不知恩の人であり、

【豈〔あに〕其の過〔とが〕を免〔まぬか〕れんや。】
その罪は、免〔まぬが〕れることが、できないと知るべきです。

【夫〔それ〕天台大師は昔霊山に在っては薬王と名づけ、】
天台大師は、昔、霊鷲山〔りょうじゅせん〕にあっては、薬王菩薩と言い、

【今漢土に在っては天台と名づけ、】
いま、中国にあっては、天台智者〔ちしゃ〕大師、智顗〔ちぎ〕と言い、

【日本国の中にては伝教と名づく。】
日本国の中にあっては、伝教大師最澄〔さいちょう〕と言うのです。

【三世の弘通倶〔とも〕に妙法と名づく。】
この三世に弘通した法を、いずれも妙法と名付けるのです。

【是くの如く法華経を弘通し給ふ人は】
このように法華経を弘通された人は、

【在世の釈尊より外は三国に其の名を聞かず。】
在世の釈尊よりほかは、インド、中国、日本の三国に、その名を聞かず、

【有り難く御坐〔おわ〕します大師を、】
このように有難い天台大師を、

【其の末学〔まつがく〕其の教釈を悪〔あ〕しく習ひて】
その弟子である未熟な者が、その教えの解釈を間違って習い憶〔おぼ〕え、

【失無き天台に失を懸〔か〕けまつる、豈大罪に非ずや。】
罪のない天台大師の罪にしてしまうこと自体、大罪と言うべきでしょう。

【今問ふ、天台の本意は何なる法ぞや。】
今、天台大師の本意とは、どのような法かを考えてみると、

【碩学〔せきがく〕等の云はく、一心三観是なり。】
著名な学者などは、それは、一心三観であると言っています。

【今云はく、一実円満の一心三観とは誠に甚深なるに似たれども】
今、それを考えると一実円満の一心三観は、確かに甚深な法かも知れませんが、

【尚是行者修行の方法なり。三観とは因の義なるが故なり。】
それでも行者の修行の方法に過ぎません。三観とは、因の意味なのです。

【慈覚〔じかく〕大師の釈に云はく「三観とは法体〔ほったい〕を】
慈覚〔じかく〕大師は「三観とは、法体を

【得せしめんが為の修観〔しゅかん〕なり」云云。伝教大師云はく】
得さる為の観法の修行なり」と説明しており、伝教大師は、

【「今止観修行とは法華の妙果を成ぜんが為なり」云云。】
「今、止観修行とは、法華経の妙果を成ぜんが為なり」と述べています。

【故に知んぬ、一心三観とは果地〔かじ〕・】
それ故に一心三観とは、仏教の最終的な結果である如来の地位、

【果徳〔かとく〕の法門を成ぜんが為の】
如来の功徳である三大秘法の法門を完成させる為に

【能観〔のうかん〕の心なることを。】
境(所観)智(能観)冥合する為の心である事がわかるのです。

【何に況んや三観とは言説に出でたる法なる故に、】
まして、三観とは、言葉や説法によって現れ出る法である故に、

【如来の果地・果徳の妙法に対すれば可思議の三観なり。】
如来の地位、如来の功徳の妙法に対すれば、理解可能な三観に過ぎないのです。

【問ふ、一心三観に勝れたる法とは何なる法ぞや。】
それでは、一心三観よりも優れている法とは、どのような法なのでしょうか。

【答ふ、此の事誠に一大事の法門なり。】
それは、この事は、実に一大事の重要な法門であるのです。

【唯仏〔ゆいぶつ〕与仏〔よぶつ〕の境界なるが故に、】
ただ仏と仏のみが知る事が出来る境界である故に、

【我等が言説に出だすべからざるが故に】
我らが言説に出し得るものでは、ないので、

【是を申すべからざるなり。】
このことを議論することは、出来ないのです。

【是を以て経文には「我が法は妙にして思ひ難し】
この事を法華経方便品には「我が法は、妙であり、思議し難い。

【言〔ことば〕を以て宣ぶべからず」云云。】
言葉をもって述べることはできない」と説かれています。

【妙覚果満の仏すら尚〔なお〕不可説・不思議の法と説き給ふ。】
妙覚果満の仏ですら、なお、不可説、不思議の法と説かれているのです。

【何に況んや等覚〔とうがく〕の菩薩已下〔いげ〕乃至凡夫をや。】
まして等覚の菩薩以下の凡夫においては、絶対に理解不可能なのです。

【問ふ、名字を聞かずんば】
それでは、その名字がわからなければ、

【何を以て勝法有りと知ることを得んや。】
どのようにして優れた法であることを知る事が出来るのでしょうか。

【答ふ、天台己証〔こしょう〕の法とは是なり。】
それは、天台大師の「己証の法」とは、このことなのです。

【当世の学者は血脈相承を習ひ失ふ故に之を知らず。】
現在の学者は、血脈相承を習い損なっている故に、この事を知らないのです。

【相構へ相構へて秘すべく秘すべき法門なり。】
つまり、敢〔あ〕えて、秘すべく、秘すべき法門なのです。

【然りと雖も汝が志〔こころざし〕神妙〔しんみょう〕なれば】
そうであっても、あなたの志が非常に神妙であるから、

【其の名を出だすなり。一言〔いちごん〕の法是なり。】
その名前を出しましょう。「一言の法」が、これなのです。

【伝教大師の「一心三観一言に伝ふ」と書き給ふ是なり。】
伝教大師が「一心三観、一言に伝う」と書かれたのが、これなのです。

【問ふ、未だ其の法体〔ほったい〕を聞かず如何〔いかん〕。】
しかしながら、未だに、その法体を聞いたことがありません。

【答ふ、所詮一言とは妙法是なり。】
それは、結論すると「一言の法」とは、妙法のことなのです。

【問ふ、何を以て知ることを得ん、妙法は一心三観に勝れたりと云ふ事を。】
それでは、どうして、妙法は、一心三観より、優れていると言えるのでしょうか。

【答ふ、妙法は所詮〔しょせん〕の功徳なり。】
それは、妙法は、仏教の目的である最終的な功徳であり、

【三観は行者の観門〔かんもん〕なるが故なり。】
三観は、その目的の為に行者の修行方法を説明した観心門であるからなのです。

【此の妙法を仏説いて言はく「道場〔どうじょう〕所得法〔しょとくほう〕、】
この妙法を、仏は、法華経方便品に「道場にて得〔え〕し所の法」、

【我法妙難思〔がほうみょうなんし〕、是法非思量〔ぜほうひしりょう〕、】
「我が法は、妙にして、思い難し」、「この法は、思量に非ず」、

【不可以言宣〔ふかいごんせん〕」云云。】
「言〔げん〕を以て、述べるべからず」と説かれています。

【天台云はく「妙とは不可思議〔ふかしぎ〕・言語道断〔ごんごどうだん〕】
これを天台大師は「妙は、不可思議、言語道断、

【心行〔しんぎょう〕所滅〔しょめつ〕なり。】
心行所滅である。

【法とは十界】
法は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏の十界、

【十如・因果不二の法なり」と。】
如是相、如是体、如是性などの十如、因果不二の法なり」と解釈しています。

【三諦〔さんたい〕と云ふも三観と云ふも三千と云ふも不思議法と云ふも、】
三諦と言い、三観と言い、三千と言い、いずれも不思議法とは、言っても、

【天台の己証は天台の御思慮〔しりょ〕の及ぶ所の法門なり。】
天台大師の己証であり、天台大師の思慮の及ぶところの法門であるのです。

【此の妙法は諸仏の師なり。】
それに対し、この妙法は、諸仏の師なのです。

【今の経文の如くならば、久遠〔くおん〕実成〔じつじょう〕の】
今の経文の通りであるならば、久遠実成の

【妙覚極果〔ごくか〕の仏の境界にして】
妙覚極果の仏の境界であって、

【爾前迹門の教主・諸仏・菩薩の境界に非ず。経に】
爾前、迹門の教主、諸仏、菩薩の境界ではないのです。法華経方便品に

【「唯仏与仏、乃能究尽〔ないのうくじん〕」とは、】
「ただ、諸法実相を仏と仏のみ、よく究尽したまえり」と説かれているのは、

【迹門の界如三千の法門をば】
迹門の十界互具、千如是の法門を、あえて三世間を加えて本門と同じ三千として

【迹門の仏が当分究竟〔くきょう〕の辺を説けるなり。】
迹門の仏が始成正覚の立場で一往、究極の法門として説かれたのです。

【本地〔ほんち〕難思〔なんし〕の境智〔きょうち〕の妙法は迹仏等の】
本地難思の境智の妙法は、迹仏などの

【思慮に及ばず、何に況んや菩薩・凡夫をや。】
思慮では、及ばないのです。まして菩薩、凡夫では、なおさらなのです。

【止観の二字をば「観名仏知〔かんみょうぶっち〕、】
「止観」の二字を摩訶止観に「仏知を名付けて観と言い、

【止名仏見〔しみょうぶっけん〕」と釈するも、】
仏見を名付けて止と言う」と解釈していますが、

【迹門の仏智・仏見にして妙覚極果の知見には非ざるなり。】
それは、迹門の仏智、仏見であって、妙覚、極果の知見ではないのです。

【其の故は止観は天台己証の界如三千・三諦三観を正と為〔な〕す、】
その故は、摩訶止観は、天台大師己証の界如、三千、三諦、三観を正となし、

【迹門の正意是なり。】
迹門の正意は、これであり、

【故に知んぬ、迹仏の知見なりと云ふ事を。】
それ故に、摩訶止観は、迹門の知見であると言うことがわかるのです。

【但止観に絶待不思議の妙観を明かすと雖も、】
ただ、摩訶止観に絶待不思議の妙観を明かしているとは、言っても、

【只一念三千の妙観に且〔しばら〕く与へて絶待不思議と名づくるなり。】
何でもない一念三千の妙観に一応、絶待不思議と名付けただけなのです。

【問ふ、天台大師真実に此の一言の妙法を証得したまはざるや。】
それでは、天台大師は、この一言の妙法を証得されなかったのでしょうか。

【答ふ、内証は爾〔しか〕なり。】
それは、内証は、証得されていましたが、

【外用〔げゆう〕に於ては之〔これ〕を弘通したまはざるなり。】
外用において、これを弘通されなかったのです。

【所謂〔いわゆる〕内証の辺をば秘して、】
天台大師は、内証の辺を秘して、

【外用には三観と号して一念三千の法門を示現し給ふなり。】
外用には、三観と号し、一念三千の法門を顕わされたのです。

【問ふ、何が故ぞ知り乍〔なが〕ら弘通し給はざるや。】
それでは、どうして、それを知りながら、弘通されなかったのでしょうか。

【答ふ、時至らざるが故に、】
それは、いまだ、時が至らなかったからであり、

【付嘱に非ざるが故に、】
釈迦牟尼仏からの付嘱〔ふぞく〕がなかったからであり、

【迹化なるが故なり。】
天台大師が迹化の菩薩であったからなのです。

【問ふ、天台此の一言の妙法之を証得し給へる証拠之有りや。】
それでは、天台大師が一言の妙法を証得した証拠は、あるのでしょうか。

【答ふ、此の事天台一家の秘事なり。】
それは、このことは、天台宗門の祕事なのです。

【世に流布せる学者之を知らず。】
ですから、世間に流布している学者は、このことを知らないのです。

【潅頂〔かんじょう〕玄旨〔げんし〕の血脈とて】
潅頂〔かんじょう〕玄旨〔げんし〕の血脈と言って

【天台大師自筆の血脈一紙之有り。】
天台大師自筆の血脈が書かれた一枚の紙があり、

【天台御入滅の後は石塔の中に之有り。伝教大師御入唐の時】
天台大師が入滅の後は、それが石塔の中にあり、伝教大師が唐に入られた時に、

【八舌の鑰〔かぎ〕を以て之を開き、】
山門秘伝見聞によると八つの突起がある鍵で、その石塔を開き、

【道邃〔どうずい〕和尚より伝受し給ふ血脈とは是なり。】
道邃〔どうずい〕和尚から、伝授された血脈が、これなのです。

【此の書に云はく「一言の妙旨、一教の玄義」文。】
この書には「一言の妙旨、一教の玄義」と書かれてあったのです。

【伝教大師の詮血脈に云はく「夫〔それ〕一言の妙法とは、】
伝教大師の血脈に「一言の妙法とは、

【両眼を開いて五塵〔ごじん〕の境を見る時は】
両眼を開いて五塵の境を見るときは

【随縁〔ずいえん〕真如〔しんにょ〕なるべし。】
随縁真如となるべし。

【五眼を閉ぢて無念に住する時は当〔まさ〕に不変真如なるべし。】
両眼を閉じて無念に住するときには、不変真如となるべし。

【故に此の一言を聞くに万法茲〔ここ〕に達し、】
それ故に、この一言を聞くときに、万法が、ここに達して、

【一代の修多羅〔しゅたら〕一言に含〔がん〕す」文。】
一代の経文が一言に含まれる」と述べられているのです。

【此の両大師の血脈の如くんば】
この天台大師、伝教大師の血脈の通りであるならば、

【天台大師の血脈相承の最要の法は妙法の一言なり。】
天台大師の血脈相承の最要の法とは、妙法の一言なのです。

【一心三観とは所詮〔しょせん〕妙法を成就せんが為の修行の方便なり。】
一心三観とは、所詮、妙法を成就する為の修行の方法なのです。

【三観は因の義、妙法は果の義なり。】
三観は、因の義であり、妙法は、果の義なのです。

【但〔ただ〕因の処に果有り、果の処に因有り、】
ただ、因のところに果があり、果のところに因があるのです。

【因果〔いんが〕倶時〔ぐじ〕の妙法を観ずるが故に是くの如き】
因果倶時の妙法を観じる故に

【功能〔くのう〕を得るなり。】
このような効果を得ることができるのです。

【爰〔ここ〕に知んぬ、天台至極〔しごく〕の法門は】
したがって「天台大師の至極の法門は、

【法華本迹未分の処に無念の止観を立て、】
法華経本門と法華経迹門の未分のところに無念の止観を立て、

【最秘〔さいひ〕の上法とすと云へる邪義】
これを最秘の大法とするのである」と言う邪義は

【大いなる僻見〔びゃっけん〕なりと云ふ事を。】
非常に間違った見解であると知るべきなのです。

【四依〔しえ〕弘経〔ぐきょう〕の大薩埵〔だいさった〕は】
仏説どおりに正法を弘通する馬鳴〔めみょう〕、竜樹、天親などの大菩薩は、

【既に仏経に依って諸論を造る。】
すでに仏の経典に依拠して諸論を造ったのです。

【天台何ぞ仏説に背いて】
天台大師が、どうして仏説に背いて、

【無念の止観を立てんや。若し此の止観は】
無念の止観を立てられることが、あるでしょうか。もし、摩訶止観が

【法華経に依らずといはゞ天台の止観は】
法華経を拠り所にしないと言うのであれば、天台大師の摩訶止観は、

【教外〔きょうげ〕別伝〔べつでん〕の達磨〔だるま〕の天魔の邪法に同ぜん。】
教外別伝を立てる達磨〔だるま〕大師の天魔の邪法と同じになるのです。

【都〔すべ〕て然るべからず。】
そのようなことが、あるわけは、ありません。

【哀れなり哀れなり。】
このような邪義を立てる末弟子は、実に哀れと言うべきなのです。

【伝教大師云はく】
伝教大師は、天台宗が正式に桓武天皇の勅許を得て開宗した事実を

【「国主の制に非ざれば以て遵行〔じゅんぎょう〕すること無く、】
「国主の立てた制度に従わなければ、それを実行してはならない、

【法王の教に非ざれば以て信受すること無し」文。】
法王の教えでなければ、それを信受しては、ならない」と顕戒論上巻で述べられ、

【又云はく「四依〔しえ〕、論を造るに】
また、その教義が「仏説どおりに正法を弘通する菩薩は、論を造ったが、

【権〔ごん〕有り実〔じつ〕有り。三乗の旨を述ぶるに三有り一有り。】
そこには、権があり実があり、三乗の趣旨を述べるのに三乗があり一乗がある。

【所以〔ゆえ〕に天台智者は三乗の旨に順じて四教の階を定め、】
故に天台智者大師は、三乗の旨に順じて四教の階位を定め、

【一実の道〔どう〕に依って一仏乗を建つ。】
一実の教によって一仏乗を立てたのである。

【六度に別有り、戒度何ぞ同じからん、】
六波羅蜜が、それぞれ、別々であるのに、戒だけが、どうして同じであろうか。

【受法同じからず、威儀〔いぎ〕豈〔あに〕同じからんや。】
受けている法が、同じでないのに、威儀だけが、どうして同じであるだろうか。

【是の故に天台の伝法は深く四依に依り】
この故に天台の伝法は、深く仏説どおりに正法を弘通する菩薩に依り、

【亦仏経に順〔したが〕ふ」文。】
また仏の経典に従う」と述べ、釈尊の教えに基づくと述べられているのです。

【本朝の天台宗の法門は伝教大師より之を始む。】
日本の天台宗の法門は、伝教大師から始まったのです。

【若し天台の止観、法華経に依らずといはゞ日本に於ては】
もし、天台の摩訶止観が法華経に依拠しないと言うのであれば、日本においては

【伝教の高祖に背き、漢土に於ては天台に背く。】
伝教大師と言う祖師に背き、中国においては、天台大師に背く事になるのです。

【両大師の伝法既に法華経に依る。】
天台大師、伝教大師の伝法が、既に法華経に依っているのに、

【豈其の末学之に違〔い〕せんや。】
どうして、その末学が、これに相違して良いのでしょうか。

【違するを以て知んぬ、当世の天台家の人々、】
現在の天台家の人々が、天台大師や伝教大師に違背しているのは、

【其の名を天台山に借〔か〕ると雖も所学の法門は達磨の僻見と】
その名前を天台山に借りながら、所学の法門は、達磨〔だるま〕大師の僻見と

【善無畏〔ぜんむい〕の妄語〔もうご〕とに依ると云ふ事を。】
善無畏三蔵の妄語に依っていることが、この事で明らかなのです。

【天台・伝教の解釈〔げしゃく〕の如くんば己心中の秘法は】
天台大師、伝教大師の述べるところによれば、己心中の秘法は、

【但妙法の一言に限るなり。然るに当世の天台宗の学者は】
ただ、妙法の一言に限るのです。しかし、現在の天台宗の学者は、

【天台の石塔の血脈を秘し失ふ故に、天台の血脈相承の秘法を習ひ失ひて、】
秘事の天台の石塔の血脈を忘れている為に、天台大師の血脈相承の秘法を忘れ、

【我と一心三観の血脈とて我が意に任せて書を造り、】
自分から「一心三観の血脈」と言って、自分の勝手な心のままに書を造り、

【錦〔にしき〕の袋に入れて頸〔くび〕に懸〔か〕け、】
それを錦の袋に入れて頸〔くび〕に懸〔か〕け、

【箱の底に埋めて高直〔こうじき〕に売る故に、】
箱の底に埋めて、高値で売っているのです。

【邪義国中に流布〔るふ〕して天台の仏法破失せるなり。】
この為に邪義が国中に流布して、天台の仏法を破壊し喪失したのです。

【天台の本意を失ひ、釈尊の妙法を下〔くだ〕す。】
天台大師の本意を失い、釈尊の妙法を下すこと、

【是偏〔ひとえ〕に達磨の教訓、】
これは、偏に達磨〔だるま〕大師の教訓、

【善無畏の勧〔すす〕めなり。】
善無畏三蔵の邪〔よこしま〕な勧めによるものなのです。

【故に止観をも知らず、一心三観・】
それ故に現在の天台宗の人々は、摩訶止観をも知らず、一心三観、

【一心三諦をも知らず、一念三千の観をも知らず、本迹二門をも知らず、】
一心三諦も知らず、一念三千の観法も知らず、法華経本迹二門も知らず、

【相待〔そうたい〕・絶待〔ぜったい〕の二妙をも知らず、】
相待妙、絶待妙の二妙も知らず、

【法華の妙観〔みょうかん〕をも知らず、】
法華経の妙観も知らず、

【教相をも知らず、権実をも知らず、四教・八教をも知らず、】
教相も知らず、権実も知らず、四教、八教も知らず、

【五時・五味の施化〔せけ〕をも知らず、】
五時五味の化導も知らないのです。

【教・機・時・国・相応の義は申すに及ばず、】
教、機、時、国、相応の義は、言うに及ばず、

【実教にも似ず、権教にも似ざるなり。道理なり道理なり。】
実教にも似ず、権教にも似ていないのです。それも、まったく道理なのです。

【天台・伝教の所伝は禅・真言より劣れりと習ふ故に、】
法華経が禅、真言よりも劣っていると思い込んでしまっている為に、

【達磨の邪義、】
天台大師、伝教大師の伝えた法門が、達磨〔だるま〕大師の邪義、

【真言の妄語に打ち成りて】
真言の妄語と同じになってしまって、

【権教にも似ず、実教にも似ず、二途に摂〔しょう〕せざるなり。】
権教にも似ず、実教にも似ず、その二教にも摂することができないのです。

【故に大謗法罪顕はれて止観は法華経に勝ると云ふ】
それ故に大謗法罪が現れ、摩訶止観は、法華経に優れていると言う

【邪義を申し出だして、失〔とが〕無き天台に失を懸けたてまつる。】
邪義を言い出して、罪のない天台大師の罪にしてしまったのです。

【故に高祖に背く不孝の者、】
こうして天台宗の人々は、祖師に背く不孝の者となり、

【法華経に背く大謗法罪の者と成るなり。】
法華経に背く大謗法罪の者となったのです。

【夫〔それ〕天台の観法を尋〔たず〕ぬれば大蘇〔だいそ〕道場に於て】
そもそも天台大師の観法を尋ねれば、大蘇山〔だいそざん〕の普賢道場において

【三昧開発〔かいほつ〕せしより已来〔このかた〕、目を開いて妙法を思へば】
三昧を開発して以来、目を開いて妙法を思えば

【随縁〔ずいえん〕真如〔しんじょ〕なり、】
随縁真如〔しんじょ〕であり、

【目を閉じて妙法を思へば不変真如なり。】
目を閉じて妙法を思えば、不変真如〔しんじょ〕であり、

【此の両種の真如は只一言〔いちごん〕の妙法に有り。】
この両種の真如〔しんじょ〕は、一言の妙法にあるのです。

【我妙法を唱ふる時万法茲〔ここ〕に達し、】
自らが妙法を唱える時に万法が、ここに達して、

【一代の修多羅〔しゅたら〕一言に含〔がん〕す。】
一代の経文が一言に含まれるのです。

【所詮迹門を尋ぬれば迹広く、】
所詮、法華経の迹門を尋ねれば、迹門は広くて解し難く、

【本門を尋ぬれば本高し。】
法華経の本門を尋ねれば、本門は高くて究め難いのです。

【如〔しか〕じ己心〔こしん〕の妙法を観ぜんにはと】
それ故に、己心の妙法を観じることが、

【思〔おぼ〕し食〔め〕されしなり。当世の学者此の意を得ざるが故に、】
最も良いと思われたのです。現在の学者は、この意味を理解していない故に、

【天台己証〔こしょう〕の妙法を習ひ失ひて、止観は法華経に勝〔まさ〕り】
天台大師己証の妙法を忘れて、摩訶止観は、法華経よりも優れており、

【禅宗は止観に勝〔すぐ〕れたりと思ひて、法華経を捨てゝ】
禅宗は、摩訶止観に優れていると誤って、法華経を捨てて

【止観に付き、止観を捨てゝ禅宗に付くなり。】
摩訶止観につき、更に、摩訶止観を捨てて禅宗についているのです。

【禅宗の一門の云はく「松に藤懸〔か〕かる、松枯れ藤枯れて後】
それは、禅宗の一門が「松に藤が懸かっている。松が枯れ、藤が枯れた後は、

【如何〔いかん〕。】
どうするのか」と述べ、仏が入滅し、説いた教法が途絶えた後を問題とし、

【上らずして一打」なんど云へるは】
また「登らないで一枝を折る」と言って、無用な論議を一打で折ると豪語し、

【天魔の語を深く信ずる故なり。】
このような天魔の言葉を深く信じているからなのです。

【修多羅の教主は松の如く】
すべての経文を説いた教主である釈尊は、松のようなものであり、

【其の教法は藤の如し。】
その教法は、藤のようなものである。

【各々に諍論〔じょうろん〕すと雖も】
後世の弟子たちが、いろいろと議論をしているが、

【仏も入滅し教法の威徳〔いとく〕も無し。】
しかし、仏も、すでに入滅しており、教法の威徳もない。

【爰に知んぬ、修多羅の仏教は月を指す指なり、】
結局、経文による仏教は、月をさす指であり、

【禅の一法のみ独〔ひと〕り妙なり。之を観ずれば】
座禅の一法のみが、独り妙であって、これを観ずれば、

【見性〔けんしょう〕得達するなりと云ふ】
見性、得達するので、そもそも議論など無用なのであると言う

【大謗法の天魔の所為を信ずる故なり。】
大謗法の天魔の所為を信じる故なのです。

【然るに法華経の仏は寿命無量、】
しかるに、法華経に説かれる仏は、その寿命は、無量であり、

【常住不滅の仏なり。禅宗は滅度〔めつど〕の仏と見るが故に】
常住不滅の仏なのです。それを禅宗は、すでに入滅した仏と見る故に

【外道〔げどう〕の無の見〔けん〕なり。是法住法位〔ぜほうじゅうほうい〕】
外道の無の見なのです。これは、法華経方便品の「この法は、法位に住して

【世間〔せけん〕相常住〔そうじょうじゅう〕の金言に背く僻見なり。】
世間の相は、常住なり」の金言に背く間違った考えなのです。

【禅宗は禅は法華経の方便、無得道の禅なるを】
また、禅は、法華経の方便であり、無得道の禅に過ぎないのに、

【真実常住の法と云ふが故に外道の常見〔じょうけん〕なり。】
真実の常住の法と言っているのは、外道の常見と同じなのです。

【若し与〔あた〕へて之を言はゞ仏の方便三蔵の分斉〔ぶんざい〕なり。】
もし与えていえば、仏の方便の教え、三蔵の小乗の分斉なのです。

【若し奪〔うば〕って之を言はゞ但外道の邪法なり。】
もし奪っていうならば、ただ外道の邪法であるのです。

【与〔よ〕は当分の義、奪〔だつ〕は法華の義なり。】
与は、当分、一往の義、奪は、法華経の立場からの義なのです。

【法華の奪の義を以ての故に禅は天魔外道の法と云ふなり。】
法華経の奪の義をもって、禅は、天魔外道の法と言うのです。

【問ふ、禅を天魔の法と云ふ証拠如何。】
それでは、禅を天魔の法と言う証拠は、あるのでしょうか。

【答ふ、前々に申すが如し。】
それは、これまでに言った通りなのです。

【立正観抄】
立正観抄


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